明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
昨年は、NPO法人の事務所の移転・所轄庁の変更のほか、事務的なことを優先したため、「The Good Times 良い時を過ごす」ためのことがあまりできなかったのですが、今年は昭和100年にあたることもあり、古谷さんをはじめ諸先輩方の足跡や体験談などをお聞きしつつ、異種・異質・異地域の人をつないで、Good Times を共有できればと思います。
本年もどうぞよろしくお願いします。
(まつしま)
明けましておめでとうございます。
昨年は、NPO法人の事務所の移転・所轄庁の変更のほか、事務的なことを優先したため、「The Good Times 良い時を過ごす」ためのことがあまりできなかったのですが、今年は昭和100年にあたることもあり、古谷さんをはじめ諸先輩方の足跡や体験談などをお聞きしつつ、異種・異質・異地域の人をつないで、Good Times を共有できればと思います。
本年もどうぞよろしくお願いします。
(まつしま)
ブログやSNSを使って発信したいことは山ほどあるのですが、どうにもうまくまとめることができないのが悩みのタネ。
そこで、最近その進歩と精度の向上が目覚ましい人工知能(AI : Artificial Intelligence)を活用してみることにしてみました。
「ChatGPT」は、会話型で文章を書き出す生成AIの代表格ですが、ChatGPTでどんなことができるのかをざっと説明しようとするのは案外難しい。
そんな時にこそ生成AIを使うのが今風ですね。
ChatGPTについてを、ChatGPTに聞いてみました。
ということです。
ちょっと前までは、キーワードを使って検索して、たくさんの検索結果から端的にまとめられたページをいくつか見つけ出し、それをさらにまとめて要約して…。
これでも20世紀に比べたら格段に調べ物が楽になったのですが、生成AIの進化はそれをさらに加速させた感じです。
大幅に「タイパ」が向上しますね。
「タイパ」をうまく説明できない時は、ChatGPTを使ってみてください。
当然のことながらGoogleも生成AIサービスには取り組んでいています。Googleの「Gemini」は、文章だけでなく、画像や音声も生成してくれます(まだまだ開発途中な感じですが)。
画像の生成AIは他にもいろいろとありますが、ひとまずこのGeminiで「人工知能と生成AIとチャットAIを表現した画像」で生成してみると・・・
こんな画像が生成されました。
せっかくなので、The Good Times のコンセプトから「良い時を過ごしていると感じさせてくれる写真」と入力してみるとこんな画像が。
「二輪文化を伝える会」のように、「文化」といった非常に曖昧で広範囲な意味を持つ言葉については、自分自身の理解も、他人への説明も難しいのですが、これらのAIを使うことで、うまく表現させることができそうです。
そのことについてはまた。
★ 先日来「ばね指」だと言われていたのだが、
ストレッチをするようにと言われて、毎日延ばしたりしていたのだが、
もう一つよく解らなくて、近くの整形外科の先生に聞きに行ってきた。
親指がばね指になっていて、曲げると「かくかく」するのである。
その周辺のストレッチをやっていたのだが、
先生に聞くと親指を曲げて「かくかく」言わすのはダメなのだそうである。
こんなテープと塗り薬を貰ってきて、
このテープを巻いて親指が曲がらないようにして、
その周りに「塗り薬」を日に3回ぐらい塗って、
そして周辺のストレッチをやればいいよ言う。
そして、病院で10分ほどの電気治療をして戻ってきた。
親指を曲げて「かくかく」言わないように成れば完治だと言うのだが、
果たして「治る」だろうか?
先生は、「電気治療を並行してやると早く治るので、毎日いらっしゃい」と仰る。
そんなことで、毎日通ってみることにする。
治ればいいのだが・・・
2024-09-24 16:09:29 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
★今朝の水温は18℃だった。
昨日まで卵を産み続けてきたのだが、今朝は卵を抱いていなかった。
9月24日、今年も「メダカの季節の終焉」である。
例年は9月になると卵を産まなくなるのだが、今年は猛暑で昨日まで産み続けた。
そなことで鉢の水を替え、ちょっとだけ残っていた今年のメダカも鉢に入れた。
小さなメダカがいるのがお解りだろうか?
