2021 10月

2021年10月11日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 3

投稿者 : rfuruya

★カワサキの単車事業のスタートは大変なことの連続だったのだが、

 『青野ヶ原のモトクロスの完全優勝』で
 日本能率協会は『この事業続けるべし』という決断を下すのである。
 ただ『広告宣伝課を創るべし』という条件が付されていて、
 川崎航空機工業で初めての広告宣伝課が創られることになるのである。
 それまでのカワサキの広告宣伝は当時のカワサキ自動車販売で担当していて
 あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の実弟の
 小野田滋郎さんが総務課長兼務でおやりになっていたのだが、
       
       その実務が川崎航空機に移ることになったのである。
       そして単車営業課で企画・営業実務のすべてを担当していた私が、
  新しく出来る広告宣伝課を担当することになるのである。
  
 この時点で、従来の単車営業課のあった発動機事業本部から
 新しく単車事業本部が発足し、岩城良三常務が本部長を担当され、
 本社や明石事業所の各分野から多くの優秀な事務屋が単車に異動し、
 見違えるような立派な組織になるのだが、
 広告宣伝課を担当した私は未だ入社5年目で係長にもなっていない平社員だったのだが、
 課長は苧野部長が兼務されたが、実質100%任されることになるのである。
 2年目からは、全員がカワサキオートバイ販売に出向することになって、
 私は『広告宣伝課長』となるのである。
 そんなことで私はぺいぺいからいきなり『課長』となったのである。
   
 その広告宣伝費予算は1億2000万円という膨大な額で、
 川崎航空機の本社が開発費として3年間支給されることになったのである。
 1億2000万円と言えば今でも大きな額だが、
 当時の私の年収が40万円の時代だから、それは大変な額だったのである。
 1年目は一生懸命使ったが7000万円ぐらいしか使えず
 本社の専務に『お前らは金をやってもよう使わん』と怒られるのだが、
 なぜ使えなかったかというと、
 テレビや新聞広告の所謂『マスコミ』が使えないのである。
 それは当時のカワサキの二輪車は全て実用車で、東北や九州などの田舎中心で、
 東京・名古屋・大阪などの大都会では全くと言っていいほど売れていなかったので、
 大都会がメインのマスコミは使えなかったそんな事情があったのである。
  
★ 本社の専務に怒られたので、2年目はちょっと無茶苦茶をやったのである。
 朝日・毎日・読売という全国紙ではなく、地方紙50紙に全頁広告を打ったりしたのだが、
 これは『カワサキはとんでもないことをやる』と広告業界で大きな話題になったのである。
 テレビコマーシャルも破れかぶれで
 当時売り出しの『藤田まこと』を使って
 『あちゃん ても んせい めた カワサキ 
 という短いコマーシャルを流したりしたのだが、
 1965年のことだから、ご覧になった方も少ないと思う。
 そのほか、レース活動をこの広告宣伝予算を使って
 本格的に私自身が直接担当してスタートしたのである。
★特に『レース活動』は広告宣伝費の多くの部分を費やして、結構派手に動いたのである。
      
カワサキのレースのスタート』については
こんなブログもアップしているので詳しくお知りになりたい方は是非ご一読を!
 1962年に行われた第一回全日本選手権ロードレースを製造部のメンバーが観戦して
 大いに感激したという話を披露したが
 その250・350の優勝者が三橋実・片山義美(いずれもヤマハ
 カワサキのレースのスタートはこのお二人と密接に関係があるのである。
 
 三橋実は、前述の小野田滋郎さんがヤマハから引っこ抜いて、
 厚木にカワサキコンバットを創ったので、
 カワサキのレースは、『青野ヶ原』以前のB7時代にカワサキ自販で行われていたのが、そのスタートと言っていい。
 関西では山本隆・歳森康師・金谷秀夫など
 片山義美さんの『神戸木の実』のメンバーたちがカワサキと契約を結んだのである。
 これは当時のMCFAJの朝霧高原での、全日本モトクロスだが、
山本隆・歳森康師と
カワサキコンバット三橋実・安良岡健・岡部能夫・梅津次郎
未だ未契約の星野一義などが並んでいる。
    
