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2019年1月22日

神戸新聞 大橋凛太郎くんの取材を受けた

投稿者 : rfuruya

 

★昨日は、『孫の門野真也』 のことで、神戸新聞の大橋記者の取材を受けた。

表題のほうは、『神戸新聞の大橋凜太郎くん』とわざわざ『くん付け』で書いてるのは「さん」よりは『くん』のほうが似合うと思ったし、初対面だったが、それくらい仲良く2時間ばかり雑談が出来たのである。

何よりも、24歳という若さがいい

孫の長男と同い年だが、よその子は孫と違って『しっかり』見えるから不思議だが、確かに『しっかり』しているのである。

今回の取材に対しては、私なりに『真面目に、丁寧に、事前対応』してあったので、それはちゃんと評価してくれていて、肝心の取材は要点だけのちょっとした質問があっただけで、あとはホントに『お互いに有益な雑談』をしていたのである。

 

★ こちらは写真は撮られたのだが、『大橋凛太郎くんの写真はないかな?』とネットを検索したら、写真も記事も見つかったのである

大橋凛太郎くん、こんな若者である。

野球部出身だが、グリークラブで歌にも自信があるのか 三木の『のど自慢』に挑戦している。

 

 

その時の、神戸新聞の記事である。

選んで歌った局が、『私らの年代』にはついて行けない、今どきの唄ではなくて

坂本九の上を向いて歩こう』だったのがいい。

そんな歌が、『似合う』 大橋凛太郎くんだった

 

 

ついでに、大橋記者の記事を探したら、こんなのがあった。

こうしてみると、三木もなかなか面白いまちである。

三つ、写真で『切り取って』掲載するので、ご関心のある方は、お読みください。

 

 

 

 

 

 

★是非、今日彼と話した『広報談義』をしっかりと身につけて。記者の道を堂々と歩いて欲しいなと思っている

こんな風に、『私が取り上げる』のは、間違いなく『大橋凛太郎は、ナイスガイ』だと思ったからである。

肝心の取材のほうは、何とか彼なりに『纏めるだろう』と思っている。

 

 

2019年1月21日

カワサキジェットスキー物語  14

投稿者 : rfuruya

★『カワサキジェットスキー物語』も、私が担当した時代は1997年あたりで一応の終止符を打つのである。

今回、ふとしたことから書き出した『カワサキジェットスキー物語』だが、その当事者の私も初めて知ったことが多かったのである。

 

 

●その一つがこの写真である。

1971年に発動機事業部でスタートしたジェットスキー・プロジェクトは、5年後の1976に一応の終止符を打っているのである。その長をしていたのが私と同期の村上さんだとは、知らなかった。

この時点で上市していた製品はJS400だけだったのだが、その後アメリカ市場での『馬力不足問題』に対応して、藤川哲三さんを長とする550へのボアアップチームがスタートして、今回いろいろお世話になった福井昇さんなどもその一員であったようである。

●そのJS550 が生産されたのが84年度で、たまたまリンカーン工場がスノーモービル縮小で危機に陥っていて、当時のKMC田崎社長の独断で生産を一挙に2万台ベースに引き揚げそれを売り切ったことから、ジェットスキー事業の規模は一挙に24000台の規模まで急激にアップしたのである。

今まではJS550にボアアップしたから、急激に売れ出したのだと勝手に想像していたのだが、受注生産でもないJSなのだから、2万台を造らない限り、2万台を売ることは不可能なのである

● この販売台数の増大が、正規の事業として単車事業部として育てようという機運になり、明石の企画サイドにプロジェクトチームを作ってその対策がスタートしたのである。この提言をしたのは当時の企画室の武本一郎さんであり、具体的には85年8月から鶴谷将俊さんが具体的にプロジェクトの旗を振ることになるのである。

●86年度には福井昇くんもメンバーに加わり、ヨーロッパ・国内市場対策も進み、87年からは国内販売対策も具体的に進んで『ジェットスキー・プラザ』がスタートし、カワサキジェットスキー販売(KJS)という専門会社もスタートして、その販売形態も確立していくのである。この辺りの販売網対策の立案は、私自身が担当したのでよく解っているのである。

●87年度半ばには単発統合もあり、営業部門に正規のジェットスキー部門もできて、私自身が企画から営業部へ、さらに88年10月からは国内市場担当になったのだが、国内のジェットスキー事業は年間200~300台のレベルから、91年には7000台の販売規模にまで躍進したのである。

●その91年度からは、このプロジェクトをスタート時点から推進してきた鶴谷将俊さんが国内JJSBAの3代目の会長に就任して、国内JJSBA設立10周年を記念して、91年11月に琵琶湖近江舞子で開催した『ワールドカップ』には、アメリカのトップ選手を招いての盛大な大会となるのである。

 

 

 

★当時は田﨑雅元さんとこのジェットスキー・プロジェクトで打ち合わせなどしたことは一度もなくて、アメリカと日本でそれぞれ勝手な思惑で動いたのが事実なのだが、今思うとホントに、不思議なご縁で繋がっていて、当時から40年近くも経っている今でもこの『ジェットスキー物語』を書こうかなと思ったきっかけは、田崎さんからのメールや、送って頂いた写真がその『きっかけ』なのである。

 

KMC社長(川重では若手部長)時代の若い頃の田崎さんである。

このころ単車事業本部でジェットスキーに乗ることができたのは、「田崎雅元さん1人」だったかも知れない。当時、明石の単車事業本部ではジェットスキーに関わっている人は1人もいなかった時代で、発動機事業部がエンジンをリンカーン工場に送り、KMCの製品としてアメリカだけに売られていた『継子製品』だったのである。

 

これが、85年に単車の技術部が最初に開発を手掛けたJS300Aの試作品である。

モペットのコンセプトで、初心者向きに小型の舟艇を造ったのだが、水の上は『小型』は安定せずに、田崎さんも「乗れなかった」という代物だったのである。レースに出ていた福井昇さんでも上手く乗れずに、その時ズケズケ本音で書いた「福井レポート」は、技術部内で大問題となり、なかなか有名なのである。

そんなこともあって、アメリカ市場ではJS300は導入しなかったのだが、国内に導入したJS300Bは、舟艇をJS400を使たものだったというのは、これも今回『私も初めて知った』事実なのである。

