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2018年12月17日

10年ぶりの 旧友たちの再会

投稿者 : rfuruya

 ★東京の村島邦彦さんから「12月15日芦屋駅の改札口でお待ちします。竹内も参ります」というメールを頂いていて、昨日はその5時少し前に、JR芦屋駅まで出向いたのである。

村島邦彦さんとは、現役時代からもう30年以上のお付き合いなのである。

ジェットスキーからの出会いだったと思うが、確か二輪車新聞の衛藤誠さんの大学の後輩だとかで、ご紹介を頂いたのがそのスタートなのである。

今は『インターナショナルトレーデイングムラシマ』の経営をなさっているが、かってのカワサキの『機能別ARK政策』の唯一の生き残りだと言えるかもしれない『私の理解者』なのである。

そんなことで関東地区のNPO The Good Times の統括責任者をお願いしているし、『二輪文化を伝える会 https://2rin-tsutaeru.net/  の総括者としてもいろいろお世話になったりしているのである。

この二輪文化を伝える会も、ほぼ6年になろうとしているが、ご覧になればお解り頂けると思うが、今では日本の二輪文化では、一番豊富な写真やデーターが蓄積されていて、どなたでも簡単にご覧になれるという点では、メーカーさんでもなかなかこのレベルには追随できていないと思われるのである。

ホントか?と思われる方はリンクをクリックされると一目瞭然なのである。

 

そんな仲なので、それ以上詳しいことはお聞きせずに、ただ5時に芦屋駅の改札まで行くと、ばったりと神戸市の藤田修司さんにお会いして、『なぜここに?』とお聞きしたら『村島さんに誘われて・・』ということでこんな4人の会合となったのである。

 

 

★一瞬、『なぜ?村島さんと藤田さんが繋がってるのか?』と思ったりしたのだが、

2008年5月31日と6月1日の2日間、当時藤田さんが担当されていた神戸フルーツフラワーパークで、ミニSLのイベントがあったのだが、その時園内のプールで村島・竹内組が 船の模型の走行会を同時開催などしたご縁なのである。

 

 

その後も、藤田修司さんとは村島さんは東京で、竹内さんはタイで、私は藤田さんがハーレーに乗っておられるバイクユーザーなので、三木にも遊びに来られたり、樋渡啓祐さんが神戸に来られた時などご一緒したりはしたのだが、4人が揃ってお会いしたのは2008年以来、まさに10年ぶりだったのである

 

★ところで、村島さんは今回、神戸にどんな用件でお越しになったのか?

とお聞きしたら、神戸海洋博物館に お持ちになっていた船を寄贈するために来られたのだとか。

その寄贈先が神戸海洋博物館だというので、どんな船かと思って写真を見せて頂いたら、こんなに立派な船で、流石なのである。

 

 

 

今度、カワサキワールドに行ったら、是非実物を見てみたいものである。

ところで、神戸海洋博物館は、いまではカワサキワールドと一緒に運営されているのだが、そのカワサキワールドを創られたのは、当時の川重社長の田崎雅元さんなのである。

ホントにいろいろ繋がるもので、もう10年も続いている『ミニSLのイベント開催をメリケンパークでやりたい』と福井昇くんと一緒に当時川重会長をされていた田崎さんを訪ねたら、翌日に神戸副市長に繋いで頂いたのだが、副市長さんから『メリケン・パークでやる前に一度、神戸フルーツフラワーパークで開催して頂けないか』と頼まれての2008年6月開催だったのである。

これが今はメリケンパークで、10年も続いての恒例イベントになっている第1回目のスタートで、テレビ放映などもあって大変な賑わいだったのである。

そして、そこで藤田修司さんにお会いして、10年経った今もこうして親しくお付き合いができているのである。

 

★私自身は、何故かいろんな方たちと自然に仲良く繋がってしまうのだが、昨日の4人の中で一番解っていないのはカワ販におられたという竹内雄三さんなのである

昨日いろいろお聞きしてると当時のカワ販の南昌吾さんなどの話も出るので、ホントに身近におられたのに、現役時代は全く記憶がないのは不思議なことである。

竹内さんは、村島さんとは船の模型繋がりのようなのだが、神戸海洋博物館に寄贈されるような本格的な船の模型をお持ちのレベルなので、私などから見たらプロのレベルかなと思うのである。

昨日、ご馳走になった芦屋の近くの小料理屋さん「すず喜」は、竹内さんのご紹介のお店だったのだが、

 

 

 

 

 

 

 

なかなか立派な料理が、次から次に出て、こんな楽しい時間を過ごしたのである。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm34327123

 

動画の中には、もっといろいろ写っていて、すっかりご馳走になって戻ってきたのである。

もうクリスマスも近いが、今年のクリスマス・プレゼントのような楽しい3時間だったのである。

 

2018年12月11日

ゴルフ 雑感

投稿者 : rfuruya

★ 私がゴルフを始めたのは43歳の頃だったから、そんなに早くはなかったのだが、やりかけてからは結構熱中したものだから、その進歩も早くて確か4年目ぐらいには播磨カントリーのハンデイ10にはなったのである。

 私自身はどうもハンデイのシングルなどはあまり興味がなくて、それ以降は月例などの出場も止めてしまったのでオフィシャルはシングルにはならなかったが、70台で回ることもそんなに珍しくなかったので、そこそこの実力であったのは間違いない。

家にはいっぱい優勝カップが残っている。

そんな中でも、この企画と営業のメンバーのコンペ『企営会の優勝カップ』は当時の企画室長堀川運平さんが贈呈された純銀製で、そのコンペは15回まで続いたのだが、毎回優勝者が変わって、その第7回に優勝した私が最終戦の取り切り戦でも再び優勝したので今は我が家にそのカップはあるのである。

数あるカップでもひときわ立派な唯一の純銀製のカップである。

 

 

第1回の優勝者が田崎雅元さんで、当時の懐かしい錚々たるお名前が14名並んでいるという値打ちのカップなのである。

 

