2018 12月

2018年12月31日

4人の孫たち と ripple room & MSL

投稿者 : rfuruya

 

 ★ 突然正月2日にやってきてすぐ戻っていった古谷仁 と アメリカから遊びに来ていた門野真也、こんな二人の孫たちと、鳴門の渦潮を見に行った ことから今年はスタートしたのだが、つい昨日のことのようである。

 

 

門野3兄弟は、このほか兄貴の門野力也と門野哲也がいるのだが、

 

今年の夏は娘と哲也が遊びに来て、この年末は長男・門野力也がやって来て、『何故か繋がらなくなっていたツイッターを復活』してくれたので、古谷仁の近況を1ヶ月ぶりで見ることができたのである。

 

★4人の孫たちの内、この年末年始は、古谷仁 と 門野真也のことが特に気になるのである。

年初、古谷仁が没頭していたのは『ripple room 』というダンスの本の出版だったのだが、そんな大仕事を見事に仕上げて『ripple room 』の本の評価は非常に好評のようで一安心なのである。

ネットにある、こんな書評の概略をご紹介する。 目次の欄をクリックすると、『全てが読める』のでどうぞ、ご覧ください。

https://mydance365.com/ripple-room#ripple_room

先日、クラウドファンディングで事前購入したアートブック「ripple room」が届きました!この本はストリートダンサーやダンサーに興味ある人は絶対に読むべきマストな一冊。      

目次

ripple roomとは

ripple roomは、現在活躍してる90名以上のストリートダンサーにインタビューを行い、その生き様を綴っている本です。

オシャレな本

 

そんな古谷仁は、1年経って今は、またこんな新しいことに挑戦しようとしているようなのである。

 今日のツイッターにこんなことを書いていた。  また、どんなことをはじめるのだろうか?

テーマは #yutori_groove とあるが、ゆとりは兎も角、

groove とは『大いに楽しむ、愉快{ゆかい}にやる、うまが合う、最高潮{さいこうちょう}である、ジャズの名演奏{めい えんそう}を楽しむ』などと書かれている。

若い人の言葉はムツカシクてついて行くのが大変だが、『プレボノ』は『プロボノhttps://jinjibu.jp/keyword/detl/428/ ではないのかなと思ったりしている。

 

 

   

   写真を見る限り、沢山の仲間がいるから、『何とかなるのかな?』と思っている。

 

    

 

 

★ むしろ気になるのは門野真也のほうである。

この12月に、めでたくBerkeley 大学は卒業して、最終学年のサッカー部ではキャプテンを務め、最終のシーズンを得点王で飾り、アメリカの学生『ベスト60人』にも入って、1月1日からはアメリカMLSのプロの世界に挑戦するという。

BERKELEY – Former Cal star Shinya Kadono is one of 60 collegiate athletes across the US and Canada that has been invited to the 2019 Major League Soccer Combine, taking place Jan. 3-9 in Orlando. BERKELEY  

で始まるこの照会文の翻訳は次のように訳されている。

 門野 真也は、1月3日から9日までオーランドで開催される2019年メジャーリーグサッカー合同大会に招待された、アメリカとカナダの60人の大学生のうちの1人です。 Kadonoは2018年に12ゴールと26ポイントで、2008年のAndrew Wiedeman以来、ゴールとポイントの両方で初のCalプレーヤーとなり、彼の12のゴールはプログラムのオールシーズン・スコアリストの6番目にランクされました。 Kadonoの ゲームあたりのゴール(0.67)、ポイント(1.44)、ショット数(3.22)となっていて、4つのカテゴリーで全国トップ30に入り、9月のSac Stateでの勝利での彼の4ゴール、9ポイントのパフォーマンスは今シーズン国内の両方のカテゴリーで1試合で最も多いものだった。
となかなかの評価で、子どもの頃からの『プロサッカー選手になるという夢』が、ホントに実現するかも知れないのである。
つい先日、Facebook で、こんなメッセージを送ったら、

真也、元気にしてますか?  いよいよですね。 自信を持って正面から当たたら、自ずと運は開くものです今までの精進の結果で今があるのですから、今まで通りでいいと思います。 カブトムシやエビ採ってた真也がこんなになるとは、ホントにびっくりです。 今まで通り、頑張って下さい

