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2026年3月16日

現役時代初めてのことばかり  その8  新KMC

投稿者 : rfuruya

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★ 企画に戻って、世界の販売会社のの健全化に取り組んだのだが、その中でも最大のプロジェクトはアメリカKMCの健全化だだった。

 私の企画復帰と同時に田崎雅元さん(後川重社長)がKMC社長となって、田崎さんとのコンビでいろんなことに取り組んだのだが、その中でも最も画期的で大掛かりなものが、KMCの再構築とも言っていいプロジェクトだった。

 当時のKMCはサンタナにその本社があったのだが、技術や部品関連など4か所ほどに分散していたものを、本社の土地・建物を売却して、アーヴァインに新しい土地を求めて、まさに『新KMC』を目指すプロジェクトで、とてつもない大掛かりなものだったが、当時の本社部門が『KMC再建』に関与していたこともあって、スムースに進行したのたのである。

KMCの再建は川崎重工業にとっても、最大の懸案事項だったのだが、このプロジェクトも当時の財務担当大西副社長などアメリカ現地に足を運んで頂いて、その推進を図られたのである。

 これは田崎さんが私に送ってくれた写真だが、大西f副社長が新しい土地を査察された時の写真である。

 当時はアーヴァインがアーヴァイン社によって、開発されていた最中で、びっくりするほどの広大な土地がサンタナの旧本社を売却することで可能となったのである。

これはずっと後に撮った写真だが、こんな立派な社屋が建てられたのでであ。

  当時は、私も田崎さんも新任部長当時なのだが、このプロジェクトは二人にとってホントにいい想い出なのである。

  田崎さんは年次では私より1年後なのだが、若いころからまずカワサキのレーシングチームで、私がライダーと運営担当、田崎さんが当時製造部でマシン製作のレース職場担当だったのである。

  そんなご縁で、現役当時一緒に仕事をした期間も長く、退職してからもこんな写真を私に送ってくれるなど、若いころそのままのお付き合いなのである。

 それにしてもこの『新KMCプロジェクト』は懐かしい想い出いっぱいなのである。

 この写真も、田崎さんが送ってくれたものだが、

 大西副社長とのアーヴァインでの会食でシャッターを切ってくれたのは田崎さんである。

 

  

現役時代初めてのことばかり  その7  関連事業課

投稿者 : rfuruya

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★ 川重課長と言う時代に『カワサキオートバイ販売・常務取締役』と言う肩書を頂いてカワサキの国内販売を担当し、全国の販売会社を指揮することになったのだが、

FX400と言うヒット商品に援けられて、累損も消去して、スタート以来初めての黒字経営となったのである。

 1970年代後半のことなのだが、この当時世界に展開する販売会社がみんな赤字で、大変な時代だったのである。なぜそうなったのか?一言でいえば販売会社経営の経験者がいなかったということだと思う。

 販売会社とはモノを売って利益を上げるのだが、沢山売るほど利益は増えるので、どうしても、『沢山売ろう』とし過ぎてしまうのである。

 勿論『売れればいいのだが』売れ残ると在庫になって、金利負担は出るし値引きも発生する。みんな頑張った結果の赤字なのである。

 そんな時期、国内だけが黒字経営だったので、川重本社からも注目されていたのだが、国内担当の4年目に山田副社長に本社に呼ばれて『単車事業部の販社はみんな赤字だが黒字になると思うか?』と言う質問なので『直ぐ黒字になると思います』と答えたら、『それならお前は事業部に戻って企画をやれ』と言うことになって、1975年10月に企画に復帰したのである。

当時、海外ではアメリカ・カナダ・イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・オーストラリアに販売会社があったのだが、その殆どが赤字経営なのである。

  

 10月に事業本部に復帰したのだが、ちょうど翌年度の事業計画を立てる時期だったのである。

 企画に戻った私が最初にやったことは、新しく『関連事業課』を創り、販売会社の経営はその『新関連事業課担当』とし、各社の事業計画策定は現地販社と関連事業課の協同作業としたのである。

 そして市場規模にあった適正な販売台数とし、全世界の販売を明石でコントロールできるようにしたのである。

 この方式は、国内の『カワ販』が全国の販売会社をコントロールしているのと同じ方式なのである。

 その当時本当に現地の販売会社経営を担当した経験のある人は本当に少なかったのだが、たまたま私は10年間の国内販社経験もあって、第1線販売もその本部の管理も経験していたので、それが『役に立った』のである。

 欲張らなければ『販社経営』など簡単なのだが、どうしても『シェア競争』などがあって、実力以上に売ろうとしてしまうのである。

 そのベースになるのが『事業計画射』なのだが、皆さん、どのように策定されているのだろうか?

