一般情報、ニュース、お知らせ

2021年2月22日

カワサキの単車事業のスタート時代 その1  自分史

投稿者 : rfuruya
 
★ カワサキの単車事業の明石工場での一貫生産が始まったのは昭和35年(1960)なのだが、
 その年は私は未だ業務部財産課所属だった。
 実はその年の10月から肺結核で三田療養所に入院しているのである。
 ちょうど1年程で退院できたのだが、
 10月頃の話では退院後の異動先は企画ではないかと専らの噂だったのである。
新しく単車生産一貫工場がスタートしたのは昭和35年だが、
その単車を売る単車営業課が新しく出来たのは昭和36年(1961)12月で、
ちょうど退院時期ともがっちして、その単車営業課への異動となったのである。
この単車の営業部門を新しく担当されたのが小野助治次長で、
小野さんも12月に業務部総務課から異動されたばかりで、私を指名されたのは『小野さん』だったようである。
小野さんとは同じ業務部所属でお互いよく知っていたし、入社以来いろいろと目を掛けて頂いていたのである。
若し小野さんの単車への異動がなければ、私の単車異動もなかったのではないかと思っている。
そういう意味では不思議なご縁である。
★単車事業がスタートしてからの5年間はこんなことがあったのだが、
●昭和35年(60) 財産課・三田療養所入院(10月)・単車一貫生産スタート       28歳
●昭和36年(61) 12月10日退院・営業部単車課に異動  29歳
●昭和37年(62) 鈴鹿サーキット開場・鈴鹿ロードレース・結婚(12月)  30歳
●昭和38年(63) 青野ヶ原モトクロス・日本能率協会調査  31歳
●昭和39年(64) 単車再建決定・広告宣伝課に異動・レースも担当  32歳
 ざっとこの5年間がどんなものだったのかを粗っぽく纏めてみる。
★新しく出来た単車営業課で、一番先に小野さんから言われたのは、
物品税を研究してくれるか』だったのである。
カワサキが一番最初に発売した125ccはこんなB7というバイクだった。
このバイクはフレームに欠陥があって、
私が営業に異動した昭和35年の年末ごろには、毎日毎日、返却が相次いでいたのである。
当時の二輪車の125cc以上には確か15.5%の物品税が掛かっていて、
掛ける時には工場をでるバイクの台数にその税率を掛ければいいのだが、
その二輪車が戻ってきて『払った物品税』を返してもらう『戻入手続き』は至極ムツカシイのである。
いろんな規定があって、『工場をでた時のまま』でないとダメで、
1台1台税務署員の立ち合い検査などもあって、例えばメーターが回っていたらダメなのである。
だから製造部の人たちとメーターの巻き戻しなどもやったりしていたのだが、
返却される台数が半端ではなく、すっか台数より返却台数の方が多かったりしたのである。
 こんな状態で、販売するより『返却台数』の処理が仕事の殆どと言っていい
大変な営業課だったのである。
★ 当時はカワサキ自動車販売という会社が東京の神田岩本町にあって、
そのカワサキ自販の社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、
明石工場のTOPよりはずっと偉かったし、
更にその『カワサキ自販』からは全国の『自前の代理店』への卸なのだが、
自前の代理店の社長さんはまさに『お客様』だからめちゃエライのである。
明石工場は『カワサキ自販』からはボロカスに言われるし、
それ以上に地方の代理店の社長はうるさい存在で、大変だった時代なのである。
今の『メーカの人たち』は末端の販社が子会社だから、
根元のメーカーの方がエライような関係になってるので、
こんな時代のことを言っても理解して貰えないと思うのだが、
ホントはこんな形の方がいいのかも知れない。
そんなメーカーの営業課の窓口担当が私のスタートなのである。
★さらに、最初に発売したB7が散々な状態だったから、単車事業の経営状況は大赤字で、
当時の川崎航空機本社は『この事業を続けるべきかどうか』を日本能率協会に調査依頼をしていたのが、昭和37年から38年にかけての時代だったのである。
その昭和37年(1962)には鈴鹿サーキットが開場して、
日本で初めての本格的なロードレースが開催され、そのレースを単車製造部の人たちがバスを仕立てて見学に行ったのだが、
レースなるものを初めて見て燃え上がってしまったのである。
そのグループはカワサキの中でも最も血気盛んだった中村治道・髙橋鐵郎さんたちで、
レースを観たあと『カワサキも』とモトクロスレース出場を目指すのだが、
この一連のことを仕掛けた張本人兵庫メグロの西海義治社長
 西海さんは元オートレースのプロライダーでレースには詳しく、
後には兵庫県のMFJの会長などもされたのだが、
この写真はずっと後の神鍋で行われたMFJ全日本モトクロスの時の写真なのである。
       
 その西海さんが、実際にはバスを仕立てて
 『カワサキもモトクロスを』という雰囲気を盛り上げ
 カワサキの中にはレースのことなど解る人はいなかったので、
 兵庫メグロの子飼いの『松尾勇さん』を製造部に送りこみ
 モトクロッサーは全て『松尾勇・作』なのである。
そして昭和38年の青野ヶ原モトクロス1位~6位独占という快挙に繋がるのである。
  
こんな結果が事業部内の雰囲気を高め、日本能率協会は『末端の意気は盛ん
と感じて『この事業やるべし』という結論を出す一つのきっかけになったのは確かなのである。
 この写真の後列の真ん中の大きな方が『小野助治』さんである。
 このレース出場は、会社が正規に認めたものではなかったので、
 製造部のこのレースに関わった人たちは、定時後自主的に集まってレーサー制作などに当たったのである。
勿論、残業料なども出なかったので、小野さんが私に営業の経費から『なにがしか都合してやれ』と言われて幾らかの『パン代』ぐらいのお金を私が都合したので、何かレースらしきことをやってるということだけは知っていたのである。
★ そんなこともあって、昭和39年(1964)度には
 日本能率協会の『この事業続けるべし』との結論から『単車事業再建』が決定され、
 その条件の一つになっていた『広告宣伝課を創るべし』ということから、
 私は川崎航空機で初めて出来た『広告宣伝』を担当することになり、
 レースも含めて『はじめての仕事』を担当することになったのである。
 この5年間には結婚もしているし長男も生まれている。
 今回はざっとこの5年間を総括したのだが、
 この時以降一生のお付き合いとなった単車事業や家内のことなど、
 シリーズで別途取り上げてみたいと思っている。
 まずは『その1』である。
2021年2月21日