★ みんな『世界の』とか『日本の』と語られる有名選手になっていくのだが、
 当時はまだそんなに有名でもなかった選手たちに、
 日本のトップクラスの選手とほぼ同額の契約金を弾んだので、
 全国のモトクロスライダーたちの注目を集めたのは間違いないのである。
 当時はそんなにトップライダーは多くなかったので、
 ライダーの殆どをカワサキにしたら『間違いなく勝てる』と
 私は本気で思っていたのである。
 当時のトップライダーの契約金が100万円ぐらいだったので、
 1億2000万円の予算なら、ホントにどうにでもなったのである。
 当時のカワサキは何をやってもホンダ・スズキ・ヤマハに太刀打ちできずに
 『ドンケツ』に位置していたのだが、
 何とか『レースだけ』は『一番になる』といろいろと思い切ったことをやったのである。
 前述の『カワサキ・コンバット』に対しても。
 この広告宣伝費から毎月20万円の運営費三橋実に渡していたのだが、
 20万円は相当な額だったので、厚木には全国からライダーたちが集まったのである。
 その中の一人が星野一義であったり、
 後『星野インパル』を運営した金子豊などもその時秋田から来ていたメンバーなのである。
 カワサキの中では『レース運営』はこんなメンバーたちで構成されていて、
 『レース運営委員会』が基本方針を出すことになっていたが、
 その具体的な運営費は、金を持っていた私が担当していたのである。
 これは今思うと錚々たるメンバーだし、
 当時、やってたレース運営は、その後の予算ではとても出来ないような
 豪勢な運営だったのである。
 ヘリコプターも持っていて、レース開催地に持っていったりしてたので、
 他メーカーの選手たちに乗せてくれと頼まれて、
 そんなこともあって、いろんな有名選手と私は親しくなったりしたのである。
このメンバーの中から、後川崎重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が1人、出ているのである。
 当時はみんな若かったから、レースに関しては『気違いじみた熱心さ』だったのである。
 このメンバーは私の単車現役時代本当に密接に関係のあった方々で
 大槻さん・田崎さんとは今でも密接なお付き合いがあるのである。
 お二人は、当然この『カワサキアーカイブス』でも私と同じように、
 カワサキの歴史を語っておられるのである。
★この広告宣伝課時代は3年間、1億2000万円の予算がある間を担当したのだが、
 このような膨大な額の予算を持っていたので
 電通・博報堂・大広などの広告代理店は神戸支店の管轄ではなくて、
 全て本社企画部門の優秀なメンバーたちが担当してくれたので、
 お蔭様で私はマーケッテングなるものの本質を3年間勉強することが出来たのである。
 多分、川崎重工業の中でもこのような経験をされた方は少ないのだと思う。
 そういう意味で、私自身ホントに若い時分にこの広告宣伝課を担当できたことは『よかった』と思っているのである。
 この3年間、いろんな意味で私の人生の糧を与えて頂いた方々に感謝である。
それは
 ● 広告代理店の優秀なメンバーの方々
 ● カワサキ自販の広告宣伝課長であった陸士出の小野田滋郎さん
  小野田さんからは本格的な戦略・戦術・戦闘論を
 ● その後もカワサキの二輪事業の中心であったレース運営委員会のメンバー
 ● それに当時の単車本部長であった岩城良三常務
   岩城さんについては次回の『その4』で述べることにしたい
2021年10月10日

今日のニュースから

投稿者 : rfuruya

★岸田総理の所信表明演説があったようだ。
 全文を読んだわけではない。
 いつもの通り与党は評価、野党は批判である。
 野党は、どのようにケチをつけるかという態度でまともな評価をする気は
 毛頭ないようにも思える。
早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め
 首相は演説の最後に、アフリカのことわざを引用し、新型コロナウイルスなどの困難に対し、国民と共に乗り越えていく姿勢を示した。
全閣僚に国民との「車座対話」を開くことを指示し、国民のニーズを行政に反映させることを約束した。
 などとニュースは伝えている。
 演説の評価ではなく、今からどんな政治をするのかを見たいのだが、
 そんな間もなく、すぐ選挙が始まる。
 選挙をやっても、総理を評価することは出来ずに、
 選挙区に立候補した候補者を選ぶだけしかできないのは、
 日本のルールでは仕方のないことである。
★ 先日のワールドカップ予選でサウジアラビアに負けた日本代表。
 森保監督の進退が話題に上がっているが、
 
 サッカーの監督の評価はなぜこうも厳しいのだろうと思う。
 先日の試合に負けたのは、バックパスのミスからで、
 これは監督はどうしようもないように思う。
 そんなに詳しいことは勿論解らないのだが、
 サッカーの監督は、そんなに試合の勝敗に大きなウエイトを持ってるのかなと思う。
 野球の監督のほうが『監督の采配』は多くのことがあって。
 責任は重いと思うのだが、これはあまり言われないのは何故かなと思う。
 今シーズンのセリーグなら、ヤクルトの高津監督以外は
 サッカー流に言うと全部、解任論が出てもおかしくない。
★ コロナの感染者数は連日1000人を切っている。
 感染者0の県も7県もあるし、1桁の県が半分以上の30県に近い。
  
 これは素人考えだが『菅さんのワクチン接種効果』だろう。
    ワクチン接種はさらに進むだろうし、
 『9月末には殆ど終わってしまう』と思うのは楽観的過ぎるのだろううか?
 大体世の中の『カシコイ人』たちは『危ない・危ない』と言いたがる傾向にある。
 所謂『専門家先生』はそういう傾向にあるのだが・・・
2021年10月9日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 2

