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2021年3月3日

88歳の誕生日に想うこといろいろ

投稿者 : rfuruya
★『3月2日・88歳米寿の誕生日』を迎えた。
     
 88年生きたということは
 日数に直すと『32,120 日』生きたということなのである。
 今朝の朝日新聞、スタート以来5万号とか、
 それに比べても、結構な日数である。
 ホントによく生きたものである。
 とてもこんなに長く生きれるとは思わなかったし、
 20歳の時、肺浸潤になって『命も短いかな?』と思って
 書きだした日記が68年続いている。
 祖父も、父も伯父もみんな50代で亡くなったので、
 とても80歳まで生きれるとは思ってもいなかった。
★ 人間が生まれてから死ぬまでの時間を『寿命』というが、
 『寿命=運命』で『運の良し悪し』で決まるような気もする。
 私は何となく『いい運を持っている』と信じている。
 人生で一番体力がなかったのは68歳前後かな?と思う。
 その頃『くも膜下出血』にもなったし、
 膝や腰も痛くてずっと整形外科のお世話になっていたのである。
 その整形外科の先生に
こんな電気治療でホントに治りますか?』と聞いたら
治りませんね。時間が出来たのだからストレッチでもしたら。
 筋力は何歳になっても付きますよ
 という先生の返事が戻ってきたのである。
 若しあの時、私が質問していなかっら・・・
 先生の答えが若し違っていたら・・・
 私は多分今のように『健康体力は維持できていない』と思う。
 間違いなく『運がよかった』と思っているのである。
★ ネットの世界に出会えたのも『運がよかった』と思っている。
 私は現役時代はパソコンは一切触っていない。
 パソコンに出会ったのは娘婿に、
 会社で余っていたパソコンを『買わされた』みたいなものだが、
 そのお陰で、ネットの世界に出会えたし、
 ブログもツイッターもやりかけて、
 Facebookでいっぱいの新しいトモダチも出来たりした。
 みんな『運がよかった』と思っている。
 そんな Facebook では『誕生日おめでとう』の祝辞が沢山届いた。
  
 この写真の中にいる『山本隆』さんが
 Facebook のコメントでこんなことを書いている。
   
 その8年前『マウンテンライダースの50周年記念パーテイー』で
 花束を頂いた時の写真である。
   
     あれから8年経ったのである。
 金谷秀夫とも安良岡健ともあの日が最後になってしまった。
 
  確かに、あの時80歳だったのである。
  三木の稲田三郎さんから『80本の薔薇』を頂いてビックリした。
  
 こんな想い出いっぱいの写真付きで
 『お祝いの言葉を頂いた』中から幾つかを並べてみる。
  間違いなく、楽しく元気に生きれている。
   
 
 
 
   今日も午後から雨が上がったので、
 防災公園を1時間スロージョッギングした、結構元気な88歳です。
 今年も精一杯、目標に向かって、頑張りたいと思っています。
    

88歳の誕生日に想うこといろいろ

2021-03-03 05:49:11 | 私の生き方、考え方&意見
★『3月2日・88歳米寿の誕生日』を迎えた。
     
 88年生きたということは
 日数に直すと『32,120 日』生きたということなのである。
 今朝の朝日新聞、スタート以来5万号とか、
 それに比べても、結構な日数である。
 ホントによく生きたものである。
 とてもこんなに長く生きれるとは思わなかったし、
 20歳の時、肺浸潤になって『命も短いかな?』と思って
 書きだした日記が68年続いている。
 祖父も、父も伯父もみんな50代で亡くなったので、
 とても80歳まで生きれるとは思ってもいなかった。
★ 人間が生まれてから死ぬまでの時間を『寿命』というが、
 『寿命=運命』で『運の良し悪し』で決まるような気もする。
 私は何となく『いい運を持っている』と信じている。
 人生で一番体力がなかったのは68歳前後かな?と思う。
 その頃『くも膜下出血』にもなったし、
 膝や腰も痛くてずっと整形外科のお世話になっていたのである。
 その整形外科の先生に
こんな電気治療でホントに治りますか?』と聞いたら
治りませんね。時間が出来たのだからストレッチでもしたら。
 筋力は何歳になっても付きますよ
 という先生の返事が戻ってきたのである。
 若しあの時、私が質問していなかっら・・・
 先生の答えが若し違っていたら・・・
 私は多分今のように『健康体力は維持できていない』と思う。
 間違いなく『運がよかった』と思っているのである。
★ ネットの世界に出会えたのも『運がよかった』と思っている。
 私は現役時代はパソコンは一切触っていない。
 パソコンに出会ったのは娘婿に、
 会社で余っていたパソコンを『買わされた』みたいなものだが、
 そのお陰で、ネットの世界に出会えたし、
 ブログもツイッターもやりかけて、
 Facebookでいっぱいの新しいトモダチも出来たりした。
 みんな『運がよかった』と思っている。
 そんな Facebook では『誕生日おめでとう』の祝辞が沢山届いた。
  
 この写真の中にいる『山本隆』さんが
 Facebook のコメントでこんなことを書いている。
   
 その8年前『マウンテンライダースの50周年記念パーテイー』で
 花束を頂いた時の写真である。
   
     あれから8年経ったのである。
 金谷秀夫とも安良岡健ともあの日が最後になってしまった。
 
  確かに、あの時80歳だったのである。
  三木の稲田三郎さんから『80本の薔薇』を頂いてビックリした。
  
 こんな想い出いっぱいの写真付きで
 『お祝いの言葉を頂いた』中から幾つかを並べてみる。
  間違いなく、楽しく元気に生きれている。
   
 
 