こんな返事が戻ってきた。
おじいちゃん、ありがとう。  悔いのないように頑張って来ます!
私と違って『何事にも、ホントに真面目に取組む真也だが』結果はどうあれ『いい経験』になることは間違いない。
アメリカのMLSは歴史は浅いが、Jリーグ以上にヨーロッパや南米のスタープレイヤーが揃っているリーグなのである。
そのセレクションは1月3日から、始まるのである。
      

 

カワサキジェットスキー物語 10

投稿者 : rfuruya

 

 ★ひょんなことでスタートした『カワサキジェットスキー物語』だが、10話になろうとしている。

このきっかけを創ってくれた、田崎雅元さんから頂いた長いメールの中で、このように言って頂いているのだが、非常に意を強くしているのである。

古谷さん、

ジェットスキー物語、これは複雑な背景で生まれた「お神輿製品」で、その歴史は貴方以外誰も書けないと思います。流石です。

発動機 + リンカーン + KMC で生まれたジェットスキー は放っておけば、再建中の単車事業の中で、継子の商品となり、スノーモビルと同じような運命をたどったかも知れません。スノーモビル事業からの撤退を陣頭指揮した私が、同じような継子のジェットスキーに全力投球する、不思議な運命ですが・・・・ 大きなリスクを背負い、山田熙明さんから直接ブレーキをかけられた拡大戦略、結果オーライで語れることをとても幸せだと思っています。・・・・KMCの販売拡大が背景にあったとはいえ、J/Sの今日があるのには、当時の単発関係を偏見なく、フェアーに対応した単車企画部門の力が大きかったと思っています。

 

そんなことから当時の単車企画室が非公式に旗を振って始まったジェットスキープロジェクトであったが、88年9月の『ソウルオリンピックのデモンストレーション』により、ジェットスキーという世界で初めての製品の事業展開は、世の中が認めてくれた存在になり、ヤマハさんも参入されて、業界としての活動がスタートしてゆくのである。

 

 

★この年88年の10月からは、私自身が国内販売の責任者としてカワ販に異動することになり、二輪もジェットスキーもその直接の担当となるのだが、当時の事業本部長(カワ販社長兼務)髙橋鐵郎さんからは、国内市場で7万台販売という途方もない目標を与えられることになるのである。

7万台というのは、大変な目標なのである。

従来の販売活動の延長で頑張るだけでは、とても達成など出来ないような倍増台数だったし、二輪6万台、ジェットスキー1万台という目標は年間200台の規模からスタートするJSにとっても、とてつもない台数であったことは容易にご理解頂けると思うのである。

そんな目標を与えられて、私が具体的に採った戦略は、従来のやり方の徹底的な放棄で、ベースにしようと思ったのは、二輪もJSも元来が遊びの道具だし、そのベースにあるのは「レース」なので、この遊びとレース活動だけは『プロのレベルでの展開』を図ることだったのである。

まず、10月1日に赴任して真っ先にやったことが、『カワサキファクトリー結成25周年のOB総会』で10月15日に開催したのである。

これは、かってのレースOB達や、山田副社長・髙橋本部長・苧野・中村・大槻さんなどカワサキのレースの先輩たちに対しての私の『決意表明』だったのである。

 

2番目にやったことは、従来のユーザークラブKGRC(Kawasaki Good Riders Club)を解散して、KAZE(Kawasaki Amuzing for Everybody )の創設だったのである。

従来の延長上の販売台数ならカワサキファンだけを集めたら達成できるだろうが、7万台の目標は二輪を愛するEverybodyを対象にその枠を広げる『イメージ戦略』でないとダメだと思ったのである。

 

 

そして、『遊び半分ではいい遊びはできない』と遊びやレースの専門のケイ・スポーツ・システム(KSS)」という『ソフト会社』を立ち上げて、この会社を中心にグループ全体の活性化を図かり『新しいカワサキのイメージ創造』に挑戦したのである。

従来の孫会社KATから、ジェットスキー専門販売のKJSと名称も変えて子会社に格上げし、その二つの会社KSSとKJSは私自らが社長として旗を振ることとしたのである。

KAZEは3か月後の89年1月に、KSSは6か月後の89年4月に共に正規にスタートして、文字通りその後の展開の中心となっていくのだが、これはひとえにこの二つの新しい会社を担当してくれた、当時の精鋭たちが素晴らしかったと言えるだろう。

