2021 3月

2021年3月20日

我が家の金魚たち

投稿者 : rfuruya

★ 我が家のガレージの下はこんな小さな池になっている。
 そこに何年か前から、金魚がいたのだが、
 死んでしまったのも勿論居るのだが、
 数年来、 赤い金魚たちが、この池で孵って今ではこんなに大きくなった。
 それから毎年何匹かが育って、今は15匹以上になっている。
 
 春になって『水緩む季節』になると金魚も泳ぎ出すし、
 餌も食べ始める。
 睡蓮も葉を出し始めたし、
 菖蒲やあやめも今年の芽を出し始めた。
  
 今から餌をやって育てたら5月末には今年もこどもが孵るかも知れない。
 
  子どもの頃から、何故か魚は好きだった。
 現役時代は庭にこんな池を造って、錦鯉もいっぱいいたのだが、
  
  今は池も埋めてしまって、こんなになっている。
 
 錦鯉に比べたら、金魚は小さくてこどもを産んで増えるので、
 そんな別の楽しみもある。
 何よりも『お金が掛からない』のがいい。
 金魚の他にもメダカがいっぱいいるし、
 エビは毎年春にはこどもを産むので何匹いるのか解らぬほど増えたりする。
 2年ほど前から、メダカの産卵に凝っている。
 薔薇もそうだが、兎に角『成長する』ものには興味・関心がある。
 これは性格だから、歳を取っても変わらない。
 今年も忙しい季節に、ぼつぼつ突入なのである。
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2021年3月19日

春ももうそこまで

投稿者 : rfuruya

★ 春の彼岸の入りも近い。
  コロナ対策の毎日だが、
  明日は明石まで彼岸の墓参りに行こうと思う。
  朝はいつもの通り三木総合防災公園を走ってきた。
  『こぶし咲くあの丘北国の 北国の春』と唄われたこぶしも、
  もう満開である。
  
 この辺り、桜は未だだが
 『彼岸桜』はこんなに綺麗に咲いている。
 
 大相撲の春場所が始まって、
 午後からはテレビを観る時間も増えた。
 いま『話題のお嬢さん』は2時ごろから既に正座で観戦である。
 6時までこの正座の姿勢が崩れない。
 見事というほかはない。
 
 今場所は二人とも十両に落ちた『炎鵬―徳勝龍戦』が
 十両最後の相撲だったが、炎鵬が勝って5連勝とした。
      
 今年のオープン戦、阪神の佐藤  が話題である。
 既に6号を打って、新人記録を塗り替えたとか。
 
 因みに、6号は1966年のドラフト制後では最多記録で、
 一番は誰かと思ったら、
 あの長嶋茂雄が1958年に7本を打っているらしい。
 長嶋も流石だなと思うが、
 佐藤は久々の『期待通りの大物新人』のようである。
今年は3月26日に セ・パ同時開幕のようである。
 野球と言えば『春の選抜高校野球』は
 19日からで
 その第1試合に兵庫県の『神戸国際付属』が登場する。
 
  いよいよ『春だな』と 春を実感できる季節到来である。
★ こんなニュースを拾いながら、テレビを観ながら
 そして、それをブログにアップしている。
 パソコンの前に坐って、いろいろやってたら、
 ちょうど2時間ほどの時間が過ぎた。
 『私のコロナ対策』の午後の過ごし方なのである。
2021年3月18日

中学・高校・大学 私の学生時代  その3   自分史

投稿者 : rfuruya
★ 高校からは『学区制』で地元の明石高校に転校した。
 当時の明石は『明石高校』と女子高だった『明南高校』があったのだが、
 なぜか問題なく『明石高校』への転校だったのである。
 それまで神戸までの通学に比べたら
 圧倒的に近くなったし、家からの距離も1キロほどだから、
 歩いて20分ほどで通学できるようになったのである。
 こうしてみると明石高校は明石の北の端なのである。
 この地図を見ると『変わるものだな』というのが実感である。
  当時は、この地図に現れる通学路から北側は家などなかったし、
 その南側も家は建ってはいたが10分の1ほどで、
 殆どが空き地だったのである。
 