 
   今日も午後から雨が上がったので、
 防災公園を1時間スロージョッギングした、結構元気な88歳です。
 今年も精一杯、目標に向かって、頑張りたいと思っています。
    
2021年3月2日

カワサキの単車事業のスタート時代 その5   自分史

投稿者 : rfuruya
 
★広告宣伝課1年目の昭和39年(1964)の日記を読み返してみた。
新聞・テレビはやれなかったが、いろいろ頑張っている。
初出の日に発動機からの単車分離の発表があった。
どうやら単車らしい。
1億を超える広告予算があることをどこで嗅ぎつけたのか、
広告代理店の来訪が相次いでいる。
1月末には、前回紹介した『広告代理店選定基準15項目』を小野田滋郎さんと終日検討している。
3月の日記にこのような記述がある。
1人でやる仕事の量は知れてるが、発想・企画には制限がない。
広告宣伝課に来て、いろいろ考えた。
入社以来こんなに考えた1ヶ月はなかった
初めて出来た広告宣伝課・1億3000万円の予算をぺいぺいの私に任された。
本社開発費の大金ということで、報告先は直接『岩城良三事業本部長だった
岩城さんはなかなか厳しくて、よく怒られたりもしたが、
怒られてもすっきりする『気持ちのいい怒り方』だった。
その反面、『係長も課長も置かない』ということで100%任されていたのである。
広告宣伝課が川崎航空機に移り、カワサキ自販の従業員も吸収ということになって、
カワサキ自販の広告宣伝課長だった小野田滋郎さんは3月末で辞められた。
その送別会の席上小野田さんが私に贈ってくれた言葉、
毀誉褒貶は忘れよ。雑音に耳を貸すな!
その後ずっとそれは守った現役生活だった。
★この年4月初めてのモトクロスを朝霧高原で見たのだが、
残念ながら雨で1日で中止になってしまった。
モトクロスの現場はこの年9月の山梨モトクロスが初めてで、
製造部にいた田崎雅元さんと二人での現場管理で出張した。
その頃はまだレースの実戦は三橋実が監督をやっていたのである。
よく集まったものだ。
事務局発表35000人釜無川の堤防1kmが人で埋まった』と書いている。
 この時初めて『85J1のレーサー』が登場した。
カワサキ85J1 Wiki』にはこのような記述がある。
『カワサキが1960年代の最新技術であったロータリーディスクバルブ吸入方式を採用。
デビュー前のモトクロスレーにおいてもブリヂストンやスズキを相手に
上位を独占するなど、性能の高さを遺憾なく発揮し、
カワサキ車として初めてのバックオーダーをかかえるほどの人気を博した。』
これがその時の山梨モトクロスで、三吉一行が優勝した。
★いろんなことをやっていて、『85J1は富士登山にも成功している
 これは当時のオートバイ誌の記事である。
  
これは福田泰秀くん以下の個人の企画なのだが、
富士登山に成功して写真を撮ってきたら、
 費用を負担してあげる』ということになっていて、
 大成功だったので、こんな広告に使わせてもらっている。
  
因みに『福田泰秀くん』は、
一番最初にカワサキに単車営業課が出来たときの
3人のサービスマン』の一人で、
私と一緒に『単車営業を立ち上げた一人』なのである。
★ホントにいろいろとオモシロいことをやっていて、
日活との映画のタイアップで、
幾つもの映画にカワサキの二輪車が登場もするのだが、
明石日活に挨拶に来ていた当時トップスターで人気絶頂の浜田光男
明石工場に連れだして塚本本部長の対談をセットし、
バイクに乗れるというものだからテストコースで乗せたのだが、
浜田光男が来ている』とニュースが伝わって、
彼を見ようと女子たちがラインを離れて、
発動機の製造ラインがが止まってしまったりして、勤労部長に怒られたりした。
それくらいの人気スターだったのである。
    