何とか食べられずに生き延びることを願う。
今まで生まれたメダカは数えきれないぐらいだが、
小さな池だが、池に入れた。
お解り難いと思うが、沢山のメダカが泳いでいる。
池には鯉も金魚もドジョウもいる。
毎朝餌をやって眺めているのが楽しみである。
今年お世話になっ入れ物も片付けた。
来年の春には、多分また始めだろう。
★ 学生時代から肺浸潤になり入社当時も空洞があったりしたのだが、
全然休むこともなく野球などもやめなかった。
入社してからも3年間休まずに勤めていたのだが、
昭和35年(1960)に診療所の先生が代わって、当時も空洞があったので「野球は止めるように」と言われていた。
夏頃だったと思うが、ユニホーム姿を先生に見つかってしまい。
その直後の血液検査で「菌が出てる」ので「入院しなさい」と仰るのである。
菌が出てたのでは仕方がないなと、この年の10月25日から
当時三田・大原にあった川重の「大原療養所」に入院したのである。
いまは無くなってしまったが、この辺りは国立の病院もあり、一大結核療養病院だった。
当時はそれくらい「結核になる方」は多かったのである。
入院してから療養所でも「菌の検査」は有ったのだが、
菌など出ていなかったのである。
「菌が出ています」は私を入院させる方便だったようだが、
今になって思うと「天の声」だったような気がする。
★ この約1年の入院は私の人生で大きな転機になった。
1年で空洞も消えてしまったのである。
当時家内と付き合っていた最中だったが、
家内はよく見舞に三田まで来てくれたし、
週に1度ほどの頻度で手紙もくれたのである。
ここに入院するまではそんな病気のこともあって、
家内とは付き合ってはいたのだが、「結婚する」と言う決断は下しきれなかったのである。
1年間の療養生活で完全に全治したこともあり、
退院後1年で結婚することになるのである。
この写真が手紙の中に入っていた。
当時はカメラは持っていなかったので、3年も付き合ったのだが、
当時の写真は手紙の中にあったこの2枚の写真だけである。
★ そして退院してから配属されたのが、
新しくスタートした単車事業の単車営業課なのである。
これが私の「二輪との出会い」になったし、
退職する1998年までの約40年間一貫して「二輪事業」を担当したのである。
いまもFacebookなどで、二輪の愛好者とは親しく関係もあるので、
「二輪車」は持っていないし乗りもしないのだが、
「二輪車」は私の一生のトモダチとなったのである。
そう言う意味でも私の人生にとって、
この1年間の療養生活は、その後の人生の核となった1年間なのでる。
こんな日記を書きだしたきっかけの一つも「長くは生きられない」と思っていたからなのに、
以来、結構元気に生き続けて今91歳なのある。
「菌が出ています」が私の人生を決定づけた一言だったと思っている。
★ 川崎航空機に入社したのは昭和32年(1957)だが、会社は戦後の中断の後再開したばかりの頃で、バイクもエンジンだけで完成車はまだ造っていなかった時代である。
いま、その頃の日記を読み返している。
私は業務部財産課に配属されたのだが、財産物件の償却計算と言う業務が毎期行われていた。
こんなタイガー計算機を使って、財産物件の償却計算をするのだが、件数が多いので大変なのである。
2年間はそんな計算業務をやっていたのだが、昭和34年(1959)9月に当時の会計機などを使っての事務機械化に取り組んだのだが、
どうももう一つで画期的なことにはならないのである。
★当時JETエンジン部門のアメリカ空軍が持っていたIBMが使えないかとその研究を始めたのが、翌月の10月のことである。
当時日本にはIBMなどはなかった時代なのだが、アメリカ空軍のJetエンジンのオーバーホールをやっていてアメリカ空軍が常駐していたので、明石工場にはIBM室があったのである。
日本のIBMの歴史を調べてみるとこんな図表が出てきた。
日本に初のIBMの設置が1958年とあり
私がIBMと出会たのはその翌年のことだから、日本の一般社会にはIBMなど存在しなかった時代のことなのである。
日本初のオンラインシステムは1965年三井銀行とあるから、
この話はその5年も前のことなのである。
そういう意味では「日本初」と言えるのだろう。
ずっと後のことだが、IBMの研修に出席して「1960年にIBMでの減価償却計算をやった」と言ったら。
「10年間違っていませんか?日本でIBMがスタートしたのはオリンピック以降です」と言われたのを想い出す。
これは単なる計算機などとは違ってIBMの大型器械を使っての計算なので、
その効果は抜群なのだが、IBMに載せるためには物件名の統一に始まって、そのコード化など非常にムツカシイ作業が要るのだが、
それをやろうということで取り組み始めたのである。
やる限りは明石工場だけでなく、本社も岐阜工場も巻き込んでの「全社統一方式」にしようと、新人社員ながら本社と岐阜工場を巻き込んでの「一大プロジェクト」にしたのである。
ホントによくやったなと思う。
翌年3月22日に岐阜工場に出張してるのだが、岐阜の係長さんが、「古谷さん、よく研究してるなと」2度も仰ったと日記に書いている。
このIBM化は川崎航空機の民需部門では初めてのことだったし今思うとよくやったなと思う。そのシステムの完成までにはちょうど1年掛るのだが、見事完成することが出来たのである。
★ これが財産物件のIBM用カードで、償却計算に必要な項目が網羅されている。
ちょっと詳細に触れると1枚のカードの桁数約100桁の中に必要項目を網羅しなければならないので、その「コード化」は大変な仕事なのである。
そしてこれがIBM室への連絡票である。
こんなカードが日記に挟まれていたので、こんな話をアップする気になったのである。
★ この結果、業務部財産課はどうなったか?