投稿者 : rfuruya

★ 昭和32年(1957)4月に川崎航空機に入社して、最初の仕事は財産課だったのだが、
ここでは実質2年ちょっとで肺結核になってしまって三田の療養所に10か月ほど入院することになったのである。
ちょうどその頃、新しく単車事業がスタートすることになり、
昭和35年(1960)から明石工場で単車の一貫生産が始まるのだが、
営業部にも新しく『単車営業課』が新設されて
それが11月にスタートしたちょうどその時期に退院だったこともあって、
その『単車営業課』に異動することになったのである。
そんな好運に恵まれて私の単車事業とのお付き合いが始まるのである。
 最初に造られた車が『125ccB7』なのだが、
 これが大変な車で、フレームに欠陥があって毎日、毎日返却されるのである。
  
 その返却台数も半端ではなくて、
 私が営業に異動した翌月の1月には返却が生産を上回って
 『生産台数がマイナス17台』を記録したというウソみたいな話だったのである。
当時の二輪車は125cc以上は贅沢品ということで、『物品税』が掛けられていたのだが、
この物品税は納入するのは簡単なのだが、
返却があって収めた税額を戻してもらう『戻入手続き』は大変だったのである。
戻ってきた車は工場を出た時と同じ状態でないと『戻入』は認められないのである。
例えばもし『メーターが回っていたらダメ』なのである。
そんなことだから、『メーターの巻き戻し』などと言う中古車屋のようなことをメーカーでやったりしていて、
今思うと信じられないようなことをやっていたのである。
そんなこともあって、私の営業での最初の仕事は『物品税対策』だったのである。
★そんな状態だからカワサキの単車事業のスタートは大変で当然大赤字だし、
 この事業を続けるかどうかの大々的な調査を日本能率協会に依頼したりしたのだが、
 思わぬ幸運もあって単車事業の継続が決まるのである。
 
★ 鈴鹿サーキットが出来たのが、昭和37年(1962)で、
 この年の11月に日本で初めての本格的な二輪ロードレースが開催されたのだが、
 このレースをカワサキの製造部の人たちが観戦に行ったのである。
 このレースを見て感動し、カワサキもレースを!と
 翌年の6月に開催された青野ヶ原モトクロスに、出場するのである。
 その結果は1位から6位までを独占する完全優勝で、
 事業部全体の意気は一挙に上がり、
 その時、この事業存続の可否を調査していた日本能率協会は、
 この末端の意気を感じて『この事業続けるべし』という結論を出したのである。
★ これは『青野ヶ原モトクロス』に関係したメンバーの記念写真なのだが、
 このメンバーは全て当時の製造部門と営業部のメンバーなのである。
 
 あまり語られていない『青野ヶ原モトクロス』の裏話を。
 実はこのレースへの出場は、会社の正式な業務としての出場ではなくて
 製造部と営業部の有志による『プライべート』な出場だったのである。
 例えばレーサーを造る時間も、会社の仕事が終わってからだったし、
 兵庫メグロから来た松尾勇さんを中心に残業料などは貰わずに作られたものなのである。
 このチームのマネジャーを私の下にいた川合寿一さんが担当していたのだが、
 上司であった小野助治さんから
 『残業代も出ていないし、残業食も出ないのでパンでも買う金を営業の経費から出してやってくれ』と言われて、
私がやったと言えばなにがしかの金を出したぐらいのことなのである。
 もう一つ初出場のカワサキがなぜ1位から6位まで独占できたのか?
 このレースには他メーカーの有力選手も出場していたのである。
 あの山本隆さんもヤマハで出場していたのだが、
 当日は雨で水溜りがいっぱいできて、みんな車が止まってしまったのだが、
 カワサキだけが『防水対策』が出来ていて、
 止まることなく『走り続けた』結果なのである。
 さらに言うと、このレースの仕掛け人兵庫メグロの西海義治さんで、
 西海さんは元オートレーサーのプロ選手で、カワサキでレースをやるべく、
 ● 鈴鹿サーキットの『レース見学のバス』を仕立てたのも、
 ● 松尾勇さんをカワサキに送り込んだのも、
 ● 『青野ヶ原のレースを開催』したのも
 当時MFJの兵庫支部長だった西海さんなのである。
     
  ここにこんな写真を出したのも、
  若し本田宗一郎さんが、鈴鹿サーキットを創らなかったら、
  多分カワサキが単車事業の存続の決定はしなかったのでは?
  そういう意味で、今この世にカワサキがあるのは
  西海義治さんと本田宗一郎さんのお陰だと
  私は秘かにそう思っているのである。
2021年10月8日

好奇心 いろいろ     雑感

投稿者 : rfuruya
★ 今回のノーベル賞受賞の真鍋さん
 その原動力は『好奇心』という記事が出ていた。
 『好奇心が原動力か?』と思ったりした。
 私自身は『好奇心は結構ある方だ』とは思う。
 現役時代は『古谷さんは好奇心の塊だ』などと言われたりしたが、
 周囲から見ると、そう見えるのかも知れない。
 ただ、『好奇心』から『関心』が湧くと、そこそこまではやるのだが、
 ある一定のレベルに来ると『そこで止めてしまう』から
 間違いなく『専門家にはなれない』し、
 意識的に『専門家になることを拒否』している。
 『専門の分野』は『専門家』に任せばいいという発想なのである。
★ただ、『好奇心』は確かに人並み以上にはあって、
 一体『好奇心』とはどんなことなのか?ネットで調べてみたのである。
 そこにはこんな解説が載っていた。
  