★この年の8月には『源平芸能合戦』に『川崎航空機対三洋電機』で出演している。
源平芸能合戦』は、当時TBSで放送されていた人気テレビ番組で
 いま検索してもWikipedia にこのように現れるのである。
ことの始まりは毎日広告がやってきて、
三洋電機との対戦に出ませんか、タダで1時間番組に出れますよ』というので、
上司の苧野さんに相談すると『出てみるか』と仰るので、
出ることにしたのだが、これからだ大変だったのである。
4種目の出し物』は、
● 当時抜群だった明石工場のコーラスと、
● 手塚部長の剣舞
● 岐阜のハワイアンバンドとフラダンスまでは直ぐ決まったのだが、
あとの一種目がどうにもならないのである。
困り果てて毎日広告に相談すると『吉本興業にでも頼んでみるか』ということになって、
専門の演出家がやってきて、
当時アポロの月へのロケットが話題になっていたこととの関連で、
●『かぐや姫の物語』を創ってくれて、
その演技指導なども本格的にやったのである。
これは『吉本興業の専門家の発想』だから本格的な出し物になったのである。
タダで出来る』ということだったが、この費用だけでも大変だったのである。
更に岩城さんは『うちは芸人を飼ってるわけではないから芸にに負けても応援は負けるな』と大応援団を結成して、
連日の練習が続いて『その残業代もパンなども出してやれ』と仰ってどんどん大きくなっていくのである。
この応援団を纏めてくれたのが元川重社長の若い頃の田崎雅元さんなのである。
それにフラダンスをしてくれた4人の女性を口説いくれたのも田崎さんである。
彼はよほど印象に残っているのか、『芸能源平合』の話題は田崎さんとの会話の中には何度も登場するのである。
本番当日の三洋電機との対戦は、
普通には出ない100点以上の高得点107-105点の大接戦だったが
本場淡路の人形浄瑠璃』などを演じた三洋電機に惜しくも敗れたのである。
本番前の応援合戦の練習では、
練習の成果もあって『圧倒的によかった』と思ったのだが、
テレビの画面になってみると、
三洋電機の応援席の階段を縦に使って女の子が踊っている画面の方が
揃っていなくても派手で印象深く、
完全に『テレビを熟知』した三洋電機に名を成さしめたのである。
当時、いろんなイベントに拘わったが、『源平芸能合戦』は大変だったと
一番印象に残っているイベントなのである。
岩城良三本部長には、いろんなことでお世話になったが、
一番密接に指示も受け一緒に動いたのはこの『源平芸能合戦』なのである。
出演前日には毎日放送から担当者を呼んで練習を見て貰ったりしたので、
こんなことまでした会社は初めて』と驚いていたのである。
さらに『みんなよくやったので全員に記念品を』とボールペンを贈ることにしたのである。
このイベントに関わった総勢は250名、当日はバス2台で現場に参上したのである。
タダでⅠ時間番組に出れる』と気軽に出演を引き受けたのだが・・・・
まあこんなところも『カワサキらしい』のかも知れない。
私のカワサキでのイベント、第1発目の懐かしい想い出なのである。
★いろんなことがあった広告宣伝担当のスタート時期のことである。
 私も若かったが、単車事業全体が若くて
 活気のあったいい時代であった。
 やっとアメリカ市場に進出しようか?
 という機運が出始めたころの『カワサキ』なのである。
 みんな『素人の集まり』だったからオモシロかったのかも知れない。
2021年3月1日

アメリカの大学サッカーリーグ戦

投稿者 : rfuruya

★ アメリカの大学サッカーリーグ戦が始まった。
 孫の末弟門野哲也はいまサンデイエゴ大学2回生でキーパーをしている。
    昨日は試合の実況放送がテレビで流れた。
 その試合からの写真である。
      
 アメリカ人の中にいてもひと際背が高い。
  昨日はアメリカは日本の1日遅れの土曜日の27日、
 カリフォルニアのトップリーグのサッカーの試合テレビの実況中継があって、
 サンデイゴ大学スタンフォードとの一戦だった。
 娘がLINEで送ってくれたので、アメリカと同時に観ることが出た。
 強豪スタンフォード相手によく頑張ってたと思う。
 その試合を2分の動画に纏めてみた。
 スタンフォードは昨年は全米4位だとか、
 それまでは3年連続でアメリカ大学チャンピオンだった強豪なのである。
 アメリカの大学は有名大学がみんな運動部が強いのは、
 どこの大学も推薦入学でしか入部できないシステムになっていて、
 優秀選手がみんないい大学の推薦を狙うので、
 スタンフォードやバークレー、UCLAなどの有名校にいい選手が集まるのである。
 推薦入学で入部すると、授業料に匹敵する金額が運動部から授与されるが、
   日本と違ってアメリカの大学の授業料はべらぼうに高いから、
 それに見合う何百万円もの額の金が支給されるようである。
 だから、大学は『授業料免除』のようなものだが、
 日本の大学と違って入学は出来ても、
 ちゃんと勉強しなければ卒業はムツカシイようである。
 まるでプロのような制度だし、卒業後プロになる選手も多い。
 推薦選手以外は個人で希望しても入部は出来ないので、
 強豪チームでも部員の数は日本のようには多くはいない。
 孫の次男門野真也バークレーのサッカー部
 日本人ながらキャプテンを務めたし、
 卒業後は念願かなってプロになった。
   
末弟Tetsuya Kadonoも1回生からレギュラーで出ているし、
プロを目指している。
あと2年程だが、プロの姿を私は見れるだろうか?
こどもの頃は、こんな単なるデブだったのに、
人は死ぬまで夢を持て』という
 樋渡啓祐さんに頂いたシャツが気に入って、
 こんなになるまで着ていたのだが、よく頑張ったものである

★ アメリカの人を育てる仕組みは素晴らしい。
  若し日本にいたら二人ともこうはなっていないと思う。
  高校まではクラブチームだが、トップチームに入ろうと思っても、
  テストがあって簡単にいいチームには入れない。
  日本と違って1チーム15名ぐらいしか採らないのである。
  次男も『デブはダメ』と言われて減量して3年掛かって
  名門Strikers FC にやっとは入れたのである。
  そしてそんなチームにいると、
  推薦入学で、いい大学のサッカー部に入部出来るのである。
  末弟は小学生の頃からキーパー専門のコーチについて頑張って、
  中学生の頃からはメキシコ代表のキーパーの方
  個人指導を受けて成長した。
  お金は掛るが、努力さえすれば『夢が叶うシステム』になっている。
                 
       大学のサッカーも特別ルールで、多分個人を育てるためだと思う、
  サッカーもバスケのように選手の出し入れができるルールなので、
  ちょっと点差が開くと控え選手が登場したりする。
  そして再登場も大丈夫なのである。
  チームの勝利も当然目指すのだが、
  同時に個人の成長にも配慮しているように思われる。
  そういう意味では、昨今の日本の強豪チームは、
  レギュラーは兎も角、
  応援団のような運動部になっているのは、『どうかと思う』のだが・・・
★ 日本にいてもアメリカの同時刻にやっている大学サッカーリーグの実況中継を見ることが出来る。
 不思議な世の中になったものである。
 逆にアメリカにいても、日本のテレビ番組も見ることが出来るようである。
 世界も狭くなったものだと思う。
2021年2月28日