 

 

 

これは、ネットの中からGoogle の写真検索で私が見つけてきたものである。

こんな感じでその規模は、壮大だったのである。

 

 

これは松口久美子さんから頂いた当時のスポーツ新聞の記事で、

 

 

レースをするだけではなく広く広報活動を展開したのは、この当時のカワサキの特徴だったと言っていい。

ユーザークラブKAZE も、SPA直入がスタートしたのも、カワサキが初めて鈴鹿8耐に優勝したのもこの時期なのである。

そんなレースや遊びを本格的に専門的に展開していたのが、カワサキの初めての『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム』で『遊んでいたら自然に売れる綜合システムの創造』が私自身の主たる仕事だったのである。

 

以下は、田崎さんから送って頂いた写真や、千里浜の写真などネットから拾ってきたものだが、すべてが『華やか』で『新しいカワサキのイメージ創造活動』だったのである。

そんな観点から当時の写真をご覧になってください。

私にとっても非常に懐かしい想い出いっぱいの写真なのである。

 

琵琶湖ホテルでの前夜祭で、来賓挨拶の田崎さん である。

 

 

当日は、岩城滉一さんも急遽出席してくれて、会場はより華やかになったのである。

 

金森稔くんのテレビインタビューに、何故か田崎さん、割り込んでいる。

ちょっと、向うに見えてるのは私。

 

 

田崎さんご機嫌の写真だが、お酌をしている美女は、確かアメリカのジェットスキーチャンピオンなのである。

 

 

★ これから後の写真は、千里浜のジェットスキー大会で、エントリーは1000台を超え、1日のレースが130レースにもなったという、世界でも最大規模のジェットスキー大会となり、地元の役員の人たちから『ギネスブック』への登録がホントに真剣に検討されたりしたのである。

石川テレビの中継もある、そんな大会だった。

 

 

ネットから拾ってきたものだが、千里浜のレースは今も続いているのかも知れない。

 

 

 

 

1984年11月にアメリカでJJSBAの認可を得てから、もう30年以上になるのだが、ちゃんと育っていることは素晴らしいと思っている。

 

 

 

★そして最後の写真は、

1984年11月、アメリカにIJSBAの承認を取りに渡米された苧野豊秋さんに私が随行したのだが、当時のKMCの人たちや、明石からその時出張してたメンバーたちが、苧野豊秋さんを囲んでの記念撮影で、これも田崎さん提供なのである。

 

この人たちの努力で、KMCは見事に立ち直ったし、カワサキの単車事業の再建もなったのである

そしてJJSBAも、この時がそのスタートなのである。

最初に『井戸を掘った人たち』が、懐かしい。

この稿を最後に『カワサキジェットスキー物語』も、一応終わりにしたいと思っている。

 

ご協力頂いた、田崎雅元さん・福井昇さん・松口久美子さんに感謝である。

 

2019年1月13日

カワサキジェットスキー物語  13

投稿者 : rfuruya

 

★1985年あたりにアメリカ市場で、突然ジェットスキーが2万台を超える規模になったことから、突然カワサキの中でもこの事業を正規の事業にしようという動きが出たのだが、そのジェットスキー・プロジェクトは、ホントにスピーデイーに動いて、1900年に入るころには、ヨーロッパにも国内にもジェットスキーの専門会社が立ち上がっていたし、アメリカ以外のJJSBAのレース活動もまた素晴らしい勢いで動いていたのである。

日本でもジェットスキーレースなるものが、いつ頃からどの程度の規模で行われていたのかはよく解らないのだが、カワサキ関係では孫会社のKATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんが熱心で、日本でもJJSBAのレース協会を創ろうという動きがあり、84年11月にアメリカのIJSBAの承認を取ろうと渡米されるのだが、それに同伴したのが私で、アメリカでIJSBAと繋いでくれたのが田崎雅元さんなのである。

苧野さんは私にとっても田崎さんにとっても元上司で、カワサキの二輪のレース委員会の営業サイドの長をされていて1960年代からレースに関連があった方なのである。そんなことで日本にJJSBAが出来たのは85年からだと言えるのだが苧野さんは初代のJJSBA会長を務められたのである。

 

さらに、カワサキがジェットスキーを正規の事業にすべく社内でJSに乗れるライダーを探して、発動機の福井昇くんを見つけて、最初のプロジェクトメンバーに加えたことも、彼がジェットスキー・プラザの実質1号店になってくれたことも、国内のジェットスキー事業やレースが順調に立ち上がった大きな原因だと思っている。

当時のジェットスキー・プラザの殆どがレースに色濃く関係していて、そんなこともあって日本でもジェットスキー・レースが各地で行われることになるのである。

 

★このジェットスキー物語も、当時から色濃くレースに関わって頂いた福井昇くんや、松口久美子さんのご協力で、私もいろいろと思いだしながら、やっと纏めることができているのである。

今回も福井くんや松口さんがこんな写真を送ってくれたのでその写真の紹介から入って行こうと思う。

 

まずは、福井くんが送ってくれた、発動機事業部のジェットスキーグループの解散会の写真である。

この写真は貴重である。当初のジェットスキーに関わったメンバーを私自身も初めて知ったのである。後、ジェットスキーでも二輪でも関係のあった方たちもおられる。

1976年とあるからこの年次で一応ジェットスキーグループは解散するのである。ひょっとしたらコレでカワサキのジェットスキーも終わってしまっていたかも知れないのである。

それまで上市されていた機種はJS400で、アメリカ市場のレースグループから『馬力アップ』の要請が出て、私と同期の藤川哲三さんを中心丹波晨一福井昇さんなど数人がJS550のエンジンのボアアップ開発に当たったようである。

この写真の真ん中にいる村上さんは、昭和32年(1957)川﨑航空機入社の私の同期生なのだが、彼がジェットスキーを担当していたなど、この写真を見るまで私は知らなかったのである。 非常に貴重な写真だと思う。

この写真の中に丹波さんや福井さんがいないのは、この時点で既にスノーモービルの開発のほうに移っていたからだという。

 

