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2019年3月4日

86歳の誕生日を迎えて

投稿者 : rfuruya

 

★86歳の誕生日を迎えた。

ホントによく生きたなというのが実感である。

祖父も伯父も父も早くこの世を去ってしまったので我が家系は「男は早く死ぬ」と信じて疑わなかったのである。

逆に祖母は確か102歳、母は103歳まで長生きした。そんなDNAを貰っているのかも知れない。

おもしろい人生だったと思う。

自分の人生も変化に富んでオモシロかったが、時代というか世の中そのものがオモシロかったし、普通は変化に乏しい大企業でのサラリーマン生活もまさに変化に富んでいたのは、『二輪事業という新事業』であったからだと思う。

いずれにしても、生きてきた時代も、環境も、背景も面白かったと言っていい。

一言で言うと『運がよかった』のだと思う。

 

 

★若い頃に、『本格的な広告宣伝』という業務に携わって、マーケッテングの基本が『差別化』であることを学ぶことが出来たのが、その後の人生に幸いしたと言っていい。

私の生き方を一言で言うと『差別化』ちょっと他人とは違った生き方を目指した。

発想も、具体的な目標も、動き方も、すべてが『差別化』だったと思う。

特に現役時代、周囲の方たちとは『違った生き方』が出来たのはなぜかなと思う。

こどもの頃から『何になりたい』と思ったことは一切なくて、『流れの中』に身を任せていただけで、中学も大学も、会社も職場も職位もみんな他人が決めてくれたことを、自然に受け入れただけで、自分で選んで決めたわけではない。

ただ、そんな任された環境の中でやった仕事の内容は、私なりの感覚で『自分で決めたこと』ばかりだが、結果的には『新しい世の中で初めてのこと』が殆どだったのである。

だから、引き継ぎなど一切したことがない。

 

 

 

★ホントに自分で全て『やることを決めて』動き出したのは、現役を引退してからなのである。

そういう意味で、引退後のほうが現役時代よりは『むしろ充実している』ようにも思ったりするのかも知れない。

最近は、朝8時半からジムに行って、7000歩から1万歩近くをサイクリングとスロージョッギングでこなしている。

その中で50メートルダッシュを6本ほど、80歳ごろから始めたダッシュだが、年々早くスムースに走れるから不思議である。

パソコンを始めたのも70歳を過ぎてからだが、毎日欠かさずブログをアップしている86歳も珍しいだろう。

間違いなく、世の中の『お年寄り』とは『差別化』出来たオモシロい人生を走っているのである。

後期高齢者であることは間違いないのだが『老人』ではないと思っているし、今年も『体力年齢は50代』の記録が出るだろう。

昨年より筋力は付いているし、柔軟性はさらにアップしていると思っているのである。

 

 

★こんな呑気なことを言ってるが、昨年7月5日には、風呂の中でいつの間にか「意識を失っていた」のである。

人間、突然何があるか解らない。

あの時もたまたまアメリカから娘と孫が日本に来ていたので、風呂から引き揚げてくれたのである。

そういう意味では『運がいい』のだろう。

かって現役の頃、『性格テスト』をやったことがあるのだが、結構「いい項目」が高得点で並んだのだが、『反省が足りない』という項目も、これは最高レベルの点数だったのである。

確かに、『反省など』したことがない。

そんな『いい加減』な『ネアカな』『ちょっと変わった人生』は自分でも気に入っている。

でも、最近は風呂の中では、何となく『気をつけている』から少しは反省しているということか。

そんな86歳の人生が、今年もスタートしようとしている。

 

2019年2月24日

道路と私

投稿者 : rfuruya

 

2019-02-23 06:30:15 | 発想$感想

★公益財団法人高速道路調査会で『高速道路と自動車』の編集担当者の方から次のような随想執筆依頼を受けている。

 

◆ <項目> 随想<枚数> 本誌2ページ(約2,800字)

<締切> 平成31年4月12日(金)

<掲載予定> 2019年6月号(発行日6月1日)

当法人は、昭和32年12月に設立され、高速道路および高速道路に関する自動車、燃料等に関する諸問題の調査を行い、道路および交通の発達ならびに道路交通に関する知識普及に貢献することを目的に設立された財団で、平成24年より「公益財団法人高速道路調査会」として事業を行っております。

その中で『高速道路と自動車』(昭和33年創刊)という今年1月号で729号を数える月刊誌を発行しており、掲載内容としては「論説」「時評」「随想」「研究」「技術レポート」「紹介」 等のコーナーがあります。

 

 

高速道路と自動車』は、こんな立派な機関誌でその執筆者を見ると大学教授や道路行政の専門家など、非常に高い見識をお持ちの方ばかりで、私などブログレベルは毎日発信はしているが、一般社会の正規機関誌への投稿などは初めての経験なので、どうしようかな?とも思ったのだが、『なぜ私を選ばれたのですか?』とズケズケと聞いてみると、少しだけ関係はある「二輪文化を伝える会」やそれを支援している「NPO法人 The Good Times 」のウエブサイトでご覧になって、ということなので、それなら私の自然体で「いつもの自分のまま」の投稿をしようかなと思ったのである。

上述したように、締め切り日は『4月12日』文字数は『2800字』なのである。

毎日アップしている文字数の半分ぐらいだし、私の性格上やると決めたら、とても4月12日までは待っておれなのである。そんなことで、昨日半日で仕上げて、昨日のうちに送り届けたのである。

 

テーマは、『道路と私』ということにした。

この原稿を書くために、一応は『高速道路』や『道路関連』を調べたりしたら、私自身はなかなか道路とはご縁が深いことも改めて再認識出来たりしたのである。

高速道路と自動車』というネーミングの機関誌だから、クルマのことが中心で書かれているのだが、私が書くならやはり『高速道路と二輪車』でなければならないし、自動車ではなく二輪車だから、『差別化』も出来るのかなと思ったのである。