今年のプロ野球はオモシロそう

投稿者 : rfuruya

★ プロ野球もキャンプが終わってオープン戦が始まった。

 今年のプロ野球はオモシロくなりそうな感じである。
 セントラルは巨人、パシフィックはソフトバンクではオモシロくない。
 どこでもいいから、違うチームがトップを走って欲しい。
 今年は阪神も佐藤が入って、ひょっとしたらホントに大活躍かも?
 と思わせるような出足だし、
  
 藤浪も頑張るかも
  
私自身は強烈な阪神ファンのチームはないのだが
強いて言えば、自分が住んだことのある関西・仙台・札幌のチームを応援している。
 そう言えば今年は マーくんこと田中投手の入った
 楽天も面白いかも。
 
  開幕投手は涌井のようだが、2戦目が田中投手だとか。
 いいピッチャーが2枚いると、これは強みだなと思う。
 阪神ー楽天の日本シリーズもいいな。
 藤浪・田中・涌井など甲子園で活躍した選手たちの
 甲子園でのマウンド姿が見たいものである。
2021年2月27日

カワサキの単車事業のスタート時代 その4 自分史

投稿者 : rfuruya
★昭和39年(1964)1月から広告宣伝を担当するようになって、
私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。
それまではカワサキの広告宣伝は『カワサキ自販』で担当していたのだが、
この年から単車が発動機から分離され本格的な事業推進を行うに当たって、
日本能率協会は『広告宣伝課を創ること』を条件に入れたので、
川崎航空機の本社は開発費として3年間1億3000万円の広告宣伝費を出してくれたので、
当然『広告宣伝業務』をカワサキ自販から引き継ぐことになったのである。
小野田寛郎さんの弟さんの小野田滋郎さんと具体的な仕事を一緒にしたのはこの時が初めてだったが、
小野田さんの凄さ』その仕事ぶりにビックリしてしまったのである。
世の中にはこんなに優秀というか『仕事ができる』人がいるのである。
★カワサキに広告宣伝課が出来て1億を超す予算があると聞きつけて、
電通・博報堂・大広・毎日広告など多くの広告代理店が売り込みに来て、
広告代理店の『売り込み』は当然のことながら、めちゃ熱心にいろんなことをいろいろ言うのである。
向うのペースのままではどうしようもないので、
代理店選定基準』として、各社に共通の質問として『15項目の質問』を創ったのである。
その殆どは小野田さん主導で創られたのだが、
貴社の創造的能力を図示説明してください』
『貴社の当社担当グループの能力・経験・人員・協力頻度を・・』
『広告効果判定の可能性は・・』
 などいろいろあって、
各広告代理店は出先の営業所ではなく、本社の企画部門のメンバーたちが大勢でやってきたのだが、
当方の質問が厳しくて、
とても素人とは思えないポイントを捉えた質問』と感心されたりもしたのだが、
この代理店選定の面接で『広告宣伝の本質』みたいなものがよく解ったりしたのである。
特に『創造能力の図示・説明』には本職の広告代理店が、ちょっと困ったようだが、
小野田さん曰く『口でいろいろ言えても、ホントに解っていないと図示きない』というのである。
確かにその通りで、簡単に図示することはなかなかムツカシイのだが、
小野田さんは陸士仕込みの『戦略・戦術・戦闘論』などホントに上手く『図示できる』のにはびっくりした。
そんな小野田滋郎さんだったが、広告宣伝が川崎航空機に移り
カワサキ自販も川崎航空機に吸収ということになって、
この年の3月末で辞められたのだが、個人的には私はその後も長くお付き合いがあったのである。
★ こんなことで始まった『広告宣伝課』の新しい職務だったが、
 この1年目は折角頂いた予算1億3000万円の内、7000万円しか使うことが出来なかったのだが、
これは『広告宣伝』と言えば『テレビ・新聞』なのだが、
その『テレビ・新聞』が使えなかったからなのである。
その理由は、当時は『実用車のカワサキ』で東京・関西などの大都会では全く売れていなかったので、
東京・大阪などの大都市は広告は要らない』と営業サイドは言うので、
新聞もテレビも使えないのである。
この1年目の実績に本社の専務から『お前ら金を渡してもよう使わん』と怒られたものだから、
2年目は何とか予算は使い果たそうと
新聞は『朝日・毎日・読売は抜き』で
全国40社以上もある『地方紙』に『全頁広告』を打ったのだが、
これは広告業界では『前代未聞』で『カワサキはとんでもないことをする
と広告業界で評判になったのである。
これは中央紙に広告するよりは費用面では『めちゃ多く掛かる』のだが、
こんなことをしたのは、この年のカワサキだけだろう。
更にテレビも関西地区だけだったが、
当時売り出したばかりの藤田まことを使って
あちゃんてもんせいめた かわさき』と喋らした
15秒のコマーシャルなど作ったので、
   