今朝のスロージョッギング

投稿者 : rfuruya
★ 今朝も家の前を水道管の入れ替え工事なので、
 車が出しにくいので、防災公園までは行かずに家から協同学苑の周りを一周してきた。
 家を出る時は、まだ工事は始まっていなかったが
 帰った来た時は、工事の真っ最中だった。
 いろんな道を歩いてきた。
 ● 住宅街の細い道をスタートして
          
 ● その周囲のちょっと広い道に出て
 ● 交差点から新しくできた広い下り坂を下って
   
 ● 『りんどうの里』からの道は細い
 ● ここは昔からある道で細いままだが車の通りは多い
 ● 横にある池は今は網が張られて入れないが昔は鮒釣によく来た
 ● 下っていくと志染の里に出る
 ● 昔流にいうとあぜ道を通り
 ● 村の中の道を通ると
 ● 新しくできた広い道
        
 ● そこから坂道を上るとよく釣りに来た池がいっぱい
 ● 今でも魚か多いのか水鳥がいっぱいいた
    
    ● そこから田んぼ道を少し上って
 ● 協働学苑の一番下にある池のところに
 ● 少しだけだが舗装のでない地道を通る
  
 ● 協働学苑に入ってからは急な坂道を登って
 ● 桜並木を通って
  
 ● 元の住宅街に戻ってきた
   
 新興住宅街だが、ちょっと歩くだけでこんな風景にも出会えるし
 公園の中の道も歩ける。
 
 こんなところを1周してきたのである。
  
8時20分に家を出て、1時間半、1万800歩、7,7km
 消費カロリーは1300kcalを越えたりした。
    
2021年2月20日

新しい水道管の設置作業

投稿者 : rfuruya

★ いま私が住んでいる三木市緑が丘は1970年頃の開拓なので、ちょうど50年程経っている。

 50年も経つと『水道管』も寿命が来るらしい。
 昨年の秋ごろから新しい水道管の設置作業が始まって、
 昨日はちょうど家の前あたりを作業中なので、
 その動画を撮ってみたりした。
 こんな作業なのである。
 旧い水道管と取り換えるのか? と思ったが、確かに『取り換える』のだが、
 旧い水道管はそのままにして、新しく設置しているのである。
 その手順は
 ● 道に約1メートルぐらいの巾の溝をつくるために
 ● ブルで土を掘り横のトラックに積む
 ● その深さは勿論一定に堀り
 ● 新しい水道管を埋め込み
 ● トラックに積んだ土を戻して
 ● その上を舗装する
 ● それだけのことだが1日に埋め込める水道管は6本だそうである
 ● いつもは3人でやってるらしいが今日は4人いるので作業が早い
 ● ブルを運転してるのが社長さんで、息子さんもいるとか
 
 今はこんな団地の『青い線』の部分を作業中なのだが、
 勿論、団地の中すべてをやるのでこれは大変である。
 今は『水道管の埋め込み作業』だが
 完成したら、一戸一戸に取り込む作業をやるらしい。
 『気の遠くなる作業』だが、それをやるらしい。
  これは新しいパイプを埋め込んだのち、
 掘り返した土を戻しているところである。
  
 右手前にあるのが新しいパイプで
 これが1日6本埋めるのが1日の作業量だというのである。
 
★いつになったら出来るのだろう?
 しかし50年前にも同じように埋め込んだのである。
 今回のパイプは耐用年数が伸びて『100年持つらしい
 発注元は三木市役所で道の真ん中に二人いるのが市役所の方、
 日に何度か作業状況を見に来るらしい。
 『暇だから』作業の交通整理をしているおじさんに話を聞いて、
 いろんなこと『仕入れている』のである。
 誰とでも直ぐ親しくなって、『気安く話ができる』のは『私の特技』なのである。
 交通整理をしているおじさんも『暇だから
 幾らでも話に応えてくれるのである。
 『暇だから』と言ったが
 もう少しまともな言い方をすると
 こんなのが『マーケッテング・マインド』なのである。
 簡単なようだが、こんな話を交通整理をしているおじさんに
気安く聞き出す』のは、ちょっとしたテクニックも要って、
なかなか、普通の方は『気安く聞き出す』ことが『出来ないのが普通』だと思う。
 誰とでも直ぐ親しくなって、
 『気安くいろんなことを聞きだす』ことが出来るのは
 身に付いた『私の特技』だと言ってもいいのである。
2021年2月19日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 8 自分史

投稿者 : rfuruya

★ この時期が1回目の国内出向の10年間だった。
 現役時代国内販社と親会社の間を往復していたのだが、川重に戻った時は営業第1線で得たノウハウを単車事業部が必要としたときに戻ったりしているので、
何となく自分では『逆出向』のような感じも持っている。
その1回目の国内販社出向の10年間は、自分にとっても初めての経験ばかりだったのだが、ホントに末端の第1線を経験したことは、普通ではなかなか経験のできない貴重なものだったような気がする。
中でも『人との出会い』が貴重な経験で、
大会社の従業員でない代理店の方たちや販売店の人たちと密接に繋がって、
一緒にいろんなことが出来たのはよかったなと思っている。
人は歳を取るにつれて成長する』というのだが、ホントかな?と思ったりもする。
特約店候補の人たちも、それを推進した所員も、私自身もみんな若かった。
若かったから』思い切って世の中で初めてのことだったのだが、推進できたのではと思ったりもする。
★このカワ販出向期間の10年改めて振り返ってみる。
● 昭和40年(65) カワ販出向・山本隆ジュニアロードレース
● 昭和41年(66) カワサキ日本GP初出場・藤井敏雄マン島事故死
● 昭和42年(67) 仙台事務所長・東北6県代理店営業
● 昭和43年(68) マッハⅢ発売 カワサキ中・大型車分野へ本格的に
● 昭和44年(69) 川崎重工業・川崎車両・川崎航空機3社合併
● 昭和45年(70) 三木市に土地購入、10月に大阪母店長に
● 昭和46年(71) 大阪カワサキ共栄会設立
● 昭和47年(72) アメリカ視察団、特約店構想、中日本営業部長、
● 昭和48年(73) 直営部長、 東名阪 特約店制実施、三木市転入
● 昭和49年(74) 管理部長(本社異動)、特約店制全国推進
● 昭和50年(75) 10月川重単車企画室企画部復帰、
 ざっとこんな10年だった。
 明石での広告宣伝課でレースも担当、仙台に白紙から事務所を創っての代理店営業は初めての営業経験だった。
4年間のうち、あとの2年は北海道も担当だったが、流石に広すぎて北海道には2度しか行けなかった。
  