★そんな私のゴルフ歴で、現役最後の2年間が札幌だったので、その当時は年に40回近くやっていたのだが、昨今は年4・5回になってしまっているのである。

ドライバーなど、そんなに飛距離が落ちたとも思わないのだが、寄せとパターがめちゃめちゃで100を超えたりすることもあるような状態なのである。

来年は、86歳になるので、もう少しちゃんとやって何とか『エイジシュート』でも狙いたいと気分なのだが、殆ど練習もしないぶっつけ本番ではダメなのは当たり前かも知れない。

然し『グロス86』などそんなにいいスコアでもないという意識だけは未だに残っていて、ちょっと練習でもすれば可能性はあると思っているのだが、そのために練習に行く時間は『勿体ないな』と思ってしまうのである。

家で、素振りぐらいで何とかならないかと勝手なことを思っているのである。

 

★昨日、ネットを見ていたら、こんなのに出会ったのである。

 

 

筋力は低下などしていないと思っているので、中を見てみると、

こんな記事に出会ったのである。

 

 

この腕の使い方は、自然に『肩が入っていいな』と直感でそう思った。腕をひねるだけで左肩が自然に入るはずである。

もう一つ『左腕をたたまずに伸ばす』とある。 これはどうもわかりにくいが、家で素振りでもしてみるかと思いだしているのである。

若い頃、野球をしてたので、スイングについての理屈は『何となく解る』のである。

 

いずれにしても、次回のゴルフは来年の4月だから、それまでの冬の間に庭で『素振り』でもしてみるか、などと思っている。

果たして、どんなことになるのだろうか?

 

カワサキジェットスキー物語 6

投稿者 : rfuruya
★ひょんなことで始めた『カワサキジェットスキー物語』だが、何となく続きそうな雰囲気になってきた。

今まで何度も繰り返し書いてきたように、ジェットスキーはカワサキにとって最初から正規の製品としてスタートしたわけではなくて、アメリカ市場向けの独特の生まれ方をしているので、当時のことを解っている人は、カワサキの中にも限られていて、特に最初は全く無関係であった『単車事業本部』には、正規の資料も残っていなくて、数人の思惑で動き出したプロジェクトなのである。

おまけに、当時は世界初の商品で、商品名として『ジェットスキー』はあったのだが、一般名がなかったので国会で『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりした『嘘のようなホントの話』も存在するのである。

さらに言えば、カワサキのなかにジェットスキーの遊びのプロなど存在しなかったので、社外の方たちの協力で『ジェットスキーは育っていった』のは事実だし、特に『レースの世界』では、アメリカではJJSBA、日本では当時の西武自動車関連の人たちや、ジェットスキーで遊んでた人たち、そんな人たちが、ジェットスキーを育てていったと言って過言ではないのである。

この話に火をつけた元川崎重工社長の田崎雅元さんは、当時の数少ないカワサキとしてはジェットスキーに乗れたライダーとして、私に『いろんなデーター』を供給頂いたのだが、このほかに、『福井昇くん』が当時のことを時系列に纏めてくれたりしたので、『何とか大丈夫かな?』と思ってスタートしたのである。

 

★そんなところに、これはまた強力な助っ人が現れて、当時の写真など、いろいろ送って頂いているので、今回はその方『松口久美子さん』について、送って頂いた写真の一部などを使ってご紹介したいと思っている。

 

 

彼女はジェットスキーの全日本チャンピオンである。

私は、レースの世界にはいろいろと関係があって、二輪・四輪などチャンピオンはいっぱい知ってるが、彼女の実力は飛び抜けていたのである。

ジェットスキーに乗り出したきっかけは? という私の質問に、このように答えてくれている。

井村 雅代コーチのもとオリンピック種目採用を目指しシンクロナイズドスイミングの練習に励んでいましたが、高校1年夏頃、練習に耐え切れず辞めてしまいました。
その頃、姉と一緒にジェットスキーに乗る機会があり楽しいし、試合もある。「日本人がワールドカップに出場したらしいという情報を聞きつけ、シンクロ時代を思い出し「やはり何でもいいから世界に通用する人間になりたい。世界の舞台に出てみたい」と考えジェットスキーなら可能性があるなと思い乗り始めました

 

私に送ってくれた彼女の実績である。

アメリカでも、ご活躍だったようだが、国内のレースで、松口さんが優勝しなかったレースなど、私は見たことがなかったのである。

 

★当時の国内の販売網や、JJSBAの協会設立などには、カワサキだけでなく、むしろ西武自動車やいろんな方々の協力があって初めて、ジェットスキーがこの世の中で『カワサキの事業』として成立していったのだと思っている。

この写真は平成元年(1989)というので、少し軌道に乗り出したころだが、当時のジェットスキーに関わったカワサキのメンバー(後列)と 当時のJJSBA初代会長をされていた苧野豊秋さんを囲んでJJSBAの関係者とそのライダーたちなのである。

カワサキ側のメンバーは左から。天野・武本・安藤・古谷・鶴谷一番右がどなたかな? 懐かしいメンバーたちである。

と書いてたら、高原篤さんが『黒田さんではないですか?』とFacebookのコメントで、確かに黒田さんである。

 

 

男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰し日頃の協力に感謝した会だったようである。

左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手・小河選手・苧野さん・松口久美子さん・前田選手・斎藤選手・レース運営レースディレクターの日高さん

 特にJJSBAの立ち上がり時点では、西武自動車時代からの上田さんと日高さんには本当にお世話になったのである。

 

★こちらは1年後、JJSBA会長は2代目の石井さんになっている。

 

 

平成2年2月21日KHI懇親会左からレース運営レースディレクターの日高さん・飛野選手・松口選手(弟)・金森選手・石井さん・天満選手・松口・伴選手レース運営代表の上田さん  との説明付きである。

 

前年度の写真に金森稔君なぜいないのかな? と思ったりしたのだが、この時には居る。 世界チャンピオン金森稔くんも若いな。

 