ジェットスキーのKJSには藤田孝明・潤井利明・渡部達也さんなどの実力者に加えて、鶴谷将俊さんがKHIの籍のままではあったがJJSBA会長なども引き受けてくれての事業展開だったのである。

全く新しいソフト会社KSSは、南昌吾さん以下がレース・KAZE活動など今までにない全く新しい『遊びの世界』に本格的に対応したこともあって、KAZEなどは55000人の会員を集め、当時のホンダHARTなどを圧倒した実績を実現したのである

二つのグループは、カワサキの人たちだけでなく、レース関係者や業界のプロと言える人たちが沢山手伝ってくれての展開となり、ジェットスキーで言うと、JJSBAが果たした役割は非常に大きかったと言えるのだろうと思っている。

 

★これらの活動は、確かにこの時代私が旗を振ったのは事実なのだが、私は『本田宗一郎さんの真似』をしただけの話なのである。

ずっと昔、未だ日本の二輪需要が50㏄のカブ全盛期の時代に、本田宗一郎さんがやられたのは、世界GPへのレースへの挑戦であったし、あの鈴鹿サーキットをあの規模で造られたのは昭和36年(1961)秋なのである。 カワサキはその初めてのレースを観て、カワサキの二輪事業が立ち上がったと言ってもいいのである。カワサキの二輪事業がホントにスタートしたのは「青野ヶ原のモトクロス」だと言われるが、それは昭和37年5月のことなのである。

本田宗一郎さんのレース展開の壮大な仕組みの構築が、当時の日本の二輪事業を世界的水準に押し上げたと言っていい。

遊んでいても『自然にモノが売れる、仕組みの構築』こそが大量販売のMUST条件だということは『本田宗一郎』さんに教えて貰ったのである。

二輪もジェットスキーも、遊び道具なのだから、一番大事なのは『遊び心』ではないだろうか?

確かに、マシン開発だけは、今も各メーカーは間違いなくプロのレベルだと思うのだが、マーケッテングに関しては『遊び心』が抜け落ちて『売ることばかり』に熱心で、真面目過ぎるのではと思ったりしているのである。

 

ジェットスキーこそ二輪以上の遊び道具なのである。

86年にやっとスタ―トしたカワサキのジェットスキーだが、ホントに数年の間に、業界にもカワサキの中にもプロたちが育っていったのである。

松口久美子さんが送ってくれた当時の写真だが、福井昇くんのチューンしたジェットスキー松口姉弟は乗っていたのである。

 

こんなコメントも頂いたのである。

 91年の千里浜のレースプロクラス優勝者全員、偶然にも古谷さんのFacebookで繋がっています。
プロメン 松口博文選手   プロ X-2 内橋誠二選手   プロウィメン松口久美子です!
当時いろいろと出会った人たち、間違いなくその筋でプロと言える大南勝也さん、村島政彦・村島邦彦ご兄弟に出会ったのもこのころなのである。この当時出会った人たちと、30年も経った今でもみんなFacebook では、繋がっているのはホントに不思議なご縁なのである。
カワサキ社内の人たちは勿論だが、こんな外部の方たちの協力があって初めてカワサキのジェットスキーの飛躍があったことを忘れてはならないと思う。

 

★この88年当時、ジェットスキーの販売はどんな規模だったのか?

当初は、孫会社KAT で年間2~300台でスタートした国内のジェットスキーだが、86年にはジェットスキー専門店を立ち上げ、JJSBAのレース展開に専念したこともあって、86年に立てた目標3000台は、88年には達成するという躍進ぶりだったのである。

年間300台でも、何とかペイしていた販売会社がその規模が10倍になれば、どのような経営状況になるのか?