投稿文をそのまま表示するわけにもいかないが、どんなことを書いたのかというとざっとこんな感じなのである。

 

全体の文章は3つの段階に分けてみた。

●まず第1段は、私自身の車の運転歴と高速道路や一般道との関係など。

二輪事業は4輪車と違って販売店を通じて売る『ネット販売』だから、世界の各国に点在する販売店訪問のために、クルマで世界の道を走ったのである。免許を取ったのは昭和40年6月で、名神高速の開通とほぼ同時だったのだが、鈴鹿に行くために毎月のように走ったし、一般道もその後の東北6県で当時の山越えの砂利道を走ることも多かったのである。当時の日本の道路舗装率はわずか15%であったことなど、私と道路の関係からの自己紹介をしている。

この公益財団法人高速道路調査会のスタートが昭和32年で、私の川崎航空機への入社と同じだし、『高速道路と自動車』の創刊号がその翌年なので、私の社会人としての歩みと同時期のスタートなのである。

●そして2段目は、東名高速が完成した昭和44年(1969)には3社合併があって川崎重工業となり、カワサキの二輪事業もも世界展開となったので、アメリカ・ヨーロッパ・東南アジア・アフリカ・オーストラリアなど『世界の高速道路や一般道』を自ら運転して相当の距離を走った、経験やその感想を纏めている。

私自身、4輪の運転は好きで、世界の道をこれくらい自分で運転して走った人は、多分カワサキの中でもトップクラスだし、世の中にもそんなにはおられないと思う。

アメリカは勿論、オーストラリアも、ヨーロッパ各国ではアウトバーンも、スペインのジブラルタル海峡からからのあの海岸線も、東南アジアも、アフリカナイジェリアのラゴスも田舎道も、日本は沖縄を除いて全県で運転経験があるので、道路にはいろいろお世話になっているのである。

●3段目は、長く二輪車事業に関係したものとして、二輪車は省資源・省エネの時代に合った製品だし道路の占有面積も少なく、重量も軽いので『道路に優しい製品』だと思うのだが、果たして日本の道路行政関係者のアタマの中に『二輪車がどのくらいあるのかな、高速道路も4輪車のために造られていて、道路設計に二輪車に対する想定・仮説などは、殆どないのでは?』高速道路の二人乗りの認可は大変だったし、高速道路の通行料が二輪と軽4輪と同額であるという不満がることなども述べたりしてるのだが、

最後は、この随筆に出会うきっかけが NPO法人 The Good Times と言われているので、1975年にアメリカで生まれた Kawasaki.Let the good times roll というカワサキの事業展開のコンセプト「カワサキに出会う人たちがハッピーになるような活動をカワサキは展開し続けます」という精神を受け継いで、NPO The Good Times や、私や私の仲間たちに出会う人たちがハッピーになるような活動を心がけているのである。

そして、『ご縁があって「高速道路と自動車」の読者の皆さんに、二輪車のことが語れてよかったなと思っている』と締めくくって終わっているのである。

 

★ この随想が機関誌に載るのは、6月のことなのである。

高速道路と自動車』はAmazon でも買えるようなので、若し6月まで覚えておられたら、一度このような機関誌もお読み頂ければ幸いなのである。

 

 

TOKYO ART BOOK FAIR: Ginza Edition

投稿者 : rfuruya
 

 ★昨年の今頃は、 rippleroom というダンスの本の出版に一生懸命だった鎌倉にいる孫・古谷仁。

何をやっているのか、定かに解ってはいないのだが、『自分のやりたいことを』やりながら日々を過ごしているようである。ツイッターなどでは、毎日出会っているのだが、なんとか出版した本も世の中に受け入れられているようでもある。

こんな写真と、コメントをアップしているが、

 

 

いろーーーんな人にお世話になった。恩返ししたい。 「くそやろー!」と思った人も事もあった。見返したい。

   全部、僕の成果。個人で力をつけて、早く。仲間を作って、遠く。

   かっこいい大人へ!

 

などと解ったような、解らぬことを言ってたが、昨日だったが、こんなツイートがアップされた。

 

 

TOKYO ART BOOK FAIR: Ginza Edition という立派なイベントの中に展示される本の一つに選ばれたのだという。

どんなイベントなのか、チェックしてみたら、なかなかのもので、このように説明されていた。

 

TOKYO ART BOOK FAIRは、10回目を迎えるフェアを2019年7月に約2年ぶりに開催予定です。

これに先駆けて、2019年3月8日(金)から4月7日(日)までの1カ月にわたり、Ginza Sony Parkにて「TOKYO ART BOOK FAIR: Ginza Edition」を開催します。

TABFには、普段はそれぞれの国や地域で、印刷物を通した独自の表現を続ける出版社、ギャラリー、アーティストたちが世界中から集まり、数日間にわたる会期を通じてのべ2万人超の来場者が訪れ賑わいをみせます。まさにアートブックの「祭典」ともいえるイベントです。

一方「Ginza Edition」は、1カ月という長い期間にわたり行われます。今回の試みは、これまで年に一回行ってきた打ち上げ花火のような「祭り」というより、会場になるGinza Sony Parkのコンセプトである「公園」をイメージしたものになります。

「Ginza Edition」では、より日常的な場で、日々制作に励む作り手たち、そして彼らが作るアートブックと繋がる空間を創出します。公園にリフレッシュやアイデアを求めて出かけるように、誰もがふらりと訪れた先でアートブックと出会い、そこから広がる新しい世界を楽しむ機会、Ginza Sony Parkでの「Ginza Edition」をどうぞお楽しみください。

主催:TOKYO ART BOOK FAIR、Ginza Sony Park

会期:2019年3月8日(金) ~ 4月7日(日) 10時~20時     会場:Ginza Sony Park 東京都中央区銀座5-3-1

https://www.ginzasonypark.jp

 

 

