The Good Timesは「みんな繋いで楽しくいいときを過ごそう」「異種、異質、異地域の人々を繋いでいくトータルシステム造りを目指す」そんなNPO法人です。

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ブログ

2024年1月1日

明けましておめでとうございます

投稿者 : rfuruya

2024-01-01 05:42:06 | 発想$感想

 2024年・令和6年の幕が開けました。

 今年もよろしくお願いいたします。

    

   今年はどんな年になるのでしょうか?

   3月には91歳になります。

   こんなに長く生きれるとは夢にも思っていませんでした。

   お陰様で体のほうは至って元気なのですが、

   アタマのほうがついていくでしょうか?

   新年を孫・二人と家内と一緒に元気にスタートする事が出来ました。

   皆々様のご健康とご多幸を心より祈り上げます。

   

2023年12月12日

NPO法人 Tke Good Times について

投稿者 : rfuruya

2023-12-06 17:57:50 | NPO The Good Times

NPO 法人The Good Times 2009年7月1日の設立だから

 もう13年にもなるのですが、

 設立当初の理事長は私で、

 2代目が山本隆さんでしたが、

 今回、新しく3代目の理事長・松島裕さんがスタートしました。

    

 

 クリックして頂くとそのホームページが現れます。

 

https://www.thegoodtimes.jp/

 

 

 このNPO The Good Times のホームぺージの制作者が

 実は松島裕さんなのです。

 このホームページの訪問者は延べ137000人以上にもなっていて

 毎日訪れる方がいるのです。

 

 

 松島裕さんは、このホームページの制作者でもあり、

 二輪文化を伝える会の理事長もされています。

 

  NPO法人 Tke Good Times基本コンセプト

 『みんな繋いで楽しくいい時を過ごそう』というもので、

  今後も異種・異質・異地域をみんな繋いで

  楽しくいい活動を続けて欲しいと願っています。

  

 世界の100を超す団体会員とその個人会員で構成されています。

  

 

 二輪文化を伝える会KAWASAKI Z1 FAN CLUB も団体会員さんですし、

 最近では神戸ベンチャー研究会が入会されました。

 

 従来は関西中心の活動でしたが、

 今回、松島裕さんが理事長になられたので

 その活動の主体も関東に移すことになるでしょう。

 これは 松島裕さん・村島邦彦さん・私トリオですが、

 従来も村島さんは松島さんを支えてこられました。

 今後もは、松島さんを支えて

 NPO The Good Times の活動を応援していこうと思っています。

 

  

 新しくスタートする『NPO The Good Times 』の今後の活動を

 皆さんも是非応援頂きたいと願うものです。

 松島裕さん、頑張ってください。

2023年12月6日

私の日記から   昭和41年(1966)

投稿者 : rfuruya

2023-12-04 05:57:13 | 自分史

★ 私の一生を振り返ってみてもこの年が一番いろいろなことがあった年だったように思う。

 それがよかったのか悪かったのかは別にして、

 こんなにいろいろ経験することはなかなかないと言っていい。

 

 1月の初出の日藤井敏雄がやって来た。

 カワサキがGPレースに初めて参戦する年なのだが、その契約にやって来たのである。

 スズキからの移籍だった。年末のMFJの運営委員会で鈴木さんから社内ライダーの引き抜きは困るというようなクレームが出たのだが、

 その時は私はホントに解っていなかったのだが、カワサキの技術部がいろいろ折衝していたようである。

 そんなことで彼の移籍には関係していないのだが、ライダー契は私の担当だったので、契約についてはいろいろと纏めたのである。

 先方の希望でその時はライダー契約とはせずに『マシンの貸与契』にして

 約半年ヨーロッパGPに参戦するので、ライダー契約はその成績を見て改めてして欲しいという希望だったのである。

 そんなことから始まった1年だったのだが、2月には山本隆からを頼まれるのである。

 私自身がまだ33歳で、結婚したばかりなので一応はお断りしたのだが、どうしてもと仰るので、結局は引き受けることになったのである。

世の中にこんな若さで仲人をした方などいないと思うのだが、当時は単なる若手ライダーだった山本隆だが、その後の活躍でMFJの殿堂入をするようなライダーに成長したので、そんな『山本隆の仲人』は私にとっていい実績となったのである。

