新入社員時代の想い出 その1
投稿者 : rfuruya
★川崎航空機工業に入社したのは昭和32年(1957)4月のことだから、
63年以上も前のことだし、私もまだ23歳の若さなのである。
昨日は1日かかって当時の日記を読み返してみた。
よく覚えていることもあるし、全く忘れてしまっていたこともある。
いまは川崎重工業の明石工場としてこんなになっているのだが、
戦時中には軍事工場ということで爆撃を受けて、
工場も骨格だけで、残っていたのは
ほんの一部の建物と、新しく建てられた工場だけだったのである。
戦後の中断があり、川崎航空機工業として再開されたのは、
昭和27年(1952)のことだから、
入社当時は再開5年目のまだ新しい会社で、
激しい爆撃の跡が随所にまだ残っていたそんな時代なのである。
明石工場はエンジン工場であった関係から、
戦後もエンジンや歯車・ミッションなどの製造が主で、
バイクエンジンは明発に供給はしていたが、
まだバイクそのものの生産は始まっていない時期なのである。
★定期採用も正規に多くとり始めたのが、昭和32年度からで、
大学卒は事務系12人・技術系19人と約30名ほどの時代で、
翌年からは60名あまりも採用しているので、まだまだスタートの時期と言ってもいいのである。
配属されたのは業務部財産課で、会社の財産管理を行うのだが、
まだ、財産物件の管理台帳すら整っていないような状況で、
工場の中には戦時中の機械が残っていたし、爆撃にあった工場の鉄骨などもあって、
財産物件を管理するというよりも、そんな中古機械や鉄骨を売ったり、
いまも明石工場は結構広いのだが、当時は今の倍ほどの22万坪もあって、
その土地の売り食いなどで会社の経営が成り立っていた
そんな時代なのである。
大学卒の初任給が12000円という時代だったが、
昭和32年という年は日本の戦後もようやく終わって
朝鮮戦争が昭和25年に始まったこともあって、
「神武景気」と言われた年なのである。
そんなことで、大学卒の採用も多くなったし、
われわれの入社同期の会の名称は「神武会」と名付けられていたのである。
★その当時の日記だが、いちおう毎日欠かさず書かれているので、
読み返してみると、なかなか面白いのである。
日記を書き出したのは、大学2回生の頃で、
ちょうどその頃、肺浸潤になってちょっと療養をした時期もあったが、
半年後からは野球も再開したし、入社当時も空洞があったりしたのだが、
当時は肺結核は非常に多い時代だったのである。
日記を書き出した理由の中に「そんなに長くは生きられない」かもと、
「短い自分の人生」を記録しておきたいということもあったのである。
入社して4年間は財産課で結構オモシロイ仕事もする傍ら、
会社の野球部にも所属していたのだが、
4年目に会社の診療所の先生が代わって「野球は止める」ように言われたのをそのまま続けていたら、ユニフォーム姿を見つかって、
検査をしたら「菌が出ている」ということで結核療養所に入院させられてしまうのである。
療養所に入って検査をしたら「菌など出ていなかった」のだが、
1年間療養所にいたら、空洞も消えてしまったのである。
そういう意味では、診療所の先生に感謝だし、
私自身はいろいろ幸運に恵まれていると思ている。
この4年間の間に、家内とも出会ったし、
オモシロイ仕事も出来たし、
退院の時期に、たまたまカワサキの二輪の新事業が始まって、
新営業部が出来て、そこに第1号社員として配属されることになったのである。
★ そんな新入社員の頃の5年間が、どんなモノだたのか?
仕事の内容や、家内との出会いの経緯など、
何回かに分けて書いてみたいと思っている。
私の青春時代の20代最後の5年間でもある。
拝読させて頂きました。当時の際どい病が、非常にその時の気持ちに内包された想いを、垣間見えた様な気がしました。時間差の投稿になるのですが、昨日、診察の帰り、貰い損ねた、薬を買いに行き、その足で煙草をまとめ買いして置こうと、高知市内迄足を延ばし、ついでに散髪をと何度かお世話に成った理髪店にふと思い、店に。そこのご主人は赤坂プリンスホテル内の理容室で修行なさり、同系列の、赤坂見附の店舗の後輩の方が石原裕次郎さんの御指名の理容師さんだったとかで、石原さんの来店に併せて来るように、帰高後独立した店主さんに、連絡が有ったが、急だった為、惜しみながらも、断りを入れた所、奥さん宛にサイン色紙が届いたと、多くの写真やcdのジャケットを鏡の周りに飾り、石原氏を偲んで、懐かしんで居られる店で、前回はジェームスディーンカットにして貰って、同じ注文でカットを頼みました。昭和10年生まれのご主人さんは、前回より耳が遠くなられて、注文が届かなかったので、困った揚げ句、裕次郎氏の一番男前に映っている白黒のポスターを指差し、裕次郎カットで御願いする事に。果たして、散髪を終えた高知の裕次郎は、件のベンツは無いけれど、同じくシルバーペイントの日産偽装鈴木モコで、颯爽と煙草屋に走ったのでした。赤坂時代は、米軍の幹部が住居代わりにしていて、顧客は主に米軍の在日幹部だったそうです。その方はjazzがお好みで在られます。今日は薬局の傍で群がる雀の群れの一斉囀りサエズリを聞きました。裕次郎さんの写真集をいつでもいいから見に来いと御誘いを受けたので、後日、老眼鏡を持って行く事にしました。都内在住時には慎太郎さんが施主の現場で働いた事は覚えていて呉れなかったけど、どっちが長くもつか、応援しあいたいと思います。