 当時の野球部の練習は明石公園でやることも多くて、
 上の地図の左端にある野球場までずっと放課後通っていて、
 その時はやはり通学路を通ってさらに明石公園の中を抜けていたのである。
 明石高校では毎日教室には出ていたが、教室以外で勉強することは殆どなかった高校生活だった。
 これは神戸一中時代とは大違いで、勿論勉強のできる生徒もいるのだが、
 勉強は嫌いという生徒もまたいたのである。
 そういう意味では、私も『勉強ができる生徒』の範疇にはいて、
 勉強はしなくても、特に問題があったわけではなかったので、
 非常に気楽な高校生活を送っていたのである。
★ 中学時代も高校時代も『気楽な学生生活』を送っていたのだが、
 それは私の『気楽な性分』がそうさせたので、
 家庭環境はそんなに気楽でもなかった筈なのである。
 戦後引き揚げてきて爆撃で焼けてしまったが、
 その屋敷跡は3000坪ほどもあったので、伯父も父もそこに家だけは建てたのである。
 父は私が中学時代は神戸で会社を立ち上げてはいたが、
そんなに大きな収入があったとも思えないので、
我が家は引き揚げてきた時母が隠して持ち帰った指輪を売って建てたなどと言っていた。
 ちょうど高校に入るころに父が『脊髄カリエス』で寝てしまって、
 高校3年の時も病状は変わらなかったので、ほぼ大学進学は諦めていたので、余計に勉強はしなかったのだと思う。
 今思うと高校時代、父は寝ていたから勿論収入はなかったのだが、
 どのように生計を立てていたのかは、はっきり解らない。
 多分、同じ敷地内にいた伯父が面倒を見てくれたとは思うのだが、
 その伯父とて戦後は無職だったから、多分3000坪ほどあった上の丸の敷地を売り食いしての生活だったのである。
 当時はまだ健康保険制度などは整備されていなくて、
 父の治療にいるマイシンの注射が1本1000円もして、上の丸の土地が当時1坪2000円ぐらいで売れたので、
伯父がそれを売りながらの生活だったのだと思う。
 然し高校時代に、そんな金の心配などは一切せずに学校に通っていて、
 学校では勉強などはせずに『野球一筋』の生活だったのである。
 そんな父が私が高校3年生の時の1月2日に突如亡くなってしまったので、
 伯父が『もう金が要らなくなったから、お前は大学に行け』ということになって、
 それから大学受験の真似事みたいな受験勉強をしたのだが、
 受験したのは当時の神戸商大1校だけで、
 その年の入試の倍率が16,5倍もしたので『通る訳がない』と思っていたら『通ってしまったのである
 そんなことで、私の高校時代、勉強をしたと言えるのは、
 この最後の2か月間だけなのである。
 父は『私を大学にやるために』そのぎりぎりの1月2日に死んでしまったのかなと思ったりもするのである。
★ バブルの時には1坪100万円とも言われた『明石上ノ丸』の土地なのだが、
 当時は土地にそんな値打ちを感じなかったし、
 土地を手放すことにもそんなに気にしなかったのだと思う。
 明石公園に隣接した上の丸の一等地
 これくらいの広さだったのだが、今はこんな住宅地になっている。
 因みに ここは私の生地で本籍でもある。
 『明石市上ノ丸2丁目720番地』などと言う番地は今では存在しないのだが、
 私の本籍として戸籍上だけは残っているのである。
  
 隣の自転車競技場も高校生の頃競輪場として、
 堀を埋め立てて造られたのである。
 その堀はかっては外堀として上のほうまで続いていて、
 こどもの頃は庭から降りて鮒釣をよくしたもので、幾らでも釣れたのである。
 当時はこの辺り数軒の家しか建っていなくて畑が多かったのだが、
 日本も変わってしまったものである。
★ そんな時代環境の中での高校生活だったのだが、
  神戸一中とはまた違って、なかなか楽しくオモシロい学校ではあったと思っている。
  転校して直ぐ野球部に入部したのだが、
  その前年甲子園の春の選抜に出場したのが神戸高校明石高校の2校だったのである。
 当時の明石高は 山本治ー大津淳という最高のバッテリーで実力的には一番強かった時代だと思うのだが、
夏の大会では準決勝で芦屋高に負けてしまったのである。
 山本治さんはその後慶応大学で朝日スポーツ賞に輝き、鐘化でも活躍された。
 大津淳さんは関大・日生さらに全日本すべて4番を打って、
 阪神タイガースに入団されている。
 野球部に入った1年生の時は、そんなチームだったが、
 私と同期では溝畑圭一郎が同じように学区制で明石に転校してきたのである。
 その後の明石高校の野球部も夏の甲子園に出場したりするのだが、
 その中心になったのが溝畑投手なのである。
 野球は何としても『ピッチャーがいい』とそのチームは強いのである。
 これは2年生の時、兵庫県で優勝して甲子園に出た時の
 『溝畑投手の新聞記事』だが、
 この兵庫県の予選では灘高校を相手に『完全試合』も記録しているのである。
  