 2年目は広告宣伝予算はちゃんと使い切ったのである。
 因みに『藤田まこと』さん私と同じ1933年生まれなのである。
★1年目の広告宣伝は、新聞・テレビは使わなかったが、
 結構いろいろと面白いイベントやレースはいろいろやってはいたのである。
 カワサキにとってレースは初めての経験ではあったが、
 関東厚木の『カワサキコンバット』を小野田滋郎さんから引き継いだこともあって、
 広告宣伝課で担当することになった。
 スタートしたばかりのカワサキファクトリーチームである。
 右から、梅津次郎・岡部能夫・山本隆・歳森康師・三橋実・安良岡健
 ここまでが契約選手であとの4人は未契約の『カワサキコンバット』所属の選手で、
 安良岡健の隣が『星野一義』なのである。
 
 契約金は私の年収が40万円の頃だったが、
 100万円以上も弾んだので、当時は結構日本でも高額で、
 他メーカーの選手たちがみんなカワサキに来たがったそんな時代だった。
 三橋実には毎月30万円を若手選手育成費として渡していたので、
 全国から有望選手が集まっていたのだが、
 その中に静岡から星野一義秋田からの金子豊などがいたのである。
それくらい派手に使っても1000万円ぐらいにしかならなくて、
当時の1億3000万円は今の時代なら10億円を超える額だったのかも知れない。
 広告宣伝課ではヘリコプターも持っていて
 モトクロスのレース場などにも帯同したりしたのである。
 下の写真は伊豆丸の山であったMCFAJの全日本モの開会式に
 ヘリでお嬢さんを運んできて『花束贈呈』など派手なことをしていたのである。
 この写真はそのレースで最優秀選手になった山本隆さんの提供です。
  
 このヘリには各社のライダーたちも乗りたがって、
乗せて欲し』と頼みに来るものだから、
私は他メーカーのチームのライダーたちとも直ぐ懇意になったのである。
特に当時の日本のトップライダー久保和夫・荒井市次さんなどとは仲良くなって、
それは現役引退後も続いていて、
ライダーたちとのこんな写真がいっぱいなのである。
 
★    この時代カワサキのレースライダーはみんないい車に乗っていて
    契約金の殆どが車に化けたのだと思う。
 それぞれこんな車に乗っていたのである。
 三橋実   日産 フェアレデイZ
             
   安良岡健  日産 プリンスGTB
   岡部能夫  日産 プリンスGTB
            
 山本隆           ホンダS500
 歳森康師  ホンダS500
            
 こんな派手な状況だったので、他メーカーの選手たちは
 一体いくら貰っているのか?と思ったに違いないのである。
 ちょうどそのころ私も運転免許を取ったので、
 よく乗せて貰ったりしていたのである。
 星野一義の最初のクルマはホンダS500なのだが、
 彼はホントに律儀で『車を買ってもよろしいか?
 とわざわざ我が家まで訪ねて来たりしたのである。
 ライダーたち当初は名もない若手ライダーだったのに、
 みんな日本を代表するTOPライダーに育っていったのである。
 初年度はレースの他にもいろんなイベントをやっているのだが、
 その詳細は次回に・・・
2021年2月26日

クリスマスローズ     雑感

投稿者 : rfuruya

 

★2月になって我が家の庭のクリスマスローズも花をつけだした。
結構沢山植わっているのだが、全部株分けで増やしたものである。
咲き出した株もあるし、まだ花の少ない株もある。
 春先に咲くのに『なぜクリスマスローズ?
 と思って調べてみたら、
 こんなことであるらしい。
 
 長く咲くし強いので、気に入っているが、
 こんな2種類だけである。
  
 
そんなことなので、ふと思って園芸店に行って
4株ほど新しい種を買ってきた。
  これで我が家も 6種類のクリスマスローズの庭 になる。
2021年2月25日

カワサキの単車事業のスタート時代 その3  自分史

投稿者 : rfuruya
★ カワサキの単車事業がスタートした年は昭和35年(1960)なのだが、
この年の10月に私は肺結核三田の療養所に入院することになったのである。
当時は肺結核になる人は多かったが、
私の場合は大学の2回生の秋に『肺浸』だと言われたのだが、
そのまま休んだりはせずにずっと野球は続けていたのである。
川崎航空機に入社してからも診療所の先生に『野球はダメだよ』と言われていたのだが、ずっと止めずにやっていた。
この年にユニホーム姿を診療所の先生に見つかって怒られて、
検査で『菌が出たから入院』と言われてしまうのである。
三田の療養所で菌の検査をしたら『菌など出ていなかった』のだが、
いうことを聞かないものだがら、そんな理由で入院させられてしまったのである。
結果的には『これがよかったな』と思っている。
肺に空洞』などもあったのだが、1年の入院で手術などはせずに消えてしまって、それ以来全く健康だし、
1年入院したお蔭で『単車事業』に関わることにもなったし、
いい運命』だったと思っている。
★この昭和35年(1960)年は私も未だ28歳なのだが、
それから4年間、個人的にはこんなことがあったのである。
 昭和35年(60) 10月に三田療養所入院
 昭和36年(61) 12月に三田療養所退院・ 単車営業課に異動
 昭和37年(62) 12月に結婚
 昭和38年(63) 9月に長男出生・ 青野ヶ原モトクロス
私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社し業務部財産課に配属になるのだが、隣の課の勤労課に家内はいたのである。
そんなことから翌年の3月から付き合いだして、
私の性格から隠したりはせずに『大ぴらな交際』だったし、
結構『熱烈な恋愛関係』だったので周囲の人はみんな知っていて、
いつ結婚するの?』というようなことだったのに、
三田療養所に入院』ということになってしまったのである。
退院してちょうど1年後に結婚し、翌年長男が生まれたりしているのだが、
この時期は会社の仕事も新しくなったが、
自分の人生も『新しい結婚生活』が始まっているのである。
★   当時の写真はあまりないのだが、旧いアルバムの中から。
これは新婚旅行、新婚旅行のスケジュールは会社の先輩の坂口さんが決めてくれて、
        
