一般情報、ニュース、お知らせ

2021年2月11日

有馬キャスター降板問題 いろいろ   雑感

投稿者 : rfuruya

★こんなニュースが流れた。
 NHKニュースウオッチの有馬キャスターが3月で降板だという。
 文春の記事では『菅官邸を怒らせた・・・』とあるが
 本当だろうか?
 若しホントなら、『菅さんはダメだな』と思う。
 一国の総理大臣なのだから、どんな質問にも対応して当然で、
 有馬さんがどんな嫌な質問をしたかは知らぬが、
 国会の野党議員の質問のような『ツマラヌ質問』ではなかったはずである。
  
昨年10月に菅義偉首相が番組に生出演した際、日本学術会議問題について直接質問したら、菅首相が不快そうな表情で答えたこともあって、
文春が「事前の打ち合わせにない質問をして官邸を怒らせた
として「今年度で番組降板か」と話題となっていたようだが、
NHK関係者は「降板報道以前内々では決まっていたことで、官邸の圧力によって降板したわけではない」と語っているという。
『前任の大越健介キャスターは5年、その前の河野憲治キャスターは2年』だったというから、有馬さんの4年妥当なのかも知れない。
★この番組は、私も観ることが多いのだが、
 有馬さんも人気らしいが、私は特にファンでもない。
 むしろ一緒に出ている和久田麻由子アナのファンで、
 彼女はどうなるのかな? と思ったら、
 4月以降は『和久田麻由子アナが看板に』とある。
  
★ 折しも『森発言』で『女性問題』がいろいろ言われている日本だから、
 NHKの看板番組の主役が女性になるのは、
 なかなかいいと思っている。
 ちょっとネットで『和久田麻由子』のこと調べてみたら、
 東大出の才媛で、既婚のようである。
 ご主人もちょっとした有名人らしい。
 このように書かれていた。
早稲田大学競走部のスター選手でした
駅伝界きってのイケメンとして有名だっただけでなく
’11年の箱根駅伝では『山の神』こと東洋大の柏原竜二とデッドヒートを演じ、早大の優勝に大きく貢献しました
大学卒業後は5大商社に入社。和久田アナとは、社会人になってから友人を介して知り合ったそうです 
    
 この頃は、調べたら何でも解る世の中である。
  大いに期待したいと思っている。
2021年2月10日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その3  自分史

投稿者 : rfuruya

★ 仙台事務所を開設し、事務所長として東北6県の代理店との取引を総括していたのだが、
東北6県には10店以上の代理店があったのだが、
メーカーに協力的で数を沢山売ろうとする代理店ほど資金繰りが苦しくて、
その経営はムツカシイという状態だったが、
東北6県で年8000台ほどの販売規模で、カワサキの最有力市場ではあったのである。
 そんな環境の中で新しく創られた『仙台事務所』だったのだが、
その機能をどのようなものにすべきか? いろいろ考えて代理店の在庫負担の軽減のためにも、
仙台事務所の第一の機能を『倉庫機能』として東北6県への新物流形態を考えたのである。
 従って開設された『仙台事務所』は事務所はほんのわずかで、その殆どを倉庫とし、仙台から小型トラックによる頻繁な物流としたのである。
 当時は田舎だったが、今では町の中に位置している。
        
★東北6県は岩手県が日本一の広さで縦が200キロ横が100キロあるのだが、
ご覧いただいても解るように、宮城県を除いては大きな県ばかりなのである。
結構山坂が多くて、登坂力の強いカワサキのバイクが好まれたのである。
     
 当時は二輪専門店などではなくて、
 東北の1000店もの自転車屋にバイクを委託する『委託販売』の時代で、
 そんな地方の販売店訪問を代理店の社長さんと一緒に訪問することが多かったので、
 東北の道は、東北の人より詳しくなったかも知れない。
 その距離も長くて、仙台から盛岡も、盛岡から青森も隣の県だが200キロもある。
 神戸から名古屋までが200キロだから、
 関西なら兵庫・大阪・京都・滋賀・岐阜県を通ってやっと愛知の名古屋なのである。
★ホントにいろんなことを経験したのだが、
一番勉強したのは資金繰りというか経営のバランスシートかも知れない。
それはいろんな理由があるのだが、『勉強せざるを得なかった環境』だったのである。
 ●直接の上司であった北日本営業部長の宮川さんは元々は『経理部長』だったし、カワ販の社長になられた田中誠さんは元川崎航空機の『資金部長』なのである。
 ●そして代理店の経営が思わしくないので、資金繰りが大変で、その対策が大きな仕事の一部でもあった。
 ●代理店の社長と一緒に地元銀行にもご一緒する機会も多かったのだが、
 それは『メーカー保証』があるので銀行は融資をしてくれるので、
 『メーカ社員の私』がご一緒することがMUSTなのである。
 そして、その時に説明するのは資金繰りやバランスシートなのである。
  非常に不思議に思ったのは、その時提出する事業計画やバランスシートは
  赤字ではなく、黒字に修正されていたりした。
  銀行はそんな資料は『建前』で、『川崎航空機のメーカー保』で融資に応じていたように思う。
 ●兎に角、販売もさることながら『貸借対照表』とはご縁が深かったし、
  代理店の経営で販売増加も勿論大事なのだが、赤字対策には『営業内』よりは『営業外対策』の方が肝心なのである
私は神戸商大卒業なのだが、大学では『簿記は取らずに卒業』していて、
全く知識はなかったのだが、この東北の4年間で実地に勉強して身に付いていて、
後の『カワサキの二輪事業の経営危機対策』にも自信を持って当たれたのはこの『東北での経験』がベースなのである。
★ 勿論、販売対策も熱心に推進した。
 当時の主力のクルマは125B1や
  