 そんな環境の変化の中での高校生活だったのだが、
 その殆どは『野球部の生活』の想い出ばかりなのである。
2021年3月17日

政治家の会食 と 雑談     雑感

投稿者 : rfuruya
政治家の会が昨今の話題である。
 昨日は政治評論家の田崎史郎さんのこんな記事が流れた。
 記事を読んでみると、
政治は人間が動かしています。そして人間を動かすのは感情です。
他人の感情を、自分にプラスになるように育む。それが政治家にとっては大事な仕事になるのです。
食事を重ねることで人間関係を築いていく。
長い時間を一緒に過ごせることが大きい。
 などと、このように言っておられて
 『政治家の会食』についてどちらかと言えば肯定的なスタンスなのである。
★ 確かに、世の中のいろんな物事を実現していくためには、
 正規の会議などだけでは、なかなか上手くいかない面があるのは、
 私自身もそう思う。
 会議などで『綺麗ごと』を言うだけでは、
 『会議は踊る』けれどもなかなか『ものごとが実現しない』のも事実のような気がする。
 と言って『高級料亭での会食』など、
 一般の人たちにとってはまさに『高嶺の花』なのだが、
 それに代わるものとして『雑談』があると思う。
 私自身の現役時代を振り返ってみて、
 『会食』もやらなかったとは言わぬが、
 交際費は自由に使える環境にはあったのだが、あまり会食に熱心ではなかったのは、
 家が三木で自分のクルマ通勤だったから、
 会食しても『酒が飲めなかった』のが一つ理由なのである。
 特に地元の明石では会食をしても『酒を飲まなかった』ものだから
 『酒が飲めない』と思っている人も多かった。
 ただ、『昼間の雑談』は本当によくやったと思っている。
 『会議で物事を検討』した時間よりは、間違いなく『雑談の時間』の方が多かった。
 『雑談で物事を決める』のではなく『物事を決める要素』を『雑談で導き出す』ことは多かったと思う。
 部下の意見なども『会議の席』などでは出ない発想が『雑談』では飛び出すし、
 部下の本音を知るには雑談が一番いいと意識的にそう思っていた。
★そういう意味では『政治家の会食』も議事録などはない『雑談の世界』だろうから、
 確かに『田崎史郎』さんの仰ることも解らぬではないのだが、
 どうも一人10万円に近い金がかかる『高級料亭での会食』はもう一つだなとは思うが、
 政治の世界は『金が掛る』ことになっているので致し方ないのかも知れない。
 今回アメリカ大統領バイデンさんと と 菅総理の会談があるようだが、
 この会談で動く人たちが90人もいるという。
 大統領と総理の会談だからこうなるのかも知れぬが、
 一体、どれくらいの金が掛るのだろう?
 『高級料亭での会食』よりは掛ることは間違いない。
 『政治の世界』と言うのは、ちょっと普通では考えられない『別世界』なのかも知れない。
★ ただ、同じ政治の世界でも、大阪は橋下徹さん以降、
 ちょっとそのスタイルが変わったような気がする。
 間違いなく『高級料亭政治』などはないのだと思うし、
 今の吉本洋文知事もいつもテレビには背広ではなく、
 こんな事務服で現れるのは好感が持てる。
  
 中央の国会議員たちも、こんなスタンスになればいいのにと思っている。
2021年3月16日

大槻幸雄さんとのご縁いろいろ

投稿者 : rfuruya

★ 昨日、我が家に Mr.Bike BG の4月号が送られてきた。
    
 なぜ? と思ったら
 こんな大槻幸雄さんの記事が掲載されていたのである。
  
 昨年の末のことだが、『カワサキZ1ファンクラブ』のメンバーが
 大槻幸雄さんの殿堂入りのお祝いに、
 Zのシリンダーヘッドのカットモデルを贈呈するというので、
 私もご一緒した時の記事なのである。
 この記事にもあるように川崎重工が50個限定でつくった
 シリダーヘッドの中の一つをこんなカットモデルにして
 大槻さんに差し上げたという貴重なものなのである。
  
