2019 1月

2019年1月25日

年齢や経験など関係ない できる奴は若くても出来る

投稿者 : rfuruya
 

 ★ 最近は、朝のうちはジムなどに行って結構忙しいのだが、午後からは時間がいっぱいあって、いろんなことを考えたり、ネットを観たりしているのだが、時間が余れば『パンダ碁』を打てば幾らでも『時間は消費』できるので、退屈したり、持て余したりすることは全くないのである。

ファクトフルネス』などという孫が勧めてくれた本なども読んでみて、これはコレで結構、オモシロかったのでいつかまた感想を纏めてみたいのだが、ごく最近の感想としては、『日本国紀』にも『ファクトフルネス』にも人の平均寿命のことがいろいろと書かれていて、日本は世界でまさにトップクラスの平均寿命を誇っていて、私など今年は86歳になるのだが、昔の人たちの寿命は短かくて、30歳で亡くなってしまった人たちも多いのである。

そんななかで、『人間は年と共に進歩するのだろうか?』というのが、今思っている感想なのである。

結論から言うと、『若くても、偉い奴は偉いし、年と共にそれが進歩するようなことはない』のではないかな? と思っているのである。

私自身を振り返ってみても、学生時代や30代に取り組んだことでも『大きな立派なこと』も沢山あったし、年齢を重ねて進歩したとも思えないのである。

日本の社会のシステムが、まさに『年功序列』で、年を取らなければ『偉くさせないシステム』になっていて、若い人たちに『大きな仕事をさせない』ような仕組みにしてしまっているように思えてならないのである。

 

★スポーツの世界がそうであるように、ビジネスや政治の世界でも、『ホントは若い奴のほう』が『年寄りよりも鋭い』し、『発想もいい』し『いい仕事ができるのでは』と思ったりしているのである。

なぜ、突然そんなことを、というのは、ごく最近孫・古谷仁がこんな『ツイート』を発信したのだが、はっきり言ってすぐには理解できなかったので、ネットでチェックしまくったのである。

 

 

この『ツイッター』をご覧になって、すんなり理解できる年配者がどのくらいおられるのか?

若者フレーバー』も『ポストカマコンバレーコミユニテイー』も『PoliPoli』もよく解らなかったし、ネットで探しまくって何となく解ったのだが、Polipoliなど、無茶苦茶若いのに、博報堂や神奈川県庁などが放っておけないほどの存在感なのである。

ポストカマコンバレーコミユニテイー』とは、どうやら 古谷仁そのもののことを言っているようだし、

 

Polipoli』 は、こんなことらしい。

 

 

代表者はこんなに若いし、役員も学生さんなのである。

 

    
 こんな polipoli を放っておけないのか
 『博報堂、ブロックチェーンスタートアップ企業のPoliPoliとトークンコミュニティ企画・インセンティブ設計領域で業務提携
 と業務提携したようだし、神奈川県とも連携しているようである。
    
知事さんと会うのに、こんな服装だが、服装には似合わず、そのMisson は『テクノロジーで国家システムを再構築する』と壮大なのである。
     
★果たして、成功するのかどうかは今からだが、日本の社会もやっと、自由に競争できる時代になったのかな? と思っている。
 能力があっても、大企業や官庁の旧い仕組みの中で、能力が発揮できない時代が、ずっと続いてたのだが、やっと何とかなる時代の幕開けかも知れない。
 ただ、私たちが生きてきた『カワサキの二輪事業』はかっては若い人たちが思う存分力を発揮できたのだが、それは会社にとって全く新しい事業であったからで、今は普通の大企業に戻ってしまった感がある。
こんな若者たち、孫も含めて、鎌倉で頑張って欲しいと思っている。
カマコンバレー』 は、勿論『シリコンバレー』をモジッテいるのである。
 年齢や経験など、大したことではない、『できる奴は若くても十分通用するのだ』と思っている。
2019年1月22日

神戸新聞 大橋凛太郎くんの取材を受けた

投稿者 : rfuruya

 

★昨日は、『孫の門野真也』 のことで、神戸新聞の大橋記者の取材を受けた。

表題のほうは、『神戸新聞の大橋凜太郎くん』とわざわざ『くん付け』で書いてるのは「さん」よりは『くん』のほうが似合うと思ったし、初対面だったが、それくらい仲良く2時間ばかり雑談が出来たのである。