当時のKJSも、ジェットスキー販売店も、すばらしい活気で、89年の10月にはジェットスキのDealer MeetingをアメリカのJS生産拠点リンカーン工場を訪ねて、オマハのホテルで盛大に開催し、レイクハバスの本場のレース観戦をするまでになっていたのである。

そして、それは7万台販売目標に向かって、最盛期の90年代に入っていくのである

 

2018年12月17日

10年ぶりの 旧友たちの再会

投稿者 : rfuruya

 ★東京の村島邦彦さんから「12月15日芦屋駅の改札口でお待ちします。竹内も参ります」というメールを頂いていて、昨日はその5時少し前に、JR芦屋駅まで出向いたのである。

村島邦彦さんとは、現役時代からもう30年以上のお付き合いなのである。

ジェットスキーからの出会いだったと思うが、確か二輪車新聞の衛藤誠さんの大学の後輩だとかで、ご紹介を頂いたのがそのスタートなのである。

今は『インターナショナルトレーデイングムラシマ』の経営をなさっているが、かってのカワサキの『機能別ARK政策』の唯一の生き残りだと言えるかもしれない『私の理解者』なのである。

そんなことで関東地区のNPO The Good Times の統括責任者をお願いしているし、『二輪文化を伝える会 https://2rin-tsutaeru.net/  の総括者としてもいろいろお世話になったりしているのである。

この二輪文化を伝える会も、ほぼ6年になろうとしているが、ご覧になればお解り頂けると思うが、今では日本の二輪文化では、一番豊富な写真やデーターが蓄積されていて、どなたでも簡単にご覧になれるという点では、メーカーさんでもなかなかこのレベルには追随できていないと思われるのである。

ホントか?と思われる方はリンクをクリックされると一目瞭然なのである。

 

そんな仲なので、それ以上詳しいことはお聞きせずに、ただ5時に芦屋駅の改札まで行くと、ばったりと神戸市の藤田修司さんにお会いして、『なぜここに?』とお聞きしたら『村島さんに誘われて・・』ということでこんな4人の会合となったのである。

 

 

★一瞬、『なぜ?村島さんと藤田さんが繋がってるのか?』と思ったりしたのだが、

2008年5月31日と6月1日の2日間、当時藤田さんが担当されていた神戸フルーツフラワーパークで、ミニSLのイベントがあったのだが、その時園内のプールで村島・竹内組が 船の模型の走行会を同時開催などしたご縁なのである。

 

 

その後も、藤田修司さんとは村島さんは東京で、竹内さんはタイで、私は藤田さんがハーレーに乗っておられるバイクユーザーなので、三木にも遊びに来られたり、樋渡啓祐さんが神戸に来られた時などご一緒したりはしたのだが、4人が揃ってお会いしたのは2008年以来、まさに10年ぶりだったのである

 

★ところで、村島さんは今回、神戸にどんな用件でお越しになったのか?

とお聞きしたら、神戸海洋博物館に お持ちになっていた船を寄贈するために来られたのだとか。

その寄贈先が神戸海洋博物館だというので、どんな船かと思って写真を見せて頂いたら、こんなに立派な船で、流石なのである。

 

 

 

今度、カワサキワールドに行ったら、是非実物を見てみたいものである。

ところで、神戸海洋博物館は、いまではカワサキワールドと一緒に運営されているのだが、そのカワサキワールドを創られたのは、当時の川重社長の田崎雅元さんなのである。

ホントにいろいろ繋がるもので、もう10年も続いている『ミニSLのイベント開催をメリケンパークでやりたい』と福井昇くんと一緒に当時川重会長をされていた田崎さんを訪ねたら、翌日に神戸副市長に繋いで頂いたのだが、副市長さんから『メリケン・パークでやる前に一度、神戸フルーツフラワーパークで開催して頂けないか』と頼まれての2008年6月開催だったのである。

これが今はメリケンパークで、10年も続いての恒例イベントになっている第1回目のスタートで、テレビ放映などもあって大変な賑わいだったのである。

そして、そこで藤田修司さんにお会いして、10年経った今もこうして親しくお付き合いができているのである。

 

★私自身は、何故かいろんな方たちと自然に仲良く繋がってしまうのだが、昨日の4人の中で一番解っていないのはカワ販におられたという竹内雄三さんなのである

昨日いろいろお聞きしてると当時のカワ販の南昌吾さんなどの話も出るので、ホントに身近におられたのに、現役時代は全く記憶がないのは不思議なことである。

竹内さんは、村島さんとは船の模型繋がりのようなのだが、神戸海洋博物館に寄贈されるような本格的な船の模型をお持ちのレベルなので、私などから見たらプロのレベルかなと思うのである。