その間の3社合併やカワサキ二輪事業の中大型スポーツ分野への転身に伴っての大阪への異動は文字通りの第1線の初体験だった。
 大阪でのカワサキ共栄会の設立から、特約店構想さらにその推進と目まぐるしく動いた。
 直営部長時代のテリトリーである。
 広かったが結構現地に行っている。
その間個人的には三木の土地購入。三木市への転入などあって、明石本社への異動し、全国の特約店制推進の旗を振った。
1975年には全国特約店制がほぼ完成して、10月に10年ぶりに川重復帰。
 殆ど家のことは家内任せで放っておいたのだが、
 子どもたちは小学生時代、息子は4年生ぐらいからサッカーを始めて、
 小学校5年生ではオール三木で兵庫県優勝、
 6年生では兵庫選抜で全国大会にも出場し優秀選手になったりしたので、
 川重復帰して息子も中学生になってからは、そのサッカーを観るのも楽しみだった。
 兎に角、ガムシャラニ精一杯生きた「10年の出向期間」だった。
2021年2月17日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 7   自分史

投稿者 : rfuruya
★1970年代後半の『カワサキ特約店構想』について書いてきたが、
その中には『二輪車新聞の衛藤誠さんの記事』を引用もさせて頂いたのだが、
衛藤さんは 二輪車新聞 の創刊号から関わっておられるベテラン記者なのである。
 二輪車新聞のネットのホームページの中にも衛藤さんの『創刊号作り』の話なども載っている。
  
衛藤誠さんとは、昭和36年川崎航空機に単車営業部が出来た最初の頃からのお付き合いだったが、昨年まで現役記者で活動されていたのである。
この時代の大阪特約店の記事は、衛藤さんにとっても懐かしい想い出なのだと思う。
そこには非常に詳しく当時の取材記事から書かれているので、
ご紹介しながら、私の感想を述べてみたい。
●印の文章が『私のコメント』である。
★まずは『カワサキ販売網づくりの今昔(1)』はこのように始まっている。
これは、これまでの“実用車のカワサキ”から脱皮し、“中・大型スポーツ車”を中心とする販売展開を目指すため、新しい販売方式を模索しての動きであり、特に東京・大阪・名古屋など大都市市場で見られてきた。
既にこの前年、70年(昭和45年)には東京で、中・大型機種の販売を指向する販売店約50店による「東京カワサキ会」が結成された。
これに触発された大阪でも、カワサキオートバイ販売大阪母店(近畿地区を統括)大阪営業所が1月、府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長が“中・大型機種を指向する販売店の組織化”を相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。
この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を示し「この早急な実施を図りたい」との話。
そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。
ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の荢野豊秋専務から“大目玉”。
荢野専務曰く「現在、全国にカワサキ車を販売してくれている販売店は1000店以上ある。この販売店は、何の前触れもなくこの記事がいきなり舞い込んできたら何とする。販売店の今後の経営方針にも大きく影響するばかりか、カワサキの今後の営業活動にも大きく支障が出る」というような主旨のお叱りの言葉を約3時間。私は荢野専務のお叱りは“ごもっとも”と思い、大いに反省させられた。
● 衛藤さんはこのように書かれているのだが、確かに本社サイドの決済など受けずに、取材に応じたというか、『取材をお願いした』のは間違いないのだが、当時の大阪市場での『カワサキ』が新販売網政策を展開し、その実現を目指すにはこれくらい迫力のあることをやらないとダメだったのである。
 強烈な反応があったということは、目的は達成できたということだと思う。
 衛藤さんは『反省』と言っておられるが、私は全く『反省などしていない
私の性格テストの中で一番強烈に出る欠点は『反省しない』ということなのである。
ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。
「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。
私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。
これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段であり、物事の実現には大きな“追い風”になります。
もちろん、これには多くの人たちを納得させる正当性がある限りです」とのこと。全く恐れいりました。
●衛藤誠さんとは、カワサキの二輪事業のスタート時点からお付き合いがあり、現役時代私はホントにいろいろとお世話になったが、この時期のカワサキの特約店政策が順調に推移したのも、この二輪車新聞の記事が大いに寄与したのは間違いないのである。
そして、『その2』はこのように続いている。
古谷氏の狙い通り、事はトントン拍子に進み、「半年あれば物事はある程度の現実をみる」とおっしゃる通り、この年の5月には大阪府下の主要な販売店25店が参加して「大阪カワサキ共栄会」の結成総会にこぎつけ、カワサキオートバイ販売から田中誠社長の出席もみた。
名称の「大阪カワサキ共栄会」は、その文字通り“カワサキとその販売店が共に栄える”という願いを込めたもの。また、その会長には船場モータースの岡田博社長が就任した。
さらに5カ月後の10月には、同共栄会の2回目の会合が開かれ、東京カワサキ会から北多摩モータース、城東カワサキの両社の社長さんも来賓で出席し、東京の組織活動などの情報を話し、相互に意見交換を行った。
このあと、カワ販大阪営業所は、カワサキ共栄会メンバーを軸とした販売強化策を展開して、府下の販売店のうち約500店もの販売店との取引中止を実施した。
同時に「カワサキ特約店制度の基本構想」の検討にも着手した。
これにはカワ販本社の田中社長も大阪の展開に強い関心を示し、その取り組みを側面から支援したこともテンポを早める要因になったようである。
おりしもカワサキは、この年(71年)、“二輪車事業10周年” を記念して、全国的な「二輪車事業10周年記念セール」を展開し、このセール成約の優良店100店を“KMC&米国市場視察旅行”に招待することにした。
このセールの主催は全国カワサキ会(小野寺和夫会長)。この会は、全国のカワサキ代理店組織で、カワ販の各地区母店もこのメンバーに含まれており、大阪母店長の古谷氏は同会の副会長に就任していた。
「米国視察旅行」は、72年(昭和47年)1月8日から15日までの7泊8日で、KMC(カリフォルニア)とサンフランシスコなど西海岸の旅で、参加した100店のうち、約50店は東京地区、残る50店が大阪をはじめとする関西と、名古屋地区の販売店であった。この帰国直後には、京都カワサキ共栄会も結成をみた。
● このアメリカ市場視察団は、全国カワサキ会が主催したもので、私自身の発案なのである。
当時のアメリカ市場の販売網がどのようなものなのか?
今後、国内市場で『二輪専門店網』を確立するためには先進市場のアメリカを是非観たいと思ったのである。
この時代未だ『海外旅行』など一般にはなかった時代で、二輪業界では勿論初めてのことだった。参加した国内100社はアメリカ市場を見て『洗脳』されたと思うし、東京を中心に、大阪・京都・名古屋などから参加した人たちは、
一気に燃え上がったとと言っていい。
私はこの視察団の団長を務めたのである。
このあと、4月にはカワサキ本社に東京・大阪・名古屋地区を統括する直営部が社長直轄として設けられ、直営部長に大阪母店長から古谷錬太郎氏が赴いた。
前年から検討されていた「カワサキ特約店制度」の構想も急ピッチで進み、8月中にはその概要がまとまり、二輪車新聞の8月31日付けに掲載。
9月8日、大阪の厚生年金会館で、この正式な発表説明会を開いた。
まずは直営部管内の東京・大阪・名古屋地区で先行することにして、正式なスタートは72年10月1日からだった。
契約第1号は、説明会を行った翌日の9月9日、大阪の船場モータースで、しかも船場モータースの岡田博社長は自店の契約だけでなく、東・名・阪各地で契約促進をバックアップした。
さらに翌年の73年9月からは、この「カワサキ特約店制度」を全国的に導入することになり、首都圏全域や広島、福岡などで積極的な活動が展開された。
これには、東京・大阪・名古屋地区で特約店契約を結んでいた販売店も積極的な協力を行ったという。
また、当時のカワサキは“ZⅡ”をはじめとする中・大型車の販売が好調で、これも特約店契約促進の追い風になったようである。
カワサキが現在取り組んでいる新しい販売網政策の「カワサキ・ネットワーク」と、46年前に取り組んだ「カワサキ特約店制度」は、新しい販売網を構築しようという狙いは共通している。しかし、唯一異なる点を挙げると、現在進めている制度は、寺西猛社長、清水泰博取締役を中心に、本社で綿密な計画を練り、これを全国展開している点で、
46年前の制度は、販売店の声などを汲み入れる形で地域の営業所長などが考え、これを可能な地域から全国的に拡大しようとした点だと思われる。
この差異は、混沌とした46年前の二輪車市場と、すでに成熟しきっている現在の二輪車市場という、全く異なる時代的な背景がもたらすものだと思う。
● この衛藤さんの原稿は2017年に書かれたものであり、
現在も進行中の『新しいカワサキの販売網政策』との比較が行われているのだが、時代も違うのだが最も異なる点を挙げるなら、
 現在の『カワサキネットワーク』はホンダさんも殆ど同じような政策を採られているのだが、
 1970年後半の『カワサキ特約店制度』は二輪業界でカワサキだけが先駆けてその『先頭を走った』ということだろう。
私自身は常に『二輪業界に貢献』ということがベースにあって、この時点の特約店制もそうだが、
カワサキ専門店システム』ではなくて、他メーカー車の販売OKなのである。
なぜ今は、各メーカーオンリー制に走るのだろうか?
末端のユーザーにとってみると、いろんなメーカーのクルマがある方がいい筈だと思う。
ずっと後、創ったユーザークラブKAZEも、その基本コンセプトは、
カワサキだけのユーザーのものではなくて、for Everybodyなのである。
2021年2月16日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 6