冬だから『スキーをやれ』と北陸から長野に回って、
人生で1回だけスキーをしたのである。
こどもの頃は朝鮮にいてずっとスケートはやってたし、スキーらしきこともやってたので、ちゃんと滑れると思ったのだが、
ホンモノのスキーは思ったより上手くいかなかったのが想い出である。
 
 結婚した翌年には長男が生まれ、
 30代半ばは、東北仙台だった。
  
★ 閑に任せて昭和38年(1963)の日記を読んでみた。
  結婚1年目で9月には長男が生まれている。
       生まれる前から名前を考えているのだが、男の子か女の子か解らないし、
  なかなか思い浮かばなかったのに、生まれたら直ぐに決まった。
  『古谷大治』字画なども結構ちゃんと調べたりした。
  当時、31歳なのだが3月の給料が25,000円なのである。
  そんな額でよく生活出来たなと思う。
  6月の給料が34,700円の手取りだが、10500円の残業料が入っている。
  50時間の残業なのである。
  ボーナスの評価は間違いなく最高点がついて夏のボーナスが手取り62,300だった。
 この年には発動機事業部営業企画課管理課で単車を含めて、
発動機全般の管理一切を担当していて、ホントに滅茶苦茶忙しかったのである。
前回にも書いたが、結婚して新婚旅行などとても休めるような状況ではなかったので、
結婚式も年末12月21日となってしまったのである。
同時にこの年の終わりころには、単車事業部の発動機事業部からの独立が発表されて、
私は単車の広告宣伝課担当候補に挙がっていて、
翌年は会社も個人も新しい生活が始まったのである。
★新しく出来た広告宣伝課の予算は本社開発費で3年間支給されることになって、
1億3000万円というべらぼうに大きな額を
ペイペイの私』が自らの裁量で自由に使えることになるのだが、
その初年度は7000万円しか使えなくて、
本社の専務に『お前ら金をやってもよう使わん』と怒られたりする、
そんな広告宣伝課の1年目、2年目のことなど、
 次回に纏めてみたいので、お楽しみにして下さい。
2021年2月24日

2月半ばの三木総合防災公園

投稿者 : rfuruya

★ いつも行ってる三木総合防災公園にはいろんな花木が植えられていて、
 1年中花が見られるので、今年はそんな公園の花を追っかけてみたいと思っている。
 2月も半ばとなると梅の花は満開なのである。
 スロー・ジョッギングしたコースの動画と梅林の梅など撮ってきたので、
 ご覧ください。
 非常に大きい公園なので、毎日走るコースを変えているのだが、
 今回はこんなコースなのご紹介である。
  
 中央の駐車場に車を止めて、ビーンズドームを右に緩やかな坂道を上ると
 林間広場に出る
 そこで休み休みだが50メートルダッシュを10本
 それから坂道を下って左側に梅林がある。
 
  更に、道路の上の橋を渡って右に下っていく。
  その右手にはサッカー場が3面並んでいる。
  そこをひと廻りして元の駐車場に戻ってくると
  走行距離は約6km、時間は1時間ちょっと掛かる。
  これだけで6kmとは思われないかも知れぬが、
  それくらい広いのである。
  よく『甲子園球場が幾つ』などと言われるが
  右の方に野球場もあるから、それをご覧になると広さが解ると思う。
★ 道は沢山あるし、先日は山道を通って、
  一番上にある『志染の石室』まで行ったら『1万歩』を越えたのである。
  動画の中では『』が余り写っていないが、
  広いからなかなか出会わないので、人を避けている訳ではない。
  ただ、都会の公園のような沢山の人は来ていない。
        ジョッギングしている人や、散歩している人たちが主流なのである。
  ここまでは家から車で来るのだが、
  10分とはかからない。
  家から歩いてきて戻っても6キロほどだと思うのだが、
  公園の中の道を歩き慣れると、
  何となく街の中の信号などのある道は落ち着かないような気分になるのである。
2021年2月23日