★こちらは松口久美子さんから頂いた当時の写真である。

福井さんが440クラスでチャンピオンになってトロフィーを抱えています。その上の写真は大南さんです。トロフィーを持っている女性は第一回全日本チャンピオンの上原さんです 。』との説明がつけられていたが、福井昇くんも若いなと思う。

彼が実際にレースを走ってるのは、実は見たことがないのだが『速かったんだ!』というのが今の実感である。

大南勝也さんには、ジェットスキーの販売関係でも、JJSBAのレースでもホントにいろいろとお世話になったのである。彼の結婚式には私も出席させて貰っていたので、当時のこの業界をリードした人たちはホントに若かったのである。

 

 

日刊スポーツに掲載されたワールドカップ(琵琶湖)の画像だが、松口久美子さん全盛期である。

 

 

★スポーツ紙にこれだけ大きく報道されているが、間違いなく『ワールドカップ』でその規模はびっくりするほど大きかったのである。

近江舞子の湖岸1キロがジェットスキーのテントで埋まったのである。

この大会は『JJSBA創立10周年記念大会』として琵琶湖の近江舞子を舞台に盛大に開催されたのである。

鶴谷将俊さんが第3代JJSBA会長を引き受けてくれたのは1991年2月のことなのだが、それ以降JJSBAは、カワサキの人たちが本格的に運営に参加して、飛躍的にその規模も大きくしていくのだが、その象徴的な大会がこのワールドカップであったと言っていい。

 

以下の写真は、当日会場にも来てくれた田崎雅元さんから送って頂いたものだが、この日の昼過ぎ、私はまだ神戸にいたのだが、月木さんから電話があって、岩城さんが来ているとかいうので、今夜『ワールドカップの前夜祭がある』と言ったら『岩城滉一さん』も突然参加してくれることになったのである。

 

 

 

 

当時の髙橋鐵郎本部長もレース当日は、ジェットスキー大会をご覧になって、その規模の大きさにビックリなさったのである。

これは船の上からのレース観戦だが、この船の手配も、福井昇くんが気を利かして手配してくれたのだと思う。

 

 

★この93年当時は、国内市場が最高の時である。

高橋さんがCP事業本部長でカワ販の社長を兼務、私は専務としてその旗を振ったし、田崎さんはニューヨークから戻って、副本部長時代である。

84年にスタートしたジェットスキー・プロジェクトもようやくその頂点を迎えていたのである。

当時の国内は、二輪関係のレースにも注力していた時期で、鈴鹿4耐も、8耐もカワサキが優勝した年でもある。前述の『岩城滉一さんグループ』も春のカワサキデーラーミーテングにも、鈴鹿のレースには、月木レーシングの総監督として、SPA直入にもしょっちゅう出入りしていた時期で、島田伸介が8耐最後をカワサキに乗りたいと明石にやって来たりした年でもあって、なかなかの人気だったのである。

私自身が『レース』には、販売以上に没頭していたし、二輪やJSはユーザーの人たちと上手に遊んでいたら、『自然に売れるはず』という仮説の上に、グループ全体がKAZE活動などソフト会社ケイ・スポーツ・システムを中心に動いていた時代である。

高橋さん、田崎さんとは、ジェットスキーレースを2月には宮崎で観戦したし、田崎さんとは6月に北海道洞爺湖のレースをそしてその仕上げが11月の『ワールドカップ』だったのである。

 

この『ワールドカップ』が開催できたのも、やはり人かなと思っている

カワサキジェットスキーなどという専門会社がバックには居たのだが、実際に起案したのは『鶴谷将俊』さんだし、JJSBA が主催だが、当日の現場を仕切ったのは『福井昇くんと大南グループ』の人たちで、其の実権は福井昇くんが握っていたのだと思うが、それを自由に任せたのはKJSの藤田常務なのである。

私自身は当時は幾つもの会社の社長をしていて、責任だけは持っていたのだが、実務には殆ど関係していないのである。

髙橋鐵郎さんが100%私に任せて頂いたし、私も鶴谷・藤田さんに100%信頼して任していたので実現したのだと思っている。

ワールド・カップ』という世界展開がスムースに出来たのは、鶴谷さんも田崎さんも海外販社社長経験者で『英語コンプレックス』など皆無だったからかも知れない。

この琵琶湖『ワールド・カップ』はさらに数年続くし、富山県千里浜海岸でのジェットスキー大会は、その規模に置いて「ギネスブック」に登録しようかと、いわれるほどの規模で、さらに続いて行くのである。

 

これもその当時の写真で、田崎さんから送られたものだが、当時のジェットスキーは、国内市場のカワ販販社としても、その経営的なウエイトは非常に高く、単なる遊びではなくて、大いにその経営に貢献していたのである。

 

この写真、右から田崎さん・私・3人目は稲村暁一さんかも知れない。だとすれば珍しい写真である。

1984年、突然アメリカで売れだしたのが、世界展開の契機なのだが、その仕掛け人は田﨑さんであり、それを国内・ヨーロッパ市場にもとふと思ったのは私なのである。

このブログの冒頭にご紹介した発動機事業本部のジェットスキーチーム解散式が1976年というさらに10年近く前なのだが、何となく『ジェットスキーレース』がご縁で、いろんなことが繋がってジェットスキー事業となって行ったのである。

今から、思うと本当に不思議なご縁で繋がっていると思うのである。

 

JJSBAや、国内のレース関係が今どのようになっているのかは、詳しくは知らないが、この当時は間違いなく、この業界のトップをカワサキは走っていたのである。

13回まで続けてきた『カワサキジェットスキー物語』だが、次回かその次ぐらいで終わりたいと思っている。ほんの短い間ではあったが、当時の仲間のことなども、私なりに思い出させて頂いて、「いい時」が過ごせたことを感謝である。

 

2019年1月6日

私の今年の日常生活計画

投稿者 : rfuruya

 

★2019年、平成の最後の年が始まった。 今年は3月に86歳になる

一昨年の11月にスタートしたジム通いも何とか続いていて、今年は「足掛け3年」にもなるので、出来たらちゃんと続けてみたいと思っている。

最初はジムに通って運動してたら、『82~3キロある体重が幾らか減るかな』と思ってスタートしたのだが、確かに体は確りしたのだが体重は一向に減らないのである

 