投稿者 : rfuruya

★ このカワ販出向中の10年間、個人的にもいろいろなことがあったが、

 子どもたちはまだ小学生時代なのである。
 この間の住所は 明石ー仙台ー高槻ー三木 と移っている。
 何と言っても『三木に土地を買って家を建てた』というのが、個人的には最も大きな出来事だっただろう。
 当時、誰しもが自分の土地を買って家を建てようという機運にあった世の中であったことは間違いない。
 ただ私の場合は、仙台から明石に出張しているときに突如話が出て、
 出張中に独断で決めてしまっているのである。
 なぜそうなったのか?
 大体のことは覚えているが、当時の日記を読み返してみた。
 昭和45年(1970)6月12日に、かって広告宣伝課時代に付き合いのあった田中さん大和ハウスに移っていて
廣野にいい土地があるから』というのである。
 翌日には現地を見て『6月14日には予約書にサイン』をしている。
土地という大きな買い物なのにあまりにも簡単に決め過ぎるきらいがあ』と日記には書いているがその通りなのである。
★ 大体、何でもこんな調子で『決断は早い
 『いいと思ったこと』は直ぐ決めてしまう。
 それは『人を信じる』というのがその根底にある。
 田中さんは広告宣伝課時代には印刷屋さんに勤めていたのだが『いい奴』だった。
 大和ハウスに転勤して三木に開拓中の土地を川重の明石工場人たちに売り込んでいるのだが、なかなか決まらないという。
そこに私が出張で戻ってきたものだから『いい土地だから買ってくれ』というのである。
現地を見たら、廣野ゴルフ倶楽部の前の広大な土地なのだが、
まだ造成中で土地の地肌だけが見えるだけで、
家の場所さえ解らなかったのだが、細部は全て田中さんに任して『サインした』のである。
信じる者』と書いて『儲かる』という。
信じる者』は『儲かるように出来ている』と何となくそう信じている。
 当時直接担当した『大阪の特約店制』なども25店の販売店を信じて、
 500店の自転車屋さんを切ってしまったのである。
★ いま住んでいる三木はこんな立地なのである。
 今は周辺も開拓されているのだが、
 当時は明石からはずっと奥の田舎だったのである。
 
 三木に住んでもう50年近くになるのだが『よかった』と思っている。
 当時の給料や物価は年々20%以上も上昇している時代で、
 三木の土地は75坪を280万円で買ったのだが、
 土地も給料もどんどん上がって実際に家を建てた4年後の1973年の春ごろには、
 私の給料も土地の値段も2倍ぐらいになっていたのである。
 そんな私の『やり方』を見て周囲の人は、
 『そんなになることを読んでいたのか?』と言われるのだが、
 そんなことはなくて、ただ『田中さんの言うこと』を『信じた』だけなのである。
★ホントに『人を信じる』のである。
 大阪・京都・名古屋の3地区でスタートしたカワサキの特約店制なのだが、
 京都の所長をしていたのが『藤田孝昭』くんで、
 彼は川崎航空機入社の同期で野球部で私と三遊間を組み、1・2番を打った球友でもある。
京都営業所を任すときに『すべて自由にやれ』と言ったこともあったのだが、
突出して『徹底的に進めた』のが『京都営業所』なのである。
当時の京都営業所はオモシロいメンバーが揃っていて、
久後淳一郎・関初太郎・柏原久・吉川健一など今でもお付き合いのある人たちがいたのだが、
京都府は京都市内の9店と宇治カワサキの10店だけに絞ってのスタートだったのである。
ホントに10店だけで大丈夫かなと思ったが、当時の京都営業所の経営実績は抜群だったのである。
 『信じる者』というのは本当に『儲かる』のである。
 これは吉田純一さんの受賞のお祝いに集まったメンバーだが、
 右から二人目が『藤田孝昭』くんである。
 