カワサキの単車事業のスタート時代 その2  自分史

投稿者 : rfuruya

★明石工場内に「単車準備室」が開設されたのは昭和34年(1959)で、当時私はまだ財産課にいた時にお声が掛かったりしたのだが、
当時は財産課でIBMでの償却計算システムを完成すべく頑張ってた時期なのでお断りしたような経緯もあった。
翌年の昭和35年夏ごろには明石工場内に24工場も完成して、
メイハツ・ニューエースと姉妹車のカワサキ・ニューエースを1960年8月より生産したらしいが、詳しいことは解らない。
この年の10月には私自身が肺結核で療養所に入院してしまうのである。
そして翌年昭和36年(61)12月に退院し、
新しく出来たばかりの『単車営業課』に配属になったのである。
カワサキとしての初めての生産車は『125B7』と『カワサキペットM5』が1962年度初頭から生産開始にはなっていたのだが、
正式に単車営業課が出来たのは12月だったのである。
★この時代の特に営業関係のことなど、
 今となっては私以外に知ってる人は殆どいなくなってしまったのでは?と思う。
当時の技術部や生産関係には関係のあった方はそれなりに多かったと思うが、
単車営業』と言っても『発動機部門』の中の単車営業課なのでホントに限られていて、機能としては営業部品品証もあったのだが、
部品は正垣さんと納さんの二人、品証というかサービスは吉田さん以下3人、営業は私と女子(藤田孝昭さんの妹さん)
私の上に壱岐係長がおられただけの陣容なのである。
その上に北沢課長と小野次長がおられたのである。
私は入社4年目だったが、部品やサービスの面倒も見ていたし、
出荷や物品税は勿論、広告宣伝らしきものも業界紙対応も、
その他現在の事業本部で事務屋さんがやってることは全てやってたので、その忙しさは大変だったのである。
当初も大変だったが、慣れるに従って
守備範囲がどんどん広くなって、職制変更の度にメンバーも増えるが業務も増えて、
現役時代で『一番忙しかった』のは間違いなくこの時期なのである。
★この時期は単車事業がスタートしたばかりで事業内容は安定せず、
 世の中は『事業部制』なるものが出現した時期でもあって、
 兎に角『職制変更』が頻繁に行われ、
 その度毎に『私の担当業務』はその範囲が増大していったのである。
 よくお解りにはならないと思うが、これくらい頻繁に職制変更が行われたのである。
 昭和36年(61)12月  発動機営業部単車課単車係
 昭和37年(62)3月   単車部単車課業務係 場所も14工場に移動
          4月   発動機事業部第2営業課業務課
          11月  発動機事業部第1営業部業務課
 昭和38年(63)4月   発動機事業本部営業企画課管理課
          11月  単車事業部に発単分離
 昭和39年(64)1月   単車事業部営業企画部広告宣伝課
この間、1962年の12月に結婚しているのだが、
結婚式の日は12月21日で、ホントはもっと早く結婚したかったのだが、
この時期は休みを取って『新婚旅行』などとても考えられなかったほど、
会社の業務が忙しかったし会議の事務局などやってたので、休むわけにはいかなかったのである。
暮れの21日なら、この年は終わりだし正月休みも含めて休んでも大丈夫だからと『会社の事情』でこんな日になっってしまったのである。
結果的には半月ほどの結婚休暇が取れてよかったのかも知れない。
仲人は私を単車営業に引っ張って頂いた『小野助治』さんが引き受けて下さったのである。
★ ただ単車事業の方は、昭和38年度(63)になると
 新しく125B8が上市され、これが期待以上に評判が良くて、
 放っておいてもよく売れたし、
 青野が原のモトクロスでも1位~6位独占などの成績を上げるなど、
 ようやくカワサキ単車も何となく落ち着いて、
 日本能率協会も『この事業やるべし』という結論になるのである。
 この時の決定の条件の中に『広告宣伝課を創る』というのがあって、
 それを私が担当することになるのだが、
 それまでは広告宣伝は『カワサキ自販』で担当されていて、
 それはあのフィリッピンの小野田中尉の弟さんの『小野田滋郎』さんが総務課長兼務で担当されていたのだが、
 その野田滋郎さんに私はすっかり『見込まれていて』いろんなお手伝いをやっていたのである。
 私の現役時代、『この人にはとても敵わない』と思ったのは、
 『小野田滋郎さんだけ』かも知れない。
 それくらい素晴らしかった。
 陸士出の秀才で、戦略・戦術・戦闘などの実践論を確りと教えてくれたのも小野田さんである。
 当時『お兄さんがフィリッピンで生きてるか』という情報があったのだが、
 『小野田さんのお兄さんなら間違いなく生きている』と私は信じて疑わなかったのである。
  左が小野田滋郎さん、
   
 カワサキのレースのスタートは『青野ヶ原』ということになっているが、
 B7時代に三吉一行などがMCFAJ 全日本に出場しているその仕掛け人が小野田さんなのである。
 青野が原の後、ヤマハから三橋実を引っこ抜いて、厚木にカワサキコンバッを創らせたのも小野田さんなのである。
 私の広告宣伝課担当は『小野田滋郎さんから広告宣伝を引き継ぐ形』で自然に決まったのかも知れない。
 いつの間にか『広告宣伝課を担当』することになったのである。
★ この『広告宣伝』という業務を本格的にやれたということは、
 本格的なマーケテングが学べたし、
 私のその後の人生の『差別化』に繋がったと思っている。
 『レースの世界』を経験したことも本当によかたった。
 こんな世界は、ご縁がなければとても入っていける世界ではないのである。
 その経験のいずれもが、人生を非常に豊かにしてくれたと思っている。
 そういう意味では、『無茶苦茶忙しかった』のだが、
 今となってみれば『いい想い出や経験』ばかりなのである。
2021年2月22日