世界チャンピオン金森稔くんについても、思い出いっぱいなのである。

彼を大阪の月木レーシングから、カワサキに引っ張ってきたのは、平井稔男さんである。二輪のライダーからジェットスキーに転身して一躍、実力を発揮し世界の頂点に登ったのである。

今はアメリカのKMCにいる。

これは数年前アメリカの月木さんの娘婿さんがやってたお鮨屋さんでの私と金森君である。

 

 

この時代、もう一人忘れてはいけない人がいる。

大南勝也さん、今もPWCの業界に関わっているとは思うが、カワサキも大いにお世話になったのである。

 

これは、松口久美子さんがアメリカにデビューしたころ、繋いでくれたのが大南勝也さんだったようである。

こんなKMCでの写真も、松口さんが送ってくれたのである。

 

 

大南勝也さんと私のツーショット、こんな写真もある。

小島松久・吉村太一さんのマウンテンライダース50周年記念パーテイー』に招かれた時に偶然お会いしたのである。

私の80歳の誕生日 なぜ覚えているのか?

 

誰かが『私の80歳の誕生日』と言ってくれたようで、太一ちゃんが気を遣ってくれたのである。

小島松久さんから、壇上でこんな花束を頂いたのである。

   

 

★特に、ジェットスキーには関係はないのだが、いろんな人たちと繋がって、そんな人たちのお蔭で『今のカワサキがある』ことを忘れてはいけないと思うのである。

ジェットスキーは、いまどんあ状況なのか、詳しいことは解っていないのだが、こんな物語をアップできるのも、昔の仲間たちがいろいろと応援してくれるので、何とか昔を思い出すことができているのである。

カワサキのジェットスキーの創生期の中心になった人は、何と言っても苧野豊秋さんと鶴谷将俊さんである。

松口久美子さんが当時の貴重な写真を送って頂いたので、いろんなことが思い出せたのである。

 

★ 突然、こんな写真だが、Facebook の私の記事に、突然『いいね』を下さった。

トモダチ申請したら、すぐ繋がったのである。

ひょっとしたら、ジェットスキー界で有名人かも知れない?

Brenda Burns Chambers さん、 松口久美子さんとも確か、繋がっていたのである。

こちらも大変な有名人である。これも松口さんから教えて頂いたので、また次回にでも・・・

 

Brenda Burns Chambers さん

  

 

  次回は、松口さんが写真を送って下さったので、

  88年のソウルオリンピック開会式に参加した時のお話などをと思っている。

2018年12月6日

カワサキジェットスキー物語 4

投稿者 : rfuruya
  

★それまで年間5~6000台の販売で推移していたジェットスキーが一挙に20000台を超す実績を上げることになった1983年頃カワサキの二輪事業は、その長い歴史の中でも最大の危機と言っていい大変な時代だったのである。

それまでカワサキの二輪事業を支えてきたアメリカ市場のKMCの経営は、ハーレーダンピング訴訟や、アメリカ市場まで飛び火したホンダ・ヤマハのHY戦争の影響を受けての大打撃に加えて、リンカーン工場で生産していたスノーモービルが暦年の暖冬で在庫過多に陥り、それらの原因が重なってKMCは100億円を超す赤字が続き、それが川崎重工業の連結決算にも影響して無配に陥るなど大変な時期だったのである。

83年7月には当時川重で再建屋と称されていた大庭浩本部長が赴任されて髙橋鐵郎副本部長とのコンビで指揮を取られ、問題のKMCは田﨑雅元さんが、明石側の企画部門にはなど若手部長が担当して、再建を図っていた時期なのである。

 

そんな大変な時期に、ジェットスキーの新製品JS550が登場し、田崎さんがリンカーンの工場生産台数を一気に20000台ベースにまで引き上げ、それが市場で完売するという劇的な変化が、KMCの経営改善も、リンカーン工場の工数改善にも大いに寄与したのである。

Ninja900もアメリカ市場に登場して、これもまた世界的に好評だったので、これはKMCだけでなく、世界の販社も明石の単車事業本部の経営改善にも大いに寄与したのである。

 

この Ninja のネーミングはアメリカサイドからの提案のネーミングだったのだが、当時の明石の事業部サイドの技術部は、忍者というイメージは黒装束で暗いと大反対で、KMCに出張されて『ダメだという大庭本部長』を田﨑さんが『アメリカでは、Ninjaは ゼロゼロセブンのようなカッコいいイメージです』と説得して、初年度は『アメリカ仕様のみ』でそのネーミングNinjaは使われたのである。ヨーロッパ仕様は、Ninja のネーミングは使用されずに、そのネーミングは、GPZ900R だったのである。

Ninja のネーミングの『産みの親は田崎さん』だと言ってもいいのかも知れない。

大庭さんを説得したその場面に私も同席していたので、そんな経緯を知っているのである。

大庭さんは川重の中では『怖いイメージ』で、大庭さんにNOという人は少なかったようだが、当時の単車は田崎さんや私など、結構ズケズケとNOと言ったのだが、大庭さんはかえってそんな単車の雰囲気を楽しんでおられたようで、7月に来られて9月には『単車は思ったより確りしている』と経営会議で仰ったりして、大庭本部長の信頼を数か月で得たのである。

 

★この年、アメリカ市場での急激なジェットスキーの販売増加はあったのだが、この『ジェットスキー』はKMCの製品ではあるのだが、当時の明石の単車事業本部では開発も生産も一切無関係なので、事業本部の経営には一切影響がなく、単にお隣の発動機事業本部がリンカーン工場にエンジンとして出荷しているだけのものだったのである。

そういう状況なので、明石の単車事業本部には、ジェットスキーに関係する人は1人もいない状況だったのだが、何とか『川崎重工業の正規の製品』にしようと動き出したのが、当時の企画室の私の下にいた武本一郎さんなのである。