 このメンバーもそうだが、お付き合いのあった方、
 みんな立派になられるのである。
 これは 会が始まる前だが、
 藤田くんもいるし、一番右が柏原久くんである。
 明石カワサキも和歌山の阿部ちゃんもいる。
 みんな当時の仲間たちである。
 一番左は村島政彦さんなのだが、昨日はFacebookのこの写真に、当時の出会いのコメントなど頂いたのである。
 
 同じ会だが、受賞者の吉田純ちゃんを囲んで一番右が関初太郎くんである。
 
★ 『カワサキ特約店制』に没頭していた1970年代後半だが、
 それから50年近く経つた今も、Facebookなどでは毎日のように繋がっているのは、
 みんな『信じ会えた仲間たち』だったからだと思う。
 いまお会いしても昔と同じように話ができる。
 人生、長く生きてきたが『人を信じて』生きていると
 本当に『いいことばかり』なのである。
 そういう意味では『バカみたいな性善説者』で、
 世の中でお付き合いした人たちは、みんな『いい人ばかりだ』と信じて生きてきたし、
 今後も間違いなく『そう生きる』と思っている。
2021年2月15日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その5  自分史

投稿者 : rfuruya

★ 1970年代の国内の二輪業界は、
 各社とも250cc以上のスポーツ車の上市もあったのだが、
 カワサキを除く業界3社はその販売の中心は50ccのモペットで、
 その販売方法は全国の自転車屋さんの店頭にバイクを委託するという
 『委託販売』の時代だったのである。
そんな環境の中でカワサキだけが、中大型スポーツ車を中心の販売であったし、
最大の市場東京では、既にカワサキは100店余りの『二輪専門店網』を敷いていたのである。
東京に次ぐ大市場の大阪なのだが、大阪では全くそのようなことにはなっていなくて、やっと『カワサキ共栄会』を創ったばかりの状況だったのである。
★ 『カワサキ特約店制度』と検索すると
 こんな野田浩志さんの記事、 が現れるのである。
 1971年時代にはカワサキの本社では野田君が『特約店制』なるものを
既に起案して承認はされてはいたのだが、
 第一線ではどこもそれを実施しようとするところはなかったのである。
  
 そんな状況だったので、私の管内で何とかそれを実現させたいと
 その前身の『カワサキ共栄会』なるものを創ってスタートを切ったのである。
 『特約店制』と簡単に言うが、既に取引のある自転車屋を切って、新しく『カワサキ特約店』を創るのは、口では簡単でも第1線の営業にしてみると『リスク』が大きすぎて実行しようというところが皆無の状態だったのである。
 まず大阪・京都と名古屋地区でスタートを切るべく検討を開始し、
 特に『カワサキ共栄会』が出来た大阪では500店以上の取引自転車店があったのだが、
 『カワサキ共栄会』の25店で大阪管内の実績の60%の販売台数になれば
500店の店を切って25店の『特約店制』に踏み切ると公言したのである。
約1年の期間を経て、管内の京都地区にも10店の京都カワサキ共栄会がスタート出来て、名古屋地区でも岡崎営業所がスタートするなど、徐々にその機運が高まっていったのである。
そして1972年9月1日に二輪車新聞のトップ記事で
 『カワサキ特約店制の実施構想』を発表したのである。
 
 これは簡単に出来たように思われるかも知れぬが、
 大変だったのである。
 特約店候補の店も数少なく絞ったが、
 その候補店に対しても、十分な理解を得るために、営業所で夜遅くまで『勉強会』をやったし、
 既に同じような『二輪専門店』にはなっていた東京地区の
 北多摩モータース・城東カワサキには、何度か大阪まで足を運んで頂いて
二輪専門店』なるものへの研修会の講師を務めて貰ったりしたのである。
 特約店契約の内容も非常に厳しいもので、従来の自転車屋さんとの
委託販売』とは全く違った『年間契約金額』も設定されたものだったのである。
 カワサキ場合は、大型車も多いので『台数契約』ではなく『金額契約』とし
 その最低を『1000万円』としたのである。
 大阪の場合で言うと25店だから契約総額は3億円を超え、
2年前に二輪車新聞に『2年で倍増』という公約は十分に果たせたのである。
★こんな細部のことを言っても、一般にはなかなか理解がムツカシイとは思うが、
 兎に角、当時としては『桁外れに高い条件設定』だったのだが、
 神様は援けて下さるのである。
 上の二輪車新聞の左上に『カワサキ750、国内用に明春発売』とあるが
 これが50年経った今も人気の『カワサキZ2』なのである。
    
 この車が『特約店制スタートの初年度』に発売されて
カワサキの特約店制は最高のスタートを切ることが出来たのである。
 カワサキ特約店制がスタートしたのは1973年なのだが、
最初は大阪・京都・名古屋の3地区からスタートし。
既に同じような『二輪専門店制』を採っていた東京も加えて
東名阪メガロポリス地区』での特約店制が確立するのである。
東・名・阪の東海道メガロポリス地区での
★この時点では地元『兵庫県』が入っていないのだが、
 兵庫県は販売台数は多いのだが、典型的な自転車屋さんが主力で、
 『二輪専門店』になるような候補店が皆無の状態だった。
 そんな中で登場したのが、この稿の冒頭にご紹介した『従業員独立制度』、
 所謂『のれん分け制度』で兵庫県はカワサキの従業員の『のれん分け』のお
店が多いのは、そんな事情からなのである。
 これは最近の写真だが、
 みんな立派になられたが、『元カワサキの従業員』だし、
  
