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2021年3月25日

中学・高校・大学 私の学生時代  その6 自分史

投稿者 : rfuruya

中学・高校・大学 私の学生時代  その6

2021-03-25 07:31:54 | 自分史
★神戸商大に合格して一番先にやったことは『野球部への入部』だった。
当時の神戸商大は近畿6大学野球連盟に属していたが、私が在学中にはずっと1部に属していて、
ひょっとして2部もあったのかも知れぬが、そんな入れ替え戦とは無縁のそこそこの成績は残していた、そんな野球部だったのである。 因みに現在の兵庫県立大学は残念ながら3部なのである。
この時代は、近畿大学(あの阪神の佐藤の出身校)がこのリーグにいて、
ずっと近大が優勝していて、3回生の頃まではあの甲子園球場でリーグ戦が行われていたのである。
私は1回生の春からショートで出場していたので、
当時は兵庫県の高校野球の予選も甲子園球場で行われていたし、
私が一番多く試合をした球場』は『甲子園球場』というウソみたいなホントの話なのである。
まだ球場の外壁が蔦(つた)で覆われていた頃の懐かしい甲子園球場だった。
      
★ 高校時代は明石高校の野球部だったが、
同期の連中でも旧制中学の1年からいる連中が何となく主流で、
私や溝畑など学区制で途中から加わったメンバーがチームの中心というわけでもなかったのである。
そういう意味では神戸商大での野球部では、
1回生の春からチームの中心にいたし、『名門明石』出身ということで
一目置いて頂いていた存在だったのである。
2回生の時は1回生に有望選手も入部し、チーム力も上がって、
この2回生の秋までが、私の大学での野球選手としての一番盛りだったのかも知れない。
その2回生の秋のリーグが終わって、『肺浸潤』の診断が出て、
流石に3回生の春のリーグ戦は休んだのだが、
その時のリーグ戦の成績が最低だったこともあって、
秋からはベンチも担当する『プレイイング・マネージャー』として復活したのである。
責任上『野球のルールブック』を精読したのもこの時期で、
正直そんなことをしたのは初めてのことだった。
4回生の時には当然のように主将となり、
ベンチも預かる『プレイイング・マネージャー』を続けたのだが、
まだ肺浸潤も完治していない状態だったので、
むしろベンチワークの方に重点が行っていたかもしれない。
★ 野球部時代の写真もあまりないのだが、
 これは1回生の夏、兵庫県高砂の鐘化のグランドでの夏合宿の時である。
 当時の鐘化の野球部監督が久留島さんで、
 久留島さんは明石でも神戸商大でも先輩にあたる関係だったのだが、
 そんなことで鐘化のグランドでの夏合宿だったのである。
 二人で写ってるのは商大の選手ではなくて、
 明石高校時代の私と三遊間を組んだ辰巳くんなのだが、
 なぜ彼が商大の合宿に参加してるのか?
 多分、手伝いに来てくれたのだと思う。
 因みに、久留島さんは戦後の全日本にも選ばれていた名選手なのである。
    
★ 2回生の秋に『肺浸潤』になって、自分の命も長くないと思ったこともあって、日記を書きだしているのだが、
 今回『自分史』を書いてみて、ホントに日記に援けられているのである。
 人の記憶がこんなに頼りないものだとはホントに思わなかった。
 3回生時代の私が復活した秋のリーグのこんな記録が、
 日記帳にあったのだが全然覚えていないのである。
全員安打』で大工大に延長で勝っているし、
 2位を掛けての工大戦だったので、
 この試合はショート2番で先発しているのである。
 そして延長10回私の2塁打2点を取って勝っているのだが、
 そんな勝利なのに、全く覚えていないのである。
  
 日記にはこのように書いている。
10回表、2死1・2塁でバッターボックスに、
 ワンストライクの後2球目に好きなインコースに直球が来た、
 左翼フェンスにショートバンドで当たる2塁打で、
 2点を取ってこれが決勝点・・』とある。
★5回生では『野球部の監督』を引き受けているのだが、
 4月4日からは新チームの春の合宿が奈良橿原球場で始まる予定で、
この合宿には手伝いにはいこうとは思っていたのだが、
その前日の4月3日に野球部長の田中教授に呼ばれて正式に監督を依頼をされて、
この合宿には『チーム監督』としての参加となったのである。
これなども今回日記を読み返してみて『そうだったんだ』と思ったのである。
★この年は春のリーグは3位秋は2位とそれなりの成績を残しているのだが、秋のリーグ戦のことである。
1回生の小山修身投手が凄い記録を作っている。
これは意識的に『造った記録』でもある。

11月2日 市大戦  7-1 小山完投勝利、ここからスタートしている。

1週間空いて後半戦
11月7日 市大戦  2-0 と快勝、小山完投。
11月8日 工大戦  1-0 で勝利、小山の連投。
11月9日 工大戦。 0-0 9回引き分け、小山の3連投である。