昨日、ご馳走になった芦屋の近くの小料理屋さん「すず喜」は、竹内さんのご紹介のお店だったのだが、

 

 

 

 

 

 

 

なかなか立派な料理が、次から次に出て、こんな楽しい時間を過ごしたのである。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm34327123

 

動画の中には、もっといろいろ写っていて、すっかりご馳走になって戻ってきたのである。

もうクリスマスも近いが、今年のクリスマス・プレゼントのような楽しい3時間だったのである。

 

2018年12月11日

ゴルフ 雑感

投稿者 : rfuruya

★ 私がゴルフを始めたのは43歳の頃だったから、そんなに早くはなかったのだが、やりかけてからは結構熱中したものだから、その進歩も早くて確か4年目ぐらいには播磨カントリーのハンデイ10にはなったのである。

 私自身はどうもハンデイのシングルなどはあまり興味がなくて、それ以降は月例などの出場も止めてしまったのでオフィシャルはシングルにはならなかったが、70台で回ることもそんなに珍しくなかったので、そこそこの実力であったのは間違いない。

家にはいっぱい優勝カップが残っている。

そんな中でも、この企画と営業のメンバーのコンペ『企営会の優勝カップ』は当時の企画室長堀川運平さんが贈呈された純銀製で、そのコンペは15回まで続いたのだが、毎回優勝者が変わって、その第7回に優勝した私が最終戦の取り切り戦でも再び優勝したので今は我が家にそのカップはあるのである。

数あるカップでもひときわ立派な唯一の純銀製のカップである。

 

 

第1回の優勝者が田崎雅元さんで、当時の懐かしい錚々たるお名前が14名並んでいるという値打ちのカップなのである。

 

★そんな私のゴルフ歴で、現役最後の2年間が札幌だったので、その当時は年に40回近くやっていたのだが、昨今は年4・5回になってしまっているのである。

ドライバーなど、そんなに飛距離が落ちたとも思わないのだが、寄せとパターがめちゃめちゃで100を超えたりすることもあるような状態なのである。

来年は、86歳になるので、もう少しちゃんとやって何とか『エイジシュート』でも狙いたいと気分なのだが、殆ど練習もしないぶっつけ本番ではダメなのは当たり前かも知れない。

然し『グロス86』などそんなにいいスコアでもないという意識だけは未だに残っていて、ちょっと練習でもすれば可能性はあると思っているのだが、そのために練習に行く時間は『勿体ないな』と思ってしまうのである。

家で、素振りぐらいで何とかならないかと勝手なことを思っているのである。

 

★昨日、ネットを見ていたら、こんなのに出会ったのである。

 

 

筋力は低下などしていないと思っているので、中を見てみると、

こんな記事に出会ったのである。

 

 

この腕の使い方は、自然に『肩が入っていいな』と直感でそう思った。腕をひねるだけで左肩が自然に入るはずである。

もう一つ『左腕をたたまずに伸ばす』とある。 これはどうもわかりにくいが、家で素振りでもしてみるかと思いだしているのである。

若い頃、野球をしてたので、スイングについての理屈は『何となく解る』のである。

 

いずれにしても、次回のゴルフは来年の4月だから、それまでの冬の間に庭で『素振り』でもしてみるか、などと思っている。

果たして、どんなことになるのだろうか?

 

カワサキジェットスキー物語 6

投稿者 : rfuruya
★ひょんなことで始めた『カワサキジェットスキー物語』だが、何となく続きそうな雰囲気になってきた。

今まで何度も繰り返し書いてきたように、ジェットスキーはカワサキにとって最初から正規の製品としてスタートしたわけではなくて、アメリカ市場向けの独特の生まれ方をしているので、当時のことを解っている人は、カワサキの中にも限られていて、特に最初は全く無関係であった『単車事業本部』には、正規の資料も残っていなくて、数人の思惑で動き出したプロジェクトなのである。

おまけに、当時は世界初の商品で、商品名として『ジェットスキー』はあったのだが、一般名がなかったので国会で『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりした『嘘のようなホントの話』も存在するのである。

さらに言えば、カワサキのなかにジェットスキーの遊びのプロなど存在しなかったので、社外の方たちの協力で『ジェットスキーは育っていった』のは事実だし、特に『レースの世界』では、アメリカではJJSBA、日本では当時の西武自動車関連の人たちや、ジェットスキーで遊んでた人たち、そんな人たちが、ジェットスキーを育てていったと言って過言ではないのである。

