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2023年7月9日

カワサキ単車の昔話  7    創成期のカワサキのレースライダー

投稿者 : rfuruya

2023-07-05 06:01:34 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの単車事業は昭和35年(1960) 明石工場で一貫生産スタートし、

昭和36年(1961) 発動機営業部に単車営業課が出来て、私はその当初からその営業課に参加するのだが、

昭和37年(1962)鈴鹿サーキットが出来て、確かMFJもこの年のスタートだから、

日本の二輪事業が本格的に動き始めたのはこの年だと言ってもいいのかも知れない。

この年の11月に行われたMFJ第1回全日本ロードレースでは、

250cc三橋実・350㏄片山義美がいずれもヤマハで優勝を飾るのだが、

その優勝者の二人は、その後のカワサキのレースで密接な関係が出来るのである。

そして創成期のカワサキの販売は国内市場だけであったし、

当時の主力車種は50㏄モペットだったから、

販売分野ではカワサキは全く振るわなかったと言っていい。

創生期のカワサキの国内での動きと言えば、レース活動であった。

当初はモトクロス中心だが、こんなライダーを揃えて、

モトクロス分野では「赤タンクのカワサキ」で一世を風靡したと言っていい。

  

 

 

昭和41年(1966)5月には、

モトクロスライダーの山本隆鈴鹿ジュニアロードレースに参加し、

初出場ながらホンダ・ホンダ・カワサキと3位入賞を果たして、

翌月からは正規にカワサキもロードレースに参画することになり、

片山義美の秘蔵っ子・金谷秀夫と契約し、

三橋実・安良岡健の二人もモトクロスからローライダーに転じることになるのである。

これはFISICOで行われた、日本GPのジュニアロードレースで、

当時のアメリカのTOPライダー・ガリーニクソン(ヤマハ)と金谷秀夫が、

息詰まる大熱戦を展開し、

二人が「同タイムのベストラップ」を記録するなどしたのである。

 

 

★そんな創生期でのレース活動で一緒だったライダーたちは、

 当時は単なる若いライダーだったのに、

 みんな素晴らしい成長を遂げられて、

 「世界」とか「日本」を代表する素晴らしいライダーに成長されたのである。

 そんなライダーたちとの写真は私の宝物である

 

 そんな中からの何枚かをご紹介してみよう。

 神戸木の実関連、御大片山義美さんを囲んで、

 

 

これはその「片山義美を偲ぶ会」の開会前に・・

  

 これは東京で私がシャッターを切ってる。

 かってのカワサキのライダーたち、みんな立派になられた。

 金子豊・岡部能夫・山本隆・星野一義

  

 マウンテン・ライダーの50周年記念パーテーで

 吉村太一ちゃんと。

 みんな立派になられたな。

 久保和夫さんとは、何故か近かった。

  

  金谷秀夫とは特にいろいろとあって想い出いっぱいなのである。

  この日が金谷と最後になってしまった。

  山本隆さんも今や大スターなのだが、彼は私より10歳若い。

  彼に頼まれて仲人をしてるのだが、

  こんなに大スターになるとは当時は思ってもいなかった。

  

  

 

2023年4月2日

パソコンのある生活がまた始まる

投稿者 : rfuruya

2023-04-02 02:54:59 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★パソコンが突然壊れてしまったのが、3月24日だったと思う。

 直ぐ富士通のメーカーに送ったのだが、点検をしたが特に問題はないということで、今日家に戻ってきたのだが、

 なぜか今度はキーボードと本体が繋がらなくて、パスワードが打ち込めないので使えない。

 パソコンに詳しい方に夕方来て頂いていろいろやって貰ったら繋がった。

 一週間ぶりに「パソコンのある生活がまた始まる

 この画面のサッカー選手は、アメリカでプロ選手としてやって孫・門野真也で、

 パソコンのホームページに使っている。

 