大きなイベントであることはよく解ったが、いつもは何もやってあげられていないので、せめてブログで広報のお手伝いでもと思っているのである。

3月8日から、約1ヶ月も開催されているらしいから、また何か情報でもあればアップしてやりたいと思っている。

rippleroom とは、こんなダンスの本なのである。

 

 

 

 

何となく、アートと言われたらそうかなと思う、それっぽいデザインに仕上がっている。

rippleroom のロゴも、なかなかいいように見えるから不思議である。

 

 

2019年2月13日

私の仲間たち  雑感

投稿者 : rfuruya

 

★ 昨日は、NPO The Good Times の理事会を兼ねての新年会みたいな会合があって、こんなメンバーが集まったのだが、

平井稔男・山本隆・渡部達也・柏原久・吉田純一・吉田俊一・登山道夫さんと私の8人』

登山さんを除いては、カワサキ時代の私の仲間たち、そして登山道夫さんはこのメンバーたちとも特に親しい退職後の仲間のキーパーソンで、NPO The Good Times の事務局長でもある。

こんな動画を撮ってきた。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm34612870

 

 

昨夜はちょっと遅いがこんなメンバーでの『新年会』だった。6時から11時まで柏原久宅で。

NPO The Good Times の理事会も兼ねて、5月の金井紫朗さんのイベントなどの正式承認などちゃんとしたこともやったが、こんなカワサキの昔の仲間が集まると、独特の雰囲気になる。11時まであっという間に過ぎたのである。

 

★突然だが、日本の学歴社会は、もう一つだなとずっと思っている。

人生の中で、確かに若い頃に学校でいろいろ教わることは、社会に出ても役に立つことは勿論そうだとは思うのだが、技術屋さんは兎も角事務系での大学の学問は、弁護士など専門職になるには確かに役に立つとは思うが、一般的なことは別に大学で勉強しなくても、人生長いのだから、幾らでも身につける機会は残っていると思うのである。

社会に出てからの人事・勤労などの評価も、同じように全くアテニならないもので、後述する『旭日小綬章』を受けられた吉田純一さんなども、柏原久さんも決して「いい評価」などではなかったのである。

極端に言えば、日本の総理大臣だった田中角栄さんの学歴は、どこまでだったのだろう?

私自身は大学には行ったが、全く大学では勉強しなかったので、自分の学歴は自分ではよく勉強した中学卒だと思っているのである。

そんなこともあって、一緒に仕事をした仲間たちの学歴や会社の評価などは全く気にせずに、『自分の目で』ちゃんと評価していろんな方と同じように付き合ってきた、そんなスタンスは今でも続いている。

最初のレース関連では高校にも行っていない中学卒の人たちもいたし、東北地方の代理店で働いていた優秀なセールスには中学卒の人たちも多くて、最初の私の営業経験はそんな人たちから学んでいったのである。

当時のカワサキオートバイ販売に勤務する人たちも高校卒の方が圧倒的に多かったが、販売会社の仕事の内容等は、大学卒という学歴など全く不要な分野で、時代の先端を走った『カワサキ特約店』に参画してくれた人たちも、殆どが大学卒などはいなかったが、みんな結構立派に育っていったのである。

私の職歴がそんな外の方とのお付き合いが多く、30代からずっと長の立場にあったのだが、人事の構成面を考える時など、『学歴』などはこれっぽちも考えなかったし、今でもそのように振る舞っているので、86歳にしてはいろんなところから『お声も掛かる』し、Facebook でも毎日『世界の方』から、いろんなコメントなど寄せられて、結構楽しく忙しく過ごしているのである。

 

★ 昨日集まったこんなメンバーは、登山さんを除くと私がカワサキ時代に一緒に仕事をした仲間たちで、まさにカワサキの国内市場の中心で活躍した人たちばかりで、退職後20年も経った今も年に何度も顔を合わせたりするのである。

平井稔男・山本隆・渡部達也・柏原久・吉田純一・吉田俊一さん』このほかにも 藤田孝昭・岩崎茂樹・潤井利明・宮本松夫・関初太郎・宇田川勇・石塚鎰治・重本修次郎さんなどなど『カワサキの国内』を支えた人たちというか『カワサキを創り上げた』人たちだと言っていい。

確かに、川崎重工業の中には立派な学歴の方も多く、立派な仕事をされた大学卒の方も沢山おられるのはこれもまた当然なのだが、学歴などには関係なく『できる人はできる』のである。

 

★話は ちょっと変わって、二輪車新聞のことをちょっと。

二輪車新聞とは、二輪業界で長い歴史のある正統派の業界紙なのだが、その記者の衛藤誠さんとは、私は60年のお付き合いで『私の仲間』と言っていい。

そんな二輪車新聞にこんなネットのサイトがあることは、業界の方でも、カワサキの方でもご存じの方は少ないと思うが、私は衛藤さんとは今でも密接に繋がっていて、よく解っているのである。

https://www.nirin.co.jp/column/

カワサキ関連の記事も多いし、私のことなども出てきたりする。

 

 

吉田純一さんの若い頃の記事も出ているのだが、ご本人もご存じなかったので、ちょっとご紹介しようと思う。

衛藤さんの記事はこのように書かれている。

 

 

 

 

昨日は、そんな吉田純ちゃんが、私の隣だったので、いろんな話の中に、『こんな話』もあるのである。

いま、吉田純一さんは『社団法人日本二輪車文化協会』 http://www.amac.or.jp/ を立ち上げて『日本独特の二輪文化の創造』を目指しているのだが、各メーカーもこんな活動に協力することが、二輪の販売増にも自然に繋がるのだと思っている。

昨日は『顧問になってくれますか』などとも言われたが、そんな役職には関係なく、広報活動には大いに協力したいと思っているのである。

 

★そんな吉田純一さんは、今は業界では国会の先生がたや、小池百合子さんとも特別の仲の超有名人で、先日『旭日小綬章』を受けられて、かっての純ちゃんの上司平井稔男さんがカワサキの仲間たちでの『お祝いの会』を開こうとされているのである。

今回正式に後援の決まった『5月の安中市での金井紫朗さんの二輪イベント』には『二輪文化協会』も後援をされることになる。

 

次回は来週、2月17日の朝10時、神戸のカワサキワールド前に、もっと沢山の仲間たちが集まることになるのだろう。

東京から、川崎由美子さんも参加されるとか、去年もご一緒したが、是非 田崎雅元さんも、大槻幸雄さんも『そんな仲間の一人として』参加されたらより楽しい集まりになるはずである。

 

我々の仲間たちは『社会の職位や名声』などには全く関係ない『ヨコ一線の繋がり』なのである。

Kawasaki . Let the Good Times roll!