★この年は私のレース担当の最後の年になったのだが、

 レース関連では本当にいろいろなことが起きたのである。

MFJの運営委員会では日本GPを鈴鹿からこの年に開幕するFISCOに移そうという議案が出るのだが、FISCOの第1コナーが危険だという理由で、ホンダさんは日本GP不参加を決めたのである。

 FISCOの第1コーナーがどれ位なものかをMFJの運営委員会で実地検証することになって、4輪車だったがFISCOを何周か走らせて貰ったのだが、確かにあのコーナーは吸い込まれていくようなものスゴイ下りのコーナーだったのを覚えている。

 

モトクロス関係では、前年にスズキが本格的なモトクロッサーRHを開発し、久保和夫・小島松久の二人が乗ったので、カワサキもと238ccのエンジンで、クロモリのパイプのF21Mを新たに創ったのだが、これは2台などではなく全契約ライダーに当たる数を用意したのである。

 まだ当時はレーサーの開発は技術部ではなくレース職場の松尾勇さん個人のノウハウで創り上げていた時代で、ベニヤ板に釘を打ってその形にパイプを曲げていくのだが、そのパイプに詰める砂を海岸で採ってきたような想い出がある。

 7月のMCFAJの青森での全日本でデビューするのだが、明石から青森の弘前まで、2000kmを車で移動したのである。

 その時の練習時の写真で、真ん中にあるのがF21Mだが、当時はまだ赤タンクの時代なのである。

 

 この年の8月、GPレースでヨーロッパを転戦中の藤井敏雄がマン島のプラクテイスで転倒事故死してしまうのである。

 それからが大変でその遺体は、たまたまドイツに留学中の大槻幸雄さんがマン島の現地に行かれていて送って頂いたのだが、それを羽田で受け取ったのが私なので、お通夜・葬儀と続いて大変だったのである。

 葬儀もカワサキがいろいろとお手伝いをしたのだが、契約上は先述の通り、マシンの貸与契約なので『個人は関係ない』と言うようなことをいう社内の人もいてなかなか大変だったのだが、貸与契約と言ってもそれはGPマシンなのだからと押し切ったりしたのである。

 秋の日本GPには藤井と正規に契約して走ることになっていたのだが、

 こんなことになってしまって、改めて契約したのが鈴鹿サーキットに『デグナーカーブ』と名を残すあのデグナーなのである。

 カワサキにとっては初めての外人契約で、その契約書をどのように作るのか、社内には聞く人もいないので、

 ホンダのMFJの運営委員の前川さんに教えて貰いに鈴鹿まで行ったりしたのである。

 そんなことまでして契約したデグナーなのだが、GP前のFISCOでの練習中に転倒して、『カワサキのデグナー』は実現しなかったのである。

 この年のFISCOでの日本GPにはカワサキが初出場するのだが、

 安良岡健が7位になったのである

 ただジュニアの250ccには250A1のマシンが出場したのだが、

 このマシンが滅茶苦茶速くて、

 当時のヤマハさんは、日本人ライダーではダメだと、

 アメリカでの一流ライダーだったガリー・ニクソンを出場させ

 金谷秀夫との壮絶なトップ争いをしたのである。

 

 これがその時の写真だが

 文字通りの一騎打ちになった本番は凄まじかった。
 最高ラップ 2分14秒27 Gニクソン、金谷秀夫の二人で記録しているという珍しいレースで、もっとも印象に残ったレースだった。

 

 

 

 