 この雑感日記も2006年9月から休まずに続けてきたのだが、

  ちょっとだけの中断で済んだのでほっとしている。

 その間スマホで写真のアップなどしたのだが、

 スマホは今まで使ったことがなかったので、文字を打つのが大変だった。

 でも、何とかスマホで文字が打てたのが収穫だったとも言える。

 「アーモンド咲いてますか?」と積山さんから質問があったのだが、

 その質問に答えるのが億劫で放っておいたのだが、

 パソコンなら文字を打つのもスムースなのである。

 「積山さん、咲いてましたよ。写真も撮ってきました。

  

★ やっと元の生活に戻れてホントにホッとしている。

  世の中も4月になって、会社も学校も新しいスタートである。

  それに合わせて、私の生活もまた新しいスタートである。

  皆さん、またよろしくお願いいたします。

 

2023年3月2日

カワサキの昔話 3題

投稿者 : rfuruya

カワサキの二輪事業には、私はご縁があって

 カワサキが2輪事業をスタートさせた1960年(昭和35年)から

 約40年1999年まで担当させていただいたので、

 その間の想い出話もいっぱい持っている。

 今では普通に語られていることも、

 ちょっとしたことから残っているので、

 若しあの時「そんな判断」をしなかったら、どんなことになっているのだろうか?

 そんな「カワサキの昔話 3題」をご紹介してみよう。

★まずはカワサキだけが今も持っている「ユーザークラブKAZE」だが、

 kAZEがスタートした1989年当時は、

 ホンダはHART,ヤマハはYESS、スズキはじゃじゃ馬など各メーカーともユーザークラブを持っていて、

 むしろカワサキはそれに追随する形だったのである。

 ただ遅れてスタートしたカワサキは、 

 KAZEのユーザー管理をするソフト会社ケイ・スポーツ・システム」を立ち上げて、

 本格的に取り組んでスタートしたので、30年も経った今も、残っているのはKAZEだけなので、

 当時は3万人に近い会員で他メーカーを圧倒していたのである。

 

 当時ホンダのHARTは会員10万人と豪語していたが、

 現場に集まるユーザーの数はカワサキが圧倒していたので、

 ホンダさんから「カワサキは一体何人いるの」との質問を受けたりしたのだが、

 「ホンダさんは10万人」と言ってるじゃないですかというと、

 「あれは延べ10万人で、現実は1万人ちょっとです」というお答えだったのである。

  

 カワサキが3万人もいて、今も残っている理由は、

 どのメーカーも年会費を取るので1年経つとその期限が来て、

 毎年人数を維持するのは結構ムツカシイのである。

 カワサキはそれを見越して会員カードをJCBと組んで「JCBカード」にしたので、

 その期限が来ても辞めることがムツカシイのである。

 

 その第1号の機関誌は1989年1月に発行されているのだが、

 こんな立派な形ではなくて、カワサキのニュースを何枚か、

 一つの封筒に入れて送っていたのが最初で、

 こんな立派な形になったのは数か月後のことなのである。

★今回の機関誌にはこんな「ジェットスキー」のニュースも載っているのだが、

 ジェットスキーがカワサキの正規の商品として取り扱われるようになったのは1983年からで、

 それまではこれは二輪事業部の商品ではなくて、

 発動機事業部が開発し、アメリカのリンカーン工場で生産し、

 アメリカの販社KMCだけがアメリカ市場で販売していて、

 当時、日本には商社を通じてホントに少数が輸入されていたのある。

 

 そういう意味では「カワサキの正規商品」ではなかったのだが、

 これを川崎重工業の正規商品として、取り扱うようになったのは、

 1983年大庭浩本部長の頃で、当時の企画課長武本一郎さんが発議し、

 ジェットスキーが日本を含め世界展開になったのは、それ以降のことなのである。

 若しあの時、武本課長がそんなことを言いださなかったら、

 ジェットスキーはその後どのような展開になってたのだろうか?