『何事につけ興味を持つ人は「奇心旺盛な人」といわれ、
好奇心旺盛な人には、知識を得るための努力を惜しまないという一面もあり、
職場では好印象で、「有能な人」という印象を持つ人も多いのでは。』
とも書かれていて、そんな風に周囲は見てくれていたのかも知れない。
ただ長所ばかりではなくて『長続きしない人は成功体験を続けることがお勧め』とあって、
私の場合は幸いにして『成功体験』ばかりなのは『努力さえすれば何とかなる目標』ばかりに挑戦したからかも知れない。
一般企業なら『新しいプロジェクトの策定』などが向いているのではないでしょうかと書かれていて、確かにそんなことばかりやってきたのだが、
物事を極めたことは何一つなく、
先日も書いたが『ハンデー10の人生』だったと言えるのである。
★ 好奇心旺盛な人に向いている仕事や働き方としては、研究職・記者・フリーランスなどがあって、
まず、興味をそのまま仕事にできるのが研究職で、
『研究はコツコツとした作業ですが、好奇心があればその作業がただ苦になるだけではないはずです』とあるので、
真鍋さんの『好奇心』は当たっているのだが、
ただ同じ『好奇心のある人』でもピンキリなのは、世の中の常である
2021年10月7日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 

投稿者 : rfuruya

 私の生き方、考え方&意見
★ カワサキアーカイブスはこんな画面からスタートする。
  手前のモペットは多分M5でバイクはB7だろう。
  その後ろは、カワサキベルヘリコプターである。
 
  カワサキの二輪事業スタートの昭和35年(1960)
  国内市場だけでその販売先はカワサキ自動車販売だった。
  通称『カワサキ自販』、トヨタも『トヨタ自販』があった時代である。
  そしてすぐ私のインタビューに入り、
     
 私は、昭和32年(1957)4月、川崎航空機工業に入社するのだが、
 まず入社動機なぜ川崎航空機に入ったのかという言う質問で始まり、
 その答えが結構長く続くのである。
      
  『なぜ、川崎航空機に入ったのか?』と言われると、
  当時の副社長だった砂野仁さんが『入れたるわ』と仰ったので、
  それに従って『入れて頂いた』のである。
  
  その経緯はいろいろあって、
  私の祖父の話からスタートするのである。
  私の祖父古谷虎雄は私が産まれた時にはもうこの世にはいなかったが、
  いろんな方が『偉かったよ』と言われる話を聞いて育った。
  ネットにもこのように現れたりする。
  
   そんな話をしているのでこんな画面が現れたりするのである。
  
 祖父が亡くなってその後を継いだ伯父古谷修一南鮮電力のオーナー副社長をしていて、
 同時に明石では『錦江ホテル』の経営もしていたのだが、
 このホテルが戦時中に、川崎航空機の明石工場に来ていた軍人の宿舎にと、
 川崎航空機に接収されることになったのである。
その時の売買契約伯父と川崎航空機の砂野仁総務部長さんとの間で締結され、
そんな関係でその後も伯父とは親交があったのである。
私は戦後朝鮮から引き揚げてきて名門と言われた神戸一中に入るのだが、
それは息子さんの砂野耕一さんが一中に行ってたこともあって、
砂野仁さんの薦めがあったからなのである。
そんな関係だったのだが、伯父が私の大学2年の時に亡くなって、
その葬儀に来られた砂野仁さんが、当時は就職難の時代でもあったので、
もし行くところがなかったら、うちにいらっしゃい』と言って頂いたのである。
そんなことで、私は川崎航空機以外の会社の入社試験など一切受けずに、
川崎航空機に行くことに決めていたのである。
 ところが、私の卒業年度の昭和31年(1956)は全くの不景気で、
砂野さんが『今年は採らぬから、もう1年大学におれ』と仰るので、
私は卒業を伸ばして、大学5回生を野球部の監督をしていたのである。
結構呑気と言えば呑気な性格で、
何でも、何とかなるだろうと思うのは若いころから同じで、
それが結構『いい運に繋がっている』という結果になっているのである。
翌年の昭和32年は様変わりの『神武景気』となって、
川崎航空機に入社することが出来たのである。
 
★勿論、入社試験も社長以下重役陣のおられた面接も受けたのだが、
 その面接は『君は成績悪いねえ』から始まったのである。
 当時の総務部長が岩城さん人事課長が塚本さんだったのだが、
 『君は成績悪いねえ』と第一声を放たれたのは、塚本さんである。
 