最近では『別に体重など減らなくても、筋力がつけばいいか』と思って、その週間スケジュールを昨年の12月から

月・水・金は三木綜合体育館で、ジム・ランニング・水泳を約2時間

火・木・土は三木綜合防災公園でスロージョッギングとダッシュを約1時間』 

『日曜日は休息日』と決めて続けてきたのだが、

年末27日から体育館が休みに入って4日までは、2度ほど防災公園でランニングをしただけの正月休みだったのである。

 

★昨日1月5日には、体育館がオープンしたので早速『ジムとランニングと水泳』に行ってきたのである。そしてプールに入る前に体重を図ってみて、体重計が狂っているのかと思ったのだが『体重は78キロちょうど』なのである。何度はかっても『78キロ』なので間違いはない。

この正月期間は、ちょっと風邪気味だったこともあって『食事が控えめ』だったのである。

ジムのトレーナーの方に、『体重が減らない』と言ったら『トレーニングしてもそれ以上に食うとダメですよ』と言われていたのだが、まさにその通りなのである。1年間筋トレを続けてるので、確かに基礎代謝は上がっているし、『脂肪が燃えやすい体質』にはなっていたので、ちょっと食わなかったら『10日間で4キロも減る』とはビックリなのである。

1年のスタートの日に、目標体重『78キロが達成』できてのスタートとなって、果たしてこれからどうなるのか?と思っているのだが、ホントにどうなるのだろうか?

 

 

 

私が住んでいる緑が丘町西2丁目から、西に約6キロの三木綜合公園に体育館はある。

そして防災公園は東に約2キロで車で行くと12分と5分の距離だから、立地としてはなかなかいいのである。

 

体育館の場所はこんな感じで、入園料も駐車料も無料。

 

小さなジム(通常200円)

体育館の2階のこんなランニングコ―ス(通常100円)を走って

 

庭園付きの綺麗なプール(通常350円)で泳ぐのだが合計すると650円でこれは高齢者価格だから安くなっているのである。

この3つの施設をどれでも使える1ヶ月の通し券を買うと高齢者は3000円で、月何度行ってもOKのまさに格安料金なのである。

月3000円払っておけば、好きな時間に何度行っても大丈夫なので、スタートした昨年秋からこの制度を利用しているのである。

 

★ 防災公園の方は、上の方の黒い線の部分(約1.5キロ)でを2周して、芝生でダッシュを何本かして汗を流しているのである。

こちらも入場料も、駐車料も無料だから、特に出費はないのである。

 

 

最近は時間があり過ぎるから、何かやらないと毎日が『だらけてしまう』からやっているのだと思う。

別に今更『高齢者の運動会』などでの記録狙いなどは一切目標になくて、ただ単に勝手にやってるだけなのだが、ひょっとして90歳になっても『今のようにダッシュが出来たら』カッコいいなとは思っていて、敢えて言えば『それが目標』である。

ダッシュができるということは、スムースに綺麗に歩ける』ということだから、本来の私の目標は『綺麗に歩きたい』のである。

80歳から始めた『ダッシュ』だが、毎年スムースさも、距離も、スピードも、何となく伸びているように自分で思っている。

これは筋トレや、スロー・ジョッギングの効果かなと思っているのである。

 体重の目標は、スタートの日に目標達成できてしまったので、今年はフリーにして自然に任したいと思っている。

ちょっと、かっこよく書きすぎたが、この1年果たして続くだろうか?

 

 

2019年1月1日

謹賀新年 今年も頑張りたい

投稿者 : rfuruya

 

 

平成31年が明けた。

今年は文字通り、『新しい年』が始まる。

 

今年は3月には86歳になる。

86歳にしては元気に生きていると、自分でも不思議に思っているのだが、

人間、何歳になっても『進歩する』部分があるモノだということを実感している。

今年も何か『新しいもの』を見つけたいと思っているのだが、『何か』を発見できれば幸いである。

今年も頑張りたい』 ホントにそう思っている元旦である。

 

 

もう10年も前かも知れぬが、丹生山に登る、初日の出である。

 

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

2018年12月31日

4人の孫たち と ripple room & MSL

投稿者 : rfuruya

 

 ★ 突然正月2日にやってきてすぐ戻っていった古谷仁 と アメリカから遊びに来ていた門野真也、こんな二人の孫たちと、鳴門の渦潮を見に行った ことから今年はスタートしたのだが、つい昨日のことのようである。

 

 

門野3兄弟は、このほか兄貴の門野力也と門野哲也がいるのだが、

 

今年の夏は娘と哲也が遊びに来て、この年末は長男・門野力也がやって来て、『何故か繋がらなくなっていたツイッターを復活』してくれたので、古谷仁の近況を1ヶ月ぶりで見ることができたのである。

 

★4人の孫たちの内、この年末年始は、古谷仁 と 門野真也のことが特に気になるのである。

年初、古谷仁が没頭していたのは『ripple room 』というダンスの本の出版だったのだが、そんな大仕事を見事に仕上げて『ripple room 』の本の評価は非常に好評のようで一安心なのである。

ネットにある、こんな書評の概略をご紹介する。 目次の欄をクリックすると、『全てが読める』のでどうぞ、ご覧ください。

https://mydance365.com/ripple-room#ripple_room

先日、クラウドファンディングで事前購入したアートブック「ripple room」が届きました!この本はストリートダンサーやダンサーに興味ある人は絶対に読むべきマストな一冊。      

目次

ripple roomとは

ripple roomは、現在活躍してる90名以上のストリートダンサーにインタビューを行い、その生き様を綴っている本です。

オシャレな本

 

そんな古谷仁は、1年経って今は、またこんな新しいことに挑戦しようとしているようなのである。

 今日のツイッターにこんなことを書いていた。  また、どんなことをはじめるのだろうか?