 これが私の4年間の最後のレースとなって、

 11月には仙台事務所を創るべく仙台転勤の内示があったのである。

★ こんなことでこの年のレース関係では大変な1年だったが、

 年末には仙台転勤が決まって、12月からはその対策に掛りきりになったのである。

 私にとっては初めて明石を離れての生活となって、

 それも仙台と言う雪国だからと、会社の人達は家族は春になってからの移動にしたらと言って下さったのだが、

 私は1月の最初から家族同伴と決めて、まずは仙台での家探しから始まったのである。

 それも普通の転勤と言うのは、そこにすでに会社の支店とかがあるのが普通だが、

 私の場合は『新しく仙台事務所を創れ』と言う命題だけで、

 全くの白紙からのスタートなのである。

 会社自体も新しく事務所作るなども初めてだったし、今思うとよくやったなと思うのである。

 この年の4月に初めて「掛長任用」されたばかりなのだが、

 前年からカワサキオートバイ販売出向となっていたので、正規に掛長になる前から『課長』と言うことになっていたし、

 今回は『事務所長』と言う肩書を頂くことになって、気分的には非常によかったのである。

 そんなことで私は掛長などと呼ばれたことはなく、

 平の係員からいきなり課長になり、またすぐ事務所長になったりしたのである。

 ただ名前だけのことで、実質の給料などは上がったりはしていないのである。

 昭和41年(1966)はこんないろいろあった1年だったのである。

2023年12月4日

「KX50周年を祝う有志の会」

投稿者 : rfuruya

2023-12-03 06:14:18 | カワサキワールド

★『KX50周年を祝う有志の会』に行ってきました。

 写真いっぱい撮ってきたのでご紹介します。

 その雰囲気で、どんな会だったのか、ご想像下さい。

 

 往年の名ライダー塚本昭一・多田喜代一・高橋芳延さん。

 

 KXの産みの親、百合草三佐雄さん

 まだまだ、お元気で何よりです。

 乾杯の音頭を!

  吉村太一ちゃんも来てくれました。

 

 お二人とは同じテーブでした。

 種子島径さんも、旧いカワサキの仲間の井上一美さんも同じテーブルでした。

  東京からはるばる来られた西郷善治さんと松島裕さん

 この会の主宰者かな?

 私を誘って頂いた、大津信さん

 これはTeam Green のメンバーだったかな、

 

 御大の平井稔男さんは写真で登場。

 

 壇上に上がった、ライダーたち。

 伊吹清孝さんも 

 

 森田優治さんも

 司会の腰山峰子さん・川崎由美子さん・松田真弥さんもおられたのに

 写真を撮るのを忘れてしまった。

 残念!

 ほんとに楽しかった『KX50周年を祝う有志の会」でした。

2023年11月29日

車の運転と私の人生

投稿者 : rfuruya

2023-11-22 07:00:28 | 自分史

★ 昭和32年入社だから1957年なのだが、

 1999年まで務めたので、実質42年間の現役生活だったのである。

 

 二輪事業は地方の販売店まで訪問する機会が多いので、

 その業務には車の運転が必須なのである。

 この二輪を担当することになって運転免許も取ったのだが、

 当時はまだ免許を持ってる人は少ない時代だった。

 

 最初は国内市場だけだったのに、アメリカに進出し、ヨーロッパにも手を広げ、

 さらには東南アジアや開発途上国市場のCKD事業にも関係したので、

 世界各国の道を知っているということになっていったのである。

 

★ そんな二輪車担当を卒業して、最後の2年間は北海道札幌で、

 『北海道川重建機』という優良会社の経営を任された2年間だった。

 その社名から川重の子会社のように思えるのだが、そうではなくて

 地元資本の会社なのだが川重の建機車両を主として扱っていたので、このような社名になっていたのである。

 

 この北海道川重建機は道内に10以上の支店があり、

 こんな支店網だったのである。

 

 そんな支店訪問も、移動手段は二輪時代の慣習で、

 与えて貰った4駆のクラウンですべて自分で運転していたので、

 北海道の道は殆ど走ったような気がする。

 

 雪道も走ったのだが、4駆のクラウンは素晴らしくて、

 若いころ東北の雪道を走った時代からは、

 考えられないほどの安定感だったのである。

 

東北6県4年間担当したから、

 東北の道は、大げさに言えばすべて知っていると言ってもいいほどだが、

 当時の道は峠は殆どすべて未舗装の砂利道で、むしろ雪道になった方がスムースに走れたようなところもあったのである。

 

 

 

 東北の後は、近畿2府4県の担当で、中部日本も東京も担当したし、

 九州は直入にサーキットを創るときにいろいろ走り廻ったので、

 結構詳しいのである。

 ひょっとしたら運送業のトラックの運転手より詳しいかも知れないのである。

 