彼がその決意をしたのは、アメリカ市場でジェットスキーが突如大量に売れ出した84年の夏ごろだったと思うのだが、彼の熱意に動かされて、私も私なりに動き出すのである

当時、日本国内では西武自動車が逆輸入していたジェットスキーを、当時のカワ販の孫会社のKATが細々と売っていてレースなどの動きが出始めたころなのである。私はこの企画室担当の前は、カワ販常務として国内市場を統括していたので、KATのこともよく解っていて、KATの社長も兼務されていた苧野豊秋さんと国内のレース協会を立ち上げるべく、84年11月にKMCに田崎社長を訪ねているのである。その時アメリカのIJSBAに繋いでくれて、IJSBAの承認を得て、翌年国内にもジェットスキーのレース協会JJSBAがスタートするのである。

これはその時のKMCでの写真だが、苧野さんを囲んで、当時の単車事業再建に関わった明石のメンバーもいる懐かしい顔ぶれである。

 

こんな写真もあるが、いずれも田崎さんに送ってもらったものである。

 

★ 川崎重工業としてのジェットスキー事業のスタートは、国内のジェットスキーレース環境の整備から始まったと言ってもいい。

カワサキの二輪事業のスタート時代も『レース運営委員会』から始まっていて、その委員会の営業サイドの長をされてたのが苧野豊秋さんで、その事務局が私、そしてレース職場の担当が若き日の田崎雅元さんだったのである。

二輪も、ジェットスキーも遊びの道具なのだから、『その事業の核のひとつはレース』だと私は信じて疑わなかったのである。

カワサキのジェットスキー事業』の本格的にスタートするためには、まず国内のレース協会、JJSBAの確立が『その第一歩』だと思ったし、この出張で日本のJJSBAが公認され、初代苧野JJSBA会長が実現するのである。

 

★同じ時期に、明石の開発・生産サイドの対策は、武本一郎さんが同期の技術部の百合草三佐雄さんなどと組んで、単車事業本部の開発製品として、ジェットスキーの開発を目論んだのだと思うが、静かに潜航した対策で、表面には何の資料も出ていないのだが、85年2月の単車事業本部の開発計画書には、単車の開発車種と並んで、9番目にこんなJS300 と X-2 という二人乗りのジェットスキーの計画が記載されているのである。

この84年当時と言えば、未だジェットスキーは単車事業本部の製品としては承認されていない時代なので、正規の開発予算などもなかった時代なのだが、この予算については、企画の武本さんが確か生産関連の予算から、捻出したのではなかったかと、これは私の推測なのである。 現実に85年2月には、こんな計画が開発計画書に載ったのである。

 

これが単車事業本部正規の書類の中に、最初に登場した『ジェットスキーの名称』なのである。

この開発会議は、大庭本部長主宰のものだから、85年2月に『川崎重工業のジェットスキー事業』は、正式にスタートを切ったとも言えるのである。

この計画書には『単車で開発・生産する』と明確に書かれているのである。

 

★こんな経緯を経て、ジェットスキーはようやく単車事業部の正規の製品として開発が進められることになるのだが、技術部の開発担当以外には担当者もいないし、この時点ではジェットスキーに乗れる人すらいないのである。

企画室の私と武本一郎さんだけが解っているだけのそんな状況から、この年の8月にはオーストラリアから鶴谷将俊さんが帰国して、企画室でジェットスキーを担当してくれることになるのである。

そこからが、ジェットスキー事業の本格的な動きが始まるのである

 

 

 

2018年11月27日

貴景勝優勝 と Kawasaki Z1100空冷四発

投稿者 : rfuruya

 

★大相撲九州場所 貴景勝 見事な優勝だった。

 貴景勝 兵庫県の芦屋出身である。

Facebook のトモダチの誰かが何かで関係があった』ということだけは覚えていて、応援をしていたのだが、Facebook にこんな写真と共にこのような青木隆さんの記事が飛び込んできたのである。

 

小結貴景勝、初優勝おめでとうございます!

KLGFCのメンバーでもある父親佐藤さんも笑顔でしたね~
優勝パレードが始まりそうKLGFCでは先導出来ませんでしたが、いつか~笑
また、詳細はブログで報告致しますが、何より、数々の試練を乗り越え初優勝!!おめでとうございます!

 

 

貴景勝のお父さん(佐藤さん)が青木隆さんが主宰するKLGFCのメンバーで、熱心なカワサキファンだというのである。

 

 

 

 

KLGFCは、KAWASAKI Z1 FAN CLUB二輪文化を伝える会KSSRなどと共に

NPO The Good Times の団体会員さんで独自の会員組織をお持ちなのである。

 

 

★ 何となく『貴景勝』はだれかと関係あったぐらいは覚えていたのだが、

 それが青木隆さんだとは、なかなか思い出さなかったのである。

 そんなことで、青木隆さんの記事にコメントを入れたら、すぐこんなご返事を頂いたのである。

 

古谷錬太郎

古谷錬太郎 貴景勝誰かが知ってるはずだとずっと思っていたのですが、青木さんでしたか。お父さんテレビに写ってましたね。バイクに乗るのですか?スゴイですね。応援してましたが、優勝ホントにおめでとうございます。
何でもすぐ忘れてしまってダメですね。
青木 隆

青木 隆 古谷さん、佐藤さんは一緒に横浜まで走ったり、岡山、四国まで走ったりと、今も青春してる仲間です。
バイクが壊れてビトーR&Dで修理しまして、今は絶好調のバイクです。
息子さんの活躍を皆で喜びを分かち合ってます
カワサキ繋がりの明石での忘年会を楽しみにしています。
 ここに書かれている『明石での忘年会』とは『Z1会の忘年会』のことで青木隆さんは『Z1会』のメンバーでもある、まさに熱心なカワサキファンなのである。
 LIME GREEN Fan Club とは、Z1100Rのファンが集まるこんなクラブなのである。

 