NPO The Good Timesカワサキから引き継いでいる基本コンセプトなのである。

 

★NPO  The Good Times のホ―ムページです

2019年2月5日

5月18日にある こんな二輪イベント

投稿者 : rfuruya

 World Good Riders Association

★ 先週の日曜日午後、こんなメンバーが集まった。

Facebook にはNPO The Good Times の事務局長の登山道夫さんがその日のうちにこのようにアップされている。

 

 

昨年から、群馬の金井紫朗さんが登山さんを訪ねてお越しになるので、私にもとお声が掛かっていて、3人でのご相談の予定だったのだが、Facebook のコメント欄に吉田純一さんがこんなコメントを寄せられて『お見えになる』というものだから、一挙に吉田純ちゃんのカワサキの同期の柏原久さん、一期上の渡部達ちゃん、純ちゃんの神戸営業所時代の上司平井稔男さんなど、かっての『カワサキメンバー』が集まって、こんな賑やかな会合になったのである。

 

このコメントは以下省略してあるが、登山道夫さんも加わって、延々と続いているのである。

この辺りが、今の『ネット社会』のオモシロさなのである。

久しぶりにかってのメンバーが顔を揃えたので、昔話も含めて賑やかだったのだが、金井紫朗さんが持ってこられた『イベント話』についてはホントに真面目に、熱心な討議がなされたのである。

メンバーがよかったので、30年前の ケイ・スポーツ・システムの時代に戻ったような『格調高い遊びの話』になったのである。

 

 

 

登山さんがシャッタ―を押して頂いているのだが、金井紫朗・神谷武始・菅野嘉之さんを入れての9名での熱っぽい3時間だったのである。

 

 

★金井さんがお持ちになった話は、旧い歴史をお持ちの『全国自働二輪公友会』の第54回のイベントを群馬県安中市の市長さんや警察機動隊なども協力してもらい、開催日が交通安全週間でもあることから、『交通安全活動の一環』として金井紫朗さんが主催で旗を振られることになっているのである。

歴史のある『全国自動二輪交友会』の催しで、私も何十年か前だが、兵庫メグロの西海社長が関係された時は、有馬温泉の会に出席したこともあるのだが、今回は金井さんが、ユニークな形でのイベントに仕上げようとされていて、吉田純一さんがいろいろと関わっておられる組織や、NPO The Good Times としても、お手伝いをしようということになっているのである。

自動二輪だけに拘らない、もっと巾を広げ日本の4メーカーなども、こんな真面目なイベントに積極的に参加・応援などすれば、二輪の業界がもっと楽しく、より社会と共存する方向になるのではと思っているのである。

金井さんは、この春のイベントだけにとどまらず、秋にもまたやりたいと言われているし、日本二輪のレース発祥の地とも言われている浅間の近くだし、女性ライダーなどにも声を掛けての和やかなイベントになればいいなと思っているのである。

イベント開催日の5月18日までには未だ時間もあるので、関東の『二輪文化を伝える会』(村島邦彦・松島裕さん)なども是非ご協力をと思っているのである。

銘柄・メーカーなどの枠を超えた日本独特の二輪文化に育ったらいいなと思っている。

昨年だったか、ちょっと田崎雅元さんに話したら「一緒に行こうか」とも言われているのだが、メーカーの枠を超えて、日本の二輪業界が横に、それも末端のユーザーが先頭で『繋がる』独特のものに育てばいいなと思っているのである。

何よりもその『可能性』を感じるのは、金井紫朗さんの熱っぽさなのである

群馬からこんな自家製の『お土産』をお持ちで、三木まで来られてるのである。

 

 

今回は吉田純一さんが、絡んで頂くことになたので、ヨコへの広がりは大いに期待できるのである。

異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう』という 基本コンセプトにもピッタリなので、NPO法人The Good Times としても、いろんな形でのご協力をと思っているのである。

 

こちらが、昨日金井さんが持ってこられた、イベントの趣意書なのである。

 

2019年2月1日

門野真也  神戸新聞にも

投稿者 : rfuruya

 

★ 孫の門野真也のこと、今日の神戸新聞に結構大きな記事で載っている。

先日、家で大橋凛太郎記者の取材を受けたのだが、短い文章の中で見事にいろいろと纏められている。

 

 

一昨日1月30日に22歳になったばかりの真也だが、今は U.C.Unitedのフロリダキャンプに参加している。

正式契約はもう少し先のようだが、キャンプに参加しただけでもいい。

誕生日には、新人ながらみんながお祝いをしてくれたとか。 元イギリス代表のルーニーとも話が出来たなどと言ってたが、アメリカ英語はペラペラのくせに『イギリスの英語は解り難い』などと言っていた。

 

★ 人間、努力すると『ビックリするようなこと』になるものである。

こんな真也が

 

アメリカに行った時は、こんなに太った単なるデブだったのに、

 

サッカーをやり出したが、『デブはダメ』と言われて、Strikers FCには2年間減量してやっと入れて貰えたのが14歳の時である。

 