★日本ほどは詳しくないのだが、世界の道も結構走っている

 国内を10年間担当して出向から戻ったら、

 カワサキの初めてのCKD 市場の担当となり、

 タイ東南アジアなどは、何回も長期間行ってるので、走行距離も結構長いのである。

 ずっと国際免許を持っていて、どこに行っても空港でレンタカーを借りて走り回っていたのである。

 オーストラリアも海岸線の長距離を車で移動したし、

 何度か出張してその内陸も走っていて、結構詳しいと言えるだろう。

 その後のヨーロッパ市場も、距離的には各国間をレンタカーで行き来出来たし、

 スペインの海岸線の観光地もジェットスキーの調査で走ったことがある。

 

 こんな社用での車の走行とは別に、

 プライベートで家内とのオーストラリアやヨーロッパ旅行でも

 レンタカーで好きな道を走り回ったりしたのである。

 元来、『車の運転』が好きなのだと思う。

 アメリカも現役時代は空港からレンタカーだったし、

 現在は娘婿一家がアーヴァインにいるので、

 これは乗せて貰っているのだが、結構な距離を走っているのである。

 

★ これらの国々を出張旅費を頂いて行けたので、

 ほんとに『いい現役生活』だったと思う。

 末端のユーザー販売店はみんなバイクが好きな方たちで、

 お客様と言っても、ほかの業種の『お客様』のようなところは全くなく、

 逆にお客様から『メーカーの人』ということで特別の目で見て頂いたようなところもあった。

一般のサラリーマンの方のような堅苦しい会社生活は全くなくて、

 ずっと好きなことを、好きなように出来た自由業のような現役生活だったのである

★そんなことで「私の車の運転」は現役時代から今も、

 ずっと毎日続いているのだが、

 お陰様で、無事故無違反のゴールド免許が続いているし、

 運転は好きだし、結構自信もあって、90歳の今も毎日車に乗っている。

 果たして何歳まで運転できるのか? 

 いまのところまだまだ大丈夫だと思っているのだが、

 若し免許を返納するような時になったら、

 私の人生も終わりかなと思ったりするのである。

2023年11月23日

大學の野球部のOB会に行ってきた

投稿者 : rfuruya

2023-11-20 03:50:43 | 発想$感想

大学の野球部のOB会に行ってきた。

 世の中にOB会なるものはいろいろあると思うが、

 この兵庫県立大学(旧神戸商大)のOB会は秀逸だと言っていい。

 こんなスケジュールで進行する。

 

 朝10時半にOBと現役の野球試合に始まって、

 硬球の本格的な試合には流石に出場は出来ないが、

 お楽しみイベントのベース一周タイムトライには

 90歳ながら参加してベース1周30秒で走り切った。

 110メートルはあると思うが、走りきれたので大満足である。

  

 高齢者のOBも参加できるソフトボール大会があるので

 これには1番セカンドで出場した。

  

 セカンドごろも1本だが飛んできたが、アウトに出来てよかった。

 被っている帽子はアメリカのエンゼルス球場で購入したものである。

 

 

★ 3時半からは所謂、OB総会である。

 これは型通りのOB会でOB会会長挨拶に始まって型通りの会計報告などが行われ、

 その後は懇親会がスタートするのだが、

 最高年齢のOBとして乾杯の音頭と

   

 ご挨拶をさせて頂いた。

 このOB会の花形は遠方や高齢で出席できないOBたちから寄せられた品々の

 チャリテイーオークションである。

 ホテルの宿泊券や酒などいろいろあってそれを競り落とすのだが、

 その金額合計が25万円にもなって、

 これは現役諸君の部費の足しに寄付されるのである。

 当日出席したOBだけでなく、こんな形での現役応援が出来る仕組みが秀逸である。

  

 そんなことで昨日はほぼ1日運動と総会で終わったのだが、

 OB諸君から私は結構目標にされていて、

 そう言う意味でも今後も参加できるように頑張りたいと思うのである。

★大学のキャンパスは、かっては垂水の海の近くから商大坂を登ったところにあったのだが、

 いつ頃だったか、大規模開発された『学園都市』に移動して、

 いまはいろんな大学が存在する文字どり学園都市の中にある。

  

 結構な距離、北に移動したので、

 三木市からは近くなって、車で家から20分の距離なので、

 参加しやすくなったのである。

 来年も参加できればいいなと思っている。

 

 

