川崎航空機に入社4年間 その4 自分史
投稿者 : rfuruya
★入社して2週間ほどの研修期間があって、財産課に配属が決まったのが、
周囲の人たちや学校の先輩たちからの財産課の評価は最低で、
『大変なところに行ったな』と言われたのである。
なぜ大変なところなのか? はよく解らなかったが、
一言で言うと他部課から見たら、あまり関係のない『存在感の無い課』であったような気もする。
そんな財産課で今まではあまり重要でもなかったからだと思うが、
特に担当者などいなくて女子が二人償却計算だけをやってたようだが、
そんな誰も手を付けずに放置されていた『工具器具備品』という科目の担当になったのが、幸いだっだと思うのである。
殆ど何もなかったものを最初から創り上げていく作業だったのだが、
今思うとそれは『貴重な体験』であったと思う。
それを『オモシロい』と思うか『つまらない作業だ』と思うかは、
ひとそれぞれだろうと思うが、こんな作業をやっていたのである。
● 償却計算という何時間も掛る『計算事務』を2年間経験できたし、
● 何にもなかった固定資産台帳を作るという地味な作業にも取り組んだし、
● その現物を現場で数えるという『現場作業』も経験できて、
● 各職場に財産管理担当者という組織を作って人脈も出来たし、
● ネコスの椅子などの新しい提案なども出来たし、
● IBMによる償却計算システム構築という『システム構築』の経験など、
全社で初めての民需のIBM化にも取り組めて、
● その過程に於ける本社や岐阜製作所との連携で顔も売れて
などなど事務屋の基礎みたいなことを全部経験できたのは幸いであった。
財産課時代を象徴するものとしては、このタイガー計算機だろう。
使い方もいろいろテクニックがあって、
オモシロかったように思っているのだが・・・
★同期で入社した同僚たちは、みんな結構出来上がった『まともな課』に
配属されたので、みんな先輩の手伝いのような作業ばかりで、
『自分の思うように』作業していたのは私ぐらいなのである。
入社試験の面接で『君は成績が悪いね』から始まるぐらい大学の成績は悪かったので、
『企画室』などと言うまともな職制への配属は躊躇われたのだと思うが、
それが幸いしたのだと思う。
私は常に楽観的で、人生すべて『運がよかった』と『常にネアカに』考えるのだが、
この財産課への配属も、新人ながら自由に振る舞えて『本当に幸運だった』と思っている。
★ 新入社員時代、当時は日本国中『スポーツと言えば野球』の時代で、
勧誘されて入部した野球部も好きな人が集まる軟式野球部だったから、
本格的な硬式野球をやった人は数人だけだったし、
会社の中でも部対抗のソフトボール戦などあったりしたのだが、
こと野球に関しては、自分で言うのもおかしいが、
ちょっとレベルの違う『スターだった』のである。
そんな野球の分野でも、新人ながら結構『名が売れて』
気分のいい『新入社員時代』を過ごさせてもらったと思っている。
★この新人時代の財産課の5年間だったのだが、
5年目は肺結核の療養で、三田の大原療養所での療養生活だった。
この1年で空洞のあった肺結核も完治して、
復職する時点では殆ど企画室に決まっていたものを、
突然、新しくできた『単車営業』ということになったのである。
これも私にとって本当にラッキーだったと思っている。
この時点では入社当時とは違って、間違いなく高評価だったと思うし、
その後の人事評価も非常によくて、
営業部でも私の担当する部門は係長が不在で、
係長心得のような感じで任して頂いたし、
次の広告宣伝課では係長も課長も不在だったのである。
お蔭様で、その後の待遇も『1年の休養期間』があったのだが、
同期の連中に遅れることなく進めたのも、
財産課時代に経験した仕事の成果かなと自分では思っている。
★ そんな私の『川崎航空機に入社4年間』と1年の療養期間で
私の新入社員時代は終わっているのだが、
非常に懐かしい『いい新入社員時代』を過ごせたのである。
ごく最近の時代から遡ってきた『自分史』だが
あとは大学時代、高校時代、中学時代、
そしてこどもの頃の戦前時代と遡っていくのだが、
ホントに『長く生きれたな』というのが実感なのである。