  当時のカワサキの場合は、新しく関連事業課を創って、そこで全世界の販社をコントロールしたことが、結果的にもよかった思う。

  翌年は川崎重工業の本社部門が『単車再建』を旗印に7月には大庭浩本部長(後の川重社長)が就任されるのだが、その頃には既に『黒字経営路線』に乗っていたのである。

 現役時代、新しい組織や会社をいろいろと創ったりしたのだが、その一番初めに新設したのが『関連事業課』だったのである。

 これは大成功の新組織だったと今でも思っている。

現役時代初めてのことばかり その6  『新カワ販』プロジェクト

投稿者 : rfuruya

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★ 1978年のことだが、突如アメリカで二輪のダンピング問題が起ったのだが、

 これには日本の販売会社問題が絡んでいて、当時国内に販売会社本社を持っていたのは、カワサキだけだったので、その体制ではカワサキだけがダンピングにひっかかるというややこしい問題になったのである。

 端的には国内の各社の経費率の「問題なのだが、カワサキは一段階多いので『経費率』が他社に比べて高いのである。

 地方の販売会社は他社と一緒なのだが『カワ販本社』だけが一段階多いのだが、当時のカワ販本社はかっての川崎航空機の取締役の方がされていて、結構大きな組織だったのでその費用も大きかったのである。

私は開発市場室と言う東南アジアのCKDプロジェクトの営業担当で、この『カワ販問題』は企画室のメンバーの担当し、当時の最大市場のアメリカに関係することなので本社財務なども絡んでいたのだが、なかなか上手くいかないのである。

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  そんな時、突如事業本部長から呼び出しがあって『ダンピング対策の起案をせよ』との指示があったのである。 

 それは私が約10年カワ販に出向していたので、国内の販売事情には通じていたので、そんなことから『その起案』を任されたのである。

カワ販本社の経費率が問題なので、それを下げる対策をしたのだが、まずは当時扱っていた部品事業を別会社にして分離し、大物が座っている本社の社長以下重役さんを全部除いて、人事、出荷、広報の最低の機能だけを残した10人ほどの本社にした案を創っ

たのである。

川重本社に報告したら、それは『通った』のだが、その時本社の財務担当副社長が『ところでこの新本社は実際は誰が旗を振るのか?』と仰ったのだが、本部長が『それは古谷がKHIから旗を振ります。』と答えられたのである。

『それなら古谷をカワ販常務にせよ』と指示されて、私はKHI課長だったが、突然『常務』と言う肩書を頂くことになったのである。

★ この『新カワ販』は10人ほどの陣容だが、その傘下には全国に地域販売会社があり、その陣容は500人近くになったのだが、そんな大所帯のTOPになったので、職位は川重では課長だが、『常務』と呼ばれることになったのである。

そう言う意味では、私は『ツイている』のだが、私が担当した1979年に『ZX400』 が発売されるのである。

 これが本当によく売れて、当時苦しかったカワ販の経営も改善されて初年度の1年目に累損が消えて黒字になったりしたのである。

 この『新カワ販プロジェクト』はそこ起案の時から本社財務が絡んだので、毎月本社副社長への『経営報告』があったのだが、1年で赤字が消えて、期間損益は10億ほどにもなるものだから、私を『常務に』指名された副社長からは、『こんなになることが初めから解っていたのか?』と言われたりしたのだが、これはみんな『ツキ』で、その最大は『FX400』によるものなのである。

 この『FX400』が私が『カワ販担当』となったと同時に新発売されたのである。

 この車はカワサキの国内では初めて大量に売れたヒット商品で、何か月もの『バックオーダー』が付いたのである。

 そんなことだから値引きなども一切なく経営的にも大いに貢献したのである。

  

