2019 6月

2019年6月30日

カワサキアーカイブス 私が入社したころの川﨑航空機工業という会社 その4

投稿者 : rfuruya

カワサキアーカイブス  私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その4

 

★ 私は昭和32年(1957)に川崎航空機工業に入社したのだが、新しく明石に単車の一貫生産工場が出来て、オートバイの生産が始まったのが昭和35年、私が初めてできた単車営業に異動したのが昭和36年11月なのである、
 それまで会社としても全く未経験分野の民需商品の末端販売は、『上の人たち』先輩たちも未経験の分野だったから、それを担当したのはその当時に入社した若い人たちが殆どだったのである。
 私より上の人たちで言うと、アメリカ市場を開拓した浜脇洋二さん、後Z1を開発した大槻幸雄さん、レースも担当しF21Mのエンジン開発の安藤佶郎さん生産関係を推進された中村治道、髙橋鐵郎、川崎芳夫さんなどだが、
むしろ、私より後の33年度入社の田崎雅元・稲村暁一、34年の北村敏、35年は百合草・武本・種子島、上月くんなど名前が書ききれないほど多数、36年は野田浩志、佐伯武彦、37年は前田、小池くんなど、38年の井川くんと続くのである。
カワサキの創生期の時代を引っ張った人たちとはこんな入社早々の若手だったのである。
 特に昭和38年(1963)頃からの海外市場の現地に赴いたのは、すべてと言ってもいい『若手諸君』だったのである。
 そんな若手に任さねばならなかったのは、事業の事情から言って『仕方がなかった』のだと思うが、任された若手もよくやったものである。
 当時の川崎航空機工業自体が若い会社で、全軍の指揮をとられた岩城良三本部長も今で言うなら部長クラスの年齢だし、技術の山田熈明、営業の苧野豊秋さんなども新人課長であった時代なのである。
 そんな経験をしたものだから、私自身は『人間は年と共に成長する』などはウソだと思っていて、人間20歳になれば既に何でもできる判断力も実行力も身についているのだと思っている。
昔の戦国武将の活躍がそうだし、川崎航空機時代の若手も、それに負けない活躍をしたのである。
★当時はカワサキも4輪の開発も手掛けていて、もう殆どできていたのに、当時の川崎重工や川崎製鉄の『グループのトップ層の反対』で陽の目を見なかったのだが、これが昭和35年頃の話で『4輪がダメなら二輪』ということになったのかも知れない。この4輪の4サイクルエンジン開発を担当したのが昭和33年入社の稲村暁一さんなのである。
  
★山田淳一さんが纏めてくれた記事には、このほかにこんな源平芸能合戦や、当時のレース関連のことも入っているので、ご関心のある方はご一読を。
こんな感じのオモシロい自由な雰囲気の会社で、こんなことを担当してたのが、入社して間もない私だったのである。
★ それにしても『よくやったな』と思う。
 当時は二輪メーカーは100社以上もあって、大企業の三菱・富士重・トーハツ・BSなどもいたのだが、浜松のホンダ・スズキ・ヤマハの特に営業面でのスピードに大企業はついて行けずにみんな脱落して結局『カワサキ』だけが残ったのである。
カワサキが残れたのは『第1線の営業を川崎航空機の人がやらなかったからだ』と私は思っていて、それはほぼ『間違いない』のである。
 最初は国内市場だけで『カワサキ自販』が担当したが、その時のトップは川航の専務さんだったが、『従業員は全てメイハツ・メグロの人』でスタートしたのである。
 海外のアメリカ市場は、濱脇洋二さんが旗を振られたのだが、徹底した現地主義で実際の経営をやったのは『二輪知識の豊富なのアメリカ人たち』なのである。
今回のアーカイブスも今は12人の日本人が語っているが、次は二人のアメリカ人が『アメリカ市場でのカワサキの歴史』を語るようである。
 そしてヨーロッパ市場の開拓に乗り出したのは10年もあとのことだが、ヨーロッパを開拓したのは、メグロ出身の私より幾つか下の『内田道男』さんなのである。
  