 カワサキZ1ファンクラブのメンバーでもあり、
 この時も同行され
 Mr.Bike BGの寄稿もされている向笠暁彦さんの記事なのである。
★ 私もご一緒にとお誘いがあったものだから、
  この時も大槻さんとご一緒の写真に納まっているのだが、
  カワサキの現役時代から今も尚、50年以上に亘っての大槻さんとのお付き合いなのである。
  二輪の技術のことなど、さっぱり解らない私なのだが、
  不思議なぐらい延々と大槻さんとのご縁は続いているのである。
  一番最初にお会いしたのは1965年6月の鈴鹿アマチュア6時間耐久レースの時で、
  この時大槻さんはカワサキで初めて組織されたファクトリーチームの監督をされたのである。
  当時私はレース運営のマネージメントをやっていたので、この時初めてお会いしているのだが、
  それ以来、何かとご縁があって本当に不意議なのである。
  最初のレース関係は大槻さんがドイツ留学される1965年8月までなのだが、
  その後のご縁を連記してみるとこんなことなのである。
 ● 1966年はカワサキが本格的にGPレースに参戦の年なのである。
  大槻さんは留学される前までは『GPレーサー開発』も担当されていて、
  GPライダー契約などにも携わっておられて、
  66年マン島で藤井敏雄さんがプラクテイスで転倒事故死されたのだが、
  その遺体をマン島から送りだされたのが大槻さんで、
  羽田で遺体をお迎えしたのが私という悲しい想い出もある。
 ● その1966年秋の日本GPにはカワサキが初めて出場するのだが、
   そのGPチームの監督をされたのが大槻さんで、
  チームのマネージメントをしていたのが私なのである。
 ● このレースを最後に大槻さんも私もレースチームから離れて、
  大槻さんは市販車開発に、私は東北の営業担当となるのだが、
  翌1967年早春の東北6県の代理店会議に技術説明に来て頂いたのが大槻さんで、
  宮城・秋田・岩手・青森と回って頂いたのである。
  この時大槻さんが私に話されたのは『世界一のバイクを開発する』と
  まだ何も決まっていない構想段階なのだが、
  滔々とその夢を語られたのである。
  これが間違いなく『Zのこと』で、
  そういう意味では『Z開発の夢』について最初に聞いたのは私かも知れないのである。
  Zが世に出たのはこれから5年先のことなのである。
 ●1977年、私が開発プロジェクト室ので東南アジアを担当していた頃、
  大槻さんが技術部長の時のことだが、
  CKD関連のクルマとしてGTOの開発をお願いに上がったのだが、
  最初はなかなか首を縦に振って頂けないのである。
  多分、大槻さんは小排気量車は興味が薄いのかも知れないのだが、
  諦めずに粘っていたらやっと承認が出て、
  カワサキで最大のヒット商品GTOが世に出ることになったのである。
  CKD なるがゆえに『部品出荷』で、明石工場に台数の記録がないのが残念なのである。
  
   私にとっても最初で最後の商品企画に関係した『想い出深い車種』なのである。
 ● その後大槻さんは単車からガスタービンの方に動かれたので、
  会社での直接の関係は無くなるのだが
  現役を引退して『Z1会のゴルフ』でご一緒するようになったのが2004年のことなので、
  もう15年以上になるのである。
  
 私も88歳になったのだが、
 大槻さんは既に90歳で益々お元気なのである。
 今年もコロナが収まれば『Z1会』のゴルフで、
 またご一緒出来る日が楽しみだし、
 『Z発売50周年』も来年なのである。
 2022年には『Z発売50周年』を
 『カワサキZ1ファンクラブ』の皆さんと、
 盛大にお祝いしようと思っているので、
 大槻さんも私も、何とかそれまでは元気にいたいと思っているのである。
2021年3月15日

中学・高校・大学 私の学生時代  その2

投稿者 : rfuruya

★ 前回、神戸一中時代の2年生まではよく勉強したが、
 3年生で共学になって『英語・数学は1年程逆戻りした』と書いたが、
 数学で言うと『対数』は私は3回習っている。
 中学2年生の時が初めてで、そして共学になった3年生に時、
 そして学区制で明石高校に転校して、明石高校でも習ったのだが、
 いま『対数とは?』と聞かれたらよく解らないのである。
 このlogが現れる『対数』は3回も習っているのにアタマに入っていないのである。
 