量産品がヒットすると、会社の経営は一変する。

そんな経験をさせて頂いた『新カワ販』だったのだが、誰言うとなくこの会社を『新カワ販』と呼ぶようになったのである。

  

現役時代初めてのことばかり その5  東南アジアプロジェクト

投稿者 : rfuruya

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★ 国内の特約店制度と言う新しい販売網制度を仕上げて、1975年10月に約10年間の国内販社出向期間を終えて、川重発動機事業本部企画室に復帰した。

まだ単車と発動機が同じ事業部だった時代で、カワサキはアメリカ市場が軌道に乗り、スタートの時代は単車は発動機の一部だったのだが、逆に単車が主流の時代になりつつあったのである。

 国内の二輪車市場は、ホンダがロードパルを発売して、新しい『小型車時代』に突入し、ヤマハもそれに追随し、ホンダ。ヤマハ戦争が始まろうという時代である。

 カワサキも一部製造部門を中心に『小型車開発』を試みようとした動きがあったが、企画に戻ったばかりの私はこれは『危ない』と思ったのである。

 仮に小型車が開発・生産できても、カワサキにはその販売網がない。

 そんなことで同じ小型車でも当時東南アジアを市場とした『CKD』への参入を企画室から提言したのである。

 そんなことで東南アジア市場調査団が結成されて、1976年5月17日から約1ヶ月間、東南アジアのタイ・インドネシア・イランの3か国を中心にした『市場調査』を行ったのである。

 その時回った国々は台湾・インドネシア・タイ・イラン・マレーシア。フィリッピンなどだが、今いろいろと問題になっているイランもその時に訪れている。

 イランがまだ『王政時代』で二輪各社もタイヤメーカーなども現地に工場を持っていた。カワサキもテヘランから西南のサベイ―に工場を持とうとしていた時代で、テヘランを中心に南のシラーズなどイラン各地の市場調査をしたのである。

 いろんな国に行ったことがあるが、一番びっくりしたのはやはり『イラン』である。

 国全体が『砂漠』の中にあると言っていい。

 会議をしていても、『お祈り』の時間になるとお祈りが始まるし、事業計画などそんな先の話は『神様の分野だ』と仰るのである。

 テヘランは大都会で緑もいっぱいだが、

 後方にある山から、こんな水路に定期的に水が流れてくるのである。

 そんなことで、世界にはいろんな国あるとびっくりしたのだが、

 この「東南アジアプロジェクト」で訪問した国々のうち『イラン』だけが、政治体制が変わって実現しなかったのである。。

 この東南アジアプロジェクトはCKDなので部品輸出なのだが、現地で組み立てられたバイクでカワサキ一番のヒット商品と言えるのが、『GTO110』である。

 部品出荷なので台数は解らないのだが、最盛時はタイのバンコックも、インドネシアもカワサキGTOで埋まった時期がある。

このGTOの開発設計者は、あの松本博之さんである。  

   

  そしてこの車の開発を技術部に他のみに行ったのは、『実は私』なのである。

  『音など大きくてもいい。振動があってもいい。兎に角、実測110km走るクルマを・・』と言う粗っぽい頼み方だったのだが、ホントに名車に仕上がったのである。

  前述したように『部品輸出』なので台数がないのだだが、間違いなくカワサキで一番沢山売れたクルマだと思っている。

そんな『東南アジアプロジェクト』が実を結ん初めての小型車プロジェクトも、CKDと言う形で大成功を収めたのである。

 因みに、この『東南アジア調査団のメンバーは、高橋鐵郎さんが長、安藤佶郎さんが副、その他川崎、山辺、多賀井、古谷のメンバーだったのである。

現役時代初めてのことばかり その4  特約店制度

投稿者 : rfuruya

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★昭和44年(1969)川崎重工・川崎車両・川崎航空機の3社合併があって、当時の単車事業部の方向も国内市場中心からアメリカ市場へ、実用車からスポーツ車へとその方向を変えていた。

 そんなことから東北や九州などの地方から大都市中心へとその方向が変わっていくのだが、昭和45年(1970)11月に大阪を中心とする京都・滋賀・奈良・和歌山地区の担当を命じられたのである。

最初に挨拶に行った大阪の船場モータースの岡田博社長から『東北6県は知らないが、この大阪では、ホンダは別格、世界のヤマハ・日本のスズキ・明石のカワサキ』だと言わてしまうほどのカワサキの評価だったのである。

 確かに大阪の市場ではバイクを委託した販売店の数だけは何百店もあるのだが、弱小店の自転車屋さんばかりなのである。

 そんな大阪の販売網を再構築して『新しいカワサキ』のイメージを確立するにはどうすべきか?

