日記を書きだした・昭和28年(1953) 自分史
★ 昭和28年(1953)10月8日から突然日記を書きだしている。
その最初の1日、10月8日の日記はこんな書き出しで始まっている。
「昭和28年も早いもので今日は霜月8日、この1年もこの月と師走を余すのみである。
今日の新聞で蒋介石主席が30年間日記を付けているとかの記事を読んだので、自分も真似事ながら日々のよしなしごとを記してみようかと言う気になったのである。・・・」
確か、「日記を書くぐらいなら自分にもできる」と思ったのである。
突然だったのでこんな大學ノートを使っている。
大学2回生の秋、20歳の時だから、もう70年以上続いていて、
蒋介石の2倍以上になった。
翌日の11月9日に日記とは別にこんなその時の想いを纏めているので、
そのまま転記してみる。
平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と日記も上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのような部類のものにしようとは毛頭考えないのであるが、ただ単なる青春の想い出として、後々には自分の脳裏から消え失せてしまうであろうささいな日々の出来事をまた考え、大袈裟にに言えば思想というものをつたない筆ではあるが記していこうと思うのである。
日記というものを自分で記そうと思いたったのはこれが初めてである。そしてその生まれて初めての日記の書き出しが、肺浸潤という病気に悩まされている日々であることは思っても不幸極まりないことである。
日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうという意志表示であるとしなければならないだろう。体の健康な時は日記など見向きもしなかった代物である。
10日間ほど寝たというだけで日記を記そうというような気持ちになるのはどういう意味を持つのだろうか?
人生五十年という短いとされている期間を更に短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出てくるのだろうか? いや一日の手持ち無沙汰からかも知れない。まあ兎にも角にも悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人々も多く記していることではあるし・・・
いつまで続くかが問題である。これから先一生続いたら大したものである。2・3日で止まってしまっても又それもよかろう。
身分相応に『あきしょう』の自分に最適な大学ノートによってその一頁を始めることにする。
いついつまでも続くことを祈るや切である。
昭和28年11月9日 朝 錬太郎 記
★ 最初は突然のことだったので大学ノート、
2年目からは一年ごとの日記帳を使っていたのだが、
それが『3年連用日記』になり、更に『5年連用日記』になって、
70年も続くと書棚がこんなにいっぱいになっている。
いまは『5年連用の3年目』だが、できればもう1冊ぐらいはと思っている。
★日記を書きだした昭和28年は大学2回生の時で、
この年の夏の野球部の合宿で『夏風邪』を引いて体調を壊したのだが、
そのまま合宿も続けて、秋のリーグ戦に入ったのだがその間ずっとおかしかったのである。
そんなことでリーグ戦が終ってから、医者に行ったら『肺浸潤』の宣告を受けて『絶対安静』を言われて10日間ほど寝ていた時に、
朝日新聞に蒋介石の日記のことが出て、ふと始めた日記なのである。
ホントに人生、そんなに長くは生きられないと思った。
父も伯父も50代で亡くなってしまっていたのである。
ただ、祖母は102歳、母は104歳まで生きたので、
結果的には運よく『祖母と母の遺伝子』を受け継いだのかも知れない。
ただ、私自身の性格は非常に楽観的で、安静をと言われた肺浸潤だったが、結局寝たのは10日間だけで、その後は野球もやめずに続けていたら、
4回生の時には肺結核になり『空洞』も出来てしまったのである。
そんなことで4回生の時には単位は取れていたのだが、
就職難でもあったし1年卒業を延ばしたら、翌年は『神武景気』となって、川崎航空機に入社することになったのである。
そう言う意味では『いい運』を持っていると自分では思っている。
そんなことなので、昭和29年(1954)からは、日記帳が残っているので、
1年毎に日記帳を読み返してみて、その年がどんな年だったのか、
自分史として私なりにもう一度振り返ってみようかなと思っている。
いまとなっては、日記があってよかったなと思っている。