ここまでは、惰性できた。3連投も凄いし29イニング連続無失点である。
7-1と1点を取られた1点もエラーからだから、36イニング連続無自責点である。

ひょっとしたら『新記録ではないか』と思って、ここからは記録を意識した。
本人もチームメイトも知らなかったと思うが、私は解っていた。
翌日の経大戦も『行けるところまで』と記録を意識して小山でスタートした。
11月10日 経大戦 4-0 小山完投完封。
少々無茶な起用だが、チームとしての無失点記録も伸ばしたくてやった、4日連続の4連投なのである。
そして翌週、ここまできたら小山しかない
11月14日 経大戦  4-0とまたも完封勝利。5試合無失点である。
11月15日 薬大戦  13-3勝利、だがここで記録は途切れた。

小山修身君の記録は『53イニングス連続無失点・64イニング連続無自責点』で、勿論当時は『学生野球の新記録』であった。

小山自身が知らなかったから、出来たのかも知れない。
私自身は30イニングあたりから気付いていて、
チームとしての無失点記録ともしたかったので、
4日連投』という無茶な起用にもなったのである。
★こんな大記録も創ったこの秋のリーグ戦も、
近大とはいい試合をしているのだが勝てなくて、2位に終わっているのだが、
監督としては『まずは及第』の1年だったかなと思っている。
こんなことで私の大学5年間の野球部生活は終わりとなるのだが、
野球は一生懸命やったのだが
お世話になっていた運動具店には10万円ほどの借金が残っていたのである。
当時の大学出の初任給が1万円ぐらいの時代だから結構な額の借金なのである。
これを幾らかでも『減らす』べく考えるのだが、
この件については次回に。
2021年3月24日

三木総合防災公園のスロー・ジョッギング と コロナ禍

投稿者 : rfuruya
★ 毎日の日課になっているのだが、
 朝は三木総合防災公園まで車で行って、
 公園の中のいろんな道を約6キロ、時間にして70分ぐらいの
 スロー・ジョッギングすることにしている。
 昨年、ジム・トレーニングを止めて、
 三木防災公園のスロー・ジョッギングだけにしてからちょうど1年になる。
 今月になって下り坂だけは、少しだけ早いジョッギングに変えたのだが、
 今のところ大丈夫続いている。
 昨日は天気も良かったし、
 こんな動画を撮ってきた。
 70分を約2分に纏めてあるので、ご覧になってみてください。
 動画をご覧になってもお解りだと思うが、
 公園が広いので、なかなか人に会わない。
    こんな環境だからだと思うが、マスクを付けている人が少ない。
 勿論、マスクをしている方もいるのだが、
 毎朝、どちらが多いか数えているのだが、
 特に朝早いうちは『マスクをしていない』人が圧倒的である。
 ジョッギングしている人たちは勿論だが、
 散歩されてる方も『ノー・マスク』なのである。
 階段でお会いしたご夫婦も『ノーマスク』だった。
 
★ 私も『マスクをしていない』ので、それなりに気にはなるので、
 毎朝、どちらが多いのか、数えているのである。
 朝8時台は、圧倒的に『ノーマスク』で
 9時半を過ぎる頃からは『50;50』になるような傾向である。
 昨日は8時半からのジョッギングだったのだが、
 『マスクをされてる方』は殆ど見かけなかったのである。
 こんな恵まれた環境だから、こうなるのだと思うが、
 「コロナ禍」早く何とかなって欲しい。
 4月中旬には、高齢者はワクチン接種が可能かも知れないので、
 もう1ヶ月は頑張りたい。
 『ワクチンを接種』したら、『ジム・トレーニング』を再開したいと思っているのだが、
 いつになったら『再開できる』だろう。
2021年3月23日

中学・高校・大学 私の学生時代  その5 自分史

投稿者 : rfuruya

★ 高校3年生の年の1月2日に突然父が亡くなって、

 『その治療費も要らなくなるので』伯父が『大学に行け』というのである。
 当時は健康保険などない時代で、父の打っていたマイシンの注射は非常に高価で、それも当時は殆ど手に入らなかった貴重品だったのだが、
 父の知人に明石の医者が多かったので、そんな医院から明石に入ったマイシンの殆どを手に入れていたのである。
その値段は、1本1000円と今の金に直したら10万円もするそんな金が要った時代なのである。
その費用を伯父は明石上ノ丸の土地を売って工面してくれていたである。
当時の土地は1坪2000円ぐらいだったと思う。
 それまでは父が寝ていたので、就職をしようと思っていて、
 高校3年時代も全然受験勉強らしきものはやっていなかったのである。
 それが1月になって『突然大学へ』などと言われて、
 兎に角、受験科目が少なかった神戸商大を受けることにしたのである。
 英語・数学・国語・地理の4科目だった。
 その年の神戸商大は歴史的に見ても最大の競争倍率で『16.5倍』もあったので、
 通る訳がないと思っていたのだが、何とか通ったのである。
 英語・国語はそこそこ、数学は何とか答えは合っていた。
 地理は白紙に世界地図を画いて、ジブラルタル海峡子午線を入れる問題で、
 私は地図は好きなのでラッキーだった。
 しかも子午線というのは生まれ故郷の明石を通っているのである。
 それでも『なぜ通ったのか?』自分でも不思議で入学後に野球部長の教授に聞いてみたら、
 『君は県会議長が頼みに来た』と仰るのである。
 これは伯父が手を回したに違いないのだが、『県会議長が頼むと通るのですか?』とさらに聞いたら、
 『当落線上はいっぱいいるからな』と解ったような解らぬ答えだったのである。
★ そんなことで入った神戸商大だったのだが、大学時代は殆ど教室にも入らず、野球一筋になってしまったのは、
 新入生の歓迎会で、先輩がなぜこんなことを言ったのか解らぬが、
この大学に入ったら勉学に勤めること、幾ら運動部など強くてもダと言ったのと、
 当時は就職難の時代で、学生は『一つでも多くの優を取る』ことに集中していた風潮に反発したのだと思う。
 そんなこともあって、学校には行ったが『食堂とグランド』だけで教室には殆ど入らなかったのである。
 それでも単位を取ることは試験さえ受ければ何とかなって、
 『』ばかりだったが単位は早く取ってしまっていたのである。
 野球部の私と同じような連中と『二桁モスキート』と『可』が二桁あることを楽しんでいたのである。
 『モスキート = mosquito = 蚊 = 可 なのである。
★ そんな大学時代だったのだが、神戸商大には大いに愛着もあるし、
 食堂のおばちゃんとも仲が良かったし、
 そこに『たむろしていた運動部の連中』も懐かしいのである。
 こんな学舎だった。
 