 私は大学時代は全く勉強などしていなくて、野球一筋だったので、
 優体育実技体育理論・誰にでも優をくれる中国語の1・2 と
 野球部の部長の経済地理の5つだけで、可が二桁もあったのである。
成績が悪い』のは自分でもよく解っていたので、動ずることなく、
会社の仕事など絶対に他人に負けたりはしません』などと言ってたのだが、
岩城さんに『ところで君は野球をやってたな』と話題を振って頂いて、
あとで砂野さんから『君は面接だけはよかったよ』と言って頂いたのである。
岩城さんが『野球』に話を振って頂いたのは『私が砂野さんのコネ』ということをご存知だったので、そんな配慮があったのだろうと感謝している。
ただ砂野さんは、神戸一中時代、学年の10番以内にいた私の成績はよくご存じだから『バカではない』ことはお解りだったとは思っている。
ただこの面接での『人には絶対負けません』と言い切った一言は、
現役時代ずっとアタマに残っていて、頑張り続けたのは間違いないのである。
★ そんな入社時代の話がいろいろ続いたあと、
 当時の川崎航空機の社風はどうだったか?という質問があって、
 『やりたいことが自由に何でもやれた』と答えているし、
 事実、新入社員の1年目からホントに自由に動けたのである。
 軍事会社ということで戦後の中断があって
 昭和27年(1952)に分散していた幾つかの会社が集って、
 再開されたばかりの若い会社だったから、
 いろんなことがことがまだ整っていなかった面もあったのだと思う。
 業務部財産課という地味でオモシロくないという部門に配属されたが、
 すぐに財産物件の管理担当者というシステムを創って、
 夫々の課の財産物件の管理をお願いしたのである。
 この全事業所の管理担当者の統括が新人社員の私なので、
 不思議なことに『沢山の部下?』がいるような形にもなったのである。
 2年目には当時のJETエンジン部門に米軍がいて、IBMがあったので、
 財産物件の償却計算のIBM化などをやっている。
 これは全社でも初めてのことだったし、
 日本にはまだIBMもIBMという会社もない時代のことである。
 因みに、IBMが日本で一般化したのはオリンピックの頃のことだから、
 その10年も前の話なのである。
ただ、当時は私だけではなくて、オモシロい方がいっぱいいた。
後、アメリカ市場を開拓し、KMCの社長をされた浜脇洋二さん
   
 あのZ1を創られた、大槻幸雄さんなど
 当時の若い方々は、ホントにオモシロかったのである。
   
 それにしても、お二人ともお若い。
★今でも広い明石工場だが、当時はその面積だけは今の2倍もあった。
 ただ、空襲でやられてしまっていたので、こんなに空き地ばかりだったのである。
手前の広場のようなのは飛行機が飛べる滑走路なのである。
会社は苦しくて、土地や機械の『売り食い』の時代でもあったのである。
  
★ まずは『アーカイブス第1稿』、入社したころの川崎航空機工業である。
  この頃は、まだオートバイなどは未だ造っていない。
  戦前、明石工場は航空機のエンジン工場だったので、
  技術屋さんの殆どが『エンジン屋』さんだったし、
  そんな関係で、ジェットエンジン工場発動機の小型エンジン
  ミッション歯車などの生産が行われていたのである。
2021年10月6日

『カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス』  序章

投稿者 : rfuruya
★ 『カワサキアーカイブス 古谷錬太郎インタビュー』という
  こんなデイスクが我が家にある。
  
  
 カワサキの二輪事業の60周年記念に川崎重工の単車部門が
 二輪事業の歴史を残そうとOB達にインタビューなどして創り上げたものだと思う。
 アーカイブスとは
 『アーカイブ (archive) とは、重要記録を保存・活用し、未来に伝達することをいい、保存記録などと訳されることが多い』とある。
 そういう意味で
 ● 私の1時間ちょっとのインタビューと
 ● 私が保持していたカワサキ単車の膨大な資料
 がデイスクに収められている。
★ これは2019年2月15日に登山道夫さんのGood Times Plaza 
  こんなメンバーたちでの取材が行われた。
 インタビュアーは川重OBの山田淳一さんだったが
      事前に私のネットの記事を詳細に読んでおられて
 それに基づいた質問でもあったので答えやすかったし、よく纏まっている。
 昨日、久しぶりにそれを聞き直してみたのだが、
 これはカワサキの二輪事業の歴史であると同時に、
 私自身が生きてきたカワサキの現役時代の人生そのものでもあると思った。
  
★いままでもカワサキの単車事業についてはいろいろと書いてきたが
 『私自身の人生の回顧録』として、私のその時々の想いを中心に、
 もう一度纏めなおしてみたいと思っている。
 特に私の現役時代の記録資料はこんなファイルが20冊ほどあったのだが、
 それは全部ご提供したので川重には正規の資料として残されたと思うので、
 現在はこの3冊に集約してあとは全て捨ててしまっている。
  
 その資料は、川重ではこのように綺麗に整理されてお持ちのようで、
 多分ほかに、こんなに纏まった資料はないのではないかと思うのである。
 これは大項目だが、その詳細はデイスク1枚に収まるほどの量で、
 何十年に亘る、カワサキの単車事業の歴史が収まっている。
  