2023年11月21日

私の住んだ町いろいろ 朝鮮京城

投稿者 : rfuruya

2023-11-15 06:04:25 | 発想$感想

★私は兵庫県明石で生まれたが、直ぐ朝鮮に渡ったようで、

 人生で初めての記憶は朝鮮の太田市の川の中なのだが、

 そこではそんな川の中で魚をとってたという記憶しかない。

 小学校に入るちょっと前からは朝鮮京城、今のソウルに移った。

 まだ朝鮮が日本だった頃で、日本人もいっぱいいたし、

 小学校も中学校も日本人ばかりだったし、日本語ばかりだったから、

 朝鮮にいたが朝鮮語は全く解っていない。

 覚える必要が無くて、朝鮮の人たちも日本語を話していた。

中学1年生の夏・8月が終戦だから、京城のことはよく覚えている。

 その年の12月に日本に引き揚げてきたのだが、

 ソウルオリンピックの時に韓国に行く機会があって

 小学校やら元住んでいた家の写真など撮ってきた。

 これが通っていた桜が丘国民学校で、

 当時の内地の小学校は木造だったが、

 立派な鉄筋コンクリートで、暖房にはスチームが設置されていた。

 

 家は塀が変わっていたが、そのまま残っていたので懐かしく、

 門の前で写真を撮ってきた。

  

 城東区新堂町桜が丘という住所だった。

 なぜソウルに行ったのかというと

 ソウルオリンピックの時に開会式の当日漢江でジェットスキーのデモンストレーションをソウルオリンピック委員会から正式に依頼されて、

 その団長として行ったときにかっての住所まで行ってきたのである。

 

 

 戦前のソウルの町も結構ちゃんと覚えていて、

 タクシーで行ったのだが、道も間違えることなくちゃんと行けたのである。

★いまのソウルは戦前の2倍以上に大きくなっている。

 かっての京城時代は大体赤い線の中ぐらいが街だったと思う。

 いまは漢江の南側も大都会になっているのだが、

 戦前は漢江の南は野原だったし北側も山が多くて家などは建っていなかったが、

 そこがみんな住宅街になっていてびっくりした。

 かって住んでいたところと小学校である。

 奨忠壇公園の池に冬はスケートに行ってたので、

 そこから辿ったら直ぐ家は解ったのである。

 かっての朝鮮総督府

 

  京城駅

  

 南大門

  

  

  そのまま残っていた。

  戦前の市電は当時の神戸の市電より綺麗だったし、

  三越デパートもあって結構な大都会だった。

  戦争がひどくなる前の小学生の4年生ごろまでは

  夏冬の休みには明石に帰省していたので、当時の日本も神戸の町なども知っているのだが、

  内地の家はなぜこんなに小さいのかと思ったのを覚えている。

  当時の京城は日本人が開拓して日本人街を造ったのだと思うが、

  住んでいた桜が丘の家の一帯は東洋拓殖の社宅もあったが、

  社宅と言っても300坪ぐらいはあったし、

  周りの家もみんな300~500坪の土地の上に建っていた。

  高級住宅地ではなく、中級住宅地だったと思うが、高級住宅地はもっと立派な家も建っていたように思う。

  戦時中も空襲もなかったし、食糧事情もよくて、その点は内地と違って、平時と全く変わらない生活を送ってきたので、

  戦争中の苦労などは全くなくて、小学生の5年生の頃から、

  兵隊さんによる軍事訓練を受けたりしていた。

  中学校の夏休み中の宿題が『軍人勅諭の暗唱』で、

 

「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屢なりき・・」

 

 これはまだ出だしの部分で延々と続くのだが、

 ぼちぼち覚えねばと思っていたところに終戦だったので、

 全く覚えていないのである。

★そんなこともあったが、終戦でそんな家もすべてそのままに日本に引き揚げてきたのだが、

  そんな家や土地をどのようにして分配したのかな?