 ただ、その時も私は国内に「ジェットスキー専門」の販売会社を設立し、

 ボート屋などではなくて「ジェットスキー専門販売網」を創ったし、

 JJSBAなどのレース協会と新しい遊びジェットスキーの世界を創りだしたのである。

★ 今回のKAZEの裏表紙には「Ninja」が載っている。

 最初の「Ninja」もちょうどその頃、大庭本部長時代に開発されたものだが、

 そのネーミング「Ninja」はアメリカのKMCのアメリカ人の発案で、

 このネーミングに明石サイドの技術部が「忍者の印象」が暗いと猛反発だったのである。

 

 その「Ninjaのネーミング」について、

 今では日本側が反対したとネットなどでも書かれているが、その記述は何となく迫力がない。

 実はより具体的にその経緯を知ってるのは私だけなのである。

 日本側の猛反対の意向を受けて、アメリカ出張時大庭本部長自らKMCに説得を試みられたのだが、

 アメリカ側の反発が強硬で、当時のKMCの田崎社長が徹底的に反論、

「Ninja」はそんな暗いイメージではなくて「007ようにカッコいい」イメージだというのである。

 事実アメリカでは当時Ninja という映画などもあって、そのイメージは日本とは全く違った新しいものだったようである。

 その時は大庭本部長をしても説得することが出来ずに、

 最初のマシンはアメリカだけが「Ninja」で、

 欧州市場などには「GPZ900」のネーミングで発売されたのである。

 その大庭さんと田崎さんの「Ninja論争」のその場に同席してたのが私だけなので、そんな経緯を知ってるのも私だけなのである。

  

   

 

 その後、Ninja のネーミングは好評で

 このGPZ900シリーズだけではなくて、

 いまではカワサキを代表する「スーパースポーツ車の冠」として使われているのである。

★ こんなカワサキの昔話を語れるのも、今では私だけになってしまったのかも知れない。

 世の中は「ひょんなこと」から「ひょんなこと」になるのである。

 何事も物事は片手間ではなくて「ちゃんと専門的に取り組むこと」が肝用なのである。

 

 私だけが語れる「カワサキの昔話 3題」である。

2023年2月22日

今年の春は早いのかな

投稿者 : rfuruya
★ 2月も20日を過ぎてるのだが、
 昨日あたりはまた寒さがぶり返して、
 この辺りでも朝から何度か雪がちらついたりした。
 でも、今年の春は早いのかな?
 我が家の庭の福寿草がもう芽を出している。
 例年芽を出すのは、3月に入ってからだと思ったのだが・・・
 今年の冬の寒さはどうだったのだろう?
 暖冬だったような気もするのだが、もう一つよく解らない。
 
 私の感覚では、庭の福寿草が芽を出せば「春だな」という感じを持っている。
★ そう言えば、公園の梅もこんなに花開いている。
 
  我が家の梅は、まだ蕾なのだが、
  この梅たちは早咲きなのかな。
 あと10日もすれば3月だから、
 「ぽかぽか」とした春の暖かさがやってくるだろう。
2023年2月21日

明石と私

投稿者 : rfuruya
★最近になって明石が急に全国区で話題である。
 人口が減少する中で「10年連続人口増」だとか
 「全国戻りたい街第1位」だとかになっている。
 
 こんなになったのは
 こんな名物市長さんの功績なのか?
 