テーマは #yutori_groove とあるが、ゆとりは兎も角、

groove とは『大いに楽しむ、愉快{ゆかい}にやる、うまが合う、最高潮{さいこうちょう}である、ジャズの名演奏{めい えんそう}を楽しむ』などと書かれている。

若い人の言葉はムツカシクてついて行くのが大変だが、『プレボノ』は『プロボノhttps://jinjibu.jp/keyword/detl/428/ ではないのかなと思ったりしている。

 

 

   

   写真を見る限り、沢山の仲間がいるから、『何とかなるのかな?』と思っている。

 

    

 

 

★ むしろ気になるのは門野真也のほうである。

この12月に、めでたくBerkeley 大学は卒業して、最終学年のサッカー部ではキャプテンを務め、最終のシーズンを得点王で飾り、アメリカの学生『ベスト60人』にも入って、1月1日からはアメリカMLSのプロの世界に挑戦するという。

BERKELEY – Former Cal star Shinya Kadono is one of 60 collegiate athletes across the US and Canada that has been invited to the 2019 Major League Soccer Combine, taking place Jan. 3-9 in Orlando. BERKELEY  

で始まるこの照会文の翻訳は次のように訳されている。

 門野 真也は、1月3日から9日までオーランドで開催される2019年メジャーリーグサッカー合同大会に招待された、アメリカとカナダの60人の大学生のうちの1人です。 Kadonoは2018年に12ゴールと26ポイントで、2008年のAndrew Wiedeman以来、ゴールとポイントの両方で初のCalプレーヤーとなり、彼の12のゴールはプログラムのオールシーズン・スコアリストの6番目にランクされました。 Kadonoの ゲームあたりのゴール(0.67)、ポイント(1.44)、ショット数(3.22)となっていて、4つのカテゴリーで全国トップ30に入り、9月のSac Stateでの勝利での彼の4ゴール、9ポイントのパフォーマンスは今シーズン国内の両方のカテゴリーで1試合で最も多いものだった。
となかなかの評価で、子どもの頃からの『プロサッカー選手になるという夢』が、ホントに実現するかも知れないのである。
つい先日、Facebook で、こんなメッセージを送ったら、

真也、元気にしてますか?  いよいよですね。 自信を持って正面から当たたら、自ずと運は開くものです今までの精進の結果で今があるのですから、今まで通りでいいと思います。 カブトムシやエビ採ってた真也がこんなになるとは、ホントにびっくりです。 今まで通り、頑張って下さい

こんな返事が戻ってきた。
おじいちゃん、ありがとう。  悔いのないように頑張って来ます!
私と違って『何事にも、ホントに真面目に取組む真也だが』結果はどうあれ『いい経験』になることは間違いない。
アメリカのMLSは歴史は浅いが、Jリーグ以上にヨーロッパや南米のスタープレイヤーが揃っているリーグなのである。
そのセレクションは1月3日から、始まるのである。
      

 

カワサキジェットスキー物語 10

投稿者 : rfuruya

 

 ★ひょんなことでスタートした『カワサキジェットスキー物語』だが、10話になろうとしている。

このきっかけを創ってくれた、田崎雅元さんから頂いた長いメールの中で、このように言って頂いているのだが、非常に意を強くしているのである。

古谷さん、

ジェットスキー物語、これは複雑な背景で生まれた「お神輿製品」で、その歴史は貴方以外誰も書けないと思います。流石です。

発動機 + リンカーン + KMC で生まれたジェットスキー は放っておけば、再建中の単車事業の中で、継子の商品となり、スノーモビルと同じような運命をたどったかも知れません。スノーモビル事業からの撤退を陣頭指揮した私が、同じような継子のジェットスキーに全力投球する、不思議な運命ですが・・・・ 大きなリスクを背負い、山田熙明さんから直接ブレーキをかけられた拡大戦略、結果オーライで語れることをとても幸せだと思っています。・・・・KMCの販売拡大が背景にあったとはいえ、J/Sの今日があるのには、当時の単発関係を偏見なく、フェアーに対応した単車企画部門の力が大きかったと思っています。

 

そんなことから当時の単車企画室が非公式に旗を振って始まったジェットスキープロジェクトであったが、88年9月の『ソウルオリンピックのデモンストレーション』により、ジェットスキーという世界で初めての製品の事業展開は、世の中が認めてくれた存在になり、ヤマハさんも参入されて、業界としての活動がスタートしてゆくのである。

 

 

★この年88年の10月からは、私自身が国内販売の責任者としてカワ販に異動することになり、二輪もジェットスキーもその直接の担当となるのだが、当時の事業本部長(カワ販社長兼務)髙橋鐵郎さんからは、国内市場で7万台販売という途方もない目標を与えられることになるのである。

7万台というのは、大変な目標なのである。

従来の販売活動の延長で頑張るだけでは、とても達成など出来ないような倍増台数だったし、二輪6万台、ジェットスキー1万台という目標は年間200台の規模からスタートするJSにとっても、とてつもない台数であったことは容易にご理解頂けると思うのである。

そんな目標を与えられて、私が具体的に採った戦略は、従来のやり方の徹底的な放棄で、ベースにしようと思ったのは、二輪もJSも元来が遊びの道具だし、そのベースにあるのは「レース」なので、この遊びとレース活動だけは『プロのレベルでの展開』を図ることだったのである。

まず、10月1日に赴任して真っ先にやったことが、『カワサキファクトリー結成25周年のOB総会』で10月15日に開催したのである。

これは、かってのレースOB達や、山田副社長・髙橋本部長・苧野・中村・大槻さんなどカワサキのレースの先輩たちに対しての私の『決意表明』だったのである。

 

2番目にやったことは、従来のユーザークラブKGRC(Kawasaki Good Riders Club)を解散して、KAZE(Kawasaki Amuzing for Everybody )の創設だったのである。

従来の延長上の販売台数ならカワサキファンだけを集めたら達成できるだろうが、7万台の目標は二輪を愛するEverybodyを対象にその枠を広げる『イメージ戦略』でないとダメだと思ったのである。

 

 

そして、『遊び半分ではいい遊びはできない』と遊びやレースの専門のケイ・スポーツ・システム(KSS)」という『ソフト会社』を立ち上げて、この会社を中心にグループ全体の活性化を図かり『新しいカワサキのイメージ創造』に挑戦したのである。

従来の孫会社KATから、ジェットスキー専門販売のKJSと名称も変えて子会社に格上げし、その二つの会社KSSとKJSは私自らが社長として旗を振ることとしたのである。

