カワサキ単車の昔話 26 7万台への挑戦 1
2023-11-03 05:51:15 | カワサキ単車の昔話
★1988年10月、3度目の国内担当となった。
「目標70000台」の販売達成をめざす、という難しい課題を与えられての担当であった。
この7万台の販売目標は1983年当時大庭浩本部長が国内のカワサキオートバイ販売社長を兼務されていた時に建てられた目標なのだが、
あまりにも大きな台数目標であったために、
当時のカワ販では目標ではあったが、本気でそれに向かおうとはしてなかったぐらい高い目標だったのである。
★今年はカワサキモータースジャパンの創立70周年である。
これは昭和28年(1953)明発工業が創立されてからの年数で、
同じ年に戦後中断されていた川崎航空機工業が再スタートし、
その明石工場は戦前から飛行機のエンジン工場であったことから、
バイクのエンジンを開発生産し、明発工業に供給していたのである。
私は昭和32年(1957)の入社だから私が入社する4年前の話なのである。
ただカワサキが単車工場を造って単車の一貫生産をスタートさせたのは、昭和35年(1960)のことだから、
スタートとされる昭和28年からは7年もあとの話で、
カワサキの単車事業の歴史としては、
この年から数える方が妥当かも知れない。
私はこの1960年のカワサキの単車事業一貫生産の時期から
単車営業課に異動したので、カワサキの単車事業スタートの時期からずっと一貫して単車事業とともに歩き、
国内担当とメーカーの主として企画部門を交互に担当し、
1988年から1999年までは最後の国内市場担当だったのである。
★この1988年からの国内担当は『7万台の販売目標』を達成すべくいろいろ頑張った私のマーケッテンぐ分野の集大成の時期なのだが、
このムツカシイ7万台の販売目標は1991年6月1日に年間移動値で達成するのだが、
その達成直前の3月に当時の二輪事業本部の課長以上を集めて
『7万台への挑戦』と題して、当時の部下たちとともに行った講演会があったのだが、
それを当時のCP事業本部の営業部販売促進課が1冊の本に纏めてくれたのが、これである。
この冊子は単に二輪事業本部の中だけに配られたものではなくて、
当時の大庭浩社長以下役員全員にも広く配布されたものなのである。
当時のCP事業本部は高橋鐵郎本部長時代で、
高橋さんはカワサキオートバイ販売の社長を兼務されていて
私が専務として実務を担当していた時代なのである。
CPとはConsumer Prodct の略で、
川重の他製品と異なり、末端ユーザーに直接届ける商品の二輪やジェットスキーを扱う事業本部ということで、
高橋鐵郎本部長の命名だった。
高橋鐵郎さんとは旧く、カワサキが単車事業をスタートした頃は
製造部におられて私はレースを担当していたのだが、
そのレース職場は当時は製造部所属で、
私はライダー契約など担当していたので、そんな旧い時代から
いろいろと一緒に仕事をしたのだが、
1951年のカワサキのCKDの市場開発プロジェクト室以降は、
ずっとコンビのような形で仕事を進めたし、
1982年の二輪事業の危機的な状況の時には、
私は企画部を担当するのだが、その時は川重TOPにお願いして
高橋鐵郎さんをアメリカから戻って頂いたりしたのである。
★ 私のこの最後の国内担当の10年間は、
私のマーケット分野の集大成のような期間で
この講演会にはその具体的な内容を語っているので、
『カワサキ単車の昔話』としてその内容がどんなことであったのか、
ここで語られた内容を少し詳しくお伝えしてみたい。
大げさに言えば、それはカワサキの二輪事業のコンセプトと言えなくもないと思っている。
約2時間、本のページにして60ページと長いのだが、
どんなことになるのか、『カワサキ単車の昔話』として
連続してご紹介してみたいと思っている。
ある意味、私の人生の生き方そのものだと言えなくもない。