  と今でも思うのである。

  引き上げ時は、一人1000円の現金持てる荷物だけだったから、

  みんなそのまま現地に置いてきたのである。

  私は中学生だったので大した苦労もなかったのだが、

  両親は生活が様変わりでほんとに大変だったと思う。

  

  そんなことなので、韓国は故郷のようなところがあって、

  韓国がほかの国とが試合などすると、韓国を応援するようになっている。

  いまは日韓関係がいいようなのでほっとしているのである。

 

コメント

2023年11月18日

カワサキ単車の昔話   26   7万台への挑戦 1

投稿者 : rfuruya

2023-11-03 05:51:15 | カワサキ単車の昔話

1988年10月、3度目の国内担当となった。
目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。

 この7万台の販売目標は1983年当時大庭浩本部長が国内のカワサキオートバイ販売社長を兼務されていた時に建てられた目標なのだが、

 あまりにも大きな台数目標であったために、

 当時のカワ販では目標ではあったが、本気でそれに向かおうとはしてなかったぐらい高い目標だったのである。

★今年はカワサキモータースジャパンの創立70周年である。

 これは昭和28年(1953)明発工業が創立されてからの年数で、

 同じ年に戦後中断されていた川崎航空機工業が再スタートし、

 その明石工場は戦前から飛行機のエンジン工場であったことから、

 バイクのエンジンを開発生産し、明発工業に供給していたのである。

 私は昭和32年(1957)の入社だから私が入社する4年前の話なのである。

 ただカワサキが単車工場を造って単車の一貫生産をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだから、

 スタートとされる昭和28年からは7年もあとの話で、

 カワサキの単車事業の歴史としては、

 この年から数える方が妥当かも知れない。

  

 

 

 私はこの1960年のカワサキの単車事業一貫生産の時期から

 単車営業課に異動したので、カワサキの単車事業スタートの時期からずっと一貫して単車事業とともに歩き、

 国内担当とメーカーの主として企画部門を交互に担当し、

 1988年から1999年までは最後の国内市場担当だったのである。

★この1988年からの国内担当は『7万台の販売目標』を達成すべくいろいろ頑張った私のマーケッテンぐ分野の集大成の時期なのだが、

 このムツカシイ7万台の販売目標は1991年6月1日に年間移動値で達成するのだが、

 その達成直前の3月に当時の二輪事業本部の課長以上を集めて

 『7万台への挑戦』と題して、当時の部下たちとともに行った講演があったのだが、

 それを当時のCP事業本部の営業部販売促進課が1冊の本に纏めてくれたのが、これである。

 この冊子は単に二輪事業本部の中だけに配られたものではなくて、

 当時の大庭浩社長以下役員全員にも広く配布されたものなのである。

 

  

 

 

  当時のCP事業本部は高橋鐵郎本部長時代で、

  高橋さんはカワサキオートバイ販売の社長を兼務されていて

  私が専務として実務を担当していた時代なのである。

    CPとはConsumer Prodct の略で、

  川重の他製品と異なり、末端ユーザーに直接届ける商品の二輪ジェットスキーを扱う事業本部ということで、

  高橋鐵郎本部長の命名だった。

 

 高橋鐵郎さんとは旧く、カワサキが単車事業をスタートした頃は

 製造部におられて私はレースを担当していたのだが、

 そのレース職場は当時は製造部所属で、

 私はライダー契約など担当していたので、そんな旧い時代から

 いろいろと一緒に仕事をしたのだが、

 1951年のカワサキのCKDの市場開発プロジェクト室以降は、

 ずっとコンビのような形で仕事を進めたし、

 1982年の二輪事業の危機的な状況の時には、

 私は企画部を担当するのだが、その時は川重TOPにお願いして

 高橋鐵郎さんをアメリカから戻って頂いたりしたのである。

★ 私のこの最後の国内担当の10年間は、

  私のマーケット分野の集大成のような期間で

  この講演会にはその具体的な内容を語っているので、

  『カワサキ単車の昔話』としてその内容がどんなことであったのか、

  ここで語られた内容を少し詳しくお伝えしてみたい。

  大げさに言えば、それはカワサキの二輪事業のコンセプトと言えなくもないと思っている。

 約2時間、本のページにして60ページと長いのだが、

 どんなことになるのか、『カワサキ単車の昔話』として

 連続してご紹介してみたいと思っている。

   ある意味、私の人生の生き方そのものだと言えなくもない。

2023年11月17日

門野哲也  優勝おめでとう!