 いろいろ言われてはいるけれど、結構なことである。
★私自身は、明石とは結構深いご縁があるから、
 明石が有名になることは結構なことである。
 私と明石はどんな関係があるかというと、
 ●ずっと昔松平家のお殿様と一緒に福井から明石にやって来たらしい
 ●そんなことで松平家の菩提寺・長寿院にお墓がある
 ●生まれ故郷もかっての武家屋敷のあった上ノ丸だが
 ●中学校は神戸だが、高校は明石高校だった
 ●高校時代は野球部で明石公園の球場で練習し
 ●昭和25年の夏には甲子園にも出場した
 ●明石は川崎航空機があったので戦時中にひどい空襲があり
 ●旧い明石は焼けてしまって本家も焼失してしまったが
 ●ご縁があって私はその川崎航空機に入社して40年もお世話になった
 ●川崎航空機に入社したのは伯父が明石でやっていた錦江ホテルが戦時中に軍の宿舎に接収された関係で繋がった
 ●今は三木に移ってきたが、年に何回かは墓参に明石を訪れている
★そんなことで私の本籍は今でも「明石市上ノ丸2丁目720番地」なのだが
 今はそこには20軒以上の家が建っていてそんな番地は現存していない。
 そのほんの一部だが「本家」は今でもそこにいる。
 明石との関りはいろいろあるのだが、
 息子は鎌倉、娘はアメリカにいて明石とは無縁なので、
 明石との関りも「私の代」で終わってしまうのだろう。
 そんなこともあるので想い出いっぱいの明石の写真を並べてみる。
 これは私の生まれる前の写真だが、私が産まれた上ノ丸の屋敷である。
 祖父も写っているが私は祖父を知らない。
 この当時はここは別荘で
 
 今の魚棚のある細工町に本宅があって、
 これは伯父も父も早稲田の大学時代の写真だが、
 真ん中で母に抱かれているのが私、
 一番右は母の兄で国鉄スワローズの初代総監督・楠見幸信
 ベーブルースと戦った当時の全日本の1番センターだったとか。
 これは伯父が経ってた錦江ホテル。
 明石城は錦江城と呼ばれていて「錦江」は明石を表している。
 このホテルが戦時中に軍の宿舎にするということで接収された関係で
 当時の川崎航空機とのご縁が出来た。
 こんな旧い写真を見ると、
 戦前までは、私も「ぼん」で育ったようだが、戦後に生活は一変した。
 明石高校時代、よく練習した明石公園の明石球場である。
 お陰様で昭和25年の夏は甲子園出場もしている。
 
 ご縁があって川崎航空機の明石工場に40年間お世話になった。
 今は三木に移ってしまったが、
 年に数回は墓参に明石に行くことになっている。
  
 いつかは私もここに戻って来て
 子午線の通っているこの地で永久に眠ることになるのだろう。
 いろんな意味で、私にとって「明石はなかなかいいまち」なのである。
2023年2月20日

めちゃ賑やかだった三木総合防災公園

投稿者 : rfuruya
★ 毎朝のようにお世話になっている三木総合防災公園だが、
 いつもはホントに人は少なくて、公園を借り切っているような感じなのだが、
 この週末には中学生の「駅伝大会」があってこんなに人がいっぱいだった。
  
 こんなことは滅多に見られない風景なのである。
 ここ公園は駅伝でもマラソンでも十分にできる広さで、
 街の中の道ではないので交通整理なども全く不要なのである。
 立派な陸上競技場もあるから、そんなトラックも使いながら、
 いろんなコースが取れるようである。
 女子が11時からだそうで、まだ始まってはいなかったが、
 コースを試走したりしていた。
★このほかにも週末には沢山あるコートでサッカーの試合や練習があるのだが、
それはサッカーコートの中だから、少々人が集まっても目立たないのである。
 
これは高校生だと思うが、沢山集まって体操をしていた。
こんなことも滅多にない風景である。
  
この週末はこんなに人の目立つところもあったが、
それはごく一部で、少し離れるといつものようにこんな感じなのである。
広い」ということは、いいことだと思う。
 
 こんなに広い公園があちこちに沢山あるのは三木だけのように思う。
 ホントに三木は、アメリカのように広い公園がいっぱいなのである。
 それも、近年というか山が開拓されて、幾つもの公園になっているので、
 昔からあった訳ではない。
 いま私が住んでいる緑ヶ丘も、かっては山か丘だった地域で、
 この三木総合公園とは地続きなのだが、
 そこまではクルマで来るなど、隣と言ってもホントに広大なのである。
2023年2月19日

実力・体力、それよりも運かな?