Kawasaki とも繋がったし、お父さんはNPO The Good Times の会員さんだし、兵庫県出身だし、

貴景勝を 今後も応援したいと思ってます。

初場所も、頑張って下さい。

カワサキジェットスキー物語 2

投稿者 : rfuruya
 

★何となくスタートした『カワサキジェットスキー物語』なのだが、ひょっとしたら結構長く続くかも知れない。

カワサキの二輪関連については、いろいろな記事も多いのだが、ジェットスキーについては、そんなに多くの記事が載っていない。Googleで『カワサキ二輪車の歴史』と『カワサキジェットスキーの歴史』と検索するとその差は歴然なのである。

何故かな?と思うのだが、多分ジェットスキーについては、特にその初期のことなど『語れる人』が極端に少ないからだと思う。

ジェットスキーについて語れる人』と言えば、今回この物語の発起人のような『福井昇・田崎雅元・私』それに具体的にヨーロッパ・国内・JJSBAを創っていった鶴谷将俊さんあたりが発信しない限りいつまで経っても、世の中には出ないのかな?と思ってしまうのである。

今回はひょんなことから『この物語』はスタートするのだが、その核になった3人は『福井昇・田崎雅元・私』なのである。

福井昇さんは。川崎重工業出身だが、川重の職位は単なる一係員だった。田﨑雅元さんは川崎重工業の元社長・会長を務めたトップなのだが、この二人を繋いで、『何かを仕掛ける』のは今回が初めてではなくて、実は2回目なのである。

 

 

今はもうすっかり定着して神戸市と川崎重工の名物イベントになっている『ミニ鉄道フェスタ』だが、このイベントの発起人は、福井昇くんなのである。

その案がなかなかオモシロそうなので、当時川崎重工の会長だった田崎雅元さんに繋いだのが私、川重の会長室を訪ねて最上階の専用レストランで豪華なランチをご馳走になったのが、2008年1月30日のことだから10年程前の話なのだが、鉄道マニアでもある福井昇くんの案を気に入って、翌日1月31日神戸副市長を田崎さんと私の二人で訪ねて『メリケンパークの使用』をお願いして、このプロジェクトは、その年の秋に第一回が立ち上がったのである。

スタートしてから3年程軌道に乗るまでは、私も福井くんも積極的にメンバーの核としてお手伝いしたし、田崎さんも熱心に参加して頂いたのである。

言いだしべーは福井昇くん、イベントとして具体的に軌道に乗せたのは、写真のこの3人なのかも知れない。

一番後ろに乗ってるのは、『500メートルレール』を作ってくれた古橋賢一さんなのである。

 

 

★そんなこともあったのだが、『福井昇・田崎雅元・私』の『トリオでの企画・実行』は今回で2回目なのである。

一係員であった福井昇くんの案でも、『オモシロい』となれば、素直に受けてすぐTOPが動く身の軽さみたいなのが、カワサキの単車の持ち味だし、良さである。ちなみにこの舞台にもなった『カワサキワールド』は田崎さんの現役社長時代の産物なのである。

今回の『カワサキジェットスキー物語』も、田崎さんから私へのメールからのスタートなのだが、私は昨日のうちに『福井昇』くんに繋いで、当時の事柄を時系列に並べて貰ったりして、『これはイケル』というような確かな感触を得たので、スタートしたのである。

田崎さんからは『カワサキジェットスキー物語、面白くなりそうですね』というメッセージを頂いたりしてるので、ホントにオモシロいものに仕上げたいと思っている。

 

★スタートしてから『走りながら考える』これが私のやり方なのである。

今まで殆ど誰も語らなかった『カワサキジェットスキーの物語』それを語ることができる、現存するメンバーは、『福井昇・田崎雅元・私』とヨーロッパ・国内市場とレース関連、JJSBAを先頭に立って引っ張ってくれた鶴谷将俊さんの4人だと言ってもいい。

そんな鶴谷さんの写真、昨日は田崎さんから送って頂いた。

 

 

そんなことで、スタートすることにする。

カワサキの当時の『事業展開のやり方』がこの『ジェットスキーの事業展開』で具現されたと言ってもいい。

それはどんな展開であったのか?

カワサキジェットスキー物語』どんな展開になるのか? 

 ご期待頂いていいと思います。

昨日に続いての投稿だが、以降はもう少しゆっくりしたペースで頑張ってみたいと思っている。

 

カワサキジェットスキー 物語 1

投稿者 : rfuruya

 

★アメリカから戻ってきて以来、毎日田崎雅元さん(元川崎重工業社長)と長文のメールのやり取りが続いている。

私は昭和32年(1957)、田崎さんは昭和33年(1958)当時の川崎航空機の入社で、カワサキの単車事業スタートの頃からの仲間なのである。

それも最初のカワサキのレースに関係したレース仲間だし、明石工場から一番最初にアメリカ市場に渡ったのが田崎さんだし、国内の当時の代理店営業の中に飛び込んだのが私だったのである。

その後もいろいろとご縁があって、私が退職する1999年までずっと仕事上で繋がっていたので、会社でも40年以上のお付き合いだし、今も尚いろいろと繋がっていて、60年以上になろうとしているのである。

お互い80歳代半ばにもなって、昔々のカワサキ単車の想い出を懐かしんでいるのだが、昔話はなかなか楽しいものなのである。

 

中でも、まさに田崎さんと二人のコンビで進めたハーレーのダンピング問題の国内販社構造対策や、二輪事業最大の危機だった80年代、明石の企画とKMCの現地のコンビとして頑張った想い出は特別なもので、大袈裟に言うと若し二人がいなかったら、カワサキの二輪事業も全然違った道を歩いたかも知れないのである。

その殆どは『二輪車』のことなのだが、そんな中での『ジェットスキー』もその一つなのだが、単車と違ってこのジェットスキーの生まれ方は独特で、当時の単車事業本部の中でも、私と田崎さんほか関係者は数人しかいなかったし、そんな事実を語ることができる人も限られているのである。