 これは1988年10月に『カワサキファクトリーチーム25周年を記念』して私が主宰したOB会なのだが、当時の現役たちも参加しているのである。
25年前と言えば1963年・昭和38年のことだから、二輪事業がスタートしてすぐの時代なのである。
この1列目に座られている方が、『カワサキの二輪事業の推進者』だと言っていい。
 真ん中に西海義治さんを挟んで左に山田熙明、右に髙橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄さんと続いていて、左側にはメグロから来られた糠谷さん松尾勇さん、
さらに第二列目には私の横が田崎雅元さん、平井稔男さんもいるし、3列目には北村敏さんも武本さんもいる。
 『カワサキアーカイブス』を創るのが少し遅かった。
 この方たちがご存命の頃に創ればいろんなお話が聞けたはずである。
 でも今回のアーカイブスでも、いま12名の方が語られているというのだが、この写真の中からも大槻・糠谷・田崎・私と4人の方が語られているし、この会には欠席の百合草三佐雄さんも12人の中に入っているようなので、当時のレース関係者は、その後のカワサキの二輪事業の中枢を担ったと言ってもいいのである。
 この写真、ライダーたちも、安良岡健・山本隆・歳森康師・金谷秀夫・星野一義・清原明彦などなど有名人がいっぱいなのである。
 みんな川崎航空機工業時代を生きた人たちなのである。
川崎航空機工業という会社、その後の川崎重工業とはちょっと違った自由な雰囲気のあった『オモシロい懐かしい会社』だったし、そこで働けたこと、仲間たちに出会えたことが、今の私に繋がっていると思っている。
 『私が入社したころの川﨑航空機工業という会社
 4回続けての掲載だったが、コレで一応終わりにしようと思っている。

カワサキアーカイブス 私が入社したころの川﨑航空機工業という会社 その3

投稿者 : rfuruya

カワサキアーカイブス 私が入社したころの川崎航空機工業という会社  その3

 

★昭和36年当時、カワサキに初めて単車営業課が出来て、私が異動したころの話である。
 それまではエンジンだけを造っていたカワサキが明石に一貫生産工場を造ってオートバイの生産を始めたのである。
 当時の川崎航空機工業でも初めてのことで、『造る』のは兎も角、『末端に完成品売る』という経験など全くない時代のことなのである。
 当時はトヨタもトヨタ自販とトヨタ自工があって、それを真似たのかカワサキも『カワサキ自販』を造ってその社長は川崎航空機の専務が兼務したりしていたのだが、従業員は旧メイハツやメグロの人ばかりで、その会社に単車を売る営業を私が担当していたのである。
 次項でちょっと紹介するが、その頃カワサキも4輪車の開発をやっていて、Zのエンジンを担当した稲村暁一さんは、そんな4輪のエンジン開発を担当していたのである。
 まずはこの時期の話、読んでみてください。
 
 
★当時のカワサキ自販の総務課長兼広告宣伝課長をしていた『小野田滋郎』さんは私が現役時代出会った人の中で『最高に凄い人』だった。
 旧い私のブログの一文に小野田さんのこと、こんな風に書いている。
  
カワサキのレース活動は『青野ヶ原モトクロス』のB8で始まったというのが定説だが、実はもっと前のB7の時代にカワサキ自販で小野田滋郎さんがヤマハから三橋実を引っこ抜いて始めているのである。
 三橋実は、日本でのはじめての鈴鹿サーキットであった本格的なロードレースの250㏄のチャンピオン(ヤマハ)なのである。
 彼が厚木に創った『カワサキコンバット』には安良岡健なども参加したし、あの星野一義もそこからレースを始めているのである。
こんな話を知ってる人は、カワサキの中でも今ではホントに少ない。
明石のカワサキの中では、井出哲哉さんがこのB7のモトクロスには個人的に絡んでおられるのである。
 このB7に乗ったライダーが三吉一行、不思議なことに若い頃の本橋さん(ヤマハ)も乗ったことがあるとか、これはご本人から聞いた話である。
                 (つづく)
2019年6月28日

私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その2

投稿者 : rfuruya

カワサキアーカイブス 私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その2

★続きもモノの 『私が入社したころの川﨑航空工業という会社』 第2話である。
 3ページ、4ページ目は文章ばかりだが、ここにご紹介するので、まずその文章をお読みになってみてください。
  