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 いろいろ考えた末に広告宣伝課時代から親交のあった『二輪車新聞』の衛藤誠さんにお願いしたのである。

 それは約500店も取引のあったこの地域の販売店を25店に絞って『カワサキ特約店』と認定するという突拍子もない計画なのだが、これを二輪車新聞のTOP記事に扱って貰ったのである。

 

 この当時のことを衛藤誠さんご自身が後年こんな回顧録を書いておられる。

大阪母店(近畿地区を統括)が府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長が「中・大型機種を指向する販売店の組織化」を提案相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。

この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を早急に実施を図りたいとの話。そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。

ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の荢野豊秋専務から“大目玉”。ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。

「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。」これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段である。

 衛藤さんの回顧録にもあるように少々粗っぽかったが、二輪車新聞のTOP記事は迫力があり、粗っぽい戦略だったが、業界でも大評判となり、カワサキではじめてスタートした『特約店制度』は私の担当地区の大阪、京都を中心とする近畿地区で大成功となったのである。

  

 

 当時の国内の二輪車市場は、『50㏄モペット』が各社とも中心で全国に何万店もある自転車屋さんにバイクを委託しての『委託販売方式』だったのである。

 そんな『委託販売方式』から一転、20数点の販売店に絞って買い取り方式とする画期的な大転換で、そんな大胆な『販売方式の転換』だったが、ちょうど時を同じくして発売された750Z2がその推進を大いに促進してくれて、こんな新しい『二輪の販売方式』が展開されることになり、成功を収めることになるのである。

 それ以降は世の中も『スポーツバイクの方向』となり、カワサキの販売網は近畿地区だけではなく、中部地区から更に全国展開となるのだが、それを順次私が責任者として担当することになるのである。

そんなことで大阪担当は2年ほどで終わり、住所も高槻から今住んでいる三木に変わったのも、昭和48年(1973)のことなったである。

この『カワサキの特約店制度』はまさに世の中でも初めてのことだったのだが、二輪の世界も実用車・モペット中心の時代から『スポーツ車中心』へと変わるにつけて、他社も『二輪専門店方式』へと変わっていくのである。

 

現役時代初めてのことばかり その3 レースと広告宣伝

投稿者 : rfuruya

★ 日本で初めての本格的なロードレースが開催されたのは、1962年11月3・4日に鈴鹿サーキットで開催された『第1回全日本選手権ロードレース大会』なのだが、そのレースをカワサキの単車事業部の製造部のメンバーがバスを仕立てて観戦に行ったのである。

初めてみたレースに感動してカワサキもレースをと開催したのが『青野ヶ原モトクロス』なのである。

このレースには製造部のメンバーなどのホントに素人のライダーが出場したのだが、当日雨が降って、他社の本格的なロードマシンは水をかぶって止まってしまったのだが、実用車に近いカワサキB8の改造レーサーだけが止まらずに走り切って、1位から6位までカワサキが独占したのである。

雨のお陰で『カワサキのレース』がスタートすることになったと言えるのである。

因みに1位から6位まで独占と言うのはこのレースだけである。

当時はカワサキが本格的に単車事業に進出すべきかどうか、社内にもいろいろ意見があって、本社は日本能率協会に依頼して調査をさせていた真っ最中だった。

カワサキの製造部が独断で出場した非公式な初めてのレースなのだが、結果が1位から6位独占とういう画期的なもので、社内でも大いに盛り上がったのである。

そんな雰囲気を日本能率協会は感じて『単車事業進めるべし』と言う結論を出すのである。

この当時、私は新しく出来た『単車営業課』にいたのだが、この青野ヶ原のレースには直接は関係していない。 製造部の連中が勝手に出たレースだから予算も何もなかったのだが、私の上司の小野営業部長が『幾らかパン代でも出してやれ』と仰ってなにがしかの金を都合したのである。私の下にいた川合寿一さんはかっては野球部のマネージャーだったのだが、そんなことで青野ヶ原のチームの面倒を川合さんが見たりしていたである。