ジェットスキーの生まれ方』が特異で、それは川崎重工業の製品として生まれたのではなくアメリカ人の発明家ヤコブセンの特許を購入し、そのエンジンは発動機事業部のものを使い設計担当も発動機の人たちなのだが、生産したのはアメリカのKMCのリンカーン工場で、その販売もKMCがアメリカだけで売っていた『継子』のような製品だったのである。これはジェットスキーだけではなくて『スノーモービル』も同じような形でKMCから販売されていたのである。

それ故に当時の単車事業部の明石工場のメンバーは、誰一人ジェットスキーに関係していなかったし、ジェットスキーに乗れる人すらいなかったのである。そんな1982年頃、KMCの社長をしていたのが田崎さんで、当時の単車事業部でジェットスキーにに乗れたのは『田崎さん一人』だったかも知れないのである。

そんな昔話の数々を思い出しながら楽しくやり取りをしていて、これは40代半ばの田崎さんである。

 

   

 

★その頃、私は明石の企画、田崎さんはKMC社長で、別に相談したわけでもないのだが、何とか『ジェットスキーを川崎重工業の正規の製品にしよう』と目論んでいたのが当時の企画部門の武本一郎さん(故人)で、その長をしていたのは私なのである。そんなこともあって当時のことを一番具体的に知っているのは『田崎さんと私』でそのあたりの昔話は二人にしかできないオモシロい物語なのである。

ただ、当時は単車事業部の正規の製品ではないので、事業本部の中にも正規の書類などが残ってなくて『記憶』だけで追っかけてるのだが、当時発動機でエンジン開発担当であった私と同期の藤川哲三さんやその下にいた福井昇さんなどにも、いろいろ記録を教えて貰おうとしているのである。

福井昇さんはジェットスキー関係者の中でも超有名人だからご存じの方も多いとは思うが、彼は私が『ジェットスキーをカワサキの正規製品にしよう』と企画で画策した時に、藤川哲三さんに頼んで発動機から単車企画に貰い受けて、それ以来私などと一緒に、ジェットスキーのヨーロッパや国内市場の立ち上げに尽力してくれたし、ジェットスキーの国内販売網を専門店で創ろうとした時には、川重を辞めて実質1号店として正規販売店になってくれたり、その後のJJSBAのレース関連でもいろいろ手伝ってくれたのである。

福井昇さんとはFacebook で今も繋がっているので、幾つかの質問を投げかけているのだが、早速こんな返事が来たので、この際私や田崎さんや福井さんなどにしか解っていない『カワサキのジェットスキー物語』を纏めてみようかなと思っているのである。

御元気そうで何よりです。 JS ストーリーの件は了解を致しました。後日、PCから詳細を御報告させて頂きます。 古谷さんの、あの時代に対するhistoryが凄く懐かしく、又何処かに熱くなるもの目覚めさせてくれます。』

 

 

★ そんなジェットスキーの成り立ちなのだが、1982年に従来5000台ぐらいで推移していたジェットスキーが一躍2万台の大台に乗って、当時のKMCの再建計画でも大いにプラスになったり、その後単車事業部での正規製品にするためのきっかけになったのだが、2万台を一挙に売るためには2万台を造らないと売る製品がないのだが、これは当時のリンカーン工場の経営を支えるために、田﨑さんが打った大博打だったようで、なぜ一挙に2万台も売れたのか? これは私も今回初めて知ったのである。

ごく最近、田崎さんが私に送ってくれたメールにそのことが書かれている。原文のままご紹介する。

 

もう不必用な工場とまで言われているリンカーン工場、 孤軍奮闘の佐伯さんの姿を想い浮かべながら、再建のシナリオには無かった、私の判断で実行した対策が ジェットスキー販売の一挙格上げだった。 2,000隻/年 規模の販売計画を、一挙に 20,000隻/年に引き上げた。

山田さんから無謀であるとブレーキが、かけられたが、このプランを強行し、翌年に完売するという成果をあげ、以後ジェットスキーはリンカーン工場の製品でもあり操業度アップに大きく貢献し、KMCの主力商品となった。大博打のように見えるが、私のアンテナにはいろいろな情報がキャッチされていた。その一つが、地方紙を含む全米のマスコミ情報サービスである。 わずかでも KAWASAKI と表現された記事、ニュースは 毎日集計され、社長室に届けられる事になっていたが、ジェットスキーに関するものが日増しに増加していた。また内容は、イベントに使われたり レース活動も活発になり、 特に、市長 議員といった人達がイベントで自ら操縦して、自分の存在をアピールする姿がめについた。

さあ、この商品は 河川の暴走族ではなく、社会との共生が認知されつつある。 ママが主人や息子に、「危険だから買っては駄目よ!」 というネガティブなプレッシャーも減少傾向、 時は今 と一勝負に出て成功した事例である。

但し、二人乗り安定型の投入が遅れた事には大きな責任があり、私の失敗事例である。 試作品のジェットメイトを試走して、遊園地型で全く面白くないとその後の開発にネガティブな対応をしてしまった。 購買動機に「お前も 犬も のせてやるよ!」が必要だったのかも?

 

 

★ここに出てくる山田さんとは、当時の川重山田副社長のことであり、佐伯さんとは後、田崎さんが川重社長の時、副社長として支えた佐伯武彦さんのことである。

スノーモービルはその後撤退することになるのだが、それにも田崎さんは絡んでいて、このような感想を寄せられた。

その一部をご紹介する。

 

北米では暖冬が続き、販売が伸びずに在庫がたまる一方のスノーモービルが問題になり、この事業から撤退するべきだという意見は、KHI本社部門を中心に単車事業部の中でも数年間繰り返されていて、私がKMC社長として渡米する時には、これは決定事項になっていた。

 この事業の生まれ方は明石の単車事業部としては「実の子」とは言えない異常な生まれ方をしていた。ヤマハのエンジンを搭載してスノーモービル事業を展開していたカナダのスノージェット社からKMCが事業を買い取り、ミネソタ州のシャコピーに開発センターを設け、リンカーン工場で生産し、KMCが販売する、という仕組みで、明石工場の立場は発動機事業部がエンジン のサプライヤーとしてのみ関与するという形であった。