 数学も好きな学科だったのに、
 この『対数』が出てきて一度に興味を失ってしまったようにも思う。
 どうも現実に『必要がない』と思ってしまうのである。
 学科で言うとこの時代『歴史』の教科がなかった。
 多分、戦後すぐのことなので『教科書』が出来ていなかったのだと思う。
 英語は中学時代『よく勉強した』。
 興味もあったし、ひょっとしたら、中学時代の英語のレベル以上にはなっていないのかも知れない。
 特に神戸一中時代の英語のレベルが高かったのだと思う。
 勿論、This is a pen. からスタートしたのだとは思うが、
 1年生の夏休みには、こんな文章で始まる『舌切り雀の物語』を暗記させられているのである。
 出だしのこんな文章は、今でもよく覚えている。
     Once upon a time, there lived an old man and his wife .
  They treated the bird as tenderly as if it were their child.
★ 3年生の夏ごろから県一女と一緒になって『男女共学』となったのだが、
 小学校時代は戦時中のことで、3年生からは男女別のクラスだったから、
 『男女共学』などは初めてのような経験だったが、
 意外にスムースに抵抗もなかったように思った。
 最後列左から3番目である。
  
  男女共学になって『神戸高校併設中学校』ということになった。
  男女共学になって『変わったこと』というなら
  流石に『運動場での立食』がなくなった。
  それまでは神戸一中の伝統だなどと言って、
  弁当は運動場で立ち食いをしていたのである。
  それがどういう意味を持つのかは、よく解らなかったが、
  運動場で立って動きながら食っていた。
  『立ち食い』はそのまま残ったが、教室の中での立ち食いだったのである。
  多分、こんな伝統も、今の神戸高校ではなくなってしまっているのだろう。
★ 兎に角、まだ戦後の時代だったと思う。
 明石からの国電を何故か『省線電車』と呼んでいたが、
 窓ガラスは半分はガラスではなく『板張り』になってたりしたし、
 三ノ宮からのバスなども3年生の頃になってやっと走り出したが、
 殆ど乗ったことはなかったように思う。
 『修学旅行』なども未だ世の中に存在しなっかった。
 天皇陛下が泊られるホテルが神戸にない時代だから、
 学生が泊る宿などまだなかったし、
 大体、『米の飯』がなかった時代なのである。
 麦飯や、『なんば粉のパン』など食っていたのだと思う。
★ そして3年生の末期になって『高校の学区制』が翌年度から始まるとなって、
神戸市灘区から通っている生徒を除いては、それぞれの校区の高校に進学することになったのである。
 神戸一中の生徒は灘区以外が圧倒的に多かったから、
みんなそれぞれの校区に進学せざるを得なかったのだが、
生徒だけではて先生も適用されるなど『区制のモデル校』として非常に厳しかったのである。
 確かこの年度に『灘高校』は進学校への方向転換をして、
神戸一中から先生を含めて大量な人員の転校があって、一挙に『進学校』になたように思う。
灘校のWiki を見ると
当時は神戸一中(現:神戸高校)や神戸二中(現:兵庫高校)、神戸三中(現:長田高校)等に入学できなかった者が入学してきたが・・
などの記述もあるが、
この年には神戸一中からの転校が大挙してあったのである。
私自身は、校区の明石高校に転校することになり、
旧制の神戸一中を2年間、男女共学の神戸高校併設中学1年間の3年間の中学生活を終わるのである。
 ただ今振り返って思うと
 学校で勉強をしたのは国民学校と言われた今の小学校6年間と
 この神戸一中時代だけだったような気がして、
 本当に懐かしい学生としての想い出の時代なのである。
2021年3月14日