 今は大学名も兵庫県立大学と変わり新しい場所に移っているのだが、
 当時はこんな立地で星陵高校の直ぐ上だったので、
 
 今は高速道路になっている、この辺りだったのだと思う。
 今でも『商大筋』という道の名前だけは残っている。
★ 大学時代、私は引き揚げ者で母子家庭ということで授業料免除で且つ奨学金を頂いていたので、
 こういうとおかしいが『結構裕福』で『給料を貰って大学に通っていた
 ようなところがあったのである。
 2回生の秋に『肺浸潤』になってしまったが、その後も野球は続けていたのだが、
 ただ『ひょっとしたら早く死ぬかも?』と思って、
 この年から『日記』を書き出したりしているのである。
★ 大学3回生の時に、ずっと世話になっていた伯父(古谷脩一)が亡くなってしまって、
その葬儀のあと、当時の川崎航空機の社長だった砂野仁さんに会社に呼ばれて、
若し就職で他がダメだってもその時はうちにいらっしゃい』と言って頂いたので就職は川崎航空機と決めていたのである。
ところが、卒業年次の昭和31年がなぜか大変な年で、就職も大変で、
砂野さんから『今年は採る人数が少ないし、1年大学の卒業を伸ば』と仰るのである。
単位は取れていたので、卒論だけ提出せずに1年延ばすことにしたのだが、
ゼミの先生だった野球部長から『野球部の監督を』という依頼があって、
5回生の時は野球部の監督をやっていたのである。
ただ、この1年は授業など一切受けないのに、
授業料免除も奨学金もなくなって、ちょっと大変だったのである。
★ 私自身の88年の人生は、『何になりたい』と思ったりしたこともなく、『自分の進路』を自分で決めたことも一切なくて、
 周囲の人たちの勧めるままに動いた結果なのである。
 そんな『人が薦めてくれた』の上を歩いてきただけなのだが、
 そんな中でも『自分がやりたいこと』だけは常に明確に持っていて、
 それに集中した人生だったなと思っている。
 大学時代はそれが『野球』だっただけのことである。
 それと人を信じて生きてきた。
 川崎航空機の社長の砂野さんが『面倒を見る』と仰ったので任していたら
 『今年はダメだから卒業を1年延ばせ』と仰るのである。
 ホントに1年延ばしたら大丈夫かどうかは解らないのだが、
 100%信じて、その年の就職活動など一切やっていないのである。
 『信じる者は儲かる』とホントに性善説で生きてきた。
 そして野球部長に頼まれての『野球部監督』を務めたりしたのだが、
 その大学時代の野球部関連については次回に書くことにしたい。
2021年3月21日

中学・高校・大学 私の学生時代  その4

投稿者 : rfuruya
 
★ 明石高校の3年間は『野球部=100%』と言ってもいい。
当時はまだ『名門明石』と言われていた。
 これは中京-明石の甲子園での25回戦から来るのだと思うが、
 その25回戦を戦った先輩たち横内・峯本・加藤さんなど、
 練習にも試合にも来られて、厳しく指導されたのである。
特に夏の大会前は殆どが明石公園球場での練習だったのだが、これは大変だった。
1年生の補欠時代は、練習が終わって家に戻るのが夜の11時近くになったりしたのである。
この時期、1948年から51年まで3年間は日本でも『サマータイム制』が実施されていたのである。
暗くなってノックが出来なくなるのが8時過ぎ、
それからベースランニングなどあって練習が終わるのが9時過ぎ、
1年生はそれからグランド整備などして球場をでるのが10時近くになっていたので、
それから家に戻ると、ホントに11時になったりしたのである。
そんな厳しい練習の毎日ではあったが
昭和25年(1950)の夏には兵庫県で優勝し甲子園出場を果たしているのである。
  