 これはその最右翼『叙勲』を受けられた吉田純一さんの祝賀会に集まった
 当時関係のあったメンバーたちなのである。
 不思議なほどその当時の主役たちが集まっている。
 今でも思うのは、この当時『特約店制』で関係のあったメンバーたちは、
 単なる販売元と販売店という関係ではなくて、
 『一緒に同じ目標に向かって邁進した仲間たち』なのである。
 50年経った今も、そんな絆で結ばれているのが素晴らしい。
 冒頭にご紹介した特約店制度のれん分け制度起案者野田浩志さんこと
 『のんちゃん』もFacebookで繋がっている。
私にとってもこの二輪業界で先頭を切って創り上げた新しいシステムだったし、こんな特約店制度の推進に関われたのは『最高の喜び』なのである。
2021年2月14日

梅の花と六地蔵と志染の石室

投稿者 : rfuruya
★ 天気がよかったし、三木総合防災公園の梅の花が咲いたので、
 その動画を撮ってきた。
 80分の行程を1分50秒に纏めてあるので
 ご覧になってみてください。
 三木総合防災公園とはこんなに広い公園です。
 そのついでに園内をスロージョッギングしてきたが、
いつもは通らない山道を通って、『六地蔵』や『志染の石室』にも久しぶりに行ってきた。
 2月も半ば、梅の花も開いている。
  
 土曜日で子どもたちがサッカーの試合で、
 駐車場はいつもより車が多い。
 こんな広い道をいつもは通るのだが、
 こんな山道ばかりを通ってみた。
急こう配の階段などを上って
 久しぶりに六地蔵さんのところに行ってきた。
  こんな彫り物のある石がある。
六地蔵 どっこいさん とは こんな石である。
  
  そこから更に、こんな坂道を下り
  さらにこんな石段を下った先に
  志染の石室はある。
  この時期『金色に輝くこと』があるというので
 このように言われている。
  ずっと下ってきたので、今度は登り、
 急な階段や坂道が続く。
 そしてやっと公園の道に戻ってきた。
 子どもたちがサッカーの試合をやっていた。
 歩いた歩数9000歩、約6km、80分掛かっている。
 消費カロリーは、1300kcal と1000を超えた。
 
 あと20日で88歳・米寿を迎えるが、結構元気である。
 今距離歩いたのではなくて、
 『スロー・ジョッギング』で登り以外は走ったから、
 アクテイブタイム81分と出ている。
2021年2月13日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その4 自分史

投稿者 : rfuruya
★カワサキオートバイ販売出向の10年間は,
自分自身にも初めての経験などいろいろあったのだが、
昭和44年(1969)4月には、川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併があったり、
その関係からカワ販の社長も岩城さんから田中誠さんに交代している。
田中誠さんは私の大学の先輩で、入社当時の部長で非常に身近だったし信頼も厚くて、100%自由に任して頂けたのである。
そういう意味で、特に出向期間の後半5年間は、田中誠社長直接の指示で自由に動けた時期だったと言っていい。
その信頼に応えて、それなりの実績も上げたので、
毎年のようにその職責の範囲が増大していったのである。
年齢で言うと38歳から40歳代の初めの頃で、
まだ川重では課長待遇の頃なのだが、
昭和45年(1970)からは大阪母店長として営業第一線を担当することになり、関西2府4県を担当したが、
2年後には名古屋・北陸・松本が加わって中日本営業部長となり、
翌年4月にはさらに東京が加わって直営部長となり、直営部管内は全て新しい特約店制の販売網となったのである。
そして全国の特約店推進を図るため、本社管理部長として明石に異動し、
大阪母店長就任以降5年間で、全国の特約店制度の完成を見たのである。
そして昭和50年(1975)10月に10年ぶりに川重企画室企画部に復帰ということになったのである。
★こんな目まぐるしい5年間だったのだが、
1970年の8月に『マッハⅢ』が国内にも登場して、
実用車のカワサキ』から『中大型、スポーツのカワサキ』へと移行する時代が始まり、
当時カワサキとしては『最弱の市場』と言われた大阪ほか関西市場を担当することになったのである。
    
仙台時代は勉強することばかりだったが、
この時期は入社以来初めて『トップとして旗を振る』ことになったのである。
大阪に赴任して最初に訪問したのは老舗の『船場モータース』だったのだが、
初対面の船場モータースの岡田博さんに、
東北ではどれくらい売られたか知らぬが・・』と前置きされて
大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサ』と言われてしまったのである。
★ 確かに販売台数も少なかったし、
取引店は500を超える自転車屋さんもあったのだが、
それはとても『販売網』と言えるようなレベルではなかったのである。
大阪に赴任したのが昭和45年(1970)11月なのだが、
大阪だけではなく京都・奈良・和歌山など関西圏が担当なので、
販売店廻りをして挨拶をするだけでも大変なのだが、
販売店訪問は東北で慣れていたし、
会って話をすると誰とでも直ぐ仲良くなれる性分で、
これは得意分野なのである。
年末までにはほぼテリトリーの全容が何となく掴めたと言ってもいい。
年が明けて1月には勝浦温泉大阪の主力店20店を招待して、
今後の大阪市場の販売網戦略などを検討したのだが、
非常に雰囲気もよくて、船場モータースの岡田さんを中心に、
カワサキ共栄会』を創ろうということにもなったのである
★そして2月には、
二輪車新聞にトップ記事でこのように大きく掲載されたのである。
2年以内に実績倍増を見込み、販売網再編構想決る』
今までに、カワサキがこんな派手なニュースを流したこともなかったので、
二輪業界だけではなくて、カワサキの中からも驚きの声が聞かれたのである。
二輪車新聞記者の衛藤誠さんとは広告宣伝課時代から密接な関係もあったので、
先方から取材申し込みがあり、
本社の許可など受けずに独断で、私自身の今後の販売網構想や
中期の事業計画を発表しただけのことなのだが、
2年で実績倍増』などと言ってるので大きく見えるのである。
実績が小さい』のだから、倍増はそんなにムツカシクはないと、
ホンネでそう思っていたのである。
ただ、業界紙のトップ記事は話題にもなったようで、
この記事が出た直後に前述の船場の岡田社長
ホンダの営業会議では、カワサキの名前はかっては出なかったのだが、昨今は「双葉のうちに潰さねば」と言ってるらしい』と言われたのである。
無視から注目に変わっただけでも進歩なのである。
★業界紙がこれくらい大きく取り上げてくれると『業界の話題』になることは間違いないのである。
世の中の注目を浴びることで『カワサキのイメージ』は変わるし、目標も明確になるのである。
目標を公表したのだから、それを実現するために頑張らねばならないし、
社内の会議などで言うよりは、部下たちにも徹底できるのである。
本気らしい』と思ってくれるので、ある意味やり易いのである。
★特にそのベースにあった販売網政策については、
この時期には取引のあった500店を超える自転車屋さんの中から、
25店ほどの二輪専門店候補を選び、
4月には正規に『カワサキ共栄会』を設立して船場モータースの岡田さんが会長を引き受けて頂いたのである。
その販売店候補の人たちも若くて元気なころである。
勝浦温泉に招待した販売店20店は、
大阪でもそこそこの実績のある『いいお店』なのだが、
その後25店に増えている。
その選択は別にその時点の実績に拘らずに
いい人・やる気のある人』を選んでいるのである。
その時点の実績などではなくて、将来性を求めたのだが、
その筆頭が今の『忍者』当時の伊藤モータースの伊藤彰さんである。
この3ヶ月の間に、多くの店をこの目で見ているのだが、
堺の伊藤モータースにも立ち寄っているのである。
その時点では、新車というよりは中古車主体のお店だったが、
兎に角『元気がいい』のである。
 場所は今の『株・忍者』と同じところだが、
こんなお店だった。
       