何よりも、24歳という若さがいい

孫の長男と同い年だが、よその子は孫と違って『しっかり』見えるから不思議だが、確かに『しっかり』しているのである。

今回の取材に対しては、私なりに『真面目に、丁寧に、事前対応』してあったので、それはちゃんと評価してくれていて、肝心の取材は要点だけのちょっとした質問があっただけで、あとはホントに『お互いに有益な雑談』をしていたのである。

 

★ こちらは写真は撮られたのだが、『大橋凛太郎くんの写真はないかな?』とネットを検索したら、写真も記事も見つかったのである

大橋凛太郎くん、こんな若者である。

野球部出身だが、グリークラブで歌にも自信があるのか 三木の『のど自慢』に挑戦している。

 

 

その時の、神戸新聞の記事である。

選んで歌った局が、『私らの年代』にはついて行けない、今どきの唄ではなくて

坂本九の上を向いて歩こう』だったのがいい。

そんな歌が、『似合う』 大橋凛太郎くんだった

 

 

ついでに、大橋記者の記事を探したら、こんなのがあった。

こうしてみると、三木もなかなか面白いまちである。

三つ、写真で『切り取って』掲載するので、ご関心のある方は、お読みください。

 

 

 

 

 

 

★是非、今日彼と話した『広報談義』をしっかりと身につけて。記者の道を堂々と歩いて欲しいなと思っている

こんな風に、『私が取り上げる』のは、間違いなく『大橋凛太郎は、ナイスガイ』だと思ったからである。

肝心の取材のほうは、何とか彼なりに『纏めるだろう』と思っている。

 

 

2019年1月21日

カワサキジェットスキー物語  14

投稿者 : rfuruya

★『カワサキジェットスキー物語』も、私が担当した時代は1997年あたりで一応の終止符を打つのである。

今回、ふとしたことから書き出した『カワサキジェットスキー物語』だが、その当事者の私も初めて知ったことが多かったのである。

 

 

●その一つがこの写真である。

1971年に発動機事業部でスタートしたジェットスキー・プロジェクトは、5年後の1976に一応の終止符を打っているのである。その長をしていたのが私と同期の村上さんだとは、知らなかった。

この時点で上市していた製品はJS400だけだったのだが、その後アメリカ市場での『馬力不足問題』に対応して、藤川哲三さんを長とする550へのボアアップチームがスタートして、今回いろいろお世話になった福井昇さんなどもその一員であったようである。

●そのJS550 が生産されたのが84年度で、たまたまリンカーン工場がスノーモービル縮小で危機に陥っていて、当時のKMC田崎社長の独断で生産を一挙に2万台ベースに引き揚げそれを売り切ったことから、ジェットスキー事業の規模は一挙に24000台の規模まで急激にアップしたのである。

今まではJS550にボアアップしたから、急激に売れ出したのだと勝手に想像していたのだが、受注生産でもないJSなのだから、2万台を造らない限り、2万台を売ることは不可能なのである

● この販売台数の増大が、正規の事業として単車事業部として育てようという機運になり、明石の企画サイドにプロジェクトチームを作ってその対策がスタートしたのである。この提言をしたのは当時の企画室の武本一郎さんであり、具体的には85年8月から鶴谷将俊さんが具体的にプロジェクトの旗を振ることになるのである。

●86年度には福井昇くんもメンバーに加わり、ヨーロッパ・国内市場対策も進み、87年からは国内販売対策も具体的に進んで『ジェットスキー・プラザ』がスタートし、カワサキジェットスキー販売(KJS)という専門会社もスタートして、その販売形態も確立していくのである。この辺りの販売網対策の立案は、私自身が担当したのでよく解っているのである。

●87年度半ばには単発統合もあり、営業部門に正規のジェットスキー部門もできて、私自身が企画から営業部へ、さらに88年10月からは国内市場担当になったのだが、国内のジェットスキー事業は年間200~300台のレベルから、91年には7000台の販売規模にまで躍進したのである。

●その91年度からは、このプロジェクトをスタート時点から推進してきた鶴谷将俊さんが国内JJSBAの3代目の会長に就任して、国内JJSBA設立10周年を記念して、91年11月に琵琶湖近江舞子で開催した『ワールドカップ』には、アメリカのトップ選手を招いての盛大な大会となるのである。

 

 

 

★当時は田﨑雅元さんとこのジェットスキー・プロジェクトで打ち合わせなどしたことは一度もなくて、アメリカと日本でそれぞれ勝手な思惑で動いたのが事実なのだが、今思うとホントに、不思議なご縁で繋がっていて、当時から40年近くも経っている今でもこの『ジェットスキー物語』を書こうかなと思ったきっかけは、田崎さんからのメールや、送って頂いた写真がその『きっかけ』なのである。