 
★ざっと、こんな話なのである。
 私は昭和32年(1957)入社なのだが、最初は財産課に配属されて昭和36年11月に新しくできた単車営業課に異動するまでの約4年間の話なのである。
 私が入社した時の給料は12000円で、考えられないほど安いのだが、日本のその当時はそんなレベルだったのである。
まだまだ貧しくて、会社の机や椅子や自転車なども、今では考えられないほど皆さん『欲しがる』ので、新人ながらその分配権を持っていた私は、明石工場全体に結構『顔を売っていた』オモシロい時代だったのである。
ここでは、私が入社してすぐ配属された『財産課の償却計算』の話が主題になっている。まだこのころには日本にはIBMという会社もない時代なのである。
私自身は財産課で大量の工具器具備品の償却計算を担当していて、その償却計算に掛かる時間が『大変』だったのである。
なぜ、私が工具器具備品の担当になったのかというと、これは財産課の先輩たちに『はめられた』かも知れないのである。
新人社員が入ってきたということで、担当分けをしようと仰って、財産課には土地建物から機械器具などいろいろムツカシイ分野もあるのだが、土地の所有権の問題や機械の処分など専門知識がいるムツカシイ分野よりは『机や椅子や自転車なら解るだろう』と言われて、私の担当は『工具器具備品と車輌運搬具』となったのである。
確かに、その分野はそんなにムツカシクはないのだが、償却計算だけは、その数が何倍もあって、1年中計算機を回し続けないとできないほどの量なのである。
 そんなことから『償却計算の機械化』をそれもIBMを使ってやろうというような『それたこと』に挑戦したのだが、新人でも好きなことを自由にやれる『会社の雰囲』があって、新人の私が『IBMでの償却計算の機械化』に取り組んだのが入社2年目のことなのである。
そのための『品名のコード化』などを本社も岐阜工場も含めて大掛かりでやったので2年程掛かったのだが、なんとか完成したのである。
そんな償却計算の機械化が完成すると財産課に計算する人間など不要になったので、私は新しく事業化された『単車事業』の新設された『単車営業課』に異動することになったのである。
★従来は明石工場ではジェットエンジンと発動機の小型エンジンを扱っていたのだが、昭和35年度(1960)に明石工場に単車の一貫生産の工場を建設して『カワサキの単車事業』がスタートするのである。
 その生産工場に移ってきた人たちはその殆どがジェットエンジン工場からで、私がその後関係の深かった苧野豊秋髙橋鐵郎・大槻幸雄・田崎雅元さんたちはみんなジェットエンジンから来た人たちで、カワサキの生産管理システムなどは当時のアメリカの新しいシステムが採用されたりして、部品ナンバーの取り方一つにしても、当時の日本の最先端を行っていたのだが、オートバイを造ったり、それを売ったりするのは初めての経験で、それはなかなか大変だったのである。
 特に私が異動した新しい単車営業は、先任者など誰もいなくて新人の私が新しいシステムをそれこそゼロから創っていったのだが、性格的に『太平楽』だったので務まったのだと思うのである。
 いよいよ次回から『カワサキの二輪事業』の創生期の話がスタートするのである。
                         (つづく)
2019年6月27日

私が入社したころの川﨑航空機工業という会社  その1

投稿者 : rfuruya

カワサキアーカイブス 私が入社したころの川崎航空機工業という会社  その1

★今年の2月にインタビューを受けて、私の『カワサキのアーカイブス』は始まっているのである。
膨大な当時の資料をお渡ししたものだから、それを纏めるのに4ヶ月も掛かっているのだが、その内容は見事に纏まっているのである。
 そんなデイスクの1枚に『古谷錬太郎 関連データー』というのがあって、その中には、私が提供した膨大な資料などが全て収められているのだが、
           
その中の一つに『私の入社したころの川崎航空機工業という会社』 という項目がある。
これは、このプロジェクトの一員としてインタビューアとして活躍された山田淳一さんが、私のブログの中から、『川崎航空機時代』を纏めて集約された労作なのである。
  一番下の資料がそれである。
      