この話に火をつけた元川崎重工社長の田崎雅元さんは、当時の数少ないカワサキとしてはジェットスキーに乗れたライダーとして、私に『いろんなデーター』を供給頂いたのだが、このほかに、『福井昇くん』が当時のことを時系列に纏めてくれたりしたので、『何とか大丈夫かな?』と思ってスタートしたのである。

 

★そんなところに、これはまた強力な助っ人が現れて、当時の写真など、いろいろ送って頂いているので、今回はその方『松口久美子さん』について、送って頂いた写真の一部などを使ってご紹介したいと思っている。

 

 

彼女はジェットスキーの全日本チャンピオンである。

私は、レースの世界にはいろいろと関係があって、二輪・四輪などチャンピオンはいっぱい知ってるが、彼女の実力は飛び抜けていたのである。

ジェットスキーに乗り出したきっかけは? という私の質問に、このように答えてくれている。

井村 雅代コーチのもとオリンピック種目採用を目指しシンクロナイズドスイミングの練習に励んでいましたが、高校1年夏頃、練習に耐え切れず辞めてしまいました。
その頃、姉と一緒にジェットスキーに乗る機会があり楽しいし、試合もある。「日本人がワールドカップに出場したらしいという情報を聞きつけ、シンクロ時代を思い出し「やはり何でもいいから世界に通用する人間になりたい。世界の舞台に出てみたい」と考えジェットスキーなら可能性があるなと思い乗り始めました

 

私に送ってくれた彼女の実績である。

アメリカでも、ご活躍だったようだが、国内のレースで、松口さんが優勝しなかったレースなど、私は見たことがなかったのである。

 

★当時の国内の販売網や、JJSBAの協会設立などには、カワサキだけでなく、むしろ西武自動車やいろんな方々の協力があって初めて、ジェットスキーがこの世の中で『カワサキの事業』として成立していったのだと思っている。

この写真は平成元年(1989)というので、少し軌道に乗り出したころだが、当時のジェットスキーに関わったカワサキのメンバー(後列)と 当時のJJSBA初代会長をされていた苧野豊秋さんを囲んでJJSBAの関係者とそのライダーたちなのである。

カワサキ側のメンバーは左から。天野・武本・安藤・古谷・鶴谷一番右がどなたかな? 懐かしいメンバーたちである。

と書いてたら、高原篤さんが『黒田さんではないですか?』とFacebookのコメントで、確かに黒田さんである。

 

 

男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰し日頃の協力に感謝した会だったようである。

左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手・小河選手・苧野さん・松口久美子さん・前田選手・斎藤選手・レース運営レースディレクターの日高さん

 特にJJSBAの立ち上がり時点では、西武自動車時代からの上田さんと日高さんには本当にお世話になったのである。

 

★こちらは1年後、JJSBA会長は2代目の石井さんになっている。

 

 

平成2年2月21日KHI懇親会左からレース運営レースディレクターの日高さん・飛野選手・松口選手(弟)・金森選手・石井さん・天満選手・松口・伴選手レース運営代表の上田さん  との説明付きである。

 

前年度の写真に金森稔君なぜいないのかな? と思ったりしたのだが、この時には居る。 世界チャンピオン金森稔くんも若いな。

 

世界チャンピオン金森稔くんについても、思い出いっぱいなのである。

彼を大阪の月木レーシングから、カワサキに引っ張ってきたのは、平井稔男さんである。二輪のライダーからジェットスキーに転身して一躍、実力を発揮し世界の頂点に登ったのである。

今はアメリカのKMCにいる。

これは数年前アメリカの月木さんの娘婿さんがやってたお鮨屋さんでの私と金森君である。

 

 

この時代、もう一人忘れてはいけない人がいる。

大南勝也さん、今もPWCの業界に関わっているとは思うが、カワサキも大いにお世話になったのである。

 

これは、松口久美子さんがアメリカにデビューしたころ、繋いでくれたのが大南勝也さんだったようである。

こんなKMCでの写真も、松口さんが送ってくれたのである。

 

 

大南勝也さんと私のツーショット、こんな写真もある。

小島松久・吉村太一さんのマウンテンライダース50周年記念パーテイー』に招かれた時に偶然お会いしたのである。

私の80歳の誕生日 なぜ覚えているのか?