★ 私自身はおおざっぱな性格なのだが、それは個人的なことであって、
  公の会社の資料などは全て『私が作成』したものではあるが、
  時系列に非常にきっちりと整理されて残されているので、
  会社としてもこんな『デイスク』に収めて残そうとされたのだと思う。
  それは昭和32年(1957)4月の入社時からスタートしているが、
  当初の18年間は会社の資料はないので自分の日記から拾って月毎に纏めてある。
  昭和50年(1975)の10月からは川重企画部門に転籍したこともあって、
  ここからは会社の資料中心に年次ごと月毎、日毎に纏められていて、
  その最終稿は川崎重工で現実に第一線を担当した平成7年(1995)3月までで終わっている。
  いずれにしても約40年のカワサキ現役時代が纏められたのは、
  20歳の時から続いている日記が手元にあったからである。
★  これは私が別に纏めている20歳からの10年毎の『私の履歴書』である。
  表の真ん中にあるように、殆どの事項が『全く新しいこと』に挑戦してきたと言っていい。
  
 ● 20代は、大学から川崎航空機入社の時期だが、
   一言で言えば『勉強期間』この時期に二輪事業はスタートしている。
 ● 30代には、広告宣伝・レースなども担当し、
   特約店制度など新しいシステム構築などが始まっている。
 ● 40代に入ると、川重の企画室に復職し、
   東南アジアプロジェクトやアメリカダンピング問題対策として、
   国内販社新体制を構築し自ら常務として経営の旗を振ることになった。
 ● 50代はアメリカKMCの経営危機で、二輪事業撤退の危機でもあった。
   この時期は企画室に戻り事業部の経営再建を直接担当し、
   後半には、ようやく二輪事業も安定し国内事業経営に当たっている。
 ● 60代は現役時代の集大成の時期で最高の時代であった。
   国内市場念願の7万台の販売目標を実現している。
 ● そして退職後の70代も、NPO 法人The Good Times を立ち上げて、
   結構、楽しくやってきた。
  この取材を受けたGood Times Plaza はその事務局でもあった。
 ● そして今80代ももう終わりに近づいている。
  結構、元気なのがいい。
  まだ、纏めてはいないが、どのように書くのだろうか?
 
 こんな『私のアーカイブス』である。
 もう一度、このインタビュー記事を振り返りながら、
 私の生き方・考え方を纏めてみたいと思っている。
 結構、長い『カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス』になるかも知れぬが、お付き合い頂ければ幸いである。
2021年10月5日

ニュース いろいろ

投稿者 : rfuruya

★ 10月4日・岸田内閣がスタートした。
 第1回の内閣支持率はどんな感じになるのだろう?
 私自身は、何となく『大人しすぎて、あまり期待できない』ような気がする。
 安倍さんから続いた自民党の体質が変わるようには思えないのである。
 いろいろと言われてはいるが、
 岸田総理自らのトップとしての『リーダーシップ』が感じられないのが物足りない。
  
★ 菅総理は在任期間、384日で官邸を去られることになったが、
 世間の内閣支持率は最初は高かったのに、最後はしぼんでしまった。
 私自身は、それなりに地味ではあったが、いろいろやられたようにも思う。
  コロナ騒動で明け暮れた1年だったが、
 日本の『コロナ対策』は先進諸国の中で一番いい成果を残したのでは?
 中でも菅さんが先頭を走った『ワクチン接種』は素晴らしかった。
★ 今回の新総裁では期待を裏切った河野太郎さんだが、
  菅内閣最後の記者会見では『120点ぐらい頂けるのでは
  と言われている。
 
  政治家とはあまり『落ち込まない人種』なのかも知れない。
★ 国会の首相指名選挙で『高石早苗』票が1票あったとか。
 ご本人は『私ではありませんよ』と仰ってて、そうだと思うが、
 国会議員なのに不真面目な人もいるものだ。
★今年の大谷翔平は楽しませてくれたが、
 今シーズンは終わってしまった。
 毎日のテレビが楽しみだったが、半年ほどのおやすみである。
 来シーズンのエンゼルスとの契約には前向きとか。
 今の監督さんがいる間は、一緒にやるべきだと思う。
 大谷もいいが、監督さんもなかなかいい。
★ 久々にオモシロい選手が現れて、応援してたのだが、
 阪神佐藤輝明選手の『56打席連続無安打』の新記録はまさに貴重である。
     
 これは『やろう』と思ってもなかなか出来ない『貴重な記録』かも知れない。
 今シーズンの通算成績を調べてみたら、
 打率は2割4分1厘もあり、ホームランが23本打点が60出塁率は2割8分6厘もある。
 三振の数180はちょっとビックリである。
  