家から防災公園まで

投稿者 : rfuruya
★毎朝スロージョギングに行っている三木総合防災公園までは約4km、
 車では6分ぐらいの距離である。
 昨日は家から防災公園の駐車場まで、車の中から動画を撮って
 それを1分半ほどに纏めてきた。
 ご覧になって下さい。
 私が住んでいる『三木市緑が丘』はかっては丘陵地というか山だったのだが、
 大和ハウスが開拓して膨大な新興住宅街を創り上げている。
 もう50年にもなるので、新しく建て替えらえた家も多い。
 動画の中からの写真でその様子をご紹介してみたい。
 我が家の前のお宅を左折してスタートである。
 左に曲がるとこんな光景になる。
 真正面の道は人は通れるが車は通れない。
 住宅街の中での『車のスピードを抑える効果あり』である。
左折すると、こんななだらかな坂道。
 そこを右折だが、左手には新しい家が3軒並んでいるが、
 かっては1軒のお宅だったが、そこに3軒立てて分譲されたのである。
 そこをさらに左折するとこんな表通りに出る。
 この辺りの左右の家は、その石積みを見ると旧いお家だと解る。
 最近はこんな石積の塀は見られなくなってしまった。
 大きな道を渡って、この左側は広大なスポーツ公園である。
 神戸などでは珍しいほどの広さでサッカーなどが出来る広大なグランドと
 手前にはテニスコートが10面以上ある。
 そこを右折すると坂道が続く。
 この辺りに来ると新しく追加開拓された場所で、
 その外壁を見ると明らかである。
 坂を上り切ったところが、関西国際大学である。
   新興住宅街はここまででそこから先はこんな下りになり、
 左右は山となる。
 そしてこんな4車線の道に出る。
 それを500メートルほど下ったところが
 防災公園の入口の交差点である。
 
 そして 入口。
 そしてこんな駐車場がある。
 こんな大きな駐車場が あちこちにいっぱいあるから、
 満車になることなどはない。
 少々大きなイベントがあっても大丈夫なのである。
   ここの駐車場に止めて毎日6キロちょっと走っている。
 大体家からここまでの距離なのだが。
 道を走るよりは公園の中を走る方が、
 コースもいっぱいあるし気持ちがいい。
 殆ど毎日こんな距離を走っている。
 1キロ台の日は、雨で走らなかった日なのである。
    
2021年3月13日

中学・高校・大学 私の学生時代  その1自分史

投稿者 : rfuruya
★ 中学1年生は昭和20年(1945)4月に、朝鮮京城の城東中学に入学したのだが、
未だ戦時中で学校にも行ったが、半分ぐらいは学徒動員で家の近くの山で松根油を採るための松の根を掘り起こしていたのである。
8月15日に終戦になって、当然学校も終わってしまって
 ちょうど夏休み中で『軍人勅諭の暗記』という宿題が出ていて、
そろそろ暗記しなければと思っていたそんな頃だったが、
それはこんなムツカシイ文章なのである。
我国の軍隊は世々天皇の統率し給たもふ所にそある昔神武天皇躬(みつから)大伴物部の兵(つわもの)ともを率ひきゐ中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(たかみくら)に即(つか)せられて天下(あめのした)しろしめし給たまひしより二千五百有余年を・・・・
 戦争があと1ヶ月続いていたら、覚えていただろうか?
 私の中学生はそんなことで『今のソウル』でのスタートなのだが、
この辺りのことは、こども時代の自分史に譲ることにして、
日本に引き揚げてきて、もう一度中学1年生から行き直したので、
戦後、引き揚げてきてからをスタートとすることのする。
★ 終戦の年の12月15日、生まれ故郷の明石に引き揚げてはきたのだが、
 明石上ノ丸は爆弾と焼夷弾で跡形もなく焼け野原になっていて、
 伯父一家が疎開していた当時は全くの田舎だった伊川谷白水の借家に落ち着いたのである。
 翌年になって当時は川崎機械の社長だった伯父の知人の砂野仁さんの薦めで、神戸一中に入学することになるのだが、
何故か試験も受けずに入学することが出来たのである。
 間違いなく『裏口入学』なのだが、
 『お前は試験も受けずに入学出来たのだから、ちゃんと勉強するように』と、
 父に言われたこともあって、よく勉強したと思っている。
 ただ、この時代の通学は大変だったのである。
    今はこんな立派な街になっているのだが、当時は田んぼと川以外は何もなくて、
 毎朝田んぼの中の道を歩いて明石駅まで、上の丸に家を建てるまでの1年間ほど続いたのである。
そこから灘まで電車通学、更に灘からは通称『地獄坂』と称する急な坂道を上ってやっと学校なのである。
     
 これはGoogle マップで現れる今の神戸高校だが、
 形だけは昔のままで、当時はもう少し黒かったと思う。
 当時から『名門神戸一中』と言われていて、
 これが中学1年生当時、最後列左から4番目が私である。
 
