2018 12月

2018年12月17日

10年ぶりの 旧友たちの再会

投稿者 : rfuruya

 ★東京の村島邦彦さんから「12月15日芦屋駅の改札口でお待ちします。竹内も参ります」というメールを頂いていて、昨日はその5時少し前に、JR芦屋駅まで出向いたのである。

村島邦彦さんとは、現役時代からもう30年以上のお付き合いなのである。

ジェットスキーからの出会いだったと思うが、確か二輪車新聞の衛藤誠さんの大学の後輩だとかで、ご紹介を頂いたのがそのスタートなのである。

今は『インターナショナルトレーデイングムラシマ』の経営をなさっているが、かってのカワサキの『機能別ARK政策』の唯一の生き残りだと言えるかもしれない『私の理解者』なのである。

そんなことで関東地区のNPO The Good Times の統括責任者をお願いしているし、『二輪文化を伝える会 https://2rin-tsutaeru.net/  の総括者としてもいろいろお世話になったりしているのである。

この二輪文化を伝える会も、ほぼ6年になろうとしているが、ご覧になればお解り頂けると思うが、今では日本の二輪文化では、一番豊富な写真やデーターが蓄積されていて、どなたでも簡単にご覧になれるという点では、メーカーさんでもなかなかこのレベルには追随できていないと思われるのである。

ホントか?と思われる方はリンクをクリックされると一目瞭然なのである。

 

そんな仲なので、それ以上詳しいことはお聞きせずに、ただ5時に芦屋駅の改札まで行くと、ばったりと神戸市の藤田修司さんにお会いして、『なぜここに?』とお聞きしたら『村島さんに誘われて・・』ということでこんな4人の会合となったのである。

 

 

★一瞬、『なぜ?村島さんと藤田さんが繋がってるのか?』と思ったりしたのだが、

2008年5月31日と6月1日の2日間、当時藤田さんが担当されていた神戸フルーツフラワーパークで、ミニSLのイベントがあったのだが、その時園内のプールで村島・竹内組が 船の模型の走行会を同時開催などしたご縁なのである。

 

 

その後も、藤田修司さんとは村島さんは東京で、竹内さんはタイで、私は藤田さんがハーレーに乗っておられるバイクユーザーなので、三木にも遊びに来られたり、樋渡啓祐さんが神戸に来られた時などご一緒したりはしたのだが、4人が揃ってお会いしたのは2008年以来、まさに10年ぶりだったのである

 

★ところで、村島さんは今回、神戸にどんな用件でお越しになったのか?

とお聞きしたら、神戸海洋博物館に お持ちになっていた船を寄贈するために来られたのだとか。

その寄贈先が神戸海洋博物館だというので、どんな船かと思って写真を見せて頂いたら、こんなに立派な船で、流石なのである。

 

 

 

今度、カワサキワールドに行ったら、是非実物を見てみたいものである。

ところで、神戸海洋博物館は、いまではカワサキワールドと一緒に運営されているのだが、そのカワサキワールドを創られたのは、当時の川重社長の田崎雅元さんなのである。

ホントにいろいろ繋がるもので、もう10年も続いている『ミニSLのイベント開催をメリケンパークでやりたい』と福井昇くんと一緒に当時川重会長をされていた田崎さんを訪ねたら、翌日に神戸副市長に繋いで頂いたのだが、副市長さんから『メリケン・パークでやる前に一度、神戸フルーツフラワーパークで開催して頂けないか』と頼まれての2008年6月開催だったのである。

これが今はメリケンパークで、10年も続いての恒例イベントになっている第1回目のスタートで、テレビ放映などもあって大変な賑わいだったのである。

そして、そこで藤田修司さんにお会いして、10年経った今もこうして親しくお付き合いができているのである。

 

★私自身は、何故かいろんな方たちと自然に仲良く繋がってしまうのだが、昨日の4人の中で一番解っていないのはカワ販におられたという竹内雄三さんなのである

昨日いろいろお聞きしてると当時のカワ販の南昌吾さんなどの話も出るので、ホントに身近におられたのに、現役時代は全く記憶がないのは不思議なことである。

竹内さんは、村島さんとは船の模型繋がりのようなのだが、神戸海洋博物館に寄贈されるような本格的な船の模型をお持ちのレベルなので、私などから見たらプロのレベルかなと思うのである。