 果たしてこの記録、どこまで続くのか?
 優勝を争ってるチームだが、
 矢野監督は今後、どのような使い方をするのか?
   個人的な見解だが、守備も意外にいいし強肩だし、
  是非、使い続けて欲しいと思っている
  突如の大変身を期待しているのである。
2021年10月4日

Kawasaki Let the Good Times roll と 私

投稿者 : rfuruya

★ 10月1日、川崎重工業から分社化し、

 『新会社カワサキモータース』が発足した。
 1960年当時の川崎航空機工業が明石工場の中に『単車の一貫生産』をスタートさせたのが、カワサキの『二輪事業のスタート』だが、
それからほぼ60年の年月を経ての新会社の発足なのである。
 1960年のスタートの時期に、新しくできた単車営業部に配属された者として、本当に感慨ひとしおなものがある。
 この60年間、カワサキの二輪事業はそんなに順調な時代ばかりではなく
 むしろ『難しい時期』の連続だったのだが、
 1990年代に入ってようやく事業の安定をみたのである。
 その間、川崎重工業の多くの事業の中で末端・民需・大量生産事業として
特異な存在であったのだが、
 今回の分社独立はご同慶の至りなのである。
★ スタートから約40年間、私自身はカワサキの二輪事業一筋に担当してきたのだが
  個人的に秘かにそのベースにあった基本コンセプトが
  Kawasaki  Let the Good Times roll !   だったのである。
 これは1975年頃アメリカのKMCで採用されたコンセプトで
 当時のKMC社長浜脇洋二さんのその報告会に出席したのだが、
 その時は私は国内担当だったのだが『これは素晴らしい』といたく感動したのを鮮明に覚えている。
 このコンセプトはアメリカのカワサキだけで使われたもので、その後数年で消えてしまっていたのである。
 それから20年近い年月が流れて1990年代に国内のKMJで、このコンセプトを私が復活したのである。
 あの時国内市場で復活しなければ、このコンセプトが世に残ることはなかったに違いないのである。
 これは当時の明石のショールームに展示されていたものである。
 こんな風に言ってるが、スタートの発想がアメリカなので正規の日本語訳は存在しない。
  
 当時のKMJの社長であり単車事業本部長であった髙橋鐵郎さんが、
 それを『世界のカワサキ二輪販社での展開』とし
 田崎雅元さんが川重社長の時には川﨑重工業のコンセプトにもなったのである。
 それが川重社長が交替して一時消えかけて非常に心配した時期があった。
 もう10年も以上も前の話だが、髙橋鐵郎さんとも相談して、
 NPO法人The Good Times を創ってそのコンセプトだけでも世に残そうとしたのである。
 私にとっては、そんなにも思いつめた時期もあったコンセプトなので、
 今回、新会社カワサキモータースの基本コンセプトとしてこのように大々的に採用されたことは非常に嬉しいことなのである。
★二輪事業はスタートの時期、国内市場では苦難の時期が続いたのだが、
 ● 若し アメリカ市場がなければ
 ● 若し Z1などのカワサキ独特のスポーツバイクがなければ
 ● 若し Let the Good Times roll のような楽しいコンセプトがなければ
 現在ある独特の『カワサキイメージの創造』はなかったと思っている。
★今回の新会社は、
 こんな『楽しんじゃえ宣言』という形でのスタートとなった。
 このバイクにまたがってるのが新社長の伊藤浩さんだが、
 
 Kawasaki Let the good times roll  がそのメインコンセプトになったのは
 何よりで、私にとっては何物にも代えがたい感慨深いものがある。
★ これは数年前『カワサキアーカイブス』制作時に
 『後輩に送る言葉』と言われて
 この時私が語った言葉が Kawasaki Let the Good Times roll だったのである。
私にとってこのコンセプトはカワサキの二輪の歴史と共に歩んできた『基本コンセプト』なのである。
 そう言う意味で、今回の『カワサキモータース』の新社長伊藤浩さんに本当に感謝なのである。
 これで Kawasaki  Let the good times roll はもう消えてしまうことはない。
 当時のKMC社長だった浜脇洋二さんもきっと喜ばれるに違いないのである。
2021年10月3日

運動と昼寝と体重と年齢など いろいろ  雑感

投稿者 : rfuruya
★ コロナでやることもないし、
  コロナでなくても、そんなにやることもない超高齢者の日常なのだが、
  午前中はジムに行くか、防災公園に走りに行く。
  ジムではいろいろやるのだが、Fitbitに記録されないので何となく頼りない。
  その点、防災公園に走りに行くとちゃんと記録が残るので、
  意外に『やる気』になる。
  例えばこんな記録が残るのである。
  これが歩数だが1万歩と出ているのは公園を走った日で、
  ジムで幾らランニングマシンで走ってもそれはなのである。
     