それからあとは至極順調で、名門Strikers FCでもキャプテンを務めるまでになり、毎年三木にも遊びに来てたのだが、

これは三木の地元の子どもたちと、その時喋ってたのは『私が君らの頃は、もっと全然下手だった』と、ホントにそうだったのである。

 

 

昨年も暮れから新春にかけて三木に来ていて、米田和彦さんに誘われて『フットサル』に参加していた。

その時一緒に来てた日系フランス人のサム君も今回めでたくプロの指名を受けて、今 真也と同じ境遇なのである。

今回の記事のきっかけも米田さんが大橋さんに話されてのスタートだったのである。

 

 

昨秋は、Berkeley で日本人初のキャプテンにもなったし、得点王にもなって西地区のベストイレブンにも選ばれた。

日本も三木も大好きで、いつも日の丸と一緒にいる真也なのである。

 

 

小さいくせして、体はめっぽう強い。 決して競り負けないものを持ってるのだが、

 

 

こんなチームメイトの中に入って『ホントに大丈夫かな?』と思っているのである。

 

 

真也のお蔭で、私も大きく写真に載せて頂いて光栄なのだが、今後もホントに頑張って欲しいと願っているおじんなのである。

昨夜は、大橋凛太郎記者から電話があって『明日の朝刊に出ますから』とご連絡を受けたので、朝5時に新聞を買ってきたのである。

大橋さん、立派な記事を書いて頂いて有難うございました

 

 

2019年1月25日

年齢や経験など関係ない できる奴は若くても出来る

投稿者 : rfuruya
 

 ★ 最近は、朝のうちはジムなどに行って結構忙しいのだが、午後からは時間がいっぱいあって、いろんなことを考えたり、ネットを観たりしているのだが、時間が余れば『パンダ碁』を打てば幾らでも『時間は消費』できるので、退屈したり、持て余したりすることは全くないのである。

ファクトフルネス』などという孫が勧めてくれた本なども読んでみて、これはコレで結構、オモシロかったのでいつかまた感想を纏めてみたいのだが、ごく最近の感想としては、『日本国紀』にも『ファクトフルネス』にも人の平均寿命のことがいろいろと書かれていて、日本は世界でまさにトップクラスの平均寿命を誇っていて、私など今年は86歳になるのだが、昔の人たちの寿命は短かくて、30歳で亡くなってしまった人たちも多いのである。

そんななかで、『人間は年と共に進歩するのだろうか?』というのが、今思っている感想なのである。

結論から言うと、『若くても、偉い奴は偉いし、年と共にそれが進歩するようなことはない』のではないかな? と思っているのである。

私自身を振り返ってみても、学生時代や30代に取り組んだことでも『大きな立派なこと』も沢山あったし、年齢を重ねて進歩したとも思えないのである。

日本の社会のシステムが、まさに『年功序列』で、年を取らなければ『偉くさせないシステム』になっていて、若い人たちに『大きな仕事をさせない』ような仕組みにしてしまっているように思えてならないのである。

 

★スポーツの世界がそうであるように、ビジネスや政治の世界でも、『ホントは若い奴のほう』が『年寄りよりも鋭い』し、『発想もいい』し『いい仕事ができるのでは』と思ったりしているのである。

なぜ、突然そんなことを、というのは、ごく最近孫・古谷仁がこんな『ツイート』を発信したのだが、はっきり言ってすぐには理解できなかったので、ネットでチェックしまくったのである。

 

 

この『ツイッター』をご覧になって、すんなり理解できる年配者がどのくらいおられるのか?

若者フレーバー』も『ポストカマコンバレーコミユニテイー』も『PoliPoli』もよく解らなかったし、ネットで探しまくって何となく解ったのだが、Polipoliなど、無茶苦茶若いのに、博報堂や神奈川県庁などが放っておけないほどの存在感なのである。

ポストカマコンバレーコミユニテイー』とは、どうやら 古谷仁そのもののことを言っているようだし、

 

Polipoli』 は、こんなことらしい。

 

 

代表者はこんなに若いし、役員も学生さんなのである。

 

    
 こんな polipoli を放っておけないのか
 『博報堂、ブロックチェーンスタートアップ企業のPoliPoliとトークンコミュニティ企画・インセンティブ設計領域で業務提携
 と業務提携したようだし、神奈川県とも連携しているようである。
    
知事さんと会うのに、こんな服装だが、服装には似合わず、そのMisson は『テクノロジーで国家システムを再構築する』と壮大なのである。
     
★果たして、成功するのかどうかは今からだが、日本の社会もやっと、自由に競争できる時代になったのかな? と思っている。
 能力があっても、大企業や官庁の旧い仕組みの中で、能力が発揮できない時代が、ずっと続いてたのだが、やっと何とかなる時代の幕開けかも知れない。
 ただ、私たちが生きてきた『カワサキの二輪事業』はかっては若い人たちが思う存分力を発揮できたのだが、それは会社にとって全く新しい事業であったからで、今は普通の大企業に戻ってしまった感がある。
こんな若者たち、孫も含めて、鎌倉で頑張って欲しいと思っている。
カマコンバレー』 は、勿論『シリコンバレー』をモジッテいるのである。
 年齢や経験など、大したことではない、『できる奴は若くても十分通用するのだ』と思っている。
2019年1月22日

神戸新聞 大橋凛太郎くんの取材を受けた

投稿者 : rfuruya

 

★昨日は、『孫の門野真也』 のことで、神戸新聞の大橋記者の取材を受けた。

表題のほうは、『神戸新聞の大橋凜太郎くん』とわざわざ『くん付け』で書いてるのは「さん」よりは『くん』のほうが似合うと思ったし、初対面だったが、それくらい仲良く2時間ばかり雑談が出来たのである。