★私も読んでみて、これは間違いなく私が書いたものなのだが、こんなに延々と纏めて書いた記憶もなかったので、山田さんにお聞きしたら、私のブログの幾つかの『川崎航空機時代の話』を繋ぎ合わされたようなのである。
 それが結果的には、『川崎航空機工業』という会社がどんな会社だったのか、当時をよく表しているのである。
 私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社したのだが、なかなかオモシロいと思うので、ちょっと連載で、私なりの感想を改めて加えながら纏めてみたいと思っている。
 『カワサキはオモシロい』と感じる方がもしおられたら、川崎航空機という会社がオモシロかったから、そうなったのだと私は思っている。
川崎航空機は、戦前からあった歴史のある会社なのだが、戦後軍事産業であったことから中断されてしまって、昭和27年(1952)に再開したのである。
その後、昭和44年(1969)の3社合併で川崎重工業となるまでの17年間存続した会社なのだが『カワサキの単車事業の創生期』は、川崎航空機工業籍の人たちで創り上げられたのである。
 それはどんな人たちで、どんなことをしていたのか?
 どんな会社だったのか?
 この資料はそう言う意味では『アーカイブス』そのものなのである。
 山田淳一さんが纏めてくれた資料は16ページに亘っているのだが、それらを順次ご紹介しながら、改めて私の感想を加えていきたいと思うのである。
 まずは冒頭の2ページである。
   
★ まず、こんな書き出しで始まっているのである。
この工場は明石の西、『西明石』にあるのだが、私は元々が明石の生まれだし、小学生の頃に、伯父がやってたホテルが当時の川崎航空機の軍人たちの宿舎に徴収されたこともあって、個人的にも関係があったし、当時の川崎航空機のことも聞かされたりはしていたのである。
 どこまで確かなのかはよく解らぬが、多くの明石市民が徴用されていたし、その従業員は10万人などと言われていて、工場の道が広いのはそれくらいの巾がないと通勤に歩けなかったそうである。
 私たちが現役の頃、事務所になっていた建物を通称『二更衣』などと言っていたのだが、これは戦前の『第2更衣室』の呼び名の略で、その一事を見ても、何となく解る気がするのである。
私は財産課に配属されたので入社早々課長に連れられて会社の土地を見て回ったことがあるのだが、間違いなく今の2倍以上あったと思うし、西のほうでは当時の戦後の食糧難で、近くの住民が畑などにしていたりしてたのである。
当時の会社の経営は非常に苦しかったようで、爆撃でやられた工場の鉄骨や、土地や機械などの『売り食い』で繋いでいたりしたのである。
 こちらが2ページ目である。
 
この記事の写真にあるように工場の中の道幅はこんなに広いのである。
そして、再開された川崎航空機が定期採用者を多く採りだしたのは、私が入社した昭和32年からで、それまでの採用者はそんなに数は多くはなかったのである。
 後、アメリカ市場を開拓された浜脇洋二さんやZ1の開発責任者の大槻幸雄さんや、私と長くレースで一緒だった安藤佶郎さんなどは3年程先輩なのである。
 3年程と頼りないのは、当時のそのレベルの人たちは、旧制や新制大学とややこしかったし、長く私の上司だった髙橋鐵郎さんなどは海軍兵学校から、また大学に行かれたりしていて、上の方の歳はよく解らなかったのである。
 そんな方たちはみんな航空機に憧れて入社された方も多く、私も含めて二輪車など担当するとは全く思っていなかったのである。
 カワサキが少なくとも二輪事業をやってると認識して入社されたのは、昭和35年度以降の方たちだと思ったほうがいい。
 まずはそんな時代で当時は『ジェットエンジン』 と 『発動機の主として小型エンジン』を開発・生産していて、井関農機や、東洋工業やいすゞなどと関係があって、歯車・ミッションの納入などが主だったのである。
 二輪車のエンジンも作ってはいたが、エンジンだけを『メイハツ工業』に出荷していたのである。
                            (続く)
2019年6月25日