KAZEは3か月後の89年1月に、KSSは6か月後の89年4月に共に正規にスタートして、文字通りその後の展開の中心となっていくのだが、これはひとえにこの二つの新しい会社を担当してくれた、当時の精鋭たちが素晴らしかったと言えるだろう。

ジェットスキーのKJSには藤田孝明・潤井利明・渡部達也さんなどの実力者に加えて、鶴谷将俊さんがKHIの籍のままではあったがJJSBA会長なども引き受けてくれての事業展開だったのである。

全く新しいソフト会社KSSは、南昌吾さん以下がレース・KAZE活動など今までにない全く新しい『遊びの世界』に本格的に対応したこともあって、KAZEなどは55000人の会員を集め、当時のホンダHARTなどを圧倒した実績を実現したのである

二つのグループは、カワサキの人たちだけでなく、レース関係者や業界のプロと言える人たちが沢山手伝ってくれての展開となり、ジェットスキーで言うと、JJSBAが果たした役割は非常に大きかったと言えるのだろうと思っている。

 

★これらの活動は、確かにこの時代私が旗を振ったのは事実なのだが、私は『本田宗一郎さんの真似』をしただけの話なのである。

ずっと昔、未だ日本の二輪需要が50㏄のカブ全盛期の時代に、本田宗一郎さんがやられたのは、世界GPへのレースへの挑戦であったし、あの鈴鹿サーキットをあの規模で造られたのは昭和36年(1961)秋なのである。 カワサキはその初めてのレースを観て、カワサキの二輪事業が立ち上がったと言ってもいいのである。カワサキの二輪事業がホントにスタートしたのは「青野ヶ原のモトクロス」だと言われるが、それは昭和37年5月のことなのである。

本田宗一郎さんのレース展開の壮大な仕組みの構築が、当時の日本の二輪事業を世界的水準に押し上げたと言っていい。

遊んでいても『自然にモノが売れる、仕組みの構築』こそが大量販売のMUST条件だということは『本田宗一郎』さんに教えて貰ったのである。

二輪もジェットスキーも、遊び道具なのだから、一番大事なのは『遊び心』ではないだろうか?

確かに、マシン開発だけは、今も各メーカーは間違いなくプロのレベルだと思うのだが、マーケッテングに関しては『遊び心』が抜け落ちて『売ることばかり』に熱心で、真面目過ぎるのではと思ったりしているのである。

 

ジェットスキーこそ二輪以上の遊び道具なのである。

86年にやっとスタ―トしたカワサキのジェットスキーだが、ホントに数年の間に、業界にもカワサキの中にもプロたちが育っていったのである。

松口久美子さんが送ってくれた当時の写真だが、福井昇くんのチューンしたジェットスキー松口姉弟は乗っていたのである。

 

こんなコメントも頂いたのである。

 91年の千里浜のレースプロクラス優勝者全員、偶然にも古谷さんのFacebookで繋がっています。
プロメン 松口博文選手   プロ X-2 内橋誠二選手   プロウィメン松口久美子です!
当時いろいろと出会った人たち、間違いなくその筋でプロと言える大南勝也さん、村島政彦・村島邦彦ご兄弟に出会ったのもこのころなのである。この当時出会った人たちと、30年も経った今でもみんなFacebook では、繋がっているのはホントに不思議なご縁なのである。
カワサキ社内の人たちは勿論だが、こんな外部の方たちの協力があって初めてカワサキのジェットスキーの飛躍があったことを忘れてはならないと思う。

 

★この88年当時、ジェットスキーの販売はどんな規模だったのか?

当初は、孫会社KAT で年間2~300台でスタートした国内のジェットスキーだが、86年にはジェットスキー専門店を立ち上げ、JJSBAのレース展開に専念したこともあって、86年に立てた目標3000台は、88年には達成するという躍進ぶりだったのである。

年間300台でも、何とかペイしていた販売会社がその規模が10倍になれば、どのような経営状況になるのか?

当時のKJSも、ジェットスキー販売店も、すばらしい活気で、89年の10月にはジェットスキのDealer MeetingをアメリカのJS生産拠点リンカーン工場を訪ねて、オマハのホテルで盛大に開催し、レイクハバスの本場のレース観戦をするまでになっていたのである。

そして、それは7万台販売目標に向かって、最盛期の90年代に入っていくのである

 

2018年12月17日

10年ぶりの 旧友たちの再会

投稿者 : rfuruya

 ★東京の村島邦彦さんから「12月15日芦屋駅の改札口でお待ちします。竹内も参ります」というメールを頂いていて、昨日はその5時少し前に、JR芦屋駅まで出向いたのである。

村島邦彦さんとは、現役時代からもう30年以上のお付き合いなのである。

ジェットスキーからの出会いだったと思うが、確か二輪車新聞の衛藤誠さんの大学の後輩だとかで、ご紹介を頂いたのがそのスタートなのである。

今は『インターナショナルトレーデイングムラシマ』の経営をなさっているが、かってのカワサキの『機能別ARK政策』の唯一の生き残りだと言えるかもしれない『私の理解者』なのである。

そんなことで関東地区のNPO The Good Times の統括責任者をお願いしているし、『二輪文化を伝える会 https://2rin-tsutaeru.net/  の総括者としてもいろいろお世話になったりしているのである。

この二輪文化を伝える会も、ほぼ6年になろうとしているが、ご覧になればお解り頂けると思うが、今では日本の二輪文化では、一番豊富な写真やデーターが蓄積されていて、どなたでも簡単にご覧になれるという点では、メーカーさんでもなかなかこのレベルには追随できていないと思われるのである。

ホントか?と思われる方はリンクをクリックされると一目瞭然なのである。

 

そんな仲なので、それ以上詳しいことはお聞きせずに、ただ5時に芦屋駅の改札まで行くと、ばったりと神戸市の藤田修司さんにお会いして、『なぜここに?』とお聞きしたら『村島さんに誘われて・・』ということでこんな4人の会合となったのである。

 

 

★一瞬、『なぜ?村島さんと藤田さんが繋がってるのか?』と思ったりしたのだが、

2008年5月31日と6月1日の2日間、当時藤田さんが担当されていた神戸フルーツフラワーパークで、ミニSLのイベントがあったのだが、その時園内のプールで村島・竹内組が 船の模型の走行会を同時開催などしたご縁なのである。

 

 

その後も、藤田修司さんとは村島さんは東京で、竹内さんはタイで、私は藤田さんがハーレーに乗っておられるバイクユーザーなので、三木にも遊びに来られたり、樋渡啓祐さんが神戸に来られた時などご一緒したりはしたのだが、4人が揃ってお会いしたのは2008年以来、まさに10年ぶりだったのである

 

★ところで、村島さんは今回、神戸にどんな用件でお越しになったのか?