投稿者 : rfuruya

 私の生き方、考え方&意見

★世の中の大学でも会社でも試験があり、成績により合・不合格がある。
 学生時代は神戸一中の2年生まではよく勉強したが、それ以降は勉強した記憶がなくて、学生時代は野球漬けで卒業した。
 でも人生で受けた試験で落ちたことはないのは「運がよかった」と思うし、
 何を持って「実力」というのかは解らぬが、
 自分では何となく「実力はある」と思っている。
★日本の社会は「学歴社会」と言われていて、
「どこの大学を卒業したかを重要視する」慣習を「学校歴社会」と呼んだりもする。
アメリカの社会は、Microsoftのビル・ゲイツ、Appleのスティーブ・ジョブズ、Facebookのマーク・ザッカーバーグななどみんな「大学中退起業家」で、
アメリカは実力一本で勝負する世界だ」と思っていたが、
アメリカは日本以上に就職には大学での成績が重要視されたりするらしい。
★孫の次男はアメリカのバークレーを出ていて、
バークレーは世界の大学でも常に上位で、東大よりはずっと上位にいる。
そんな大学に推薦されたのだから高校での成績もよかったのだろうか?
ただ彼はそんないい大学を卒業しているのだが、
会社に就職などするのではなく、今はサッカーのプロ選手なのである。
 
サッカーのプロなどは学歴などは要らないと思うのだが、
若いころは兎も角、サッカーが出来なくなったら、どうするのだろう?
とは思う。
 ただ彼はこんな絵も描ける才能もあるし
 
 料理もめちゃ得意だというから、
 サッカー選手を止めても何とかなるのだろう。
 人の人生いろいろだが、「学歴や実力」も大事だが、
 「最後はそれよりも運かな」と思ったりもする。
★ 私自身はもう90歳だから、ほぼ人生も終わりだが
    現役時代も「自分のやりたいこと」ばかりが出来て、不満は全くない。
 これからの人生は「体力次第かな」と思っているが、
 その「体力」には今のところ相当の自信があって「TOPレベル」にあると言い切れるし、毎朝動いて頑張っている。
 でも、これから先「どんな人生」になるのだろうか?
 家内が元気なうちは大丈夫で「家内次第かな」とも思っている。
 そう言う意味では「家内と巡り会えた」のが人生で一番の幸運だったのかも知れない。
 ホントに今は「自分のやりたいことだけやって」生きている人生なのである。
 若し家内がいなければ、こんなことにはならないのである。
 90年も生きられたのも「運がよかった」のだと思うが、
 やはり「人生、その人にツイている運かな」と思ったりもしている。
2023年2月17日