昨日、ご馳走になった芦屋の近くの小料理屋さん「すず喜」は、竹内さんのご紹介のお店だったのだが、

 

 

 

 

 

 

 

なかなか立派な料理が、次から次に出て、こんな楽しい時間を過ごしたのである。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm34327123

 

動画の中には、もっといろいろ写っていて、すっかりご馳走になって戻ってきたのである。

もうクリスマスも近いが、今年のクリスマス・プレゼントのような楽しい3時間だったのである。

 

2018年12月11日

ゴルフ 雑感

投稿者 : rfuruya

★ 私がゴルフを始めたのは43歳の頃だったから、そんなに早くはなかったのだが、やりかけてからは結構熱中したものだから、その進歩も早くて確か4年目ぐらいには播磨カントリーのハンデイ10にはなったのである。

 私自身はどうもハンデイのシングルなどはあまり興味がなくて、それ以降は月例などの出場も止めてしまったのでオフィシャルはシングルにはならなかったが、70台で回ることもそんなに珍しくなかったので、そこそこの実力であったのは間違いない。

家にはいっぱい優勝カップが残っている。

そんな中でも、この企画と営業のメンバーのコンペ『企営会の優勝カップ』は当時の企画室長堀川運平さんが贈呈された純銀製で、そのコンペは15回まで続いたのだが、毎回優勝者が変わって、その第7回に優勝した私が最終戦の取り切り戦でも再び優勝したので今は我が家にそのカップはあるのである。

数あるカップでもひときわ立派な唯一の純銀製のカップである。

 

 

第1回の優勝者が田崎雅元さんで、当時の懐かしい錚々たるお名前が14名並んでいるという値打ちのカップなのである。

 

★そんな私のゴルフ歴で、現役最後の2年間が札幌だったので、その当時は年に40回近くやっていたのだが、昨今は年4・5回になってしまっているのである。

ドライバーなど、そんなに飛距離が落ちたとも思わないのだが、寄せとパターがめちゃめちゃで100を超えたりすることもあるような状態なのである。

来年は、86歳になるので、もう少しちゃんとやって何とか『エイジシュート』でも狙いたいと気分なのだが、殆ど練習もしないぶっつけ本番ではダメなのは当たり前かも知れない。

然し『グロス86』などそんなにいいスコアでもないという意識だけは未だに残っていて、ちょっと練習でもすれば可能性はあると思っているのだが、そのために練習に行く時間は『勿体ないな』と思ってしまうのである。

家で、素振りぐらいで何とかならないかと勝手なことを思っているのである。

 

★昨日、ネットを見ていたら、こんなのに出会ったのである。

 

 

筋力は低下などしていないと思っているので、中を見てみると、

こんな記事に出会ったのである。

 

 

この腕の使い方は、自然に『肩が入っていいな』と直感でそう思った。腕をひねるだけで左肩が自然に入るはずである。

もう一つ『左腕をたたまずに伸ばす』とある。 これはどうもわかりにくいが、家で素振りでもしてみるかと思いだしているのである。

若い頃、野球をしてたので、スイングについての理屈は『何となく解る』のである。

 

いずれにしても、次回のゴルフは来年の4月だから、それまでの冬の間に庭で『素振り』でもしてみるか、などと思っている。

果たして、どんなことになるのだろうか?

 

カワサキジェットスキー物語 6

投稿者 : rfuruya
★ひょんなことで始めた『カワサキジェットスキー物語』だが、何となく続きそうな雰囲気になってきた。

今まで何度も繰り返し書いてきたように、ジェットスキーはカワサキにとって最初から正規の製品としてスタートしたわけではなくて、アメリカ市場向けの独特の生まれ方をしているので、当時のことを解っている人は、カワサキの中にも限られていて、特に最初は全く無関係であった『単車事業本部』には、正規の資料も残っていなくて、数人の思惑で動き出したプロジェクトなのである。

おまけに、当時は世界初の商品で、商品名として『ジェットスキー』はあったのだが、一般名がなかったので国会で『エンジン付き海洋浮遊物』と称されたりした『嘘のようなホントの話』も存在するのである。