いままで償却計算のためにいたと言ってもいい女子社員を含め10名ほどの課員だったのだが、償却計算の時間が無くなって人員が余ってしまい、半減することになったのである。
その減員の中の一人が私自身で、私は新しく出来た単車営業課に
昭和36年12月に異動し、新しく始まった二輪事業の担当になったのである。
この「償却計算のIBM化」は当時の社内でも結構な話題になり、
その後の「給与計算」「会計処理」などのIBM化が進むのだが、新人ながらその教師役を務めたりしたのである。
財産課も人員が半減したが、給与計算などは大勢いた女子社員がいなくなってしまったのである。
いま改めて思うと、新人ながらこれは結構な大仕事だったなと思うのである。
★ 薔薇の夏剪定は8月中にやっていたのだが、
今年はこの猛暑だったのでごく最近9月の中旬になってしまった。
こんな状況だった
このように切ってしまう。
秋には新しい芽が出て、そこから花が咲くのである。
こんなん感じで、結構思い切って切ってしまうのである。
いまからどんな芽が出て、どんな枝になっていくかが楽しみなのである。
ちょっと前までは切った枝の整理やごみ拾いなど直ぐやっていたのだが、
9月になってもこんな猛暑では外に出る気がしないのである。
この暑さ、いつまで続くのだろう?
★ このところ夕方は大相撲のテレビを観ている。
有り余る時間があるので大相撲の放送は時間つぶしにもなかなかいい。
ところで、今の方々はご自身で相撲など取ったことがあるのだろうか?
私の子ども時代は、戦時中でサッカーも野球もなかったから、
相撲は体育の時間のメインスポーツだったのでよく取ったものである。
土俵もない砂場の相撲だったから、押し出しなどはあまりなくて、相手を倒す投げの相撲が多かった。
★ 珍しく3時から終わりまでずっと観ていて、
テレビの画面の写真をいっぱい撮ったのだが、そのうちの幾つかを。
こんな下の方の結果が出ていたが、
しこ名はなかなかムツカシイ名前を付けるものである。
それぞれ、それなりの理由と言うか、想いが込められているのだろう。
ここから関取が何人生まれるなだろうか?
高安は好きな力士の一人だが、
昨日は最初の取り組みで勝ち越しのインタビュウーを受けていた。
力士は勝っても負けても「無表情」である。
喜んだり笑ったりはしてはいけない日本流のスポーツである。
連日「満員御礼」である。
ウイークデーの昼間なのだが、どんな人たちが来ているのだろうか?
砂被りのメンバーは毎日来てる人もいる。
服装はまちまちである。
正装に近い方もいるし、着物姿も結構多い。
優勝争いは「大の里」が全勝でちょっと他を引き離している。
ひょっとしたら「全勝優勝」するかも知れない。
ちょっと実力が他を引き離している感じで危なげない。
「大関=横綱」の道を歩むのだろう。
昨日は珍しく「弓取式」の最後までテレビが映った。
★ 大相撲は日本独特のスポーツだと言っていい。
「スポーツ」ではないのかも知れない。
こんなに序列が明確についている「スポーツ」はほかにない。
「モンゴル人」多いのは「モンゴル相撲」の影響なのか?
