★ 日本で初めての本格的なロードレースが開催されたのは、1962年11月3・4日に鈴鹿サーキットで開催された『第1回全日本選手権ロードレース大会』なのだが、そのレースをカワサキの単車事業部の製造部のメンバーがバスを仕立てて観戦に行ったのである。
初めてみたレースに感動してカワサキもレースをと開催したのが『青野ヶ原モトクロス』なのである。
このレースには製造部のメンバーなどのホントに素人のライダーが出場したのだが、当日雨が降って、他社の本格的なロードマシンは水をかぶって止まってしまったのだが、実用車に近いカワサキB8の改造レーサーだけが止まらずに走り切って、1位から6位までカワサキが独占したのである。
雨のお陰で『カワサキのレース』がスタートすることになったと言えるのである。
因みに1位から6位まで独占と言うのはこのレースだけである。
当時はカワサキが本格的に単車事業に進出すべきかどうか、社内にもいろいろ意見があって、本社は日本能率協会に依頼して調査をさせていた真っ最中だった。
カワサキの製造部が独断で出場した非公式な初めてのレースなのだが、結果が1位から6位独占とういう画期的なもので、社内でも大いに盛り上がったのである。
そんな雰囲気を日本能率協会は感じて『単車事業進めるべし』と言う結論を出すのである。
この当時、私は新しく出来た『単車営業課』にいたのだが、この青野ヶ原のレースには直接は関係していない。 製造部の連中が勝手に出たレースだから予算も何もなかったのだが、私の上司の小野営業部長が『幾らかパン代でも出してやれ』と仰ってなにがしかの金を都合したのである。私の下にいた川合寿一さんはかっては野球部のマネージャーだったのだが、そんなことで青野ヶ原のチームの面倒を川合さんが見たりしていたである。
こんなことから、カワサキも本格的に単車事業に進出することになり、当時の川崎航空機の本社は事業推進の開発費として年間1億2000万円の広告宣伝費を出すことになり、事業部もそれを受けて新しく『広告宣伝課』を創ったのだが、その広告宣伝課の担当に私が指名されたのである。
まだ係長にもなっていない時期なのだが上司は部長で実質的に私が責任者でこの新しく出来た広告宣伝課を切りまわすことになったのである。
『1億2000万円』と言う額は、当時の年収が40万円の時代なので、今のカネに直すと『優に10億円以上』と言う膨大な額なのである。
そんな膨大な額を任されても、ホントに使い方も解らずに初年度は7000万円ほどの実績で、本社の専務に『お前ら金を遣ってもよう使わん』と怒られたりしたのである。
そんなことからレースを本格的にやろうということで、レースの経験など全くなかったのだが、『私がレース担当』をやることになったのである。
ライダーなどと話をするのも初めてだったが、関東の三橋実が主宰する『カワサキコンバット』から、三橋実・岡部能夫・梅津次郎、関西は片山義美の『 神戸木の実レーシング』から歳森康師・山本隆の5人のライダーと契約を結んだのである。
因みに鈴鹿の第1回全日本選手権ロードレース大会の250㏄優勝者は三橋実、350㏄優勝者が片山義美なのである。
全く初めての『レースの世界』だったが結構私の性にあって、カワサキのライダーだけでなくレース界の人達とも懇意にお付き合いが出来て『レース界』は私の一生の宝物になっている。
当時はまだ駆け出しのライダーたちだったのだが、膨大な広告宣伝費があったのでライダーとの契約額は当時の額で100万円(今の額なら1000万円)ほどをはずんだりしたので、『カワサキのライダーはいい四輪に乗っている』とレース業界からも大いに注目されたのである。
因みに歳森・山本はホンダS600,三橋はフェアレディZ, 岡部はスカイラインGTBに乗っていた。
モトクロスだけではなくてロードレースのスタートも私は色濃く関わっている。まだ会社からはロードの許可は出ていない時期だったのだが、モトクロスライダーの山本隆が『ぜひ鈴鹿のジュニアロードレースに出たい』と言うので会社には内緒でローレーサーを創り出場させたのだが結果はホンダに次いで『3位入賞』となり、立派なトロフィーを貰ってきて、それを会社の上司に見せると、即座に『ロードもやれ』と言うことになるのである。
当時のカワサキのロードレーサーがそんなに良かったとは言えないとも思うのだが、当日雨になってタイムが落ちて、モトクロスライダーの山本隆が何とか3位に入れたのだが、社内では『ホンダに次いでカワサキか』と大いに評価されたのだが、ロード進出にも『雨が関わっていた』のである。
そんなことからロードのライダーも、安良岡健・金谷秀夫・和田正宏などと契約してスタートしたのだが、何をするにも結構裕福だったので出来たと言えるだろう。
本当に有り余る予算があったので、関東の三橋実には毎月50万円を渡して、関東のレースや若手ライダーの育成などを任していたのだが、あの星野一義はまだ17歳だったが、カワサキの陣営に加わることになったのである。
そう言う意味では、本社の専務が『開発費』として出して頂いた1億2000万円だったが、いろんな分野の開発が出来たと言っていいのである。
こんなことでこの『1億2000万円の開発費』があった3年間を私は広告宣伝課を担当したのだが、レースに限らず広告宣伝一切が全く初めての業務でいろんなことに出会ったのだが、会社の上司も誰も広告宣伝の業務など解らないので、100%任して貰っていたのである。
考えてみると40年間の現役時代でこの3年間が一番裕福だったように思う。そう言う意味では、私は本当に『ツイていた』と言えると思うのである。
そんな広告宣伝課の3年を経て、次は『新しく東北に仙台事務所を創れ』と言う命題を頂くことになるのである。