さらに言えば、カワサキのなかにジェットスキーの遊びのプロなど存在しなかったので、社外の方たちの協力で『ジェットスキーは育っていった』のは事実だし、特に『レースの世界』では、アメリカではJJSBA、日本では当時の西武自動車関連の人たちや、ジェットスキーで遊んでた人たち、そんな人たちが、ジェットスキーを育てていったと言って過言ではないのである。

この話に火をつけた元川崎重工社長の田崎雅元さんは、当時の数少ないカワサキとしてはジェットスキーに乗れたライダーとして、私に『いろんなデーター』を供給頂いたのだが、このほかに、『福井昇くん』が当時のことを時系列に纏めてくれたりしたので、『何とか大丈夫かな?』と思ってスタートしたのである。

 

★そんなところに、これはまた強力な助っ人が現れて、当時の写真など、いろいろ送って頂いているので、今回はその方『松口久美子さん』について、送って頂いた写真の一部などを使ってご紹介したいと思っている。

 

 

彼女はジェットスキーの全日本チャンピオンである。

私は、レースの世界にはいろいろと関係があって、二輪・四輪などチャンピオンはいっぱい知ってるが、彼女の実力は飛び抜けていたのである。

ジェットスキーに乗り出したきっかけは? という私の質問に、このように答えてくれている。

井村 雅代コーチのもとオリンピック種目採用を目指しシンクロナイズドスイミングの練習に励んでいましたが、高校1年夏頃、練習に耐え切れず辞めてしまいました。
その頃、姉と一緒にジェットスキーに乗る機会があり楽しいし、試合もある。「日本人がワールドカップに出場したらしいという情報を聞きつけ、シンクロ時代を思い出し「やはり何でもいいから世界に通用する人間になりたい。世界の舞台に出てみたい」と考えジェットスキーなら可能性があるなと思い乗り始めました

 

私に送ってくれた彼女の実績である。

アメリカでも、ご活躍だったようだが、国内のレースで、松口さんが優勝しなかったレースなど、私は見たことがなかったのである。

 

★当時の国内の販売網や、JJSBAの協会設立などには、カワサキだけでなく、むしろ西武自動車やいろんな方々の協力があって初めて、ジェットスキーがこの世の中で『カワサキの事業』として成立していったのだと思っている。

この写真は平成元年(1989)というので、少し軌道に乗り出したころだが、当時のジェットスキーに関わったカワサキのメンバー(後列)と 当時のJJSBA初代会長をされていた苧野豊秋さんを囲んでJJSBAの関係者とそのライダーたちなのである。

カワサキ側のメンバーは左から。天野・武本・安藤・古谷・鶴谷一番右がどなたかな? 懐かしいメンバーたちである。

と書いてたら、高原篤さんが『黒田さんではないですか?』とFacebookのコメントで、確かに黒田さんである。

 

 

男性は年間ランキング4位までの優秀選手を招待して表彰し日頃の協力に感謝した会だったようである。

左からジェットスキー協会レース運営代表の上田さん・伊藤選手・小河選手・苧野さん・松口久美子さん・前田選手・斎藤選手・レース運営レースディレクターの日高さん

 特にJJSBAの立ち上がり時点では、西武自動車時代からの上田さんと日高さんには本当にお世話になったのである。

 

★こちらは1年後、JJSBA会長は2代目の石井さんになっている。

 

 

平成2年2月21日KHI懇親会左からレース運営レースディレクターの日高さん・飛野選手・松口選手(弟)・金森選手・石井さん・天満選手・松口・伴選手レース運営代表の上田さん  との説明付きである。

 

前年度の写真に金森稔君なぜいないのかな? と思ったりしたのだが、この時には居る。 世界チャンピオン金森稔くんも若いな。

 

世界チャンピオン金森稔くんについても、思い出いっぱいなのである。

彼を大阪の月木レーシングから、カワサキに引っ張ってきたのは、平井稔男さんである。二輪のライダーからジェットスキーに転身して一躍、実力を発揮し世界の頂点に登ったのである。

今はアメリカのKMCにいる。

これは数年前アメリカの月木さんの娘婿さんがやってたお鮨屋さんでの私と金森君である。

 

 

この時代、もう一人忘れてはいけない人がいる。

大南勝也さん、今もPWCの業界に関わっているとは思うが、カワサキも大いにお世話になったのである。

 

これは、松口久美子さんがアメリカにデビューしたころ、繋いでくれたのが大南勝也さんだったようである。

こんなKMCでの写真も、松口さんが送ってくれたのである。

 

 

大南勝也さんと私のツーショット、こんな写真もある。

小島松久・吉村太一さんのマウンテンライダース50周年記念パーテイー』に招かれた時に偶然お会いしたのである。

私の80歳の誕生日 なぜ覚えているのか?