 当時は組合せが決勝戦まで決まっていて、
 スポーツ新聞などには優勝は『瑞陵・小倉・明石か』などと
 優勝候補の一画に上げられたりしたのだが、
  
 1回戦で初出場の鳴門高に4-2で敗れてしまうのである。
  
★こんな夏の大会に出たのも『いい想い出』なのである。
当時の明石が強かったのはピッチャーがよかったからである。
前回もアップしたが同期の溝畑圭一郎はそんなに大きくもないのだが、
兎に角『野球は上手かった
彼が投げるとホントに2点以上は取られたりしないのである。
野球は』と敢えて書いているのは『ゴルフ』など全くダメなのである。
卒業後は神戸製鋼に入って都市対抗には常に常連で出場していた。
兵庫県のどこが勝っても、『補強選手』で選ばれるものだから、
毎年出場していたように思う。
   
 そんな明石高校の野球部だったが、
 今も甲子園春の選抜をやっているが、昨今の高校野球に比べると
 守備は兎も角、打撃のレベルが全然違うように思う。
 当時の高校球児で甲子園でホームランを打つ選手など見たこともなかったのである。
 甲子園はプロ野球の選手でも広すぎて『ラッキーゾーン』が作られていたし、
 明石球場にもラッキーゾーンはあったのだが、練習でもホームランは見られなかった。
 私はショートだったのだが、これが3年当時の明石の内野陣である。
 飛び抜けて『上手い選手』もいなかったが、
 明石の内野は堅実ということで定評があった。
 当時は、練習試合数なども今のように多くはなかったが、
 私自身は高校時代『エラーをした』という記憶がない。
 『エラー』をしなかった記録などもないのだが、少なくとも覚えていない。
 チームとしても殆ど『エラー』などしなかったように思うのである。
  
★高校時代の写真と言えば
 野球部に関連するものばかりである。
 特に我々の年次は、旧制中学の最後の年次だったので、
 下級生が入ってこずに中学の3年間と高校の1年の4年間を『最下級生』で過ごしたので、
 2年生になって初めて後輩が出来るのだが、
 そんな下級生を本当に歓迎し可愛がったところがある。
 最近よくある部内でのいじめや暴力事件など考えられもしなかった。
 野球部の同期の連中たちである。
 この人たち、社会に出てからもずっとお付き合いがあった。
 小学校・中学校或は大学の同窓生は同窓会で会うぐらいだが、
 明石の野球部の連中とは社会人になってからもずっと付き合いがあったのだが、
 それは明石の野球部時代がよかったからだと思う。
 みんな勉強はそんなにしなかったのに、
 社会に出てからは成功者になっているのは不思議である。
★そんな明石高校は兵庫県の自動車試験場の直ぐ近くなので、
 免許更新の時などに覗いてみたりするのだが、
 校舎などは新しく建て替えられている。
  学内には『甲子園の足跡』なども残されていて
 名門と言われた戦前が多いのだが
 昭和23年の春(1948)
 昭和25年の夏(1950)と戦後も2回続いていている。
 
 昔のグランドもそのまま残っていて懐かしい。
 
★なぜ、夏の大会前の練習が明石球場だったかというと、
内野が今のように黒土で整備されていなくて、小石がいっぱいだったからで、
当時、内野が黒土で整備されているようなところはなかったのである。
明石球場は明石公園内にあってこんないい立地の当時から素晴らしい球場だった。
私が高校大学時代は巨人軍が毎年春のキャンプを張っていた。
川上・千葉・青田・与那嶺・別所などのスター選手がいて広岡が入団したばかりの頃である。
長嶋も王も入団時のキャンプは明石球場だった。
私の高校2年の1950年には国鉄スワローズがスタートとしている。
この年の8月に『金田正一』が高校中退して入団しているのである。
その時の総監督が伯父(母の兄)の楠見幸信なのだが、
伯父楠見幸信宮武・山下・水原など慶応の黄金時代のメンバーで、
1番センターでスター選手だったようである。
当時の全日本にも選ばれアメリカ代表とも戦ったりしている。
卒業後は東鉄でプレーしたのだが、
そのチームメートだった前川八郎さん(後巨人に入った名選手)が当時の兵庫県工の監督をされていて、
明石球場で練習試合をした時、『私のショートの守備』を褒めて頂いたりして、非常に嬉しかったのを覚えている。
★ こんな野球一筋の高校時代であった。
 ようやく修学旅行も復活した時期なのだが、
 野球部はその間、島根・鳥取・山口と野球遠征をしたので、
 私は修学旅行の経験はなく学生生活を終わっている。
 高校時代の野球以外の想い出としては、
 学校の先生がたがよかったという印象が強い。
 野球部長の塚本先生にもお世話になったし、
 先生がたにも当時の野球部は人気があったように思う。
 いま、明石商業が野球では有名だが、
 当時は明石高校に商業科があって、そこが分かれて独立したのが
 明石商業なのである。
 前述の溝畑や同期で同じく神戸製鋼の野球部に進んだ藤原は二人とも商業科だった。
★ただ、この高校時代は父がずっと病床に臥せていて、家庭環境は苦しかったのだと思う。
 明石の伯父にも世話になったし『楠見幸信』にもいろいろ就職のお世話になったりしていたのだが、
高校3年の卒業直前の1月2日に父がなくなって、私は大学に進むことになったのである。
2021年3月20日