「モンゴル」をはじめ中央アジアやロシアの人もいるのに、
中国と韓国がいないのは不思議だなと思っている。
★ 10日ほど前から、スマホで撮った写真がパソコンに移動できなくなっていたのだが、
今日GOGと言う訪問サポートをする会社の方が家に来てくれて、
診て貰ったら簡単に治った。
パソコンもスマホも問題ないことは解っていたのだが、
家のWiFiがおかしかったのだが、やはりそうでWiFiの線を抜いてもう一度挿したらそれで治ったのである。
こんな器械が二つ並んでいるのだが、
WiFiの器械は右のほうだという。
それも初めて解った。
いままでは左の大きいほうがWiFiの器械だとばっかり思っていた。
そんな具合で何にも解っていないのである。
WiFiの器械も壊れている訳ではなくて、
線の接触が悪かったのだと思う。
これが作業明細書だが、所要時間21分となっている。
ちょっと解っていたら、自分で十分治せるような作業なのだが、
それが出来ないから、専門家の訪問サポートが必要なのである。
これで問題なく、スマホで撮った写真がパソコンに移動できるようになった。
今日撮った写真が移動出来ている。
よかった。
★昭和32年(1957)は神武景気と言われた年である。
大学を卒業し川崎航空機工業に入社してサラリーマンの生活が始まった。
この1年間の日記を読み返してみた。
その日記帳の写真が何故かパソコンに現れないので、
既にパソコン内にある日記の写真を使うことにする。
この中の昭和32年の日記の写真が現われない。なぜかな?
★ この年の4月1日に入社し、教育機関があって配属されたのは4月15日で、配属先は業務部財産課であった。
土地・建物・車両運搬具・工具器具部品などの財産物件の管理をする部門である。
当時の川崎航空機は昭和28年に戦後の空白期間を終えて、再開したばかりの会社で、いろんなことがまだ整備されていない状況だった。
私は直ぐ車両運搬具の担当になったのだが、購入記録から帳簿はあるのだが、現物との照合など出来ていないそんな状況だったのである。
そんなことだから各部にある例えば自転車の現物確認を行い、それに車両番号を付けるとと言った作業から始めたのである。
この課の大学出は課長だけで、私が初めての大学卒だったので、結構注目を浴びたし、職務柄各部門と接触があるので、大袈裟に言えば工場内に直ぐ顔を売ることが出来たのである。
★財産物件は毎期償却計算なる作業がある。
こんなタイガー計算機を回して1件1件計算をするのだが、
10月から担当した「工具器具備品」はその件数が多く大変だったのである。
当時の財産物件は取得価格1万円以上のものを通常財産物件に指定するのだが、
ちょうどJetエンジン部門が新設された時点で、新設部門は特別に300円以上が財産物件にしてい出来て、300円以上の極端に言うとスダレやバケツまでが財産計上されていたのである。
価格が大きくても小さくても計算の手間は同じで、
償却時には毎日3時間もの残業の連続で、計算機を回し続けていたのである。
そんなことで翌年にはこれを何とかしようと、JETのアメリカ空軍部門にあったIBMに償却を載せるように作業して、民需で最初のIBM使用が実現するのである。
大げさに言えば、日本でも初めての事務のIBM化だったのである。
ずっと後、日本IBMの方に「10年間違っていませんか」と言われたことがあるのだが、日本にIBM社が出来たのは昭和40年後だというのだが、
川崎航空機には米軍がいたのでIBM室があったのである。
入社早々、そんな大仕事から始まっているのだが、
これは何となく「新しいこと」をするのは学生時代の野球部生活で慣れていて、全然物怖じしなかったのが幸いしたと思っている。
★ 日記を読み返してみたら、家内のことが3回書かれている。
● 最初は配属直後の4月19日に、「勤労の給与係にいる女の子にちょっと惹かれる」と書いている。給与係は財産課の隣で給与計算をするために大勢女の子がいたのである。
● 二度目は6月5日で「小野田さんと言う方から電話です」とわざわざ私の席まで言いに来てくれた時で、それもわざわざ日記に書いてるから、
何となく気があったのだと思う。
● 3度目は11月6日で、入社以来8か月目に朝明石駅で一緒になって初めて「言葉を交わした」。
神戸高校タイプだなと思っていたのだが、神戸高校卒だという。
その時はただそれだけのことで、この年は日記に3度家内のことを書いている。
この年はただ、それだけで終わってしまっている。
★ 入社当時は社内で各部対抗のソフトボール大会などあって、
当然のことながら大活躍だった、あまり上手すぎると言ことで何か月後からは出して貰えず、審判役を仰せつかっている。
当時軟式野球だが野球部があって野球部にも入部したし
兎に角、いろいろと顔を売って社内の人気者だったことは間違いない。
こんな調子で野球などもやっているのだが、
健康的には空洞があって、診療所の御世話にもなっていたし、
断層の写真を撮ったら空洞があったりしたのだが、
あまり気にせず野球などやっていたのである。
そんな入社1年目であった。