とお聞きしたら、神戸海洋博物館に お持ちになっていた船を寄贈するために来られたのだとか。

その寄贈先が神戸海洋博物館だというので、どんな船かと思って写真を見せて頂いたら、こんなに立派な船で、流石なのである。

 

 

 

今度、カワサキワールドに行ったら、是非実物を見てみたいものである。

ところで、神戸海洋博物館は、いまではカワサキワールドと一緒に運営されているのだが、そのカワサキワールドを創られたのは、当時の川重社長の田崎雅元さんなのである。

ホントにいろいろ繋がるもので、もう10年も続いている『ミニSLのイベント開催をメリケンパークでやりたい』と福井昇くんと一緒に当時川重会長をされていた田崎さんを訪ねたら、翌日に神戸副市長に繋いで頂いたのだが、副市長さんから『メリケン・パークでやる前に一度、神戸フルーツフラワーパークで開催して頂けないか』と頼まれての2008年6月開催だったのである。

これが今はメリケンパークで、10年も続いての恒例イベントになっている第1回目のスタートで、テレビ放映などもあって大変な賑わいだったのである。

そして、そこで藤田修司さんにお会いして、10年経った今もこうして親しくお付き合いができているのである。

 

★私自身は、何故かいろんな方たちと自然に仲良く繋がってしまうのだが、昨日の4人の中で一番解っていないのはカワ販におられたという竹内雄三さんなのである

昨日いろいろお聞きしてると当時のカワ販の南昌吾さんなどの話も出るので、ホントに身近におられたのに、現役時代は全く記憶がないのは不思議なことである。

竹内さんは、村島さんとは船の模型繋がりのようなのだが、神戸海洋博物館に寄贈されるような本格的な船の模型をお持ちのレベルなので、私などから見たらプロのレベルかなと思うのである。

昨日、ご馳走になった芦屋の近くの小料理屋さん「すず喜」は、竹内さんのご紹介のお店だったのだが、

 

 

 

 

 

 

 

なかなか立派な料理が、次から次に出て、こんな楽しい時間を過ごしたのである。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm34327123

 

動画の中には、もっといろいろ写っていて、すっかりご馳走になって戻ってきたのである。

もうクリスマスも近いが、今年のクリスマス・プレゼントのような楽しい3時間だったのである。

 

2018年12月11日

ゴルフ 雑感

投稿者 : rfuruya

★ 私がゴルフを始めたのは43歳の頃だったから、そんなに早くはなかったのだが、やりかけてからは結構熱中したものだから、その進歩も早くて確か4年目ぐらいには播磨カントリーのハンデイ10にはなったのである。

 私自身はどうもハンデイのシングルなどはあまり興味がなくて、それ以降は月例などの出場も止めてしまったのでオフィシャルはシングルにはならなかったが、70台で回ることもそんなに珍しくなかったので、そこそこの実力であったのは間違いない。

家にはいっぱい優勝カップが残っている。

そんな中でも、この企画と営業のメンバーのコンペ『企営会の優勝カップ』は当時の企画室長堀川運平さんが贈呈された純銀製で、そのコンペは15回まで続いたのだが、毎回優勝者が変わって、その第7回に優勝した私が最終戦の取り切り戦でも再び優勝したので今は我が家にそのカップはあるのである。

数あるカップでもひときわ立派な唯一の純銀製のカップである。

 

 

第1回の優勝者が田崎雅元さんで、当時の懐かしい錚々たるお名前が14名並んでいるという値打ちのカップなのである。

 

★そんな私のゴルフ歴で、現役最後の2年間が札幌だったので、その当時は年に40回近くやっていたのだが、昨今は年4・5回になってしまっているのである。

ドライバーなど、そんなに飛距離が落ちたとも思わないのだが、寄せとパターがめちゃめちゃで100を超えたりすることもあるような状態なのである。

来年は、86歳になるので、もう少しちゃんとやって何とか『エイジシュート』でも狙いたいと気分なのだが、殆ど練習もしないぶっつけ本番ではダメなのは当たり前かも知れない。

然し『グロス86』などそんなにいいスコアでもないという意識だけは未だに残っていて、ちょっと練習でもすれば可能性はあると思っているのだが、そのために練習に行く時間は『勿体ないな』と思ってしまうのである。

家で、素振りぐらいで何とかならないかと勝手なことを思っているのである。

 

★昨日、ネットを見ていたら、こんなのに出会ったのである。

 

 

筋力は低下などしていないと思っているので、中を見てみると、

こんな記事に出会ったのである。

 

 

この腕の使い方は、自然に『肩が入っていいな』と直感でそう思った。腕をひねるだけで左肩が自然に入るはずである。

もう一つ『左腕をたたまずに伸ばす』とある。 これはどうもわかりにくいが、家で素振りでもしてみるかと思いだしているのである。

若い頃、野球をしてたので、スイングについての理屈は『何となく解る』のである。

 

いずれにしても、次回のゴルフは来年の4月だから、それまでの冬の間に庭で『素振り』でもしてみるか、などと思っている。

果たして、どんなことになるのだろうか?