単車事業部としては、製品企画、設計開発、生産技術、品質保証、アフターサビス等の関与なしに生まれた製品であり、関心のない人がほとんどであった。図面はインチサイズ、明石には図面、部品表、取扱い説明書、etc 何もなかった。

後に、この反省から米国で生まれたジェットスキー、四輪バギィー車などは全て単車事業部の仕組みの中で「実の子」として育てていくことになる。「販売する製品には十分な係わりを持ち愛情を持って育てなければならない。」これも私の信念になった。ジェットスキーもバギー車もチャンスがあれば自分で試乗して愛情を育むよう心掛けた。

 

★昔の資料の整理をしながら、田﨑さんや福井さんの資料も入れながら、他の方には書けない『カワサキのジェットスキー物語』を書いてみたいなと思っているのである。

 

 

2018年11月17日

歩行者優先 『待つ』ということ  雑感

投稿者 : rfuruya
 

★この1ヶ月半ほど車社会のアメリカで暮らしていて『歩行者優先』ということについて、いろいろと考える機会となった。

日本でも『歩行者優先』という言葉はよく聞くし、『横断歩道での歩行者優先』は当然の交通ルールなのだが、LAFの調査によると90%以上のクルマが日本では守っていないようである。

 

 

 

なぜ、『守られないのか』という調査もあって、その『守らない理由』をみるかぎり、『歩行者優先』どころか『クルマ優先』『自己優先』が明らかなのである。

最近は海外からの観光客も多いし、オリンピックももうすぐである。日本ももう少し国際水準に近づくべきだろう。

 

この『歩行者優先』や『横断歩道での交通ルール』もそうだが、交通ルール以外でも日本の場合は、『決めても守らない』場合が多いのはなぜなのだろう。 違反金の額をアメリカのようにべらぼうに高くするのもいいかも知れない。

アメリカの場合は、『ルールも決めたら守る』というのが身に付いていて、ホントに『歩行者優先』『住宅街での交差点一旦停止』も100%守られているし、他の交通ルールも、結構ちゃんと守られているのである。

モール内の駐車場などでも、人が歩いていたら、車は完全に停止する。当然のように車は止まるから、逆に『人は悠々と歩いている』のである。日本のように車が止まってくれたら、歩行者が小走りになったり手を挙げてありがとうなどのゼスチャーをするようなことは殆どない。

歩行者優先は、歩行者の当然の権利というような感じで、決して急いだりもせずに悠々と歩いている。

モールの中には横断歩道らしきものがあるところもあるが、歩行者はそんなことにはお構いなくどこでも、斜めにでも横断したりするのだが、クルマはどんな状態でも『歩行者優先』を守っていてクラクションを鳴らす車などは皆無なのである。

 

★住宅街の道路も日本と違って4車線で、こんな住宅街の道路には信号はなく交差点は一旦停止で、その交差点に先に止まった車から順に優先発車なのである。横から出てきた車も先に交差点に入っていたらその車が優先なのである。

そんな交差点でも学校が終わった時などは歩行者がいっぱいになるのだが、その時には間違いなく『歩行者優先』で長い車の列ができて大変だが、ちゃんと待っているのは見事である。

 

 

日本人と違って『せっかちではない』というか『待つ』ということに決して『イライラ感』などを現さないのである。『待ちの文化』とでも言ってもいい。車だけでなくスーパーのレジなどでも、全くイライラ感がない。

確かに『歩行者優先』や『スーパーのレジ』などで、少々待ったところで大したことではないのは間違いないのだが、本当に『待つ』ということに寛大なのである。

 

★ 日本人もあまり『イライラ』せずに、もう少し『待つ』ということに寛大になればいいのでは、とホントにそう思うようになった。

この数年アメリカに行くようになってから、私は日本に戻ってからも『クルマの運転』では先を急いだりしなくなったのである。

車間距離も十分とって横から車が入れるようにしているし、兎に角ゆっくり走っているのだが目的地に着く時間などは、急いでも急がなくても2分も違ったりはしないのである。2分で車はどれくらい走るのか試されたらいい、相当な距離を走るのである。信号などが多い日本の道で、急いでも一つ先の信号でひっかかたりして、そんなに時間は変わらないものである。

急いでいるのならそれだけ早くスタートすればいい』と思うようになっている。

ただ、そんなに待つことに『イライラ』しなくなった私だが、ロスの空港の出国検査だけは『何とかならないかな』と思ってしまうのである。確かにテロの危険もあるが靴も脱いでの身体検査で、今回は長い列で検査を受けるまでに1時間以上は優に掛ったのである。

然し、みんな黙ってじっと待っているのが、不思議である。

普通国際線に乗る場合には1時間以上前に空港に行くのは当然だとは思うが、ロスの空港の『よくある質問』を見ると『国際線に乗る場合は少なくとも3時間前には空港に着くようにしてください』などと書いてある。

 

待つ』ことをいとわないアメリカだが、もう少し何とかならないのかなと思ってしまうのである。

比較すると、羽田空港はめちゃめちゃ『スムース』なのである。

2018年11月11日

レース仲間たち

投稿者 : rfuruya

 

★現役時代、カワサキで二輪の仕事をさせて頂いたのは誠にラッキーであった。

川崎重工業の中でも、二輪事業だけは飛びぬけてオモシロい。

それは受注産業ではなくて民需であり、それも末端のユーザーを相手にする量産事業であり、同じ量産事業でもテレビや洗濯機と違って、ユーザーがそれに乗って世の中を走り回っているのである。だから販売したユーザーと接触できるし、4輪と違って遊びが中心だから、お客さんの層がオモシロいのである