投稿者 : rfuruya

2023-10-31 05:35:40 | スポーツ

★ 海の向こうのアメリカの話だが、

  孫の末弟・門野哲也は日本人ながら、

  大学のサッカーチームのキャプテンで頑張っている。

  今年の大学リーグの優勝を決めたようだ。

  

  

 それも8連勝など圧倒的な勝利で、

 無得点に抑えた活躍で

 Player of the Week  に

  

 2週連続して選ばれている。

 応援して頂いた皆さんと喜びの1枚。

 シャッターを切ったのはお父さんかな?

 

   

  お母さん(娘)も大喜びである。

  背は190cmもあるから、キーパーになったのか?

  キーパーになったから背が伸びたのか?

    

★ 有名人がが身近にいた、子どもの頃からの環境もよかったのだと思う。

  ベッカムとも一緒に写真に納まっているし、

  

  

  

 アメリカ代表監督クリンスマンさんとは非常に近くて、

 同じクラブの次男のチームのキーパークリンスマンさんの息子さんだったりした。

 

 

 

  そんなアメリカのいい環境で育ったので、

  こんな選手になれたのだろう。

  これは中学3年生の頃に日本に遊びに来てた時、

  ヴィッセル神戸の練習に参加させて貰った時の写真だが、

  石末コーチと背は変わらないほど大きかった。

  

 

  次男の門野真也はすでにアメリカのプロ選手なのだが、

   

 

  哲也も来年大学卒業したら、多分プロを目指のだろう。

  

 

 二人の孫がアメリカのプロ選手になったら、

 一度アメリカまで観に行こうかなと思ったりしている。

 兎に角、優勝おめでとう!

2023年10月30日

カワサキの工場見学と青木隆さん  

投稿者 : rfuruya

2023-10-27 07:06:06 | カワサキワールド

★10月25日に行われたカワサキの工場見学だが、

 遠く豊岡からカワサキのバイクで参加された青木隆さんが、

 当日のいい写真を送っていただいた。

 青木隆さんいつものことだが、

 私などと違って写真に小さな気配りがあっていい。

 私も一ぱい写っていて、いつの間に撮ったのだろうと思うのである。

 これは工場見学後、カワサキの昔を私が話した時の写真である。

 カワサキの二輪事業のスタート時を語れる方も少なくなってしまった。

 

 この工場見学に事務局が準備された資料だが、

 つい先日亡くなったばかりの山本隆のことが語られている。

 実は、青木隆さんと繋がることになったのは、山本隆さんのご紹介なのである。

 

 これは青木隆さんのブログからだが、このように語っておられる。

 ついこの間だったような気もするが2014年のことだったから、

 もう10年近いお付き合いなのである。

  

 

★そんな青木隆さんだが、

 今回の工場見学でも私の写真をいっぱい撮って送って下さった。 

 これは昼の会食後だが、

 明石大橋が望める江井ヶ島の海岸に立ち寄った時の私の後ろ姿である。

 右に写っているのは淡路島である。

 私は明石の生まれ、明石の育ちだから、明石海峡にはいろんな想い出がある。

 明石海峡大橋を眺めながら、そんな昔を想っていた。

  

 これは昼食後、江井ヶ島の海岸に出発する直前、

 こんなカワサキのZ1100で参加されていた。

  

  

 

そんな青木隆さんとカワサキの展示場でのツーショット

 

 川崎神社は今回帰りがけに、私がご案内したのだが、

 そんな川崎神社での何枚かの写真を送って下さった。

 いつの間に撮られたのだろう? 私は全く気付かなかった。

 

  この川崎神社は1990年代に大きく改装されたのだが、

 

 それをおやりになったのは、

 大庭社長ではなくて当時の高橋鐵郎事業本部長なのだが、

 こんな風に大庭さんのお名前が残っているのは

 高橋さんのお気遣いなのだろう。

 大庭浩さんは社長におなりになる前1986年ごろは二輪事業本部長をおやりになっていた。

 その時の副本部長高橋鐵郎さんで、企画室長が私だったのだが、

 この川崎神社はもっと後、1990年代高橋鐵郎さんが事業本部長時代に大改装されたのである。

  そんな川崎神社の参拝を最後に、

  今回のカワサキ工場見学は終わったのである。

  

  

  

  私の最後のカワサキ工場訪問になるかも知れません。

  青木隆さん、写真いろいろ有難うございました。

  この工場見学に参加された皆さん、有難うございました。

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