私の一番の大仕事? SPA直

投稿者 : rfuruya
★ 現役時代は「世の中でもはじめて」という種類の大きなことを結構いろいろとやって来たのだが、
 日本で初めて一般のライダーが走れたサーキット「SPA直入」を創ったことが、私の1番の大仕事だったかも知れない。
 それは1988年時代のことだが、
 当時も日本には鈴鹿FISICOもその他いろいろサーキットは有ったのだが、
 それはどこも「レースライダー」以外は走れなかったのである。
 世はまさに「レーサーレプリカ全盛期」で街にはそんなスポーツ車が溢れていたのだが、
 そのユーザーたちはサーキットは勿論は走れないし、
 走るところがないので、峠にたむろして「峠族」などと呼ばれていた。
 各メーカーとも「レーサーレプリカ」を開発しておきながら走る場所は「ユーザーまかせ」というのは無責任だなと思ったりもしていたのである。
★当時カワサキは大分県直入町に広大な土地を持っていて、それはテストコーを創るべく購入したのだが、
 当時のHY戦争などのあおりで、カワサキの二輪事業は危機に瀕していて
 テストコース建設などとてもではなかったのである。
 土地を購入しテストコースを創ることで、地元の直入町には人も雇用するなど約束していたので、
 直入町はいつまで経っても実現しないテストコースがいつできるのかと
 年に何度も明石工場までやって来て督促するので困り果てていたのである。
 そんなことで費用の掛からない「モトクロス場」でも造ってお茶を濁そうかという話になっていたのを私が聞きつけて、
 「小規模なサーキット」を創ってはと提言したのである。
 ちょうど営業にいて「峠族」は問題だと思ったし、
 「小さなサーキット」で一般ユーザーを走らせたらいいと思ったのである。
★「一般のライダーを走らせる」のは当時の常識では「危険」ということだったが、
 二輪車とはそんなに危ない乗り物なのか?
 一方通行で、信号もないし、カーブには転倒時の安全地帯もある。
 「出来る限り安全に徹したサーキットを創ればいい
 ということで、当時の高橋鐵郎本部長の承認を取って踏み切ったのである。
 土地はすでに所有していたので、建設費は4億円弱でできたのだが、
 こんなコースを創るには本社の承認が要るのだが、
 サーキットを造るなど川重では初めてのことだし、
 その是非など判断ができる人は当時の川重にはいなかったのだが、
 当時は大庭浩社長の頃で、大庭社長が単車事業本部長をされてた時の番頭役を私が務めていたので、絶大の信頼があって、
 「古谷がやると言うのならまあいいか」ということで承認が取れて、
 本社の企画・財産あたりも具体的な建設に大いに手伝ってくれたのである。
★若いころからレースを担当していたので、何となくは解っていたのだが、
 さて、ホントに創るとなると会社でも経験者は皆無なのである。
 それに担当してくれた工事会社もサーキットなど初めてなのである。
 それを私と、私の後のレースを担当してくれた岩崎茂樹と二人でスタートしたのである。
 そのためには既にあった地方のサーキットを観に行ったりしながら、
 まさにすべてを二人で「起案」したのである。
 これがSPA直入だが、1周2kmほどの小さなサーキットだが、
 安全のためにコース幅は鈴鹿サーキットと同じだし、
 カーブは登り勾配に配置して、グリーンベルトはめっぽう広くとっている。
 サーキットの建設費はコース舗装費などよりも一番多く掛るのは「土を動かす量」なので、
  出来る限り「動かす土の量」が少なくなるようになコース設計をしている。
  
 そんなことを想いだしながら、改めて「SPA直入」を観ているが、
 日本で「一番美しいサーキット」と言えるかもしれない。
 こんな自然環境の中に存在している。
 
★ なぜ、いま突然 SPA直入のことをアップしてるのかというと、
 極く最近の二輪車新聞の記事に
 「愛車でサーキット体験」それも「レーシングスーツ不要」というのである。
  
 「時代も変わるものだな」と思ったのである。
 「SPA直入」は1990年4月15日にオープンし、
 当日は直入町に4000人ものユーザーが集まり、
 直入町長は「有史以来、直入に一番多くの人が集まった」と挨拶されたのを想い出す。
 直入町は自然豊かな環境の中にあって、長湯温泉で有名なのだが、
 SPA直入のSPA は温泉だが、もう一つの意味は
 「スパ・フランコルシャン24時間レース」などで有名なベルギーのサーキットの名前と賭けている。
 その名付け親は、物知りの「岩崎茂樹」なのである。
 いまカワサキは九州にオートポリスSPA直入の二つのサーキットを持っているのだが、
 SPA直入は当初の基本コンセプト通り、今でも結構沢山の方々に愛されているサーキットなのである。
  
★ 当時、日本のどこのサーッキットも一般ユーザーは走れなかったのだが、
 先ほどの記事にもあるように、
 今では日本中のサーキットで一般ユーザーが走れるようになったのである。
 これはその当時のSPA直入での写真だが
 左から岩崎茂樹、いろいろと応援してくれた田崎雅元さん、
 それにのスリーショットである。
 
 新しい時代を切り拓いていったという意味で、
 小さなサーキットだったが「私の一番の大仕事」だったかも知れぬし、
 こんなことは私以外には、なかなかやる人はいないのである。
 ある意味「無茶」なのだが、
 何となくうまくいくのは「ツイている」のだと思う。
2023年2月16日

ガクチカ って何かな?