 

KMC社長(川重では若手部長)時代の若い頃の田崎さんである。

このころ単車事業本部でジェットスキーに乗ることができたのは、「田崎雅元さん1人」だったかも知れない。当時、明石の単車事業本部ではジェットスキーに関わっている人は1人もいなかった時代で、発動機事業部がエンジンをリンカーン工場に送り、KMCの製品としてアメリカだけに売られていた『継子製品』だったのである。

 

これが、85年に単車の技術部が最初に開発を手掛けたJS300Aの試作品である。

モペットのコンセプトで、初心者向きに小型の舟艇を造ったのだが、水の上は『小型』は安定せずに、田崎さんも「乗れなかった」という代物だったのである。レースに出ていた福井昇さんでも上手く乗れずに、その時ズケズケ本音で書いた「福井レポート」は、技術部内で大問題となり、なかなか有名なのである。

そんなこともあって、アメリカ市場ではJS300は導入しなかったのだが、国内に導入したJS300Bは、舟艇をJS400を使たものだったというのは、これも今回『私も初めて知った』事実なのである。

 

 

 

これは、ネットの中からGoogle の写真検索で私が見つけてきたものである。

こんな感じでその規模は、壮大だったのである。

 

 

これは松口久美子さんから頂いた当時のスポーツ新聞の記事で、

 

 

レースをするだけではなく広く広報活動を展開したのは、この当時のカワサキの特徴だったと言っていい。

ユーザークラブKAZE も、SPA直入がスタートしたのも、カワサキが初めて鈴鹿8耐に優勝したのもこの時期なのである。

そんなレースや遊びを本格的に専門的に展開していたのが、カワサキの初めての『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム』で『遊んでいたら自然に売れる綜合システムの創造』が私自身の主たる仕事だったのである。

 

以下は、田崎さんから送って頂いた写真や、千里浜の写真などネットから拾ってきたものだが、すべてが『華やか』で『新しいカワサキのイメージ創造活動』だったのである。

そんな観点から当時の写真をご覧になってください。

私にとっても非常に懐かしい想い出いっぱいの写真なのである。

 

琵琶湖ホテルでの前夜祭で、来賓挨拶の田崎さん である。

 

 

当日は、岩城滉一さんも急遽出席してくれて、会場はより華やかになったのである。

 

金森稔くんのテレビインタビューに、何故か田崎さん、割り込んでいる。

ちょっと、向うに見えてるのは私。

 

 

田崎さんご機嫌の写真だが、お酌をしている美女は、確かアメリカのジェットスキーチャンピオンなのである。

 

 

★ これから後の写真は、千里浜のジェットスキー大会で、エントリーは1000台を超え、1日のレースが130レースにもなったという、世界でも最大規模のジェットスキー大会となり、地元の役員の人たちから『ギネスブック』への登録がホントに真剣に検討されたりしたのである。

石川テレビの中継もある、そんな大会だった。

 

 

ネットから拾ってきたものだが、千里浜のレースは今も続いているのかも知れない。

 

 

 

 

1984年11月にアメリカでJJSBAの認可を得てから、もう30年以上になるのだが、ちゃんと育っていることは素晴らしいと思っている。

 

 

 

★そして最後の写真は、

1984年11月、アメリカにIJSBAの承認を取りに渡米された苧野豊秋さんに私が随行したのだが、当時のKMCの人たちや、明石からその時出張してたメンバーたちが、苧野豊秋さんを囲んでの記念撮影で、これも田崎さん提供なのである。

 

この人たちの努力で、KMCは見事に立ち直ったし、カワサキの単車事業の再建もなったのである

そしてJJSBAも、この時がそのスタートなのである。

最初に『井戸を掘った人たち』が、懐かしい。

この稿を最後に『カワサキジェットスキー物語』も、一応終わりにしたいと思っている。

 

ご協力頂いた、田崎雅元さん・福井昇さん・松口久美子さんに感謝である。

 

2019年1月13日

カワサキジェットスキー物語  13

投稿者 : rfuruya

 