  特に公園を走った日は昼寝をすることが多い。
  1時間ちょっとだがホントに熟睡出来ている。
   
 これが夜だとこんな感じで夜中にトイレに立つし、
 『落ち着きのない眠りの状態』も多いので、
 『昼寝』はいいのかなと思っている。
 
★ いろいろやってる目標の一つに
  『体重を少し落とそう』というのがあるのだが、
  これが一向に落ちないのである。
  消費カロリーは2000カロリーを越えてるので
  高齢者としては多いのだが、それ以上に食っているのである。
        体脂肪率はまずまずだが、体重は83キロになることもあり
  どうしても 『81キロ台』にならないのである。
     
   いま『痩せた』ことが話題の北朝鮮の金正恩はどのようにして
  『痩せた』のだろうか?
 体重と体脂肪率は風呂上りにこんな秤で測っているのだが、
 これには『体重・体脂肪率』などと共に『年齢』が出るのだが、
 大体『73歳~76歳』ぐらいの間だから、
 実年齢よりは10歳以上若いのだが、
 これは筋肉量などが普通の方よりは多いからだろう。
  
 ただ、不思議なことに『体重が増える方』が『年齢は若く』でる傾向である。
 そんなことで、『体重』は一向に減らないのだが、
 『年齢が75歳』ぐらいと出ているので『まあ、いいか』と思っているのである。
  この『年齢75歳』がいつまで続くだろうか?
  少なくともこの2,3年は変わっていないのである。
  この2年程、コロナで市の体力測定会がないのだが、
  この体力測定会には『柔軟性』という項目があって、
  これが『20歳』と出るものだから
  『体力年齢』は50歳代の値が出るのである。
  早くコロナが終わって、市の体力測定会が再開されるのが待ち遠しい。
2021年10月2日

技監という職位    雑

投稿者 : rfuruya
★ 私は人生で『何になりたい』と思ったことはホントに一度もない。
  ただ、自分で『やりたいこと』をやって過ごしてきたし、
  幸運にも恵まれて『やりたいことが出来た人生』を過ごせたと思っている。
  社会の中では
  会長・社長・専務・常務・部長・課長などいろいろな職位があるが
  幸いにそのすべてを曲がりなりにも経験できたのである。
  その職位も世の中には大小いろいろな企業があるから、
  同じ社長でもピンキリであることは間違いない。
  私の最終職位川崎重工業の技監なのである。
  技監とは技術屋さんで博士号をとった技術の権威者や
  官公庁から川重に天下りしたお役人などを取締役待遇で遇する役職で、
  そのすべてが技術屋さんだったのだが、
  私は川重で初めての事務屋の技監だったのである。
    
  これは間違いなく当時の川重社長だった大庭浩さんの人事で、
  大庭さんからは直接私に『お前はマーケッテングの専門家だから』という
  説明付きの人事だったのである。
  大庭さんの最後の事業本部長が単車で、私はその番頭役の企画室長だったのだが、
  技術以外の経営・財務に関することはほぼ100%任されていたのである。
  大庭浩さんは『めちゃこわい』という評判の方だったが、
  その怖い顔をものともせず自論を述べていくと、
  その論理を納得されると『常にOK』が出るのである。
  そんなことで私の現役時代に私の意見を一番多く聞いて頂いた上司は大庭さんなのである。
      
★ この技監という職位を私が気に入っているのは、
  ● 川崎重工業で初めての事務屋の技監であったこと
  ● その職位は大庭浩社長直々の決裁であったこと
  ● その職の理由を大庭さん自らがわざわざ私に説明されたこと
 などから、私を取締役にせずに技監にされるまで、
 大庭さんなりにいろい熟慮されたのは間違いないのである。
 そして『技監』という職位は特に中央官庁では大いに役に立ったのである。
 中央官庁に行くと会社の社長や専務の名刺を出しても特別なことはないのだが、
 『技監』の名刺は結構尊重して頂けたのである。
 多分それは官公庁の結構な地位の方が天下りされて『技監』になられているので、
 多分、その方と同じ『技監』ということなのだ思うのである。
★ 今は川重の役職も形が変わって『技監』という職位があるのかどうか、
 私には解らないのだが、
 当時は私の実際の職務はカワサキの国内販社専務して、
 実質すべてを統括して国内7万台の達成の実績を上げることが出来たし、
 当時の国内カワサキのイメージは最高の時代で、
 大庭さんが言われる『マーケッテングの専門家』としての技監に恥じない実績が残せたのを嬉しく思っているのである。
 社長は当時の川重副社長をされていた髙橋鐵郎さんが兼務されていたのである。
         
 これは、国内販社の社長はずっと単車事業部の本部長が兼務されていたのだが、
 当時の単車本部長は田崎雅元さんで、年次では私が1年上なものだから
 それを気にされて川重副社長の髙橋さんの社長兼務だったのだと思うのである。
 長い歴史を誇るカワサキオートバイ販売(現在のKMJ)で川崎重工の副社長が社長を兼務されたのは、唯一私の専務時代だけなのである。
 そんなことで、上の方たちが『私のこと』をいろいろ気を遣って頂いた『技監人事』だったので、
 私は今でも一番気に入っている『私の職位』なのである。
 本当にありがたかったと思っている懐かしい『技監』の職位なのである。

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