我が家の金魚たち

投稿者 : rfuruya

★ 我が家のガレージの下はこんな小さな池になっている。
 そこに何年か前から、金魚がいたのだが、
 死んでしまったのも勿論居るのだが、
 数年来、 赤い金魚たちが、この池で孵って今ではこんなに大きくなった。
 それから毎年何匹かが育って、今は15匹以上になっている。
 
 春になって『水緩む季節』になると金魚も泳ぎ出すし、
 餌も食べ始める。
 睡蓮も葉を出し始めたし、
 菖蒲やあやめも今年の芽を出し始めた。
  
 今から餌をやって育てたら5月末には今年もこどもが孵るかも知れない。
 
  子どもの頃から、何故か魚は好きだった。
 現役時代は庭にこんな池を造って、錦鯉もいっぱいいたのだが、
  
  今は池も埋めてしまって、こんなになっている。
 
 錦鯉に比べたら、金魚は小さくてこどもを産んで増えるので、
 そんな別の楽しみもある。
 何よりも『お金が掛からない』のがいい。
 金魚の他にもメダカがいっぱいいるし、
 エビは毎年春にはこどもを産むので何匹いるのか解らぬほど増えたりする。
 2年ほど前から、メダカの産卵に凝っている。
 薔薇もそうだが、兎に角『成長する』ものには興味・関心がある。
 これは性格だから、歳を取っても変わらない。
 今年も忙しい季節に、ぼつぼつ突入なのである。
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2021年3月19日

春ももうそこまで

投稿者 : rfuruya

★ 春の彼岸の入りも近い。
  コロナ対策の毎日だが、
  明日は明石まで彼岸の墓参りに行こうと思う。
  朝はいつもの通り三木総合防災公園を走ってきた。
  『こぶし咲くあの丘北国の 北国の春』と唄われたこぶしも、
  もう満開である。
  
 この辺り、桜は未だだが
 『彼岸桜』はこんなに綺麗に咲いている。
 
 大相撲の春場所が始まって、
 午後からはテレビを観る時間も増えた。
 いま『話題のお嬢さん』は2時ごろから既に正座で観戦である。
 6時までこの正座の姿勢が崩れない。
 見事というほかはない。
 
 今場所は二人とも十両に落ちた『炎鵬―徳勝龍戦』が
 十両最後の相撲だったが、炎鵬が勝って5連勝とした。
      
 今年のオープン戦、阪神の佐藤  が話題である。
 既に6号を打って、新人記録を塗り替えたとか。
 
 因みに、6号は1966年のドラフト制後では最多記録で、
 一番は誰かと思ったら、
 あの長嶋茂雄が1958年に7本を打っているらしい。
 長嶋も流石だなと思うが、
 佐藤は久々の『期待通りの大物新人』のようである。
今年は3月26日に セ・パ同時開幕のようである。
 野球と言えば『春の選抜高校野球』は
 19日からで
 その第1試合に兵庫県の『神戸国際付属』が登場する。
 
  いよいよ『春だな』と 春を実感できる季節到来である。
★ こんなニュースを拾いながら、テレビを観ながら
 そして、それをブログにアップしている。
 パソコンの前に坐って、いろいろやってたら、
 ちょうど2時間ほどの時間が過ぎた。
 『私のコロナ対策』の午後の過ごし方なのである。
2021年3月18日

中学・高校・大学 私の学生時代  その3   自分史

投稿者 : rfuruya
★ 高校からは『学区制』で地元の明石高校に転校した。
 当時の明石は『明石高校』と女子高だった『明南高校』があったのだが、
 なぜか問題なく『明石高校』への転校だったのである。
 それまで神戸までの通学に比べたら
 圧倒的に近くなったし、家からの距離も1キロほどだから、
 歩いて20分ほどで通学できるようになったのである。
 こうしてみると明石高校は明石の北の端なのである。
 この地図を見ると『変わるものだな』というのが実感である。
  当時は、この地図に現れる通学路から北側は家などなかったし、
 その南側も家は建ってはいたが10分の1ほどで、
 殆どが空き地だったのである。
 