★1985年あたりにアメリカ市場で、突然ジェットスキーが2万台を超える規模になったことから、突然カワサキの中でもこの事業を正規の事業にしようという動きが出たのだが、そのジェットスキー・プロジェクトは、ホントにスピーデイーに動いて、1900年に入るころには、ヨーロッパにも国内にもジェットスキーの専門会社が立ち上がっていたし、アメリカ以外のJJSBAのレース活動もまた素晴らしい勢いで動いていたのである。

日本でもジェットスキーレースなるものが、いつ頃からどの程度の規模で行われていたのかはよく解らないのだが、カワサキ関係では孫会社のKATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんが熱心で、日本でもJJSBAのレース協会を創ろうという動きがあり、84年11月にアメリカのIJSBAの承認を取ろうと渡米されるのだが、それに同伴したのが私で、アメリカでIJSBAと繋いでくれたのが田崎雅元さんなのである。

苧野さんは私にとっても田崎さんにとっても元上司で、カワサキの二輪のレース委員会の営業サイドの長をされていて1960年代からレースに関連があった方なのである。そんなことで日本にJJSBAが出来たのは85年からだと言えるのだが苧野さんは初代のJJSBA会長を務められたのである。

 

さらに、カワサキがジェットスキーを正規の事業にすべく社内でJSに乗れるライダーを探して、発動機の福井昇くんを見つけて、最初のプロジェクトメンバーに加えたことも、彼がジェットスキー・プラザの実質1号店になってくれたことも、国内のジェットスキー事業やレースが順調に立ち上がった大きな原因だと思っている。

当時のジェットスキー・プラザの殆どがレースに色濃く関係していて、そんなこともあって日本でもジェットスキー・レースが各地で行われることになるのである。

 

★このジェットスキー物語も、当時から色濃くレースに関わって頂いた福井昇くんや、松口久美子さんのご協力で、私もいろいろと思いだしながら、やっと纏めることができているのである。

今回も福井くんや松口さんがこんな写真を送ってくれたのでその写真の紹介から入って行こうと思う。

 

まずは、福井くんが送ってくれた、発動機事業部のジェットスキーグループの解散会の写真である。

この写真は貴重である。当初のジェットスキーに関わったメンバーを私自身も初めて知ったのである。後、ジェットスキーでも二輪でも関係のあった方たちもおられる。

1976年とあるからこの年次で一応ジェットスキーグループは解散するのである。ひょっとしたらコレでカワサキのジェットスキーも終わってしまっていたかも知れないのである。

それまで上市されていた機種はJS400で、アメリカ市場のレースグループから『馬力アップ』の要請が出て、私と同期の藤川哲三さんを中心丹波晨一福井昇さんなど数人がJS550のエンジンのボアアップ開発に当たったようである。

この写真の真ん中にいる村上さんは、昭和32年(1957)川﨑航空機入社の私の同期生なのだが、彼がジェットスキーを担当していたなど、この写真を見るまで私は知らなかったのである。 非常に貴重な写真だと思う。

この写真の中に丹波さんや福井さんがいないのは、この時点で既にスノーモービルの開発のほうに移っていたからだという。

 

★こちらは松口久美子さんから頂いた当時の写真である。

福井さんが440クラスでチャンピオンになってトロフィーを抱えています。その上の写真は大南さんです。トロフィーを持っている女性は第一回全日本チャンピオンの上原さんです 。』との説明がつけられていたが、福井昇くんも若いなと思う。

彼が実際にレースを走ってるのは、実は見たことがないのだが『速かったんだ!』というのが今の実感である。

大南勝也さんには、ジェットスキーの販売関係でも、JJSBAのレースでもホントにいろいろとお世話になったのである。彼の結婚式には私も出席させて貰っていたので、当時のこの業界をリードした人たちはホントに若かったのである。

 

 

日刊スポーツに掲載されたワールドカップ(琵琶湖)の画像だが、松口久美子さん全盛期である。

 

 

★スポーツ紙にこれだけ大きく報道されているが、間違いなく『ワールドカップ』でその規模はびっくりするほど大きかったのである。

近江舞子の湖岸1キロがジェットスキーのテントで埋まったのである。

この大会は『JJSBA創立10周年記念大会』として琵琶湖の近江舞子を舞台に盛大に開催されたのである。

鶴谷将俊さんが第3代JJSBA会長を引き受けてくれたのは1991年2月のことなのだが、それ以降JJSBAは、カワサキの人たちが本格的に運営に参加して、飛躍的にその規模も大きくしていくのだが、その象徴的な大会がこのワールドカップであったと言っていい。

 