投稿者 : rfuruya
★ NHKのニュースで「ガクチカが書けない就活生」などというニュースが流れていたが、
 「ガクチカ」の意味が解らない。
 
 日本人は何でも略してしまうのが好きな民族だというが、
 そう言えば世の中には略語が充満していて、
 私なども普通に使っている略語もいっぱいだが、
 ちょっと昨今は行き過ぎかな?とも思ってしまう。
 「正しい日本語が失われてしまう?」などとも言われるが、
 もうこの流れは止まらないようにも思う。
 
 ところで「ガクチカ」とは、就職活動においての用語、若者言葉で、
 就職活動中の学生が面接官に答える「学生時代に力を入れたこと」を略したことのようである。
多くの企業が採用時に「ガクチカ」の質問をしているのだが、
コロナ禍によってオンライン授業が増え、サークル活動やアルバイト、留学も制限されるようになった結果、
学生時代に力を入れたことがなかったり、事情によって思うような大学生活が送れなかったりしたことから、
ガクチカ」が書けない学生が増えたということのようである。
なるほどとも思うが、世の中はどんどん変わって行くのである。
★「ケータイ」「ラジカセ」のように、本来の言い方である「携帯電話」「ジオ・カセットテープレコーダー」の一部を省略した略語なのだが、
略語なしではやっていけない現実がある時代なので、略語に対しても柔軟な姿勢で臨む必要がありそうである。
現在では略語の方に代用物という感じがなくて、「テレビ」「ガム」などは本来の言葉を使う方が不自然である。
 ただ昨今の若者の使う簡略語は単に短くしたものだけではなくて
いろいろあるので、私など半分は意味不明なのである。
 
★ 日本語は美しい言葉のようだが、
 考えようでは和歌も俳句も長い言葉での表現を簡略化したような気がする。
 ただ、それはそれなりにルールがあったが、今の若者言葉にはルールがない。
 果たして今後の日本語はどのような変化が起こるのだろう?
 若者だけではなく「ガクチカ」などはNHKのニュースで流れる時代なのである。
2023年2月15日

カワサキZの源流と軌跡

投稿者 : rfuruya

 

★ カワサキZ1誕生50周年を記念して「カワサキZの源流と軌跡」の記念出版で、確か3回目の発刊である。
 
 当時のカワサキの単車事業を支えた浜脇洋二・大槻幸雄さんを筆頭に
 こんなメンバーたちが執筆をした共著なのである。
 私もこの本の最後の章を担当していたのだが、
 今回は記念出版でカワサキモータースの伊藤浩社長
 「名車からのエール そして将来への展望」と題して
 最終編を新たに執筆されている。
  
★こちらが「国内レースとZ2販売」と題した私の最後のページなのだが、
 NPO The Good TImes の話や個人ではFacebookで今でもお付き合いのある
 清水久美樹・北澤秀一さんや登山道夫さんの名前も登場するし、
 カワサキの現役時代結構密接なお付き合いのあった岩城滉一・北見紀生さんなども登場ししたりする。
 最後に触れているようにこの本が出帆されたのは
 Z40周年だったのだが、それから更に10年の月日が流れて
 カワサキZはますます健在なのである。
 私はこの世にはいないが、
 ひょっとしたら「カワサキZ100周年」があるかも知れない。
 こんなカワサキZがどのようにして生まれたのか?
 当時の現役だった諸兄が色んな話を披露している。
 カワサキファンの方・二輪愛好者の皆さん
 是非、一度お読みになってみて下さい。

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