 当時の野球部の練習は明石公園でやることも多くて、
 上の地図の左端にある野球場までずっと放課後通っていて、
 その時はやはり通学路を通ってさらに明石公園の中を抜けていたのである。
 明石高校では毎日教室には出ていたが、教室以外で勉強することは殆どなかった高校生活だった。
 これは神戸一中時代とは大違いで、勿論勉強のできる生徒もいるのだが、
 勉強は嫌いという生徒もまたいたのである。
 そういう意味では、私も『勉強ができる生徒』の範疇にはいて、
 勉強はしなくても、特に問題があったわけではなかったので、
 非常に気楽な高校生活を送っていたのである。
★ 中学時代も高校時代も『気楽な学生生活』を送っていたのだが、
 それは私の『気楽な性分』がそうさせたので、
 家庭環境はそんなに気楽でもなかった筈なのである。
 戦後引き揚げてきて爆撃で焼けてしまったが、
 その屋敷跡は3000坪ほどもあったので、伯父も父もそこに家だけは建てたのである。
 父は私が中学時代は神戸で会社を立ち上げてはいたが、
そんなに大きな収入があったとも思えないので、
我が家は引き揚げてきた時母が隠して持ち帰った指輪を売って建てたなどと言っていた。
 ちょうど高校に入るころに父が『脊髄カリエス』で寝てしまって、
 高校3年の時も病状は変わらなかったので、ほぼ大学進学は諦めていたので、余計に勉強はしなかったのだと思う。
 今思うと高校時代、父は寝ていたから勿論収入はなかったのだが、
 どのように生計を立てていたのかは、はっきり解らない。
 多分、同じ敷地内にいた伯父が面倒を見てくれたとは思うのだが、
 その伯父とて戦後は無職だったから、多分3000坪ほどあった上の丸の敷地を売り食いしての生活だったのである。
 当時はまだ健康保険制度などは整備されていなくて、
 父の治療にいるマイシンの注射が1本1000円もして、上の丸の土地が当時1坪2000円ぐらいで売れたので、
伯父がそれを売りながらの生活だったのだと思う。
 然し高校時代に、そんな金の心配などは一切せずに学校に通っていて、
 学校では勉強などはせずに『野球一筋』の生活だったのである。
 そんな父が私が高校3年生の時の1月2日に突如亡くなってしまったので、
 伯父が『もう金が要らなくなったから、お前は大学に行け』ということになって、
 それから大学受験の真似事みたいな受験勉強をしたのだが、
 受験したのは当時の神戸商大1校だけで、
 その年の入試の倍率が16,5倍もしたので『通る訳がない』と思っていたら『通ってしまったのである
 そんなことで、私の高校時代、勉強をしたと言えるのは、
 この最後の2か月間だけなのである。
 父は『私を大学にやるために』そのぎりぎりの1月2日に死んでしまったのかなと思ったりもするのである。
★ バブルの時には1坪100万円とも言われた『明石上ノ丸』の土地なのだが、
 当時は土地にそんな値打ちを感じなかったし、
 土地を手放すことにもそんなに気にしなかったのだと思う。
 明石公園に隣接した上の丸の一等地
 これくらいの広さだったのだが、今はこんな住宅地になっている。
 因みに ここは私の生地で本籍でもある。
 『明石市上ノ丸2丁目720番地』などと言う番地は今では存在しないのだが、
 私の本籍として戸籍上だけは残っているのである。
  
 隣の自転車競技場も高校生の頃競輪場として、
 堀を埋め立てて造られたのである。
 その堀はかっては外堀として上のほうまで続いていて、
 こどもの頃は庭から降りて鮒釣をよくしたもので、幾らでも釣れたのである。
 当時はこの辺り数軒の家しか建っていなくて畑が多かったのだが、
 日本も変わってしまったものである。
★ そんな時代環境の中での高校生活だったのだが、
  神戸一中とはまた違って、なかなか楽しくオモシロい学校ではあったと思っている。
  転校して直ぐ野球部に入部したのだが、
  その前年甲子園の春の選抜に出場したのが神戸高校明石高校の2校だったのである。
 当時の明石高は 山本治ー大津淳という最高のバッテリーで実力的には一番強かった時代だと思うのだが、
夏の大会では準決勝で芦屋高に負けてしまったのである。
 山本治さんはその後慶応大学で朝日スポーツ賞に輝き、鐘化でも活躍された。
 大津淳さんは関大・日生さらに全日本すべて4番を打って、
 阪神タイガースに入団されている。
 野球部に入った1年生の時は、そんなチームだったが、
 私と同期では溝畑圭一郎が同じように学区制で明石に転校してきたのである。
 その後の明石高校の野球部も夏の甲子園に出場したりするのだが、
 その中心になったのが溝畑投手なのである。
 野球は何としても『ピッチャーがいい』とそのチームは強いのである。
 これは2年生の時、兵庫県で優勝して甲子園に出た時の
 『溝畑投手の新聞記事』だが、
 この兵庫県の予選では灘高校を相手に『完全試合』も記録しているのである。
  