こんなことから、カワサキも本格的に単車事業に進出することになり、当時の川崎航空機の本社は事業推進の開発費として年間1億2000万円の広告宣伝費を出すことになり、事業部もそれを受けて新しく『広告宣伝課』を創ったのだが、その広告宣伝課の担当に私が指名されたのである。

まだ係長にもなっていない時期なのだが上司は部長で実質的に私が責任者でこの新しく出来た広告宣伝課を切りまわすことになったのである。

『1億2000万円』と言う額は、当時の年収が40万円の時代なので、今のカネに直すと『優に10億円以上』と言う膨大な額なのである。

そんな膨大な額を任されても、ホントに使い方も解らずに初年度は7000万円ほどの実績で、本社の専務に『お前ら金を遣ってもよう使わん』と怒られたりしたのである。

そんなことからレースを本格的にやろうということで、レースの経験など全くなかったのだが、『私がレース担当』をやることになったのである。

ライダーなどと話をするのも初めてだったが、関東の三橋実が主宰する『カワサキコンバット』から、三橋実・岡部能夫・梅津次郎、関西は片山義美の『 神戸木の実レーシング』から歳森康師・山本隆の5人のライダーと契約を結んだのである。

因みに鈴鹿の第1回全日本選手権ロードレース大会の250㏄優勝者は三橋実、350㏄優勝者が片山義美なのである。

全く初めての『レースの世界』だったが結構私の性にあって、カワサキのライダーだけでなくレース界の人達とも懇意にお付き合いが出来て『レース界』は私の一生の宝物になっている。

当時はまだ駆け出しのライダーたちだったのだが、膨大な広告宣伝費があったのでライダーとの契約額は当時の額で100万円(今の額なら1000万円)ほどをはずんだりしたので、『カワサキのライダーはいい四輪に乗っている』とレース業界からも大いに注目されたのである。

因みに歳森・山本はホンダS600,三橋はフェアレディZ, 岡部はスカイラインGTBに乗っていた。

モトクロスだけではなくてロードレースのスタートも私は色濃く関わっている。まだ会社からはロードの許可は出ていない時期だったのだが、モトクロスライダーの山本隆が『ぜひ鈴鹿のジュニアロードレースに出たい』と言うので会社には内緒でローレーサーを創り出場させたのだが結果はホンダに次いで『3位入賞』となり、立派なトロフィーを貰ってきて、それを会社の上司に見せると、即座に『ロードもやれ』と言うことになるのである。

当時のカワサキのロードレーサーがそんなに良かったとは言えないとも思うのだが、当日雨になってタイムが落ちて、モトクロスライダーの山本隆が何とか3位に入れたのだが、社内では『ホンダに次いでカワサキか』と大いに評価されたのだが、ロード進出にも『雨が関わっていた』のである。

そんなことからロードのライダーも、安良岡健・金谷秀夫・和田正宏などと契約してスタートしたのだが、何をするにも結構裕福だったので出来たと言えるだろう。

本当に有り余る予算があったので、関東の三橋実には毎月50万円を渡して、関東のレースや若手ライダーの育成などを任していたのだが、あの星野一義はまだ17歳だったが、カワサキの陣営に加わることになったのである。

そう言う意味では、本社の専務が『開発費』として出して頂いた1億2000万円だったが、いろんな分野の開発が出来たと言っていいのである。

こんなことでこの『1億2000万円の開発費』があった3年間を私は広告宣伝課を担当したのだが、レースに限らず広告宣伝一切が全く初めての業務でいろんなことに出会ったのだが、会社の上司も誰も広告宣伝の業務など解らないので、100%任して貰っていたのである。