バランス感覚  雑感

投稿者 : rfuruya

★ 人それぞれいろいろだが、知能や体力などの他にそれらを総合した『バランス感覚』みたいなものが、結構大事だなと思っている。

 会社の経営などでも、一番大事なのは『経営のバランス』で短期間の損益結果などよりも『バランスシート』に現れる内容が一番、その会社のいまを表しているのだろう。
 私自身は特に大学では、『いっさい』と言っていいほど勉強はしなかった。
 なぜ? と言われても困るが、勉強する気分になれなかったのである。
 当時はホントに就職難で、大学は『いい会社に就職する』ための手段で、そのためには『優の数』を一つでも多く取るという風潮が強く、どうもそれがイヤで逆に反発したキライがある。
 商科大学なのに『簿記』も採らずに卒業したので『バランスシート』など一切解らなくて、会社に入ってから岩城本部長などに『お前は商大出なのに簿記も解らぬのか』と冷やかされたりしたのである。
最初の営業が東北で、当時は未だ自前の代理店時代だったが、その状況を見ていると『カワサキに協力的で沢山数を売る代理店ほど、その経営が悪化してしまう』のである。
 これは、背伸びして沢山売ると資金繰りが苦しくなり、銀行へのメーカー保証やメーカー借入が発生したりして、『営業内』は黒字でも『営業外の赤字』が大きくて、結局ダメになりメーカーの傘下に入ってしまうことになるのである。
 代理店に限らず、カワサキのメーカーでも『力以上に頑張ったら』すぐ事業部の経営はおかしくなってしまうのである。
 そんなことから『バランスシート』には至極関心があって、私なりに勉強するようになったのである。
 その後も直接、世界の販売会社の経営に関与する機会も多かったのだが、一生懸命努力して沢山売るという営業内よりも、遊んでいても自然に売れる『仕組み・システムの構築』ばかりをやっていて、私の現役時代は一言で言うと『カワサキのブランドイメージ』と『総合的な仕組みの創造』だったのである。
 そんな私自身の独自の『経営のバランスシート』がこれである。
バランスシート』などややこしくて解らん、という人が多いのだが、それは『貸し方や借り方』などとムツカシイことを言うから解らなくなってしまうので、『単純に右と左』で、それが同じ数字でバランスするようにできていると思えばいいのである。
 私流の説明を技術屋さんの髙橋鐵郎さんや田崎雅元さんらに説明したらすぐ理解されて、田崎さんなど技術屋さんは関心が出来ると勉強するものだから、めちゃ詳しくなってしまうのである。
 左に資産が来て、右にはそれを調達する資金となっていて、『流動資産』は1年の間に現金化されるものが、現金から順番に売掛金や在庫などと並んでいて、1年以内には通常現金化はしない財産物件や土地・建物などは『固定資産』とされているのである。
 右の方の『流動負債』は同じように買掛金や銀行の短期借入金など1年以内に返却しなければならないものから並んでいて『流動資産>流動負債』でないと返済が苦しい即ち資金繰りが悪いということなのである。
 そして、右の下の方には、資本金やそれまでの経営で貯まった利益剰余金などの額が表示されていているのである。
 それを図にして表すと上図のようになり、『流動資産の額』が『流動負債の額』の2倍ぐらいあると健全企業だと言われているのだが、日本の企業はなかなかそうはなっていないのである。
★ 普通のバランスシートはそんな説明でいいのだが、『私独自のバランスシート』は、その下に『企業イメージやソフト』の部分をつけていて『いい企業』ほどその部分が大きくて、それはその企業の人の成長とバランスしていると思っているのである。
そのために『人を育成』し『カワサキイメージの創造』こそが、数値以上に大事だと思っていたのである。
             
                    
私の現役最後の国内のカワサキ販社が具体的にどんな数値だったかというと、
 ● 売上高は年間400億円
 ● バランスシートの総資産は100億円で、年4回転
 ● 資本金は1億2000万円だが・剰余金との合計の自己資本額は35億円
 ● 当時の企業としては珍しく、銀行借入金はゼロ円
まあ、ちょっと世の中には珍しいほどの超優良企業だったと言っていいのである。
             
 そんな国内グループの運営はこんな活動方針で、『ケイ・スポーツ・システム』という『遊びのソフト会社』を創って、そこを中心の活動だったのである。
 その結果が台数で言うと7万台を売り、400億円という結構大きな売上高になっていたのである。
★こんな当時の話を『カワサキアーカイブス』の中でも語っているのだが、この二つの資料も、今回頂いたカワサキアーカイブスの資料編のなかにあって、当時の川重の大庭浩社長の指示で、川重の関係会社社長会の席上で、川重の全役員と関係会社の社長さんたちに1時間ほど説明した時の資料の一部なのである。
  