 

誰かが『私の80歳の誕生日』と言ってくれたようで、太一ちゃんが気を遣ってくれたのである。

小島松久さんから、壇上でこんな花束を頂いたのである。

   

 

★特に、ジェットスキーには関係はないのだが、いろんな人たちと繋がって、そんな人たちのお蔭で『今のカワサキがある』ことを忘れてはいけないと思うのである。

ジェットスキーは、いまどんあ状況なのか、詳しいことは解っていないのだが、こんな物語をアップできるのも、昔の仲間たちがいろいろと応援してくれるので、何とか昔を思い出すことができているのである。

カワサキのジェットスキーの創生期の中心になった人は、何と言っても苧野豊秋さんと鶴谷将俊さんである。

松口久美子さんが当時の貴重な写真を送って頂いたので、いろんなことが思い出せたのである。

 

★ 突然、こんな写真だが、Facebook の私の記事に、突然『いいね』を下さった。

トモダチ申請したら、すぐ繋がったのである。

ひょっとしたら、ジェットスキー界で有名人かも知れない?

Brenda Burns Chambers さん、 松口久美子さんとも確か、繋がっていたのである。

こちらも大変な有名人である。これも松口さんから教えて頂いたので、また次回にでも・・・

 

Brenda Burns Chambers さん

  

 

  次回は、松口さんが写真を送って下さったので、

  88年のソウルオリンピック開会式に参加した時のお話などをと思っている。

2018年12月6日

カワサキジェットスキー物語 4

投稿者 : rfuruya
  

★それまで年間5~6000台の販売で推移していたジェットスキーが一挙に20000台を超す実績を上げることになった1983年頃カワサキの二輪事業は、その長い歴史の中でも最大の危機と言っていい大変な時代だったのである。

それまでカワサキの二輪事業を支えてきたアメリカ市場のKMCの経営は、ハーレーダンピング訴訟や、アメリカ市場まで飛び火したホンダ・ヤマハのHY戦争の影響を受けての大打撃に加えて、リンカーン工場で生産していたスノーモービルが暦年の暖冬で在庫過多に陥り、それらの原因が重なってKMCは100億円を超す赤字が続き、それが川崎重工業の連結決算にも影響して無配に陥るなど大変な時期だったのである。

83年7月には当時川重で再建屋と称されていた大庭浩本部長が赴任されて髙橋鐵郎副本部長とのコンビで指揮を取られ、問題のKMCは田﨑雅元さんが、明石側の企画部門にはなど若手部長が担当して、再建を図っていた時期なのである。

 

そんな大変な時期に、ジェットスキーの新製品JS550が登場し、田崎さんがリンカーンの工場生産台数を一気に20000台ベースにまで引き上げ、それが市場で完売するという劇的な変化が、KMCの経営改善も、リンカーン工場の工数改善にも大いに寄与したのである。

Ninja900もアメリカ市場に登場して、これもまた世界的に好評だったので、これはKMCだけでなく、世界の販社も明石の単車事業本部の経営改善にも大いに寄与したのである。

 

この Ninja のネーミングはアメリカサイドからの提案のネーミングだったのだが、当時の明石の事業部サイドの技術部は、忍者というイメージは黒装束で暗いと大反対で、KMCに出張されて『ダメだという大庭本部長』を田﨑さんが『アメリカでは、Ninjaは ゼロゼロセブンのようなカッコいいイメージです』と説得して、初年度は『アメリカ仕様のみ』でそのネーミングNinjaは使われたのである。ヨーロッパ仕様は、Ninja のネーミングは使用されずに、そのネーミングは、GPZ900R だったのである。

Ninja のネーミングの『産みの親は田崎さん』だと言ってもいいのかも知れない。

大庭さんを説得したその場面に私も同席していたので、そんな経緯を知っているのである。

大庭さんは川重の中では『怖いイメージ』で、大庭さんにNOという人は少なかったようだが、当時の単車は田崎さんや私など、結構ズケズケとNOと言ったのだが、大庭さんはかえってそんな単車の雰囲気を楽しんでおられたようで、7月に来られて9月には『単車は思ったより確りしている』と経営会議で仰ったりして、大庭本部長の信頼を数か月で得たのである。