考えてみると40年間の現役時代でこの3年間が一番裕福だったように思う。そう言う意味では、私は本当に『ツイていた』と言えると思うのである。

そんな広告宣伝課の3年を経て、次は『新しく東北に仙台事務所を創れ』と言う命題を頂くことになるのである。

2026年2月19日

現役時代、初めてのことばかり その2 単車営業

投稿者 : rfuruya

★ 戦前の川崎航空機工業は文字通り航空機のメーカだったが、そのエンジンが明石工場で、機体は岐阜工場で造られていた。

 そんなことから戦後再開された川崎航空機の明石工場もJETエンジンや農業用の小型エンジンなどを扱っていて、オートバイのエンジンも川崎明発工業に提供して『メイハツ』と言う二輪車が世に出ていたのである。

  

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  昭和35年(1960)に川崎航空機工業は単車の車体も含めた一貫生産を明石工場でスタートさせて、カワサキオートバイ販売と言う販社を創って、「カワサキ」二輪販売を開始することになり、明石工場の発動機営業部の中に昭和36年11月に新しく『単車営業部』を立ち上げたのである。

 それまでは販売は川崎明発に任せていたので、販売の経験者など誰もいなかったので、新しく出来た『単車営業部』も部長以下みんな全くの素人だったのである。

 そんな新しい単車営業の実務者として入社4年目の私が抜擢されたのである。

 

 営業と言っても川崎航空機から新しく出来た『カワサキオートバイ販売』に単車を販売するのだが、そのカワ販は社長・専務は川崎航空機から出向していたが、それ以外はメイハツやメグロの方ばかりで構成されていたのである。

 50㏄のモペットと125㏄の単車を開発・製造していたのだが、  

 

  モペットは兎も角、『125B7』は大変な代物で、フレームに欠陥があって、

 私が新しい営業課に配属されてみると、生産するより返却される台数のほうが多くて生産台数が『マイナス17台』と言うとんでもないことになっていたのである。

 当時の二輪車は贅沢品と言うことで125cc以上のバイクには『物品税』が掛けられていて、工場出荷時に国税局に納税するのだが、納税そのものは至極簡単なのだが、それが工場に返却されると『物品税の戻入手続き』が要るのだが、これが大変厳しくて

すべて税務署員の立ち合い検査がMUSTなのである。

 基本的には工場出荷時と全く同じであることがMUSTで、メーターが回っていたらダメなので、そんな車はメーターの巻き戻しなどやったりして大変だったのである。

 そんな物品税戻入手続きなど社内での経験者は皆無なので新人の私がみんな担当したのだが、若しその手続きに間違いがあったりするとこれは申告税だから罰則としては体刑になると脅かされたりしたのである。

 そんな私の『初めての営業業務』だったのだが、現在の『企画部の業務すべて』が営業担当だったので、広告宣伝も今は品質保証部と言うサービス業務もすべて私の担当で、入社4年目だったが2人の男性部下と2人の女子社員の5人ですべてをまかなっていたのである。

 当然上には課長も部長もおられたのだが、すべて単車営業など全く初めての方ばかりなので、全く教えて貰えなくて、ホントに大変だったのである。

カワサキの最初のバイクはそんな散々な出来だったのだが、2代目のB8がそこそこの好評で何とか事業部も存続出来たのである。

   

入社してすぐ、財産課の償却計算のIBM化や、こんな全く新しい単車営業の仕事をやり切ったものだから、『あいつは初めてのことは得意』と言うような評価になったのだろう。

それ以降退社するまでの40年間の殆どが『全く新しい仕事』の連続だったのである。

  

  

 

 

2026年2月18日

現役時代、初めてのことばかり その1 IBM

投稿者 : rfuruya

★ 私の現役生活は川崎重工の二輪部門が殆どだったのだが、入社して初めての仕事は財産課での償却計算だった。

当時の川崎航空機は戦後再スタートばかりで、まだ大変な時代で財産物件は通常1万円からなのだが、JET部門は新規事業と言うことで300円以上の物件を財産物件にしていたものだから、工具器具備品を担当した私は、机や椅子、スダレなど大変な数の財産物件の償却計算をしなければいけなかったのである。

 そんな償却計算をタイガー計算機を使ってやっていたのである。

  