 

誰かが『私の80歳の誕生日』と言ってくれたようで、太一ちゃんが気を遣ってくれたのである。

小島松久さんから、壇上でこんな花束を頂いたのである。

   

 

★特に、ジェットスキーには関係はないのだが、いろんな人たちと繋がって、そんな人たちのお蔭で『今のカワサキがある』ことを忘れてはいけないと思うのである。

ジェットスキーは、いまどんあ状況なのか、詳しいことは解っていないのだが、こんな物語をアップできるのも、昔の仲間たちがいろいろと応援してくれるので、何とか昔を思い出すことができているのである。

カワサキのジェットスキーの創生期の中心になった人は、何と言っても苧野豊秋さんと鶴谷将俊さんである。

松口久美子さんが当時の貴重な写真を送って頂いたので、いろんなことが思い出せたのである。

 

★ 突然、こんな写真だが、Facebook の私の記事に、突然『いいね』を下さった。

トモダチ申請したら、すぐ繋がったのである。

ひょっとしたら、ジェットスキー界で有名人かも知れない?

Brenda Burns Chambers さん、 松口久美子さんとも確か、繋がっていたのである。

こちらも大変な有名人である。これも松口さんから教えて頂いたので、また次回にでも・・・

 

Brenda Burns Chambers さん

  

 

  次回は、松口さんが写真を送って下さったので、

  88年のソウルオリンピック開会式に参加した時のお話などをと思っている。

2018年12月6日

カワサキジェットスキー物語 4

投稿者 : rfuruya
  

★それまで年間5~6000台の販売で推移していたジェットスキーが一挙に20000台を超す実績を上げることになった1983年頃カワサキの二輪事業は、その長い歴史の中でも最大の危機と言っていい大変な時代だったのである。

それまでカワサキの二輪事業を支えてきたアメリカ市場のKMCの経営は、ハーレーダンピング訴訟や、アメリカ市場まで飛び火したホンダ・ヤマハのHY戦争の影響を受けての大打撃に加えて、リンカーン工場で生産していたスノーモービルが暦年の暖冬で在庫過多に陥り、それらの原因が重なってKMCは100億円を超す赤字が続き、それが川崎重工業の連結決算にも影響して無配に陥るなど大変な時期だったのである。

83年7月には当時川重で再建屋と称されていた大庭浩本部長が赴任されて髙橋鐵郎副本部長とのコンビで指揮を取られ、問題のKMCは田﨑雅元さんが、明石側の企画部門にはなど若手部長が担当して、再建を図っていた時期なのである。

 

そんな大変な時期に、ジェットスキーの新製品JS550が登場し、田崎さんがリンカーンの工場生産台数を一気に20000台ベースにまで引き上げ、それが市場で完売するという劇的な変化が、KMCの経営改善も、リンカーン工場の工数改善にも大いに寄与したのである。

Ninja900もアメリカ市場に登場して、これもまた世界的に好評だったので、これはKMCだけでなく、世界の販社も明石の単車事業本部の経営改善にも大いに寄与したのである。

 

この Ninja のネーミングはアメリカサイドからの提案のネーミングだったのだが、当時の明石の事業部サイドの技術部は、忍者というイメージは黒装束で暗いと大反対で、KMCに出張されて『ダメだという大庭本部長』を田﨑さんが『アメリカでは、Ninjaは ゼロゼロセブンのようなカッコいいイメージです』と説得して、初年度は『アメリカ仕様のみ』でそのネーミングNinjaは使われたのである。ヨーロッパ仕様は、Ninja のネーミングは使用されずに、そのネーミングは、GPZ900R だったのである。

Ninja のネーミングの『産みの親は田崎さん』だと言ってもいいのかも知れない。

大庭さんを説得したその場面に私も同席していたので、そんな経緯を知っているのである。

大庭さんは川重の中では『怖いイメージ』で、大庭さんにNOという人は少なかったようだが、当時の単車は田崎さんや私など、結構ズケズケとNOと言ったのだが、大庭さんはかえってそんな単車の雰囲気を楽しんでおられたようで、7月に来られて9月には『単車は思ったより確りしている』と経営会議で仰ったりして、大庭本部長の信頼を数か月で得たのである。