 これが中学2年生時代で、ここまでが『神戸1中』なのである。
   
よく勉強した』と書いたが、それは神戸一中の2年生までのことである。
 『』という制度があって、学年の50番までの生徒をそう呼ぶのだが、
     学生のレベルが揃っていて高かった中で『』に入るのは大変なことなのだが、
 ずっと『』だったし、10番以内にはいたのである。
 授業のスピードも早くて、そのレベルも高かったのだが、
 よく頑張ったと思うし、よく勉強もしたのだが、
 私自身、学生時代に『勉強した』と思うのは中学2年生までなのである。
 中学3年生になると『男女共学』となって県一女と一緒になるのだが、
 この時点で、特に英語・数学のレベルは1年程逆戻りしたので、
 『勉強する』必要がなくなってしまったのである。
 そんなこともあって、3年生からは野球部に入部することになるのである。
 当時の神戸高校は野球も強くて春の選抜には甲子園にも出場している。
 そんな野球部に入部したての頃の私である。
  
  野球部に入ってからは、私の学生生活=野球部となってしまって、
 中学も高校も大学でも『勉強をした』という記憶がないのである。
 大学では教室にも入らなかったが、高校までは『勉強しない』と言っても
 教室には入っていたのである。
 そういう意味では私の学歴は『中学卒』かも知れぬが、
 あの名門神戸一中で『特だっ』ということが、
 アタマはそんなに悪くはない、やればできると勝手にそう思って
 生涯の自信に繋がっているのである。
 別に『勉強する』ことが嫌いでもないので、
 むしろ社会に出てから、
 そして定年退職してからの方がいろいろ『勉強している』のかも知れない。
★ 神戸一中時代の想い出としては『天覧授業』を挙げねばなるまい。
 それは昭和22年(1947)6月、戦後初の神戸行幸だったのだが、
 ホントか?と思われるかも知れぬが、
 神戸には陛下がお泊りになるホテルがなかったのである。
 その宿舎となったのが神戸―中の3階の教室でそれを改造してお泊りになり、
 私のクラスが『天覧授業』に選ばれて、
 授業観覧とは後ろからとばかり思っていたら、
 前からお入りになったのでびっくりしてしまったのである。
 これがその時の新聞記事で、そこには『宿舎にもなった神戸一中』という
 記事も残っている。
  
★ ここから先は神戸一中の同窓会の時、聞いた話でその真偽は解らぬが、
 GHQが『なぜ天皇は神戸一中などに泊まられたのか?』と調べたら、
 『あそこは英才教育をする学校だ』ということが解って、
 そこから『高校の学区制』に繋がったのだというのである。
 確かに、学区制対策は非常に厳しくて、
 若し本当にそうなら、私はその『学区制』で、明石高校に変わることになったので、そんなことにもなった『昭和天皇神戸行幸』だったのである。
2021年3月12日

春うらら

投稿者 : rfuruya

★『はるうらら』というので、
 ちょっと調べてみたら、こんなことのようである。
 「春うらら(はるうらら)」とは、「冬から春への移り変わりの時期」のことを言います。
冬の張りつめた空気が少しずつ暖かくなり、桜が少しずつ咲き始める季節の挨拶です。
春ののどかな雰囲気や穏やかな日の光を、こう表現します。
漢字では「春麗ら」と表記しますが、「うらら」とひらがなで書く方が、その柔らかなイメージからも一般的です。
 なるほどと思った。
 週末は雨になると言うが、ホントに『はるうらら』ないい天気である。
 ふと思って、園芸店に花の苗を買いに行き庭に植えた。
 そんな気になる春らしい陽気だった。
 適当に、『宿根草』ばかりを選んで買ってきた。
 一番右は『アスパラガス』である。
 『食べれますよ』と仰るので一鉢買ってきた
  
