高橋鐵郎さんを忍んで
★ 高橋鐵郎 さん、『カワサキの二輪事業をスタートの時期から育て上げた方』と言っていい。
4月26日、89歳でその生涯を閉じられた。
高橋鐵郎さんを想い、手元にある写真からその功績を忍びたい。
神戸のカワサキワールドに飾られた写真である。
昭和38年(1963)5月、兵庫県青野ヶ原のモトクロスでカワサキは1位から6位までを独占勝利した。
カワサキの二輪事業の存続を日本能率協会が調査中の出来事である。
この写真の一番左がそのリーダーの中村治道さんその隣が高橋鐵郎さん当日現場で指揮を取られたのである。
この勝利が日能の『この事業やるべし』という判断に繋がった一つの出来事だったのである。
それから25年、カワサキファクトリーチームのOB会。
真ん中が兵庫メグロの西海さん、その両隣が山田煕明、高橋鐵郎元川重副社長、私の横が元川重社長田崎雅元さん、大槻幸雄さんも、ライダーでは安良岡健、山本隆、金谷秀夫、星野一義、も清原明彦さんもいる。
カワサキの創成期のレースチームに関係したメンバーたちである。
当時高橋さんは、どちらかと言うと『営業不信』だったのだが、それが一変して『マーケッテング重視』に変わるのは、昭和43年(1968)当時のカワサキオートバイ販売に2年間ほど出向されてからである。
末端のオートバイ販売店やユーザーと直接接して、その後はマーケット大好きの技術屋さんに変身され、それがカワサキのイメージ創造に大きく貢献したと言っていい。
当時の珍しい写真を平井稔男さんが持っていた。左は田中誠社長、その隣が高橋鐵郎さんである。
今の大阪のショールームの土地は高橋鐵郎・岩崎茂樹コンビで見つけて購入され、新装なった営業所には私が大阪所長として仙台から異動した。
昭和45年(1970)大阪万博の年である。
★その後、高橋さんは、技術本部長として川重に復帰されるのだが、私も昭和50年には川重企画に復帰し、その翌年小型車市場進出のために『市場開発プロジェクト』を立ち上げ市場開発室が出来たのだが、その長を高橋さんは技術本部長兼務で引き受けて下さって、それ以降長く直接の上司ー部下の関係が続くのである。
今は、先進国よりは開発途上国が主体の事業展開となっているが、当時のタイ・イラン・インドネシア市場への進出の旗は高橋さんが降られたのである。
その後、そのまま開発途上国だけでなく全市場担当の『営業本部』となりその営業本部長となられたのである。そこには私や田崎さんや岩崎さんなどのかってのレース仲間も顔を揃えていた。
昭和54年(1979)ハーレーのダンピング訴訟がありその対応としての国内対策が大問題となり、私は営業本部の課長籍のまま、カワ販の常務も兼務するのだが、高橋鐵郎さんにはその副社長として援けて頂いたのである。
FX400のころで大赤字だったカワ販が一挙に優良販社に様変わりした時期である。
ところが、アメリカ市場で突如日本から飛び火したHY戦争の影響を受けて、アメリカの販売会社KMCは大変なことになり、高橋会長・田崎社長のコンビで昭和56年(1981)にアメリカに出向されるのだが、赤字が続いて川重は無配に転落した時期、これら海外販社の赤字対策のために私は当時の川重の山田副社長に企画に戻るように指示されるのである。
その時、私が企画部長を引き受ける条件として、企画室長に高橋さんをアメリカから戻って頂くことをお願いしたのである。部長に成りたての私には旗を振るには荷が重すぎると思ったからである。
さらにその半年後二輪事業再建に大庭本部長(後川重社長)が来られて高橋さんは副本部長に昇格され、そんな体制の下で単車再建がなされたのである。
★この時期、昭和58年(1983)から私が現役を退任するまでの16年間、私の直接の上司が高橋鐵郎さんの時代が続くのである。
高橋さんは、大庭本部長の後、二輪事業本部長として二輪事業の安定拡大に務められるのだが、1988年10月、私は突如高橋さんに国内カワ販の専務を指示され、国内市場7万台の目標を与えられるのである。
そんな途方もない目標実現の第一歩として10月15日に創世期のレースメンバーたちのOB会を開催し、国内レースの復活など『カワサキイメージ戦略』など積極策の推進を誓ったのである。
それから3年後の1991年に国内7万台の目標も達成し、当時の事業本部の経営の柱として国内市場が活動したそんな時期であった。
★当時のカワ販高橋鐵郎社長の KAZEの機関誌に掲載されたインタビュー記事である。
大企業のトップで、技術屋さんでありながら、マーケットマインド溢れるこのような高次元のインタビューの語り口は『我が上司、高橋鐵郎ならでの面目躍如』たるものである。
若し、現役諸君でこのブログお読みになる方がおられたら、是非この記事は熟読してほしい。
これが『カワサキの二輪事業展開の企業理念』なのである。
当時の『カワサキのイメージ戦略の発想のベース』がここにある。
ZEPHYR の時期、カワ販高橋鐵郎社長さんである。
長い高橋鐵郎さんとのお付き合いだったが、不思議なことにツーショットの写真はこの1枚だけである。
Kawasaki Let the good times roll!
というカワサキの基本コンセプトを復活して全世界に展開されたのも高橋さんなのである。
★ 現役引退をしていまも尚、私は『NPO The Good Times 』というNPO法人をベースに活動している。
これを立ち上げたのはいまから7年前だが高橋鐵郎さんには、『相談役』をお願いをし、昔のプロ野球の監督NO.である30番の会員カードを差し上げたのである。
そしてかってのカワサキのレース仲間たちの名前が続いている。
NO.36番の衛藤誠さんは、『二輪車新聞』の記者さん、もう私とは50年以上のお付き合いでカワサキの二輪事業のことはひょっとしたら今でも現役の衛藤さんが一番詳しいかも知れないのである。
そんな仲間たちの親分的な存在が高橋鐵郎さんだった。
川崎重工業の副社長を、引退後はそのOB会『相信会』の会長も長く務められ、われわれが企画するいイベントなどにも気安く出席して頂いたのである。
これは何年か前、有馬 泉郷荘でキヨさんが幹事で開催された、第2回目のカワサキファクトリーOB会。
こちらは、カワ販の OB会『慶睦会』でかっての大阪の仲間、宮本、竹内くんと。
2011年3月、あの東日本大震災のあった年、平井稔男さんが主宰した『カワサキの想い出、そして未来』
その時、100名を超えるレース仲間たちが集まった。
一番右が H2Ninja の開発責任者山田浩平くん、この時は現役の技術本部長だったが・・何故か、川重のメンバーの中に山本隆くんが入っている。
高橋鐵郎さんと田崎雅元さん、女性は単車時代その秘書を務められた長尾さん。
その『カワサキの想い出、そして未来』の催しの『幕開けのご挨拶』を高橋鐵郎さんにお願いをした。
そこまでの司会は、私がさせて頂いたのである。
さんとの長いコンビの最後の1日になってしまった。
高橋鐵郎さんがおられたから、私のわがままが通ったし、いろんなことが出来たのである。
心からご冥福をお祈りしたい。 高橋さん、さようなら。
ありがとうございました。