何よりも、24歳という若さがいい

孫の長男と同い年だが、よその子は孫と違って『しっかり』見えるから不思議だが、確かに『しっかり』しているのである。

今回の取材に対しては、私なりに『真面目に、丁寧に、事前対応』してあったので、それはちゃんと評価してくれていて、肝心の取材は要点だけのちょっとした質問があっただけで、あとはホントに『お互いに有益な雑談』をしていたのである。

 

★ こちらは写真は撮られたのだが、『大橋凛太郎くんの写真はないかな?』とネットを検索したら、写真も記事も見つかったのである

大橋凛太郎くん、こんな若者である。

野球部出身だが、グリークラブで歌にも自信があるのか 三木の『のど自慢』に挑戦している。

 

 

その時の、神戸新聞の記事である。

選んで歌った局が、『私らの年代』にはついて行けない、今どきの唄ではなくて

坂本九の上を向いて歩こう』だったのがいい。

そんな歌が、『似合う』 大橋凛太郎くんだった

 

 

ついでに、大橋記者の記事を探したら、こんなのがあった。

こうしてみると、三木もなかなか面白いまちである。

三つ、写真で『切り取って』掲載するので、ご関心のある方は、お読みください。

 

 

 

 

 

 

★是非、今日彼と話した『広報談義』をしっかりと身につけて。記者の道を堂々と歩いて欲しいなと思っている

こんな風に、『私が取り上げる』のは、間違いなく『大橋凛太郎は、ナイスガイ』だと思ったからである。

肝心の取材のほうは、何とか彼なりに『纏めるだろう』と思っている。

 

 

2019年1月21日

カワサキジェットスキー物語  14

投稿者 : rfuruya

★『カワサキジェットスキー物語』も、私が担当した時代は1997年あたりで一応の終止符を打つのである。

今回、ふとしたことから書き出した『カワサキジェットスキー物語』だが、その当事者の私も初めて知ったことが多かったのである。

 

 

●その一つがこの写真である。

1971年に発動機事業部でスタートしたジェットスキー・プロジェクトは、5年後の1976に一応の終止符を打っているのである。その長をしていたのが私と同期の村上さんだとは、知らなかった。

この時点で上市していた製品はJS400だけだったのだが、その後アメリカ市場での『馬力不足問題』に対応して、藤川哲三さんを長とする550へのボアアップチームがスタートして、今回いろいろお世話になった福井昇さんなどもその一員であったようである。

●そのJS550 が生産されたのが84年度で、たまたまリンカーン工場がスノーモービル縮小で危機に陥っていて、当時のKMC田崎社長の独断で生産を一挙に2万台ベースに引き揚げそれを売り切ったことから、ジェットスキー事業の規模は一挙に24000台の規模まで急激にアップしたのである。

今まではJS550にボアアップしたから、急激に売れ出したのだと勝手に想像していたのだが、受注生産でもないJSなのだから、2万台を造らない限り、2万台を売ることは不可能なのである

● この販売台数の増大が、正規の事業として単車事業部として育てようという機運になり、明石の企画サイドにプロジェクトチームを作ってその対策がスタートしたのである。この提言をしたのは当時の企画室の武本一郎さんであり、具体的には85年8月から鶴谷将俊さんが具体的にプロジェクトの旗を振ることになるのである。

●86年度には福井昇くんもメンバーに加わり、ヨーロッパ・国内市場対策も進み、87年からは国内販売対策も具体的に進んで『ジェットスキー・プラザ』がスタートし、カワサキジェットスキー販売(KJS)という専門会社もスタートして、その販売形態も確立していくのである。この辺りの販売網対策の立案は、私自身が担当したのでよく解っているのである。

●87年度半ばには単発統合もあり、営業部門に正規のジェットスキー部門もできて、私自身が企画から営業部へ、さらに88年10月からは国内市場担当になったのだが、国内のジェットスキー事業は年間200~300台のレベルから、91年には7000台の販売規模にまで躍進したのである。

●その91年度からは、このプロジェクトをスタート時点から推進してきた鶴谷将俊さんが国内JJSBAの3代目の会長に就任して、国内JJSBA設立10周年を記念して、91年11月に琵琶湖近江舞子で開催した『ワールドカップ』には、アメリカのトップ選手を招いての盛大な大会となるのである。

 

 

 

★当時は田﨑雅元さんとこのジェットスキー・プロジェクトで打ち合わせなどしたことは一度もなくて、アメリカと日本でそれぞれ勝手な思惑で動いたのが事実なのだが、今思うとホントに、不思議なご縁で繋がっていて、当時から40年近くも経っている今でもこの『ジェットスキー物語』を書こうかなと思ったきっかけは、田崎さんからのメールや、送って頂いた写真がその『きっかけ』なのである。

 

KMC社長(川重では若手部長)時代の若い頃の田崎さんである。

このころ単車事業本部でジェットスキーに乗ることができたのは、「田崎雅元さん1人」だったかも知れない。当時、明石の単車事業本部ではジェットスキーに関わっている人は1人もいなかった時代で、発動機事業部がエンジンをリンカーン工場に送り、KMCの製品としてアメリカだけに売られていた『継子製品』だったのである。

 

これが、85年に単車の技術部が最初に開発を手掛けたJS300Aの試作品である。

モペットのコンセプトで、初心者向きに小型の舟艇を造ったのだが、水の上は『小型』は安定せずに、田崎さんも「乗れなかった」という代物だったのである。レースに出ていた福井昇さんでも上手く乗れずに、その時ズケズケ本音で書いた「福井レポート」は、技術部内で大問題となり、なかなか有名なのである。

そんなこともあって、アメリカ市場ではJS300は導入しなかったのだが、国内に導入したJS300Bは、舟艇をJS400を使たものだったというのは、これも今回『私も初めて知った』事実なのである。

 

 

 

これは、ネットの中からGoogle の写真検索で私が見つけてきたものである。

こんな感じでその規模は、壮大だったのである。

 

 

これは松口久美子さんから頂いた当時のスポーツ新聞の記事で、

 