  高価な機械でも、机や椅子でも計算作業は同じことだから、件数が多いほうが大変なのである。

 そんなことで入社2年目にこれを『機械化』出来ないかと検討を始めたのである。

 当時の川崎航空機は米軍のジェットエンジンのオーバーホールをやっていて、米軍関係者が駐在していてIBM室があったのである。

 昭和33年当時は日本にはまだIBMは一般化していなかった時代なのだが、それがあったのである。

 日本にIBMが一般化したのは昭和40年代だから、ほぼ10年も前のことなのだが、そんな時代に財産の償却計算のIBM化など世の中でも初めてのことである。

 そんな大それたことを、入社2年目の私はやり始めたのだが、今思い返すとよくやったものだと思う。

 まさに初めてのことだから、誰も教えてくれる先輩などはいなかったのだが、IBM室の係の方と一緒に『その仕組み』を創り上げて行ったのである。

 IBM と言ってもまだパンチカードシステムの時代で、そのカードの桁数は100桁ほどである。その100桁の中に償却計算の必要項目を収める必要があるのだが、一番大変だったのは、財産物件の『コード化』で機械それぞれの名前や、机や椅子などすべてを4ケタほどのコードの中に入れるためにいろいろとやったのだが、こんなことは当時の職場では誰も経験のない『全く新しい仕事』だったのである。

  そんな世の中でも『初めての仕事=財産物件の償却計算』を約2年間かかって、やり遂げたのである。

  この仕事は単に明石工場だけでなく、本社も岐阜工場も同じシステムに創り上げたのだが、新入社員ながら本社や岐阜工場などの人達をリードしていたのである。

 こんなことを新入社員の2年目からやったりしたので、仕事のことなど先輩から指示されることなど全くなかったのである。

 この償却計算のIBM化が完成したら、財産課で償却計算をしていた人たちが不要になり、大幅な減員になったのだが、私自身も当時初めて出来た『単車営業課』に転籍することになって、それ以降は現役を卒業するまで『二輪事業一筋』だったのだが、これがまた会社にとっても全くの新事業で『初めてのことばかり』が延々と続くのである。

 そんなこともあって『私の現役時代』は、一言でいえば『初めてのことばかり』を約40年間やり続けたと言ってもいいのである。

 そんなことだったので『私の現役生活』はホントに楽しかった40年間だと言えると思うのである。

 

2026年2月4日

山茶花(さざんか)と椿(つばき)

投稿者 : 松島裕
昨日見かけた生垣の花

♪さざんかさざんか咲いた道〜

♪さざん〜かの〜や〜ど〜

「さざんか(山茶花)」は冬の花であることは子どもの頃からなんとなくわかっている。おそらく多くの人も。

でも、どんな花かはあまりイメージできていなかった。

いつの頃か、山茶花は椿に似た花(椿の花は家の庭にもあったのでわかる)であることを知るが、違いがどうなのかなどはまったく興味がなかった。

時が経ち、歳をとり、道端で見かけた赤い花が「山茶花」なのか「椿」なのか気になるようになった。

それは歳をとったからではなく、いちいち植物図鑑を買いに行ったり、図書館で借りたりしなくても、手元のスマホで調べればすぐわかるようになったからかもしれない。

ということで、Googleで検索してみた結果は(AI による概要)、

山茶花(サザンカ)と椿(ツバキ)は、開花時期と花の散り方で見分けるのが最も簡単です。サザンカは秋〜冬に花びらが1枚ずつ散り、平開する花が特徴ですが、ツバキは冬〜春に花が首ごとボトッと落ち、筒状の立体的な花を咲かせます。

主な違い

花の散り方:

  • サザンカ: 花びらがバラバラに散る。
  • ツバキ: 花が丸ごと(一輪)落ちる。

開花時期:

  • サザンカ: 11月〜2月頃(早め)。
  • ツバキ: 12月〜4月頃(寒〜春)。

葉の特徴:

  • サザンカ: 葉が小ぶりで、縁に細かいギザギザ(鋸歯)がしっかりあり、裏の葉脈上に毛がある。
  • ツバキ: 葉がやや大きく、縁のギザギザが目立たず、ツヤがあり毛はほとんどない。

花弁の様子:

  • サザンカ: 平開(平ら)に咲く。
  • ツバキ: 立体的(筒状)に咲く。

香り:

