中学・高校・大学 私の学生時代 その2
投稿者 : rfuruya
★ 前回、神戸一中時代の2年生まではよく勉強したが、
3年生で共学になって『英語・数学は1年程逆戻りした』と書いたが、
数学で言うと『対数』は私は3回習っている。
中学2年生の時が初めてで、そして共学になった3年生に時、
そして学区制で明石高校に転校して、明石高校でも習ったのだが、
いま『対数とは?』と聞かれたらよく解らないのである。
このlogが現れる『対数』は3回も習っているのにアタマに入っていないのである。
数学も好きな学科だったのに、
この『対数』が出てきて一度に興味を失ってしまったようにも思う。
どうも現実に『必要がない』と思ってしまうのである。
学科で言うとこの時代『歴史』の教科がなかった。
多分、戦後すぐのことなので『教科書』が出来ていなかったのだと思う。
英語は中学時代『よく勉強した』。
興味もあったし、ひょっとしたら、中学時代の英語のレベル以上にはなっていないのかも知れない。
特に神戸一中時代の英語のレベルが高かったのだと思う。
勿論、This is a pen. からスタートしたのだとは思うが、
1年生の夏休みには、こんな文章で始まる『舌切り雀の物語』を暗記させられているのである。
出だしのこんな文章は、今でもよく覚えている。
Once upon a time, there lived an old man and his wife .
They treated the bird as tenderly as if it were their child.
★ 3年生の夏ごろから県一女と一緒になって『男女共学』となったのだが、
小学校時代は戦時中のことで、3年生からは男女別のクラスだったから、
『男女共学』などは初めてのような経験だったが、
意外にスムースに抵抗もなかったように思った。
最後列左から3番目である。
男女共学になって『神戸高校併設中学校』ということになった。
男女共学になって『変わったこと』というなら
流石に『運動場での立食』がなくなった。
それまでは神戸一中の伝統だなどと言って、
弁当は運動場で立ち食いをしていたのである。
それがどういう意味を持つのかは、よく解らなかったが、
運動場で立って動きながら食っていた。
『立ち食い』はそのまま残ったが、教室の中での立ち食いだったのである。
多分、こんな伝統も、今の神戸高校ではなくなってしまっているのだろう。
★ 兎に角、まだ戦後の時代だったと思う。
明石からの国電を何故か『省線電車』と呼んでいたが、
窓ガラスは半分はガラスではなく『板張り』になってたりしたし、
三ノ宮からのバスなども3年生の頃になってやっと走り出したが、
殆ど乗ったことはなかったように思う。
『修学旅行』なども未だ世の中に存在しなっかった。
天皇陛下が泊られるホテルが神戸にない時代だから、
学生が泊る宿などまだなかったし、
大体、『米の飯』がなかった時代なのである。
麦飯や、『なんば粉のパン』など食っていたのだと思う。
★ そして3年生の末期になって『高校の学区制』が翌年度から始まるとなって、
神戸市灘区から通っている生徒を除いては、それぞれの校区の高校に進学することになったのである。
神戸一中の生徒は灘区以外が圧倒的に多かったから、
みんなそれぞれの校区に進学せざるを得なかったのだが、
生徒だけではて先生も適用されるなど『学区制のモデル校』として非常に厳しかったのである。
確かこの年度に『灘高校』は進学校への方向転換をして、
神戸一中から先生を含めて大量な人員の転校があって、一挙に『進学校』になたように思う。
灘校のWiki を見ると
当時は神戸一中(現:神戸高校)や神戸二中(現:兵庫高校)、神戸三中(現:長田高校)等に入学できなかった者が入学してきたが・・
などの記述もあるが、
この年には神戸一中からの転校が大挙してあったのである。
私自身は、校区の明石高校に転校することになり、
旧制の神戸一中を2年間、男女共学の神戸高校併設中学1年間の3年間の中学生活を終わるのである。
ただ今振り返って思うと
学校で勉強をしたのは国民学校と言われた今の小学校6年間と
この神戸一中時代だけだったような気がして、
本当に懐かしい学生としての想い出の時代なのである。