特にカワサキの場合は、お客さんともバイクを売ってくれる販売店とも『仲間意識』が極端に強かったので、独特のカワサキイメージが出来上がっているのである。

そんな二輪業界の中でも、レースの世界と若い頃から関係があって繋がったのは私にとって誠に好運だったのである。

50年も前の若い頃のレース仲間はそんなに大したこともない単なるライダーだったのに、みんなそれぞれ立派になって、日本を代表する、もっと言えば世界でも名の通ったライダーに成長したのだが、例えば星野一義でも、金谷秀夫でも昔の20歳の頃と同じように付き合えたし、その先輩格の山本隆さんなどとは、レース以外でもいろいろ関係があったりするのでホントにオモシロいのである。

そんなレースの世界で、私と同い年の平井稔男さんは、また別格のユニークさで、85歳の今でも『平井道場』と称してFacebook でもこんな記事を連続してアップしているのである。

https://www.facebook.com/groups/110654005951435/?tn-str=*F

 

 

いま、平井さんが連載で書こうとしているのは、11月9日付で発刊された二輪車新聞にこのように紹介されている、

カワサキモトクロスOB有志の会』のことなのである。

この記事を書かれた二輪車新聞の衛藤誠さんもある意味『カワサキ仲間』で今も尚現役記者だが、カワサキのレース緒戦『青野が原モトクロス』の頃も若き二輪車新聞記者さんだったのである。

 

私はアメリカに行っていて出席できなかったが、カワサキのレースのスタート時期は、この記事にも出ている大槻幸雄さんなどと共にレースに関わっていたし、世界の金谷と言われた金谷秀夫が初めて鈴鹿を走ったのは大槻幸雄さんがカワサキで初めてレース監督をされた『鈴鹿6時間アマチュア耐久レース』なのである。世界の金谷もその時はアマチュアだったのである。

 

そんなことで、衛藤さんとも平井さんとも私は今でも密接に繋がっていて、アメリカから戻ってきたら早速、お二人から電話を頂いたりしたのである。

特に平井さんは『平井道場便り』の続編を書くので、私に当時の写真を送れと仰るので、昨日こんな写真を送っているのである。

 

 

右から3番目が山本隆、左側4人は未だ未契約の若手だが、その4人目が星野一義なのである。

 

  

 

本田宗一郎さんと一緒に写っているのは、兵庫メグロの西海社長、私も平井さんもお世話になった。カワサキのレースを実質始めたのは西海社長、ご本人は元オートレースのプロ選手なのである。西海さんがいなかったらカワサキのレースもまた違った形になっていたのは間違いない。 この青野ヶ原のレースの仕掛け人でもある。

 

 

これはカワサキのレース25周年記念の会合を私が主宰したのだが、その時集まってくれたOBライダーと当時の現役ライダーたちである。みんな有名ライダーだけど、何人くらいお解りですか?

詳しくはまた、平井さんが書かれると思うのでこのくらいで。

2018年11月7日

みかんとメダカ

投稿者 : rfuruya

★1ヶ月半、アメリカで自由に遊んできたのだが、娘がこのようにFacebook にアップして、私はそれをツイッターでツイートした。

 

今朝5時に羽田に着いて、昼前にはもう三木の自宅の戻っていた。

昨夜はLAXの空港で、娘夫婦に見送って貰って、いま三木でもうブログを書いているのはホントに不思議な気持ちになっている。

1時間ほど自分のパソコンの前に座っていろいろやっていると、ずっと三木にいたような気もするのである。

今回のアメリカは、いろいろ想うところもいっぱいあった。それはそれでまた纏める機会を持ちたいとは思うのだが、

今朝戻って一番先にやったのは今回の1ヶ月半に撮った写真や動画の詰まっているカードの中身をこちらのパソコンに入れることだった。写真と動画で700枚を超す内容になっていて、カードの容量が持つかなというのが心配の種だったのだが、私のカードは32GBもあるので何とか持ってくれたのである。

まずはこちらのパソコンにデーターが入ったので、そのあとすぐ『カードの初期化』をして撮ったのがこのみかんの写真2枚なのである。

 

 

小さな木に既に何個かのみかんが成っていた鉢物を買ってきて、庭に直接植えたのだが、以来1回も実をつけることなしに、ホントに何年過ぎたのだろうか?

それが今年は春にいっぱいの花が咲いて、実もできて大きくなり、アメリカに行く前は未だ青かったのだが、戻ってくるころには黄色くなってるかな? と思っていたので、アメリカから戻って一番気になったのはこの『みかん』なのである。

見事に黄色くなって一個だけちぎって食べてみたら、なかなか甘くて美味しかった。

その横に植えたのはこれは園芸店で買った多分『ゆず』だと思う。これは数個しかないが、切ってみたら『すっぱい』から柚子だと思うのだが、これも今年初めて数個の実をつけたのである。

 

 

★それとこの夏に生まれた100匹ほどの『メダカの仔』 その殆どを池に放し、残り10匹ほどを産まれた鉢のままにして1ヶ月半放置していて『どうなったかな?』とこれも気にはなっていたのである。

大丈夫、元気に生きていた。

みかん と メダカ』 何だそんなことをと思われるかも知れぬが、アメリカにいても一番気になっていたことだし、それが大丈夫だったので、今回のアメリカ滞在 も文句なしによかったと言えるのである。

 

水やりも手入れも出来なかった『秋バラ』は散々で、普通世の中の家で咲いているそんな程度にしかならなかったのである。植物特にバラや植木は手入れを怠るとちゃんとは育たない。

1ヶ月半も何もせずに放置してるのだがら、この結果は仕方がないのかな。

まあ、それでも何となく『得るところ』いっぱいだった『アメリカ滞在』だった。

会社からの出張』でもなく『旅行会社企画の海外旅行』でもない『のんびりと好き勝手なことばかり』であった『海外滞在』は、ホントに良かったなと思っているのである。

何よりも『何歳になっても脳は進化する』ことが解ったのはよかったし、『何歳になっても新しい体験や、新しい進歩』みたいなものが実感されるのは、『その環境がいい』からだと思っているのだが、そんな環境を『自然に作ってくれた娘婿』に感謝なのである。

 

日本に戻ってきての1日目の感想である。

さて、日本ではどんな生活が始まるのだろうか?

 

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