 

カワサキジェットスキー物語 6

投稿者 : rfuruya
★ひょんなことで始めた『カワサキジェットスキー物語』だが、何となく続きそうな雰囲気になってきた。

今まで何度も繰り返し書いてきたように、ジェットスキーはカワサキにとって最初から正規の製品としてスタートしたわけではなくて、アメリカ市場向けの独特の生まれ方をしているので、当時のことを解っている人は、カワサキの中にも限られていて、特に最初は全く無関係であった『単車事業本部』には、正規の資料も残っていなくて、数人の思惑で動き出したプロジェクトなのである。

おまけに、当時は世界初の商品で、商品名として『ジェットスキー』はあったのだが、一般名がなかったので国会で『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりした『嘘のようなホントの話』も存在するのである。

さらに言えば、カワサキのなかにジェットスキーの遊びのプロなど存在しなかったので、社外の方たちの協力で『ジェットスキーは育っていった』のは事実だし、特に『レースの世界』では、アメリカではJJSBA、日本では当時の西武自動車関連の人たちや、ジェットスキーで遊んでた人たち、そんな人たちが、ジェットスキーを育てていったと言って過言ではないのである。

この話に火をつけた元川崎重工社長の田崎雅元さんは、当時の数少ないカワサキとしてはジェットスキーに乗れたライダーとして、私に『いろんなデーター』を供給頂いたのだが、このほかに、『福井昇くん』が当時のことを時系列に纏めてくれたりしたので、『何とか大丈夫かな?』と思ってスタートしたのである。

 

★そんなところに、これはまた強力な助っ人が現れて、当時の写真など、いろいろ送って頂いているので、今回はその方『松口久美子さん』について、送って頂いた写真の一部などを使ってご紹介したいと思っている。

 

 

彼女はジェットスキーの全日本チャンピオンである。

私は、レースの世界にはいろいろと関係があって、二輪・四輪などチャンピオンはいっぱい知ってるが、彼女の実力は飛び抜けていたのである。

ジェットスキーに乗り出したきっかけは? という私の質問に、このように答えてくれている。

井村 雅代コーチのもとオリンピック種目採用を目指しシンクロナイズドスイミングの練習に励んでいましたが、高校1年夏頃、練習に耐え切れず辞めてしまいました。
その頃、姉と一緒にジェットスキーに乗る機会があり楽しいし、試合もある。「日本人がワールドカップに出場したらしいという情報を聞きつけ、シンクロ時代を思い出し「やはり何でもいいから世界に通用する人間になりたい。世界の舞台に出てみたい」と考えジェットスキーなら可能性があるなと思い乗り始めました

 

私に送ってくれた彼女の実績である。

アメリカでも、ご活躍だったようだが、国内のレースで、松口さんが優勝しなかったレースなど、私は見たことがなかったのである。

 

★当時の国内の販売網や、JJSBAの協会設立などには、カワサキだけでなく、むしろ西武自動車やいろんな方々の協力があって初めて、ジェットスキーがこの世の中で『カワサキの事業』として成立していったのだと思っている。

この写真は平成元年(1989)というので、少し軌道に乗り出したころだが、当時のジェットスキーに関わったカワサキのメンバー(後列)と 当時のJJSBA初代会長をされていた苧野豊秋さんを囲んでJJSBAの関係者とそのライダーたちなのである。

カワサキ側のメンバーは左から。天野・武本・安藤・古谷・鶴谷一番右がどなたかな? 懐かしいメンバーたちである。

と書いてたら、高原篤さんが『黒田さんではないですか?』とFacebookのコメントで、確かに黒田さんである。

 

 

男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰し日頃の協力に感謝した会だったようである。

左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手・小河選手・苧野さん・松口久美子さん・前田選手・斎藤選手・レース運営レースディレクターの日高さん

 特にJJSBAの立ち上がり時点では、西武自動車時代からの上田さんと日高さんには本当にお世話になったのである。

 

★こちらは1年後、JJSBA会長は2代目の石井さんになっている。

 

 

平成2年2月21日KHI懇親会左からレース運営レースディレクターの日高さん・飛野選手・松口選手(弟)・金森選手・石井さん・天満選手・松口・伴選手レース運営代表の上田さん  との説明付きである。

 

前年度の写真に金森稔君なぜいないのかな? と思ったりしたのだが、この時には居る。 世界チャンピオン金森稔くんも若いな。

 

世界チャンピオン金森稔くんについても、思い出いっぱいなのである。

彼を大阪の月木レーシングから、カワサキに引っ張ってきたのは、平井稔男さんである。二輪のライダーからジェットスキーに転身して一躍、実力を発揮し世界の頂点に登ったのである。

今はアメリカのKMCにいる。

これは数年前アメリカの月木さんの娘婿さんがやってたお鮨屋さんでの私と金森君である。

 

 

この時代、もう一人忘れてはいけない人がいる。

大南勝也さん、今もPWCの業界に関わっているとは思うが、カワサキも大いにお世話になったのである。

 

これは、松口久美子さんがアメリカにデビューしたころ、繋いでくれたのが大南勝也さんだったようである。

こんなKMCでの写真も、松口さんが送ってくれたのである。

 

 

大南勝也さんと私のツーショット、こんな写真もある。

小島松久・吉村太一さんのマウンテンライダース50周年記念パーテイー』に招かれた時に偶然お会いしたのである。

私の80歳の誕生日 なぜ覚えているのか?

 

誰かが『私の80歳の誕生日』と言ってくれたようで、太一ちゃんが気を遣ってくれたのである。

小島松久さんから、壇上でこんな花束を頂いたのである。

   

 

★特に、ジェットスキーには関係はないのだが、いろんな人たちと繋がって、そんな人たちのお蔭で『今のカワサキがある』ことを忘れてはいけないと思うのである。

ジェットスキーは、いまどんあ状況なのか、詳しいことは解っていないのだが、こんな物語をアップできるのも、昔の仲間たちがいろいろと応援してくれるので、何とか昔を思い出すことができているのである。

カワサキのジェットスキーの創生期の中心になった人は、何と言っても苧野豊秋さんと鶴谷将俊さんである。

松口久美子さんが当時の貴重な写真を送って頂いたので、いろんなことが思い出せたのである。

 

★ 突然、こんな写真だが、Facebook の私の記事に、突然『いいね』を下さった。

トモダチ申請したら、すぐ繋がったのである。

ひょっとしたら、ジェットスキー界で有名人かも知れない?

Brenda Burns Chambers さん、 松口久美子さんとも確か、繋がっていたのである。

こちらも大変な有名人である。これも松口さんから教えて頂いたので、また次回にでも・・・

 

Brenda Burns Chambers さん

  

 

  次回は、松口さんが写真を送って下さったので、

  88年のソウルオリンピック開会式に参加した時のお話などをと思っている。

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