 伊藤さんは、大阪のカワサキと共に『大きく立派』になられた
 まさに『共栄会』のコンセプトそのもののお店である。
 50年経った今も親しくお付き合いは続いているのである。
 『カワサキ共栄会』をベースに
 カワサキの正規の基本コンセプトとして展開したのが
 『カワサキ特約店制度』なのだが、
 次回はこの5年間の主たるテーマであった
 『特約店制度』についてご紹介をしてみたい。
★カワサキオートバイ販売出向の10年間は,
自分自身にも初めての経験などいろいろあったのだが、
昭和44年(1969)4月には、川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併があったり、
その関係からカワ販の社長も岩城さんから田中誠さんに交代している。
田中誠さんは私の大学の先輩で、入社当時の部長で非常に身近だったし信頼も厚くて、100%自由に任して頂けたのである。
そういう意味で、特に出向期間の後半5年間は、田中誠社長直接の指示で自由に動けた時期だったと言っていい。
その信頼に応えて、それなりの実績も上げたので、
毎年のようにその職責の範囲が増大していったのである。
年齢で言うと38歳から40歳代の初めの頃で、
まだ川重では課長待遇の頃なのだが、
昭和45年(1970)からは大阪母店長として営業第一線を担当することになり、関西2府4県を担当したが、
2年後には名古屋・北陸・松本が加わって中日本営業部長となり、
翌年4月にはさらに東京が加わって直営部長となり、直営部管内は全て新しい特約店制の販売網となったのである。
そして全国の特約店推進を図るため、本社管理部長として明石に異動し、
大阪母店長就任以降5年間で、全国の特約店制度の完成を見たのである。
そして昭和50年(1975)10月に10年ぶりに川重企画室企画部に復帰ということになったのである。
★こんな目まぐるしい5年間だったのだが、
1970年の8月に『マッハⅢ』が国内にも登場して、
実用車のカワサキ』から『中大型、スポーツのカワサキ』へと移行する時代が始まり、
当時カワサキとしては『最弱の市場』と言われた大阪ほか関西市場を担当することになったのである。
    
仙台時代は勉強することばかりだったが、
この時期は入社以来初めて『トップとして旗を振る』ことになったのである。
大阪に赴任して最初に訪問したのは老舗の『船場モータース』だったのだが、
初対面の船場モータースの岡田博さんに、
東北ではどれくらい売られたか知らぬが・・』と前置きされて
大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサ』と言われてしまったのである。
★ 確かに販売台数も少なかったし、
取引店は500を超える自転車屋さんもあったのだが、
それはとても『販売網』と言えるようなレベルではなかったのである。
大阪に赴任したのが昭和45年(1970)11月なのだが、
大阪だけではなく京都・奈良・和歌山など関西圏が担当なので、
販売店廻りをして挨拶をするだけでも大変なのだが、
販売店訪問は東北で慣れていたし、
会って話をすると誰とでも直ぐ仲良くなれる性分で、
これは得意分野なのである。
年末までにはほぼテリトリーの全容が何となく掴めたと言ってもいい。
年が明けて1月には勝浦温泉大阪の主力店20店を招待して、
今後の大阪市場の販売網戦略などを検討したのだが、
非常に雰囲気もよくて、船場モータースの岡田さんを中心に、
カワサキ共栄会』を創ろうということにもなったのである
★そして2月には、
二輪車新聞にトップ記事でこのように大きく掲載されたのである。
2年以内に実績倍増を見込み、販売網再編構想決る』
今までに、カワサキがこんな派手なニュースを流したこともなかったので、
二輪業界だけではなくて、カワサキの中からも驚きの声が聞かれたのである。
二輪車新聞記者の衛藤誠さんとは広告宣伝課時代から密接な関係もあったので、
先方から取材申し込みがあり、
本社の許可など受けずに独断で、私自身の今後の販売網構想や
中期の事業計画を発表しただけのことなのだが、
2年で実績倍増』などと言ってるので大きく見えるのである。
実績が小さい』のだから、倍増はそんなにムツカシクはないと、
ホンネでそう思っていたのである。
ただ、業界紙のトップ記事は話題にもなったようで、
この記事が出た直後に前述の船場の岡田社長
ホンダの営業会議では、カワサキの名前はかっては出なかったのだが、昨今は「双葉のうちに潰さねば」と言ってるらしい』と言われたのである。
無視から注目に変わっただけでも進歩なのである。
★業界紙がこれくらい大きく取り上げてくれると『業界の話題』になることは間違いないのである。
世の中の注目を浴びることで『カワサキのイメージ』は変わるし、目標も明確になるのである。
目標を公表したのだから、それを実現するために頑張らねばならないし、
社内の会議などで言うよりは、部下たちにも徹底できるのである。
本気らしい』と思ってくれるので、ある意味やり易いのである。
★特にそのベースにあった販売網政策については、
この時期には取引のあった500店を超える自転車屋さんの中から、
25店ほどの二輪専門店候補を選び、
4月には正規に『カワサキ共栄会』を設立して船場モータースの岡田さんが会長を引き受けて頂いたのである。
その販売店候補の人たちも若くて元気なころである。
勝浦温泉に招待した販売店20店は、
大阪でもそこそこの実績のある『いいお店』なのだが、
その後25店に増えている。
その選択は別にその時点の実績に拘らずに
いい人・やる気のある人』を選んでいるのである。
その時点の実績などではなくて、将来性を求めたのだが、
その筆頭が今の『忍者』当時の伊藤モータースの伊藤彰さんである。
この3ヶ月の間に、多くの店をこの目で見ているのだが、
堺の伊藤モータースにも立ち寄っているのである。
その時点では、新車というよりは中古車主体のお店だったが、
兎に角『元気がいい』のである。
 場所は今の『株・忍者』と同じところだが、
こんなお店だった。
       