  小さな庭だから、もう植えるところも少ないが、
 それでもまだ大丈夫である。
  『さくらんぼ』の根元に植えた。
  
 後ろの薔薇が咲き出すころまで、
 咲いてたら黄色と赤で『綺麗なはず』と勝手にそう思っている。
 こんなところに適当に植えたのだが、
 
 土が見えなくなるくらい、広がればいいなと思っている。
 一番手前は、長い雨などには当てないようにと書いてあったので、
 動かせるように鉢植えにした。
 
  そうならないようなら、
 もう少し「買い足せばいい」と思っている。
 『はるうらら』な午後、私の庭仕事である。
2021年3月11日

川崎航空機に入社4年間  その4  自分史

投稿者 : rfuruya

★入社して2週間ほどの研修期間があって、財産課に配属が決まったのが、
周囲の人たちや学校の先輩たちからの財産課の評価は最低で、
大変なところに行ったな』と言われたのである。
なぜ大変なところなのか? はよく解らなかったが、
 一言で言うと他部課から見たら、あまり関係のない『存在感の無い課』であったような気もする。
そんな財産課で今まではあまり重要でもなかったからだと思うが、
特に担当者などいなくて女子が二人償却計算だけをやってたようだが、
そんな誰も手を付けずに放置されていた『工具器具備品』という科目の担当になったのが、幸いだっだと思うのである。
殆ど何もなかったものを最初から創り上げていく作業だったのだが、
今思うとそれは『貴重な体験』であったと思う。
それを『オモシロい』と思うか『つまらない作業だ』と思うかは、
ひとそれぞれだろうと思うが、こんな作業をやっていたのである。
● 償却計算という何時間も掛る『計算事務』を2年間経験できたし、
● 何にもなかった固定資産台帳を作るという地味な作業にも取り組んだし、
● その現物を現場で数えるという『現場作業』も経験できて、
● 各職場に財産管理担当者という組織を作って人脈も出来たし、
● ネコスの椅子などの新しい提案なども出来たし、
● IBMによる償却計算システム構築という『システム構築』の経験など、
 全社で初めての民需のIBM化にも取り組めて、
● その過程に於ける本社や岐阜製作所との連携で顔も売れて
 などなど事務屋の基礎みたいなことを全部経験できたのは幸いであった。
 財産課時代を象徴するものとしては、このタイガー計算機だろう。
 使い方もいろいろテクニックがあって、
 オモシロかったように思っているのだが・・・
  
★同期で入社した同僚たちは、みんな結構出来上がった『まともな課』に
配属されたので、みんな先輩の手伝いのような作業ばかりで、
自分の思うように』作業していたのは私ぐらいなのである。
入社試験の面接で『君は成績が悪いね』から始まるぐらい大学の成績は悪かったので、
企画室』などと言うまともな職制への配属は躊躇われたのだと思うが、
それが幸いしたのだと思う。
私は常に楽観的で、人生すべて『運がよかった』と『常にネアカに』考えるのだが、
この財産課への配属も、新人ながら自由に振る舞えて『本当に幸運だった』と思っている。
★ 新入社員時代、当時は日本国中『スポーツと言えば野球』の時代で、
勧誘されて入部した野球部も好きな人が集まる軟式野球部だったから、
本格的な硬式野球をやった人は数人だけだったし、
会社の中でも部対抗のソフトボール戦などあったりしたのだが、
こと野球に関しては、自分で言うのもおかしいが、
ちょっとレベルの違う『スターだった』のである。
そんな野球の分野でも、新人ながら結構『名が売れて
気分のいい『新入社員時代』を過ごさせてもらったと思っている。
★この新人時代の財産課の5年間だったのだが、
 5年目は肺結核の療養で、三田の大原療養所での療養生活だった。
 この1年で空洞のあった肺結核も完治して、
 復職する時点では殆ど企画室に決まっていたものを、
 突然、新しくできた『単車営業』ということになったのである。
 これも私にとって本当にラッキーだったと思っている。
 この時点では入社当時とは違って、間違いなく高評価だったと思うし、
 その後の人事評価も非常によくて、
 営業部でも私の担当する部門は係長が不在で、
 係長心得のような感じで任して頂いたし、
 次の広告宣伝課では係長も課長も不在だったのである。
 お蔭様で、その後の待遇も『1年の休養期間』があったのだが、
 同期の連中に遅れることなく進めたのも、
 財産課時代に経験した仕事の成果かなと自分では思っている。
★ そんな私の『川崎航空機に入社4年間』と1年の療養期間で
 私の新入社員時代は終わっているのだが、
 非常に懐かしい『いい新入社員時代』を過ごせたのである。
 ごく最近の時代から遡ってきた『自分史』だが
 あとは大学時代、高校時代、中学時代
 そしてこどもの頃の戦前時代と遡っていくのだが、
 ホントに『長く生きれたな』というのが実感なのである。

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