 

★この年、アメリカ市場での急激なジェットスキーの販売増加はあったのだが、この『ジェットスキー』はKMCの製品ではあるのだが、当時の明石の単車事業本部では開発も生産も一切無関係なので、事業本部の経営には一切影響がなく、単にお隣の発動機事業本部がリンカーン工場にエンジンとして出荷しているだけのものだったのである。

そういう状況なので、明石の単車事業本部には、ジェットスキーに関係する人は1人もいない状況だったのだが、何とか『川崎重工業の正規の製品』にしようと動き出したのが、当時の企画室の私の下にいた武本一郎さんなのである。

彼がその決意をしたのは、アメリカ市場でジェットスキーが突如大量に売れ出した84年の夏ごろだったと思うのだが、彼の熱意に動かされて、私も私なりに動き出すのである

当時、日本国内では西武自動車が逆輸入していたジェットスキーを、当時のカワ販の孫会社のKATが細々と売っていてレースなどの動きが出始めたころなのである。私はこの企画室担当の前は、カワ販常務として国内市場を統括していたので、KATのこともよく解っていて、KATの社長も兼務されていた苧野豊秋さんと国内のレース協会を立ち上げるべく、84年11月にKMCに田崎社長を訪ねているのである。その時アメリカのIJSBAに繋いでくれて、IJSBAの承認を得て、翌年国内にもジェットスキーのレース協会JJSBAがスタートするのである。

これはその時のKMCでの写真だが、苧野さんを囲んで、当時の単車事業再建に関わった明石のメンバーもいる懐かしい顔ぶれである。

 

こんな写真もあるが、いずれも田崎さんに送ってもらったものである。

 

★ 川崎重工業としてのジェットスキー事業のスタートは、国内のジェットスキーレース環境の整備から始まったと言ってもいい。

カワサキの二輪事業のスタート時代も『レース運営委員会』から始まっていて、その委員会の営業サイドの長をされてたのが苧野豊秋さんで、その事務局が私、そしてレース職場の担当が若き日の田崎雅元さんだったのである。

二輪も、ジェットスキーも遊びの道具なのだから、『その事業の核のひとつはレース』だと私は信じて疑わなかったのである。

カワサキのジェットスキー事業』の本格的にスタートするためには、まず国内のレース協会、JJSBAの確立が『その第一歩』だと思ったし、この出張で日本のJJSBAが公認され、初代苧野JJSBA会長が実現するのである。

 

★同じ時期に、明石の開発・生産サイドの対策は、武本一郎さんが同期の技術部の百合草三佐雄さんなどと組んで、単車事業本部の開発製品として、ジェットスキーの開発を目論んだのだと思うが、静かに潜航した対策で、表面には何の資料も出ていないのだが、85年2月の単車事業本部の開発計画書には、単車の開発車種と並んで、9番目にこんなJS300 と X-2 という二人乗りのジェットスキーの計画が記載されているのである。

この84年当時と言えば、未だジェットスキーは単車事業本部の製品としては承認されていない時代なので、正規の開発予算などもなかった時代なのだが、この予算については、企画の武本さんが確か生産関連の予算から、捻出したのではなかったかと、これは私の推測なのである。 現実に85年2月には、こんな計画が開発計画書に載ったのである。

 

これが単車事業本部正規の書類の中に、最初に登場した『ジェットスキーの名称』なのである。

この開発会議は、大庭本部長主宰のものだから、85年2月に『川崎重工業のジェットスキー事業』は、正式にスタートを切ったとも言えるのである。

この計画書には『単車で開発・生産する』と明確に書かれているのである。

 

★こんな経緯を経て、ジェットスキーはようやく単車事業部の正規の製品として開発が進められることになるのだが、技術部の開発担当以外には担当者もいないし、この時点ではジェットスキーに乗れる人すらいないのである。

企画室の私と武本一郎さんだけが解っているだけのそんな状況から、この年の8月にはオーストラリアから鶴谷将俊さんが帰国して、企画室でジェットスキーを担当してくれることになるのである。

そこからが、ジェットスキー事業の本格的な動きが始まるのである

 

 

 

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