 そんな環境の変化の中での高校生活だったのだが、
 その殆どは『野球部の生活』の想い出ばかりなのである。
2021年3月17日

政治家の会食 と 雑談     雑感

投稿者 : rfuruya
政治家の会が昨今の話題である。
 昨日は政治評論家の田崎史郎さんのこんな記事が流れた。
 記事を読んでみると、
政治は人間が動かしています。そして人間を動かすのは感情です。
他人の感情を、自分にプラスになるように育む。それが政治家にとっては大事な仕事になるのです。
食事を重ねることで人間関係を築いていく。
長い時間を一緒に過ごせることが大きい。
 などと、このように言っておられて
 『政治家の会食』についてどちらかと言えば肯定的なスタンスなのである。
★ 確かに、世の中のいろんな物事を実現していくためには、
 正規の会議などだけでは、なかなか上手くいかない面があるのは、
 私自身もそう思う。
 会議などで『綺麗ごと』を言うだけでは、
 『会議は踊る』けれどもなかなか『ものごとが実現しない』のも事実のような気がする。
 と言って『高級料亭での会食』など、
 一般の人たちにとってはまさに『高嶺の花』なのだが、
 それに代わるものとして『雑談』があると思う。
 私自身の現役時代を振り返ってみて、
 『会食』もやらなかったとは言わぬが、
 交際費は自由に使える環境にはあったのだが、あまり会食に熱心ではなかったのは、
 家が三木で自分のクルマ通勤だったから、
 会食しても『酒が飲めなかった』のが一つ理由なのである。
 特に地元の明石では会食をしても『酒を飲まなかった』ものだから
 『酒が飲めない』と思っている人も多かった。
 ただ、『昼間の雑談』は本当によくやったと思っている。
 『会議で物事を検討』した時間よりは、間違いなく『雑談の時間』の方が多かった。
 『雑談で物事を決める』のではなく『物事を決める要素』を『雑談で導き出す』ことは多かったと思う。
 部下の意見なども『会議の席』などでは出ない発想が『雑談』では飛び出すし、
 部下の本音を知るには雑談が一番いいと意識的にそう思っていた。
★そういう意味では『政治家の会食』も議事録などはない『雑談の世界』だろうから、
 確かに『田崎史郎』さんの仰ることも解らぬではないのだが、
 どうも一人10万円に近い金がかかる『高級料亭での会食』はもう一つだなとは思うが、
 政治の世界は『金が掛る』ことになっているので致し方ないのかも知れない。
 今回アメリカ大統領バイデンさんと と 菅総理の会談があるようだが、
 この会談で動く人たちが90人もいるという。
 大統領と総理の会談だからこうなるのかも知れぬが、
 一体、どれくらいの金が掛るのだろう?
 『高級料亭での会食』よりは掛ることは間違いない。
 『政治の世界』と言うのは、ちょっと普通では考えられない『別世界』なのかも知れない。
★ ただ、同じ政治の世界でも、大阪は橋下徹さん以降、
 ちょっとそのスタイルが変わったような気がする。
 間違いなく『高級料亭政治』などはないのだと思うし、
 今の吉本洋文知事もいつもテレビには背広ではなく、
 こんな事務服で現れるのは好感が持てる。
  
 中央の国会議員たちも、こんなスタンスになればいいのにと思っている。
2021年3月16日

大槻幸雄さんとのご縁いろいろ

投稿者 : rfuruya

★ 昨日、我が家に Mr.Bike BG の4月号が送られてきた。
    
 なぜ? と思ったら
 こんな大槻幸雄さんの記事が掲載されていたのである。
  
 昨年の末のことだが、『カワサキZ1ファンクラブ』のメンバーが
 大槻幸雄さんの殿堂入りのお祝いに、
 Zのシリンダーヘッドのカットモデルを贈呈するというので、
 私もご一緒した時の記事なのである。
 この記事にもあるように川崎重工が50個限定でつくった
 シリダーヘッドの中の一つをこんなカットモデルにして
 大槻さんに差し上げたという貴重なものなのである。
  
 カワサキZ1ファンクラブのメンバーでもあり、
 この時も同行され
 Mr.Bike BGの寄稿もされている向笠暁彦さんの記事なのである。
★ 私もご一緒にとお誘いがあったものだから、
  この時も大槻さんとご一緒の写真に納まっているのだが、
  カワサキの現役時代から今も尚、50年以上に亘っての大槻さんとのお付き合いなのである。
  二輪の技術のことなど、さっぱり解らない私なのだが、
  不思議なぐらい延々と大槻さんとのご縁は続いているのである。
  一番最初にお会いしたのは1965年6月の鈴鹿アマチュア6時間耐久レースの時で、
  この時大槻さんはカワサキで初めて組織されたファクトリーチームの監督をされたのである。
  当時私はレース運営のマネージメントをやっていたので、この時初めてお会いしているのだが、
  それ以来、何かとご縁があって本当に不意議なのである。
  最初のレース関係は大槻さんがドイツ留学される1965年8月までなのだが、
  その後のご縁を連記してみるとこんなことなのである。
 ● 1966年はカワサキが本格的にGPレースに参戦の年なのである。
  大槻さんは留学される前までは『GPレーサー開発』も担当されていて、
  GPライダー契約などにも携わっておられて、
  66年マン島で藤井敏雄さんがプラクテイスで転倒事故死されたのだが、
  その遺体をマン島から送りだされたのが大槻さんで、
  羽田で遺体をお迎えしたのが私という悲しい想い出もある。
 ● その1966年秋の日本GPにはカワサキが初めて出場するのだが、
   そのGPチームの監督をされたのが大槻さんで、
  チームのマネージメントをしていたのが私なのである。
 ● このレースを最後に大槻さんも私もレースチームから離れて、
  大槻さんは市販車開発に、私は東北の営業担当となるのだが、
  翌1967年早春の東北6県の代理店会議に技術説明に来て頂いたのが大槻さんで、
  宮城・秋田・岩手・青森と回って頂いたのである。
  この時大槻さんが私に話されたのは『世界一のバイクを開発する』と
  まだ何も決まっていない構想段階なのだが、
  滔々とその夢を語られたのである。
  これが間違いなく『Zのこと』で、
  そういう意味では『Z開発の夢』について最初に聞いたのは私かも知れないのである。
  Zが世に出たのはこれから5年先のことなのである。
 ●1977年、私が開発プロジェクト室ので東南アジアを担当していた頃、
  大槻さんが技術部長の時のことだが、
  CKD関連のクルマとしてGTOの開発をお願いに上がったのだが、
  最初はなかなか首を縦に振って頂けないのである。
  多分、大槻さんは小排気量車は興味が薄いのかも知れないのだが、
  諦めずに粘っていたらやっと承認が出て、
  カワサキで最大のヒット商品GTOが世に出ることになったのである。
  CKD なるがゆえに『部品出荷』で、明石工場に台数の記録がないのが残念なのである。
  