 

レースをするだけではなく広く広報活動を展開したのは、この当時のカワサキの特徴だったと言っていい。

ユーザークラブKAZE も、SPA直入がスタートしたのも、カワサキが初めて鈴鹿8耐に優勝したのもこの時期なのである。

そんなレースや遊びを本格的に専門的に展開していたのが、カワサキの初めての『ソフト会社・ケイ・スポーツ・システム』で『遊んでいたら自然に売れる綜合システムの創造』が私自身の主たる仕事だったのである。

 

以下は、田崎さんから送って頂いた写真や、千里浜の写真などネットから拾ってきたものだが、すべてが『華やか』で『新しいカワサキのイメージ創造活動』だったのである。

そんな観点から当時の写真をご覧になってください。

私にとっても非常に懐かしい想い出いっぱいの写真なのである。

 

琵琶湖ホテルでの前夜祭で、来賓挨拶の田崎さん である。

 

 

当日は、岩城滉一さんも急遽出席してくれて、会場はより華やかになったのである。

 

金森稔くんのテレビインタビューに、何故か田崎さん、割り込んでいる。

ちょっと、向うに見えてるのは私。

 

 

田崎さんご機嫌の写真だが、お酌をしている美女は、確かアメリカのジェットスキーチャンピオンなのである。

 

 

★ これから後の写真は、千里浜のジェットスキー大会で、エントリーは1000台を超え、1日のレースが130レースにもなったという、世界でも最大規模のジェットスキー大会となり、地元の役員の人たちから『ギネスブック』への登録がホントに真剣に検討されたりしたのである。

石川テレビの中継もある、そんな大会だった。

 

 

ネットから拾ってきたものだが、千里浜のレースは今も続いているのかも知れない。

 

 

 

 

1984年11月にアメリカでJJSBAの認可を得てから、もう30年以上になるのだが、ちゃんと育っていることは素晴らしいと思っている。

 

 

 

★そして最後の写真は、

1984年11月、アメリカにIJSBAの承認を取りに渡米された苧野豊秋さんに私が随行したのだが、当時のKMCの人たちや、明石からその時出張してたメンバーたちが、苧野豊秋さんを囲んでの記念撮影で、これも田崎さん提供なのである。

 

この人たちの努力で、KMCは見事に立ち直ったし、カワサキの単車事業の再建もなったのである

そしてJJSBAも、この時がそのスタートなのである。

最初に『井戸を掘った人たち』が、懐かしい。

この稿を最後に『カワサキジェットスキー物語』も、一応終わりにしたいと思っている。

 

ご協力頂いた、田崎雅元さん・福井昇さん・松口久美子さんに感謝である。

 

2019年1月13日

カワサキジェットスキー物語  13

投稿者 : rfuruya

 

★1985年あたりにアメリカ市場で、突然ジェットスキーが2万台を超える規模になったことから、突然カワサキの中でもこの事業を正規の事業にしようという動きが出たのだが、そのジェットスキー・プロジェクトは、ホントにスピーデイーに動いて、1900年に入るころには、ヨーロッパにも国内にもジェットスキーの専門会社が立ち上がっていたし、アメリカ以外のJJSBAのレース活動もまた素晴らしい勢いで動いていたのである。

日本でもジェットスキーレースなるものが、いつ頃からどの程度の規模で行われていたのかはよく解らないのだが、カワサキ関係では孫会社のKATの社長を兼務されていた苧野豊秋さんが熱心で、日本でもJJSBAのレース協会を創ろうという動きがあり、84年11月にアメリカのIJSBAの承認を取ろうと渡米されるのだが、それに同伴したのが私で、アメリカでIJSBAと繋いでくれたのが田崎雅元さんなのである。

苧野さんは私にとっても田崎さんにとっても元上司で、カワサキの二輪のレース委員会の営業サイドの長をされていて1960年代からレースに関連があった方なのである。そんなことで日本にJJSBAが出来たのは85年からだと言えるのだが苧野さんは初代のJJSBA会長を務められたのである。

 

さらに、カワサキがジェットスキーを正規の事業にすべく社内でJSに乗れるライダーを探して、発動機の福井昇くんを見つけて、最初のプロジェクトメンバーに加えたことも、彼がジェットスキー・プラザの実質1号店になってくれたことも、国内のジェットスキー事業やレースが順調に立ち上がった大きな原因だと思っている。

当時のジェットスキー・プラザの殆どがレースに色濃く関係していて、そんなこともあって日本でもジェットスキー・レースが各地で行われることになるのである。

 

★このジェットスキー物語も、当時から色濃くレースに関わって頂いた福井昇くんや、松口久美子さんのご協力で、私もいろいろと思いだしながら、やっと纏めることができているのである。

今回も福井くんや松口さんがこんな写真を送ってくれたのでその写真の紹介から入って行こうと思う。

 

まずは、福井くんが送ってくれた、発動機事業部のジェットスキーグループの解散会の写真である。

この写真は貴重である。当初のジェットスキーに関わったメンバーを私自身も初めて知ったのである。後、ジェットスキーでも二輪でも関係のあった方たちもおられる。

1976年とあるからこの年次で一応ジェットスキーグループは解散するのである。ひょっとしたらコレでカワサキのジェットスキーも終わってしまっていたかも知れないのである。

それまで上市されていた機種はJS400で、アメリカ市場のレースグループから『馬力アップ』の要請が出て、私と同期の藤川哲三さんを中心丹波晨一福井昇さんなど数人がJS550のエンジンのボアアップ開発に当たったようである。

この写真の真ん中にいる村上さんは、昭和32年(1957)川﨑航空機入社の私の同期生なのだが、彼がジェットスキーを担当していたなど、この写真を見るまで私は知らなかったのである。 非常に貴重な写真だと思う。