 世の中にはいろんな業種があるのだが、二輪車ほど『末端のユーザー』と密接に繋がっている、業種は少ないのである。
それ故に、ホントに『末端のユーザーの気持ち』を理解する、理屈ではない『想いみたいなバランス感覚』が経営者には必要だなと思っている。
 『カワサキアーカイブス』の中に、『私独自のバランスシート』を見つけての私自身の『バランス感覚・雑感』なのである。
2019年6月21日

カワサキアーカイブス と 私のアーカイブス

投稿者 : rfuruya

カワサキアーカイブス と 私のアーカイブス

 カワサキ単車物語50年

★ いまカワサキでカワサキの二輪事業のアーカイブスを作成中で、私もその一人に選ばれて、今年の2月にインタビューを受けたのだが、この度編集完成して、家まで届けて頂いたのである。
   
 2時間ほどのインタビューだったが、それを1時間10分ほどに纏められていて、なかなかオモシロい内容に出来上がっている。
 私自身は昭和36年(1966)の単車事業スタートから平成9年(1997)までの31年間を一貫してカワサキ二輪事業に従事していたので、自分史みたいなところもあるのである。
 その間、結構事業の真ん中にいたこともあって、この30年間のカワサキの出来事をこんな資料に纏めて持っていて、このインタビューもこんな資料に基づいたものになっているのである。
   
 今回のアーカイブスの担当部門の方が、『この資料』を貸して欲しいと言われたので、2月からお貸ししていたのだが、それも昨日戻ってきたのである。
 こんな資料は多分どなたもお持ちでないので、貴重なのである。 今回、その中から必要なものは会社として残されたようなので、実はホッとしているのである。
 これは勿論私にとっても貴重なのだが、量が多すぎて今後多分処理に困るだろうとも思っていたので、この際整理して、3冊に纏めてしまったのである。
 現役の時からずっと思っているのだが、『整理ができない』人は資料を持ちすぎて『捨てない』から、結局は『整理ができない』のである。
 今回、アーカイブズも出来たので、この3冊に整理してしまった。
  
 従来の資料の現物ももちろんあるのだが、このように年度ごと、月毎、日付ごとに既に整理してあったので、それだけに纏めたら、ちょうど3冊のファイルに納まったのである。
 コレで昭和32年4月1日の入社当日から平成9年の現役最後の日までの31年間が、日単位で見ることが出来るので、これはカワサキの二輪事業の歴史であると同時に、私の『自分史』の一部だと思っている。
 こんな資料に纏めることが出来たのは、20歳の大学2回生の時にスタートした日記が、86歳の今も続いているので、この資料も日記をベースにチェックしてあるので、まず間違いはないはずだと思っている。
★ ところで『カワサキアーカイブス』の製作は昨年スタートして未だ途中のようで、今のところ田崎雅元さん・大槻幸雄さん・稲村暁一さん・川崎芳夫さん、百合草三佐雄さんなど私が今でも親しくお付き合いのある方の他、10人ちょっとのインタビューが終わってはいるようだが、まだまだ続いて行くのだと思う。
 それぞれの方たちがそれぞれの想いで『カワサキを語られる』ので非常にユニークなものに仕上がるだろう。インタビューの時間も1時間近くに編集されているようで、それなりの独特なものに仕上がっていくはずである。
 非常にユニークな取り組みで、インタビューをされている方の人選を見ても、別に職位には拘っていないようである。
 如何にもカワサキらしい取り組み方で、なかなかいいなと思っているのである。

2019年6月19日

ネットのシステム 雑感

投稿者 : rfuruya

 

★インターネットはブログに始まって、ツイッター・Facebook・Instagramなどいろいろとやってはいるのだが、そのシステムについては、ホントのところよく解ってはいないのである。
 横文字が多いし、結構いろいろとあるのだが、別にすべてが必要でもないので、覚える気にならないのである。
 最近はgooのブログのシステムが新しくなってウロウロした。やっと何とか慣れたかなという段階なのである。
 ブログも毎日1000人近い人たちが訪れるので多いほうだとは思うが、いろいろやっているネットの中で、一番多いのはツイッターだろう。
 一時は60万人を超えていたフォロワーも今は56万人ぐらいで落ち着いているのだが、有名人ではない一般人でのフォロワーの多さでは日本で18番目ぐらいにいるので、そのレベルは相当なものなのである。
 毎回最後にアップしているこんなリンクも、私独自のシステムなのだが、果たして何人の方がクリックされるのだろうか?
 