以下の写真は、当日会場にも来てくれた田崎雅元さんから送って頂いたものだが、この日の昼過ぎ、私はまだ神戸にいたのだが、月木さんから電話があって、岩城さんが来ているとかいうので、今夜『ワールドカップの前夜祭がある』と言ったら『岩城滉一さん』も突然参加してくれることになったのである。

 

 

 

 

当時の髙橋鐵郎本部長もレース当日は、ジェットスキー大会をご覧になって、その規模の大きさにビックリなさったのである。

これは船の上からのレース観戦だが、この船の手配も、福井昇くんが気を利かして手配してくれたのだと思う。

 

 

★この93年当時は、国内市場が最高の時である。

高橋さんがCP事業本部長でカワ販の社長を兼務、私は専務としてその旗を振ったし、田崎さんはニューヨークから戻って、副本部長時代である。

84年にスタートしたジェットスキー・プロジェクトもようやくその頂点を迎えていたのである。

当時の国内は、二輪関係のレースにも注力していた時期で、鈴鹿4耐も、8耐もカワサキが優勝した年でもある。前述の『岩城滉一さんグループ』も春のカワサキデーラーミーテングにも、鈴鹿のレースには、月木レーシングの総監督として、SPA直入にもしょっちゅう出入りしていた時期で、島田伸介が8耐最後をカワサキに乗りたいと明石にやって来たりした年でもあって、なかなかの人気だったのである。

私自身が『レース』には、販売以上に没頭していたし、二輪やJSはユーザーの人たちと上手に遊んでいたら、『自然に売れるはず』という仮説の上に、グループ全体がKAZE活動などソフト会社ケイ・スポーツ・システムを中心に動いていた時代である。

高橋さん、田崎さんとは、ジェットスキーレースを2月には宮崎で観戦したし、田崎さんとは6月に北海道洞爺湖のレースをそしてその仕上げが11月の『ワールドカップ』だったのである。

 

この『ワールドカップ』が開催できたのも、やはり人かなと思っている

カワサキジェットスキーなどという専門会社がバックには居たのだが、実際に起案したのは『鶴谷将俊』さんだし、JJSBA が主催だが、当日の現場を仕切ったのは『福井昇くんと大南グループ』の人たちで、其の実権は福井昇くんが握っていたのだと思うが、それを自由に任せたのはKJSの藤田常務なのである。

私自身は当時は幾つもの会社の社長をしていて、責任だけは持っていたのだが、実務には殆ど関係していないのである。

髙橋鐵郎さんが100%私に任せて頂いたし、私も鶴谷・藤田さんに100%信頼して任していたので実現したのだと思っている。

ワールド・カップ』という世界展開がスムースに出来たのは、鶴谷さんも田崎さんも海外販社社長経験者で『英語コンプレックス』など皆無だったからかも知れない。

この琵琶湖『ワールド・カップ』はさらに数年続くし、富山県千里浜海岸でのジェットスキー大会は、その規模に置いて「ギネスブック」に登録しようかと、いわれるほどの規模で、さらに続いて行くのである。

 

これもその当時の写真で、田崎さんから送られたものだが、当時のジェットスキーは、国内市場のカワ販販社としても、その経営的なウエイトは非常に高く、単なる遊びではなくて、大いにその経営に貢献していたのである。

 

この写真、右から田崎さん・私・3人目は稲村暁一さんかも知れない。だとすれば珍しい写真である。

1984年、突然アメリカで売れだしたのが、世界展開の契機なのだが、その仕掛け人は田﨑さんであり、それを国内・ヨーロッパ市場にもとふと思ったのは私なのである。

このブログの冒頭にご紹介した発動機事業本部のジェットスキーチーム解散式が1976年というさらに10年近く前なのだが、何となく『ジェットスキーレース』がご縁で、いろんなことが繋がってジェットスキー事業となって行ったのである。

今から、思うと本当に不思議なご縁で繋がっていると思うのである。

 

JJSBAや、国内のレース関係が今どのようになっているのかは、詳しくは知らないが、この当時は間違いなく、この業界のトップをカワサキは走っていたのである。

13回まで続けてきた『カワサキジェットスキー物語』だが、次回かその次ぐらいで終わりたいと思っている。ほんの短い間ではあったが、当時の仲間のことなども、私なりに思い出させて頂いて、「いい時」が過ごせたことを感謝である。

 

2019年1月6日

私の今年の日常生活計画

投稿者 : rfuruya

 