この写真の中に丹波さんや福井さんがいないのは、この時点で既にスノーモービルの開発のほうに移っていたからだという。

 

★こちらは松口久美子さんから頂いた当時の写真である。

福井さんが440クラスでチャンピオンになってトロフィーを抱えています。その上の写真は大南さんです。トロフィーを持っている女性は第一回全日本チャンピオンの上原さんです 。』との説明がつけられていたが、福井昇くんも若いなと思う。

彼が実際にレースを走ってるのは、実は見たことがないのだが『速かったんだ!』というのが今の実感である。

大南勝也さんには、ジェットスキーの販売関係でも、JJSBAのレースでもホントにいろいろとお世話になったのである。彼の結婚式には私も出席させて貰っていたので、当時のこの業界をリードした人たちはホントに若かったのである。

 

 

日刊スポーツに掲載されたワールドカップ(琵琶湖)の画像だが、松口久美子さん全盛期である。

 

 

★スポーツ紙にこれだけ大きく報道されているが、間違いなく『ワールドカップ』でその規模はびっくりするほど大きかったのである。

近江舞子の湖岸1キロがジェットスキーのテントで埋まったのである。

この大会は『JJSBA創立10周年記念大会』として琵琶湖の近江舞子を舞台に盛大に開催されたのである。

鶴谷将俊さんが第3代JJSBA会長を引き受けてくれたのは1991年2月のことなのだが、それ以降JJSBAは、カワサキの人たちが本格的に運営に参加して、飛躍的にその規模も大きくしていくのだが、その象徴的な大会がこのワールドカップであったと言っていい。

 

以下の写真は、当日会場にも来てくれた田崎雅元さんから送って頂いたものだが、この日の昼過ぎ、私はまだ神戸にいたのだが、月木さんから電話があって、岩城さんが来ているとかいうので、今夜『ワールドカップの前夜祭がある』と言ったら『岩城滉一さん』も突然参加してくれることになったのである。

 

 

 

 

当時の髙橋鐵郎本部長もレース当日は、ジェットスキー大会をご覧になって、その規模の大きさにビックリなさったのである。

これは船の上からのレース観戦だが、この船の手配も、福井昇くんが気を利かして手配してくれたのだと思う。

 

 

★この93年当時は、国内市場が最高の時である。

高橋さんがCP事業本部長でカワ販の社長を兼務、私は専務としてその旗を振ったし、田崎さんはニューヨークから戻って、副本部長時代である。

84年にスタートしたジェットスキー・プロジェクトもようやくその頂点を迎えていたのである。

当時の国内は、二輪関係のレースにも注力していた時期で、鈴鹿4耐も、8耐もカワサキが優勝した年でもある。前述の『岩城滉一さんグループ』も春のカワサキデーラーミーテングにも、鈴鹿のレースには、月木レーシングの総監督として、SPA直入にもしょっちゅう出入りしていた時期で、島田伸介が8耐最後をカワサキに乗りたいと明石にやって来たりした年でもあって、なかなかの人気だったのである。

私自身が『レース』には、販売以上に没頭していたし、二輪やJSはユーザーの人たちと上手に遊んでいたら、『自然に売れるはず』という仮説の上に、グループ全体がKAZE活動などソフト会社ケイ・スポーツ・システムを中心に動いていた時代である。

高橋さん、田崎さんとは、ジェットスキーレースを2月には宮崎で観戦したし、田崎さんとは6月に北海道洞爺湖のレースをそしてその仕上げが11月の『ワールドカップ』だったのである。

 

この『ワールドカップ』が開催できたのも、やはり人かなと思っている

カワサキジェットスキーなどという専門会社がバックには居たのだが、実際に起案したのは『鶴谷将俊』さんだし、JJSBA が主催だが、当日の現場を仕切ったのは『福井昇くんと大南グループ』の人たちで、其の実権は福井昇くんが握っていたのだと思うが、それを自由に任せたのはKJSの藤田常務なのである。

私自身は当時は幾つもの会社の社長をしていて、責任だけは持っていたのだが、実務には殆ど関係していないのである。

髙橋鐵郎さんが100%私に任せて頂いたし、私も鶴谷・藤田さんに100%信頼して任していたので実現したのだと思っている。

ワールド・カップ』という世界展開がスムースに出来たのは、鶴谷さんも田崎さんも海外販社社長経験者で『英語コンプレックス』など皆無だったからかも知れない。

この琵琶湖『ワールド・カップ』はさらに数年続くし、富山県千里浜海岸でのジェットスキー大会は、その規模に置いて「ギネスブック」に登録しようかと、いわれるほどの規模で、さらに続いて行くのである。

 

これもその当時の写真で、田崎さんから送られたものだが、当時のジェットスキーは、国内市場のカワ販販社としても、その経営的なウエイトは非常に高く、単なる遊びではなくて、大いにその経営に貢献していたのである。

 

この写真、右から田崎さん・私・3人目は稲村暁一さんかも知れない。だとすれば珍しい写真である。

1984年、突然アメリカで売れだしたのが、世界展開の契機なのだが、その仕掛け人は田﨑さんであり、それを国内・ヨーロッパ市場にもとふと思ったのは私なのである。

このブログの冒頭にご紹介した発動機事業本部のジェットスキーチーム解散式が1976年というさらに10年近く前なのだが、何となく『ジェットスキーレース』がご縁で、いろんなことが繋がってジェットスキー事業となって行ったのである。

今から、思うと本当に不思議なご縁で繋がっていると思うのである。

 

JJSBAや、国内のレース関係が今どのようになっているのかは、詳しくは知らないが、この当時は間違いなく、この業界のトップをカワサキは走っていたのである。

13回まで続けてきた『カワサキジェットスキー物語』だが、次回かその次ぐらいで終わりたいと思っている。ほんの短い間ではあったが、当時の仲間のことなども、私なりに思い出させて頂いて、「いい時」が過ごせたことを感謝である。

 

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