 56万人いても、毎日アップするツイートに対する『いいね』の数は、なかなか100人には達しないので、ツイッターも大したことはないなと思っていたのである。
 これもホントにごく最近になって『ツイート・アクティビティ』というのが横にあるのに気づいて、クリックして見るとこんなサイトが現われるのである。
 そして『28日間で339、485件のインプレッションを獲得しました』との表示が現われるのである。
 『インプレッション』とは何かなと思ったら、『ユーザーがツイートを見た回数』だそうである。それなら1日に1万人以上の人が見ていることになるので、相当なものである。
この28日間で一番沢山見たのはこんなツイートだったようで、これは22346人の人が見て、約1割の2412人が反応したと言っているのである。
 
★こんなことになっているとは、ホントにごく最近まで知らなかった。
 今更、これをどうこうしようという気持ちもないのだが、ネットは素人でもこんな多くのフォロワーを集めることが出来るのはオモシロい。
 少なくとも『情報発信』をしていることには違いないので、多くの人たちが見てくれてるのは、結構なことである。
 ツイッターには、毎日のgooのブログをツイートしているのだが、それを見る人は1万人いても、反応するひとは10%でさらにクリックしてブログを読む人はホントにごく僅かなのである。
 これは私のブログだけではなくて、世の中の一般の情報発信、すべてに共通して言えることで、情報発信してもなかなか読んでは貰えないのが、実情なのだろう。
 そんなことを言いながらも、現役時代から『情報発信・広報活動』には関心があって独自の仕組みで対応してきたのだが、現役引退後の今も『私独自のシステム』を創って、 毎日何らかを発信し続けている。
 『継続は力』などというが、何か『趣味のレベル』になっているような気もするが、まあそれもいいかと思っている今日この頃である。
 ツイッターの新しいツールを発見して、何となくホッとしているのである。

コメント (2)

里山公園のあじさい

投稿者 : rfuruya

 

★里山公園、『次はあじさい』と言われていたので、行ってみた。
 あじさい、梅雨時の花で、季節を感じる花である。
 『原産地は日本』で海外で改良されたものを『西洋あじさい』というらしい。
 紫陽花 と書き如何にも日本の花らしい。
 この公園、田中義好ご夫婦が三木市から土地を借りられて、桜やあじさい・松などを小さな苗から、一本づつ大事に育てられている。
 あじさいの名所は、日本にも多いが、こんなに沢山の種類が1か所で見られるのは珍しい。
大きいものは、もう何年も経っている。
こんなあじさいは、初めて見たような気がする。
 斜面に、何年も掛かって、見事に育てられている。
前回はこんな桜の時期にきた。
 
 場所は、緑が丘の西側、
  
西へ下っていく坂道の左側である。
 
 今からが、見ごろだろうから、お近くの方は一度足を運ばれたらいい。
2019年6月8日

道路と私

投稿者 : rfuruya

 

★『高速道路と自動車』という情報誌がある。
 道路の専門家や大学の先生がたが執筆されていて、その目次を見ても非常に高度な内容になっている。
 そんな情報誌から何故か3月に執筆依頼があって、私はどうも放っておくのは嫌な性分なので、すぐ原稿を書いて送ってあったのだが、忘れたころにその6月号が送られてきたのである。
  