★2019年、平成の最後の年が始まった。 今年は3月に86歳になる

一昨年の11月にスタートしたジム通いも何とか続いていて、今年は「足掛け3年」にもなるので、出来たらちゃんと続けてみたいと思っている。

最初はジムに通って運動してたら、『82~3キロある体重が幾らか減るかな』と思ってスタートしたのだが、確かに体は確りしたのだが体重は一向に減らないのである

 

最近では『別に体重など減らなくても、筋力がつけばいいか』と思って、その週間スケジュールを昨年の12月から

月・水・金は三木綜合体育館で、ジム・ランニング・水泳を約2時間

火・木・土は三木綜合防災公園でスロージョッギングとダッシュを約1時間』 

『日曜日は休息日』と決めて続けてきたのだが、

年末27日から体育館が休みに入って4日までは、2度ほど防災公園でランニングをしただけの正月休みだったのである。

 

★昨日1月5日には、体育館がオープンしたので早速『ジムとランニングと水泳』に行ってきたのである。そしてプールに入る前に体重を図ってみて、体重計が狂っているのかと思ったのだが『体重は78キロちょうど』なのである。何度はかっても『78キロ』なので間違いはない。

この正月期間は、ちょっと風邪気味だったこともあって『食事が控えめ』だったのである。

ジムのトレーナーの方に、『体重が減らない』と言ったら『トレーニングしてもそれ以上に食うとダメですよ』と言われていたのだが、まさにその通りなのである。1年間筋トレを続けてるので、確かに基礎代謝は上がっているし、『脂肪が燃えやすい体質』にはなっていたので、ちょっと食わなかったら『10日間で4キロも減る』とはビックリなのである。

1年のスタートの日に、目標体重『78キロが達成』できてのスタートとなって、果たしてこれからどうなるのか?と思っているのだが、ホントにどうなるのだろうか?

 

 

 

私が住んでいる緑が丘町西2丁目から、西に約6キロの三木綜合公園に体育館はある。

そして防災公園は東に約2キロで車で行くと12分と5分の距離だから、立地としてはなかなかいいのである。

 

体育館の場所はこんな感じで、入園料も駐車料も無料。

 

小さなジム(通常200円)

体育館の2階のこんなランニングコ―ス(通常100円)を走って

 

庭園付きの綺麗なプール(通常350円)で泳ぐのだが合計すると650円でこれは高齢者価格だから安くなっているのである。

この3つの施設をどれでも使える1ヶ月の通し券を買うと高齢者は3000円で、月何度行ってもOKのまさに格安料金なのである。

月3000円払っておけば、好きな時間に何度行っても大丈夫なので、スタートした昨年秋からこの制度を利用しているのである。

 

★ 防災公園の方は、上の方の黒い線の部分(約1.5キロ)でを2周して、芝生でダッシュを何本かして汗を流しているのである。

こちらも入場料も、駐車料も無料だから、特に出費はないのである。

 

 

最近は時間があり過ぎるから、何かやらないと毎日が『だらけてしまう』からやっているのだと思う。

別に今更『高齢者の運動会』などでの記録狙いなどは一切目標になくて、ただ単に勝手にやってるだけなのだが、ひょっとして90歳になっても『今のようにダッシュが出来たら』カッコいいなとは思っていて、敢えて言えば『それが目標』である。

ダッシュができるということは、スムースに綺麗に歩ける』ということだから、本来の私の目標は『綺麗に歩きたい』のである。

80歳から始めた『ダッシュ』だが、毎年スムースさも、距離も、スピードも、何となく伸びているように自分で思っている。

これは筋トレや、スロー・ジョッギングの効果かなと思っているのである。

 体重の目標は、スタートの日に目標達成できてしまったので、今年はフリーにして自然に任したいと思っている。

ちょっと、かっこよく書きすぎたが、この1年果たして続くだろうか?

 

 

2019年1月1日

謹賀新年 今年も頑張りたい

投稿者 : rfuruya

 

 

平成31年が明けた。

今年は文字通り、『新しい年』が始まる。

 

今年は3月には86歳になる。

86歳にしては元気に生きていると、自分でも不思議に思っているのだが、

人間、何歳になっても『進歩する』部分があるモノだということを実感している。

今年も何か『新しいもの』を見つけたいと思っているのだが、『何か』を発見できれば幸いである。

今年も頑張りたい』 ホントにそう思っている元旦である。

 

 

もう10年も前かも知れぬが、丹生山に登る、初日の出である。

 

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

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