  • サザンカ: ほのかに香りがある。
  • ツバキ: 香りはほとんどない。

基本的には、花がボトッと落ちていればツバキ、花びらが散っていればサザンカと判断できます。

よく見かけるのは山茶花

今の時期に咲いているのはどうやら山茶花。

最初の写真は、花びらが平たく開いている、葉にギザギザがあることから、山茶花だとわかった。

町でよく見かけるのは、たいがい山茶花で、街路樹や生垣によく使われるらしい。

そんな令和八年の立春。

2026年2月2日

昔々の二輪市場

投稿者 : rfuruya

★ 私がまだ30代の若いころだが、カワサキの東北6県を仙台で担当していた。

 昭和42年(1964)からの4年間だが、当時の東北はカワサキの販売台数で断然他地区を圧倒したTOP市場だったのである。

 まだ実用車のカワサキの時代で扱っていた車は125ccB8やM50のモペットだった。

  

 

  まだスポーツ車は世に出ていない時代で、当時は3万店もあった自転車屋にオートバイを委託するという委託販売方式の頃である。

   

 まだ地方の代理店があった時代で、岩手カワサキ岩手県が日本で一番の販売台数を誇っていた。

南北200キロ、東西100キロの広大な岩手県だけでも何百軒ものサブ店を持ち、そこにクルマを委託していた委託販売なのである。

 そんな各県の代理店を管理するというか応援する形で仙台に事務所を創り、東北6県の販売を担当していたのだが、東北6県で約4000台、そのうち1500台を岩手県が販売していた。

 因みに関東などの都市部はモペットは兎も角125㏄などは全く売れなかった時代なのである。

 そんな時代、メーカーの出先の仙台事務所の所長と言う肩書は販売店である自転車屋さんにとっては結構エライ存在だったのである。

 各地の代理店の社長さんもエライのだが、さらに一段上の『メーカーの人』なので店を訪問するだけで『結構な販売促進』になったので、各代理店の社長に頼まれて地方のサブ店(自転車屋)を訪問するのが仕事だった。

 そんなサブ店は各地の地方にあるのでそんな『サブ店訪問』で東北6県は隅々まで知っている。

 地方に行くとまだ舗装道路ではないそんな時代で、『峠越え』は大変だった。

 当時の峠道はまだ殆ど砂利道の頃で、雪が降った冬のほうが、舗装されたような感じになって走り易かったようにも思うそんな時代だったのである。

 岩手県など全県の販売店を訪問したとも言えるので、こんな地図にある殆どの道は知っている。

 

 

カワサキ色とネーミングが入った 『カローラバン』を運転して東北6県を走り回っていたので東北六県は隅々まで知っていると言っていい。

 

そんなバンの後部には2級酒がいっぱい積んであって、サブ店へのお土産で渡すのだが、1000円もしない『2級酒』が大変喜ばれたりした。

 いまはもう『2級酒』などはないのだが、2級酒とは、1940年から1992年まで存在した。日本酒の特級・一級以外の品質審査を受けていない普通酒に付けられた区分で、主に日常的な晩酌用として親しまれた大衆酒の代表格だったのである。

いまはどうかは解らぬが、当時の東北はホントに『酒飲み』が多くて、それは関西などとは比較にならないレベルだった。

 青森など『酒が切れる』のはタブーで、床の間には1斗樽を置いての宴会だったのである。

まだモトクロスレースが、山野で行われていた時代で、そんな自然がいっぱいの東北は、日本で一番モトクロスの盛んな地方だったのである。

 

  東北に来る前までは、広告宣伝とレース担当だったので、

  カワサキのレース部門には顔も聞いたので、ファクトリーチームのメンバーたちが

  東北のレースにはやって来て、そんなことでも結構楽しい4年間だった。

  昭和45年(1970)まで仙台にいたのだが、ちょうどその頃カワサキも250A1などのスポーツ車など『スポーツ車カワサキ』となって、市場は東北や九州から、関東圏や近畿圏の大市場が主力市場となり、私は新しく出来た大阪営業所の署長に転勤になるのだが、それまでの4年間の「東北時代」は本当に懐かしい時代だったのである。

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