 『道路と私』というテーマで、こんな書き出しでご指定の文字数で2ページに纏めている。
   
★こんな書き出しでスタートしているのだが、送られてきた情報誌の随筆を読み返してみても、私は一般の方よりは『道路』にはご縁があって生きてきたのだなと思う。
私はこの情報誌の母体である「高速道路調査会」がスタートした同じ年度の昭和32年に川崎航空機に入社し、昭和35年に新事業として二輪事業をスタートさせた当初からカワサキの二輪事業に従事し、主としてマーケット分野の担当をしたのだが、二輪事業は四輪とはちょっと違った販売店網を通じての「ネット販売」なので、各国に点在する販売店訪問の機会も多く、自らクルマを運転して「世界の道を走る」ということが多かったのである。
運転免許を取得したのは、昭和40年6月の27歳の時で、この年の7月に名神高速の西宮ー小牧間が開通したので、私の車の運転は高速道路と同時に始まったと言ってもいい。二輪のレース担当だったこともあって、鈴鹿サーキットに通うために西宮から栗東までの名神高速道路を毎月のように走っていた。
未だ免許を持ってる人のほうが少ないようなご時世で、高速道路を走ったことがある人など少ない時代だったのである。
昭和42年(1967)からは東北6県の担当となり、広い東北6県を車で走り回っていた。ただ当時の東北の峠越え道は、その殆どが未舗装の砂利道で、むしろ雪が降った方が走りやすいデコボコ道だったし、日本の道路舗装率は15%ぐらいでしかなかった。そんな日本の道路も昭和44年(1969)に東名高速が出来て以降はどんどんよくなって、「高速道路の快適さ」を身に染みて感じた、私自身はそんな世代なのである。
●東名道路が出来たちょうどその年には川崎重工・川崎車両・川崎航空機の3社合併があって川崎重工業となり、カワサキの二輪事業もアメリカ・ヨーロッパ・東南アジアなどの海外市場での展開が主流になったので、世界の道を走る機会にも出会うことになったのである。
海外出張は、国際免許でレンターカーを借りて、自らクルマを借りて販売店を訪問するのが殆どで、アメリカのハイウエーは勿論、ヨーロッパの各国、ドイツのアウトバーンもスペインのジブラルタルからのあの海岸線も、イギリスなども、東南アジアではタイ・インドネシアの各国も、アフリカのナイジェリアの田舎道も、ラゴスのビックリするような渋滞も知っているし、どこの国でも結構長い距離の運転を経験している。
 日本の国内も沖縄以外は全県自分でハンドルを握って運転しているし、海外での走行距離も相当なものなのである。
そんな世界の高速道路や道を走ってみて、世界の道というのは「無料」というのが普通で、高速道路にお金が要るなどというのは日本だけの特有なものかも知れない。
 アメリカではハイウエイとは言わずにフリーウエイだし、一般道路との違いは自動車が走る速さではなくて、道路の車線の数だと思ったほうがいい。
 アメリカのフリーウエイは片側7車線もある広い道が続いている。速さで言えば延々とますぐな道が続く地方の片側2車線の5号線などのほうが渋滞がなくてむしろ快適なのである。
 ドイツのアウトバーンで一番印象に残っているのは、運転マナーの良さである。自ら走るスピードごとにレーンの選択がなされていて、内側からの追い抜きなどは皆無である。こんなマナーの良さがスピード無制限を可能にしているのだと思った。
 そんなドイツのマナーの良さに比べると、アメリカも日本も運転マナーがいいとは言えないように思うし、昨今の日本での「あおり運転」などは論外と思ったりする。
●二輪事業に長く携わってきた当事者の立場から、二輪車と日本の高速道路や一般道との関係も述べていて、「二輪車」は省資源・省エネな製品だし、何よりも道路の占有面積は四輪に比べると圧倒的に少ないし軽いので、道路の負担も小さい道路にとっては「優しい製品」だと思っているのだが、率直に言わせて頂くと、高速道路も一般道もその殆どが四輪車をイメージして造られていて、道路設計に二輪車に対する想定とか仮説みたいなものは、ほとんどないのが現実なのではと思ったりする。
高速道路での「二輪車の二人乗り」が認可されるまでなかなか大変だったのもよく解っているし、高速道路の二輪車の料金が軽四輪と同じだという不満があるのもよく承知しているとも述べている。
 そんな二輪業界の中で、私自身は今もなお二輪車とは何かと関係して生きていて、この随筆に出会うきっかけになったのも、「二輪文化を伝える会」やそれを支援している「NPO法人GoodTimes」のウエブサイトがご縁で繋がったのである。
★ホントにご縁があって、いつも思っていることが語れてよかったなと思っている。
高齢者の事故など、道路上では毎日、いろんなことが起こる。
 道路をいま占有しているのは間違いなく『自動車』なのだが、道を歩く『歩行者』にとっても『二輪車』にとっても、優しい道路行政であって欲しいと願うものである。

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