 

★この年、アメリカ市場での急激なジェットスキーの販売増加はあったのだが、この『ジェットスキー』はKMCの製品ではあるのだが、当時の明石の単車事業本部では開発も生産も一切無関係なので、事業本部の経営には一切影響がなく、単にお隣の発動機事業本部がリンカーン工場にエンジンとして出荷しているだけのものだったのである。

そういう状況なので、明石の単車事業本部には、ジェットスキーに関係する人は1人もいない状況だったのだが、何とか『川崎重工業の正規の製品』にしようと動き出したのが、当時の企画室の私の下にいた武本一郎さんなのである。

彼がその決意をしたのは、アメリカ市場でジェットスキーが突如大量に売れ出した84年の夏ごろだったと思うのだが、彼の熱意に動かされて、私も私なりに動き出すのである

当時、日本国内では西武自動車が逆輸入していたジェットスキーを、当時のカワ販の孫会社のKATが細々と売っていてレースなどの動きが出始めたころなのである。私はこの企画室担当の前は、カワ販常務として国内市場を統括していたので、KATのこともよく解っていて、KATの社長も兼務されていた苧野豊秋さんと国内のレース協会を立ち上げるべく、84年11月にKMCに田崎社長を訪ねているのである。その時アメリカのIJSBAに繋いでくれて、IJSBAの承認を得て、翌年国内にもジェットスキーのレース協会JJSBAがスタートするのである。

これはその時のKMCでの写真だが、苧野さんを囲んで、当時の単車事業再建に関わった明石のメンバーもいる懐かしい顔ぶれである。

 

こんな写真もあるが、いずれも田崎さんに送ってもらったものである。

 

★ 川崎重工業としてのジェットスキー事業のスタートは、国内のジェットスキーレース環境の整備から始まったと言ってもいい。

カワサキの二輪事業のスタート時代も『レース運営委員会』から始まっていて、その委員会の営業サイドの長をされてたのが苧野豊秋さんで、その事務局が私、そしてレース職場の担当が若き日の田崎雅元さんだったのである。

二輪も、ジェットスキーも遊びの道具なのだから、『その事業の核のひとつはレース』だと私は信じて疑わなかったのである。

カワサキのジェットスキー事業』の本格的にスタートするためには、まず国内のレース協会、JJSBAの確立が『その第一歩』だと思ったし、この出張で日本のJJSBAが公認され、初代苧野JJSBA会長が実現するのである。

 

★同じ時期に、明石の開発・生産サイドの対策は、武本一郎さんが同期の技術部の百合草三佐雄さんなどと組んで、単車事業本部の開発製品として、ジェットスキーの開発を目論んだのだと思うが、静かに潜航した対策で、表面には何の資料も出ていないのだが、85年2月の単車事業本部の開発計画書には、単車の開発車種と並んで、9番目にこんなJS300 と X-2 という二人乗りのジェットスキーの計画が記載されているのである。

この84年当時と言えば、未だジェットスキーは単車事業本部の製品としては承認されていない時代なので、正規の開発予算などもなかった時代なのだが、この予算については、企画の武本さんが確か生産関連の予算から、捻出したのではなかったかと、これは私の推測なのである。 現実に85年2月には、こんな計画が開発計画書に載ったのである。

 

これが単車事業本部正規の書類の中に、最初に登場した『ジェットスキーの名称』なのである。

この開発会議は、大庭本部長主宰のものだから、85年2月に『川崎重工業のジェットスキー事業』は、正式にスタートを切ったとも言えるのである。

この計画書には『単車で開発・生産する』と明確に書かれているのである。

 

★こんな経緯を経て、ジェットスキーはようやく単車事業部の正規の製品として開発が進められることになるのだが、技術部の開発担当以外には担当者もいないし、この時点ではジェットスキーに乗れる人すらいないのである。

企画室の私と武本一郎さんだけが解っているだけのそんな状況から、この年の8月にはオーストラリアから鶴谷将俊さんが帰国して、企画室でジェットスキーを担当してくれることになるのである。

そこからが、ジェットスキー事業の本格的な動きが始まるのである

 

 

 

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