カワサキの単車事業のスタート時代 その1  自分史

投稿者 : rfuruya
 
★ カワサキの単車事業の明石工場での一貫生産が始まったのは昭和35年(1960)なのだが、
 その年は私は未だ業務部財産課所属だった。
 実はその年の10月から肺結核で三田療養所に入院しているのである。
 ちょうど1年程で退院できたのだが、
 10月頃の話では退院後の異動先は企画ではないかと専らの噂だったのである。
新しく単車生産一貫工場がスタートしたのは昭和35年だが、
その単車を売る単車営業課が新しく出来たのは昭和36年(1961)12月で、
ちょうど退院時期ともがっちして、その単車営業課への異動となったのである。
この単車の営業部門を新しく担当されたのが小野助治次長で、
小野さんも12月に業務部総務課から異動されたばかりで、私を指名されたのは『小野さん』だったようである。
小野さんとは同じ業務部所属でお互いよく知っていたし、入社以来いろいろと目を掛けて頂いていたのである。
若し小野さんの単車への異動がなければ、私の単車異動もなかったのではないかと思っている。
そういう意味では不思議なご縁である。
★単車事業がスタートしてからの5年間はこんなことがあったのだが、
●昭和35年(60) 財産課・三田療養所入院(10月)・単車一貫生産スタート       28歳
●昭和36年(61) 12月10日退院・営業部単車課に異動  29歳
●昭和37年(62) 鈴鹿サーキット開場・鈴鹿ロードレース・結婚(12月)  30歳
●昭和38年(63) 青野ヶ原モトクロス・日本能率協会調査  31歳
●昭和39年(64) 単車再建決定・広告宣伝課に異動・レースも担当  32歳
 ざっとこの5年間がどんなものだったのかを粗っぽく纏めてみる。
★新しく出来た単車営業課で、一番先に小野さんから言われたのは、
物品税を研究してくれるか』だったのである。
カワサキが一番最初に発売した125ccはこんなB7というバイクだった。
このバイクはフレームに欠陥があって、
私が営業に異動した昭和35年の年末ごろには、毎日毎日、返却が相次いでいたのである。
当時の二輪車の125cc以上には確か15.5%の物品税が掛かっていて、
掛ける時には工場をでるバイクの台数にその税率を掛ければいいのだが、
その二輪車が戻ってきて『払った物品税』を返してもらう『戻入手続き』は至極ムツカシイのである。
いろんな規定があって、『工場をでた時のまま』でないとダメで、
1台1台税務署員の立ち合い検査などもあって、例えばメーターが回っていたらダメなのである。
だから製造部の人たちとメーターの巻き戻しなどもやったりしていたのだが、
返却される台数が半端ではなく、すっか台数より返却台数の方が多かったりしたのである。
 こんな状態で、販売するより『返却台数』の処理が仕事の殆どと言っていい
大変な営業課だったのである。
★ 当時はカワサキ自動車販売という会社が東京の神田岩本町にあって、
そのカワサキ自販の社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、
明石工場のTOPよりはずっと偉かったし、
更にその『カワサキ自販』からは全国の『自前の代理店』への卸なのだが、
自前の代理店の社長さんはまさに『お客様』だからめちゃエライのである。
明石工場は『カワサキ自販』からはボロカスに言われるし、
それ以上に地方の代理店の社長はうるさい存在で、大変だった時代なのである。
今の『メーカの人たち』は末端の販社が子会社だから、
根元のメーカーの方がエライような関係になってるので、
こんな時代のことを言っても理解して貰えないと思うのだが、
ホントはこんな形の方がいいのかも知れない。
そんなメーカーの営業課の窓口担当が私のスタートなのである。
★さらに、最初に発売したB7が散々な状態だったから、単車事業の経営状況は大赤字で、
当時の川崎航空機本社は『この事業を続けるべきかどうか』を日本能率協会に調査依頼をしていたのが、昭和37年から38年にかけての時代だったのである。
その昭和37年(1962)には鈴鹿サーキットが開場して、
日本で初めての本格的なロードレースが開催され、そのレースを単車製造部の人たちがバスを仕立てて見学に行ったのだが、
レースなるものを初めて見て燃え上がってしまったのである。
そのグループはカワサキの中でも最も血気盛んだった中村治道・髙橋鐵郎さんたちで、
レースを観たあと『カワサキも』とモトクロスレース出場を目指すのだが、
この一連のことを仕掛けた張本人兵庫メグロの西海義治社長
 西海さんは元オートレースのプロライダーでレースには詳しく、
後には兵庫県のMFJの会長などもされたのだが、
この写真はずっと後の神鍋で行われたMFJ全日本モトクロスの時の写真なのである。
       
 その西海さんが、実際にはバスを仕立てて
 『カワサキもモトクロスを』という雰囲気を盛り上げ
 カワサキの中にはレースのことなど解る人はいなかったので、
 兵庫メグロの子飼いの『松尾勇さん』を製造部に送りこみ
 モトクロッサーは全て『松尾勇・作』なのである。
そして昭和38年の青野ヶ原モトクロス1位~6位独占という快挙に繋がるのである。
  
こんな結果が事業部内の雰囲気を高め、日本能率協会は『末端の意気は盛ん
と感じて『この事業やるべし』という結論を出す一つのきっかけになったのは確かなのである。
 この写真の後列の真ん中の大きな方が『小野助治』さんである。
 このレース出場は、会社が正規に認めたものではなかったので、
 製造部のこのレースに関わった人たちは、定時後自主的に集まってレーサー制作などに当たったのである。
勿論、残業料なども出なかったので、小野さんが私に営業の経費から『なにがしか都合してやれ』と言われて幾らかの『パン代』ぐらいのお金を私が都合したので、何かレースらしきことをやってるということだけは知っていたのである。
★ そんなこともあって、昭和39年(1964)度には
 日本能率協会の『この事業続けるべし』との結論から『単車事業再建』が決定され、
 その条件の一つになっていた『広告宣伝課を創るべし』ということから、
 私は川崎航空機で初めて出来た『広告宣伝』を担当することになり、
 レースも含めて『はじめての仕事』を担当することになったのである。
 この5年間には結婚もしているし長男も生まれている。
 今回はざっとこの5年間を総括したのだが、
 この時以降一生のお付き合いとなった単車事業や家内のことなど、
 シリーズで別途取り上げてみたいと思っている。
 まずは『その1』である。

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