   私にとっても最初で最後の商品企画に関係した『想い出深い車種』なのである。
 ● その後大槻さんは単車からガスタービンの方に動かれたので、
  会社での直接の関係は無くなるのだが
  現役を引退して『Z1会のゴルフ』でご一緒するようになったのが2004年のことなので、
  もう15年以上になるのである。
  
 私も88歳になったのだが、
 大槻さんは既に90歳で益々お元気なのである。
 今年もコロナが収まれば『Z1会』のゴルフで、
 またご一緒出来る日が楽しみだし、
 『Z発売50周年』も来年なのである。
 2022年には『Z発売50周年』を
 『カワサキZ1ファンクラブ』の皆さんと、
 盛大にお祝いしようと思っているので、
 大槻さんも私も、何とかそれまでは元気にいたいと思っているのである。
2021年3月15日

中学・高校・大学 私の学生時代  その2

投稿者 : rfuruya

★ 前回、神戸一中時代の2年生まではよく勉強したが、
 3年生で共学になって『英語・数学は1年程逆戻りした』と書いたが、
 数学で言うと『対数』は私は3回習っている。
 中学2年生の時が初めてで、そして共学になった3年生に時、
 そして学区制で明石高校に転校して、明石高校でも習ったのだが、
 いま『対数とは?』と聞かれたらよく解らないのである。
 このlogが現れる『対数』は3回も習っているのにアタマに入っていないのである。
 
 数学も好きな学科だったのに、
 この『対数』が出てきて一度に興味を失ってしまったようにも思う。
 どうも現実に『必要がない』と思ってしまうのである。
 学科で言うとこの時代『歴史』の教科がなかった。
 多分、戦後すぐのことなので『教科書』が出来ていなかったのだと思う。
 英語は中学時代『よく勉強した』。
 興味もあったし、ひょっとしたら、中学時代の英語のレベル以上にはなっていないのかも知れない。
 特に神戸一中時代の英語のレベルが高かったのだと思う。
 勿論、This is a pen. からスタートしたのだとは思うが、
 1年生の夏休みには、こんな文章で始まる『舌切り雀の物語』を暗記させられているのである。
 出だしのこんな文章は、今でもよく覚えている。
     Once upon a time, there lived an old man and his wife .
  They treated the bird as tenderly as if it were their child.
★ 3年生の夏ごろから県一女と一緒になって『男女共学』となったのだが、
 小学校時代は戦時中のことで、3年生からは男女別のクラスだったから、
 『男女共学』などは初めてのような経験だったが、
 意外にスムースに抵抗もなかったように思った。
 最後列左から3番目である。
  
  男女共学になって『神戸高校併設中学校』ということになった。
  男女共学になって『変わったこと』というなら
  流石に『運動場での立食』がなくなった。
  それまでは神戸一中の伝統だなどと言って、
  弁当は運動場で立ち食いをしていたのである。
  それがどういう意味を持つのかは、よく解らなかったが、
  運動場で立って動きながら食っていた。
  『立ち食い』はそのまま残ったが、教室の中での立ち食いだったのである。
  多分、こんな伝統も、今の神戸高校ではなくなってしまっているのだろう。
★ 兎に角、まだ戦後の時代だったと思う。
 明石からの国電を何故か『省線電車』と呼んでいたが、
 窓ガラスは半分はガラスではなく『板張り』になってたりしたし、
 三ノ宮からのバスなども3年生の頃になってやっと走り出したが、
 殆ど乗ったことはなかったように思う。
 『修学旅行』なども未だ世の中に存在しなっかった。
 天皇陛下が泊られるホテルが神戸にない時代だから、
 学生が泊る宿などまだなかったし、
 大体、『米の飯』がなかった時代なのである。
 麦飯や、『なんば粉のパン』など食っていたのだと思う。
★ そして3年生の末期になって『高校の学区制』が翌年度から始まるとなって、
神戸市灘区から通っている生徒を除いては、それぞれの校区の高校に進学することになったのである。
 神戸一中の生徒は灘区以外が圧倒的に多かったから、
みんなそれぞれの校区に進学せざるを得なかったのだが、
生徒だけではて先生も適用されるなど『区制のモデル校』として非常に厳しかったのである。
 確かこの年度に『灘高校』は進学校への方向転換をして、
神戸一中から先生を含めて大量な人員の転校があって、一挙に『進学校』になたように思う。
灘校のWiki を見ると
当時は神戸一中(現:神戸高校)や神戸二中(現:兵庫高校)、神戸三中(現:長田高校)等に入学できなかった者が入学してきたが・・
などの記述もあるが、
この年には神戸一中からの転校が大挙してあったのである。
私自身は、校区の明石高校に転校することになり、
旧制の神戸一中を2年間、男女共学の神戸高校併設中学1年間の3年間の中学生活を終わるのである。
 ただ今振り返って思うと
 学校で勉強をしたのは国民学校と言われた今の小学校6年間と
 この神戸一中時代だけだったような気がして、
 本当に懐かしい学生としての想い出の時代なのである。

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