 伊藤さんは、大阪のカワサキと共に『大きく立派』になられた
 まさに『共栄会』のコンセプトそのもののお店である。
 50年経った今も親しくお付き合いは続いているのである。
 『カワサキ共栄会』をベースに
 カワサキの正規の基本コンセプトとして展開したのが
 『カワサキ特約店制度』なのだが、
 次回はこの5年間の主たるテーマであった
 『特約店制度』についてご紹介をしてみたい。
2021年2月12日

紀元節  雑感

投稿者 : rfuruya
 
★2月11日は『紀元節』である。
小学校の頃、
 紀元節・天長節・明治節など『』と付く日は祝日だった。
 戦前には祝日として四方拝(1月1日),紀元節(2月11日),天長節(4月29日),明治節(11月3日)の四つを四大節と呼ぶ祝日があったが、
何故か『紀元節』が一番よく覚えている言うか懐かしいのは、紀元節の歌があったからだろう。
このほかにも、神嘗祭(かんなめさい10月17日),新嘗祭(にいなめさい11月23日)などもあったが
今はみんな違った呼び名で呼ばれてはいるが、祝日としては残っている。
その紀元節の歌詞である
歌詞(現代表記)
一、
雲に聳(そび)ゆる 高千穂(たかちほ)の
高根おろしに 草も木も
なびきふしけん 大御世(おおみよ)を
仰ぐ今日こそ たのしけれ
二、
海原なせる 埴安(はにやす)の
池のおもより 猶ひろき
めぐみの波に 浴(あ)みし世を
仰ぐ今日こそ たのしけれ
三、
天(あま)つひつぎの 高みくら
千代よろずよに 動きなき
もとい定めし そのかみを
仰ぐ今日こそ たのしけれ
四、
空にかがやく 日のもとの
よろずの国に たぐいなき
国のみはしら たてし世を
 
 小学生のそれも1・2年生の頃に覚えた歌だが、
その意味ははっきり解らぬままに、今でも2番まではよく覚えている。
 最近のことは、何でも直ぐ忘れてしまうのに、
こどもの頃覚えた歌詞は何故今でも思い出すのだろうか?
人間の脳の不思議さである。
★ところで『雲にそびゆる高千穂』は九州だとは解っていたが、
 その地図と写真を見るのは、初めてのことである。
 宮崎県だとは思ったがこんなところなのである。
 もう少し南かなと思っていた。
 
高千穂町には『天の岩戸』の洞窟もあるとか。
  
 高千穂はこんな綺麗な山である。
 
 87歳にして小学校で覚えたことをさらに勉強したりしている。
 ある意味何もすることのない『コロナのお陰』なのかも知れない。
建国記念日』よりは、何となく『紀元節』の方が日本らしくていいなと思う
 戦前派なのである。

団体会員プロジェクト

  • 神戸ベンチャー研究会
  • 二輪文化を伝える会
  • KAWASAKI Z1 FAN CLUB
  • World Good Riders Association
  • 燦々sunsun
  • シーズカンパニー「リモア友の会」
  • e-音楽@みき
  • ベストコレクター友の会

団体会員リンク

  • ボランタリー活動プラザみき
  • e-音楽@みき
  • 緑が丘子ども会
  • 神戸市立フルーツ・フラワーパーク
  • ホシノインパル
  • 船場
  • SEAZ COMPANY
  • カワサキマイスター
  • JSP明石
  • インターナショナルトレーディングムラシマ
  • スポーツイン
  • 忍者
  • YRS 山本レーシングサービス
  • 月木レーシング
  • プロショップKIYO
  • ホーリーエクイップ
  • モトショップシロタ
  • 二輪文化を伝える会
  • 72.姫路カワサキ
  • カワサキZの源流と軌跡 - 三樹書房
  • World Good Riders Association
  • LIME GREEN FAN CLUB
  • 株式会社モリワキエンジニアリング
  • ヤマダホーム有限会社
  • はっぴいえんどプロジェクト
  • キッズサポートクラブ
  • 紙の単車屋
  • ハルタ
  • 株式会社 武雄タクシー
  • ライオン屋本店
  • ベストコレクター
  • 三木アネックスパーク
  • バイクショップTODA
  • TRカンパニー
  • バニービーチ
  • J-Bike.com-松島企画
  • オレンジワークス
  • 吉野歯科診療所
  • SUZUKI design - DENICO
  • 山本医院
  • 仔猿-CKデザイン
  • スクーテックジャパン株式会社
  • 株式会社北海製作所
  • リアライゼイション
  • 兵庫メグロ販売株式会社
  • 伽耶院
  • 株式会社キッズ
  • 有限会社橋本漆芸
  • TONE BLUE
  • 株式会社零カスタム
  • フォレスト・ホームズ
  • いとうともひさ
  • DANTHREE
  • 放射能ウオッチャー
  • メディアゼロ:カスタムインフェクション
  • Miyako Hybrid Hotel
  • 有限会社 小金井美装
  • WITH ME PROFESSIONAL RACING
  • SSS進学教室 緑が丘教室
  • MJP株式会社
  • 73.菊澤デザイン事務所
  • SR400 500 SNS
  • 池田うららプロジェクト
  • 公共の交通ラクダ(RACDA)
  • NPO法人発達障害をもつ大人の会
  • 菊水鮓西店
  • きっとウマくいく輪
  • O's Organizational Synergy
  • うはら特許事務所
  • テラモーターズ
  • AT HOUSE, Inc
  • 燦々
  • 仮面舞踏会
  • 山百合サポートセンター
  • KSSR 神戸スーパースポーツレーシング
  • 神姫興業株式会社
  • 浅間 RIDERS CLUB
  • 弦 Gen Hair Works

リンクはご自由にどうぞ。このリンクバナーをご利用下さい。
ザ グッドタイムス

終了した
プロジェクト・団体会員
  • 孫文を語る会
  • O's Organizational Synergy
  • グリーンピア三木
  • ノヴァエネルギー
  • インナー通販.com
  • 三木さんさんまつり
  • 三木セブンハンドレッド倶楽部
  • エクステリア風雅舎
  • cafe' かのん
  • 【光削】AIネットワーク