 ちょっとスポーツタイプのC2SSだが、
 このC2SSは全国でも群を抜いて東北がその販売台数を誇ったのである。
当時、全国で一番『モトクロス』が盛んな地域が東北で、
前任がレース担当だったものだから、レースチームには顔が利いて
山本隆・岡部能夫・梅津次郎・歳森康師・星野一義というカワサキ最強のメンバーたちや、
ノービスでは清原明彦・従野孝司モトクロスライダーとして、
よく東北に来てくれたのである。
★この東北仙台での4年間は学んだことばかりの時代で、
その販売実績は東北が日本一を続けたのだが、それは仙台事務所が売ったのではなくて、
各地の代理店が販売してくれたお陰なのである。
中でも久保克夫社長が率いる岩手カワサキは全国一の実績を誇っていたのである。
久保さん率いる岩手の販売店も特に飛び抜けた店はないし、従業員も大学出など一人もいなくて、トップセールスの山本君は中学卒なのである。
何が岩手を日本一の代理店にしているのか?
そこには久保さん独特のリーダーシップと、非常に高度に仕組まれた経営システムと、特に何を言うではないのだが販売店から絶大な信頼を得ている『久保さんの人柄』かなと思った。
運転免許を持たない久保さんとは私の運転で岩手の販売店をよく回ったものだが、一度も久保さんの口から『売ってください』などと言う言葉は聞かれなかったのである。
私の人生で一番多くを学んだのは久保克夫さんからだと思っていて、そういう意味では『恩師』なのである。
田舎なれども南部の国は西も東も金の山』と唄われる『南部牛追い歌
南部の国」とは、安土桃山時代に豊臣秀吉から公認された東北地方の南部藩のことで、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっているのだが、
久保さんは南部の方で、こよなく『南部』を愛されていたのが印象に残っている。
当時はまだ県よりは、昔の藩単位でいろんなことが考えられていて、
八戸などは青森だが何となく南部だったし、
実際青森カワサキの販売店会は『南部カワサキ会』と『津軽カワサキ会』の二つに分かれていて、まだ『青森カワサキ会』としては統一することが出来なかったような時代であった。
★当時の二輪業界はまだ『本田宗一郎さんが健在』で、
日本国内もカブという50ccのモペットを中心に、
全国の自転車屋5万店に『委託販売』という独特の取引形態だったのだが、
一方では世界のGPレースにも参加、鈴鹿サーキットの建設など、非常に先進的な事業展開をしたので、
三菱重工業・富士重・トーハツ・BSといった大企業も当時は業界の中にいたのだが、浜松勢の身軽な展開に『ツイて行けず』に脱落していったのである。

そんな中で、なぜカワサキだけが残ったのか?
誤解を恐れずに持論を申し上げると

● カワサキは最前線の販売を『川崎航空機の人たちがやらなかったからである』メイハツメグロの人たちや、地方代理店の人たちは大企業の従業員にない柔軟性みたいなものを持っている。
● 国内の第一線を担当してくれたのは、『メイハツ』や『メグロ』の人たちだし、展開した販売網もすべて『メイハツ・メグロ』の代理店だった。
そんな実用車の時代に『カワサキの二輪事業を支えた』のは、東北や九州の代理店だったのである。
そんな時代に30代の若さで私が、銀行の支店長さんや、代理店の社長さん方と親しくお付きあいが出来たのは、
東北という『地方』では『川崎航空機というメーカー』の存在が大きかったし、
地方の販売店を訪ねても代理店の社長さんは私を『メーカーの人』と紹介して頂いて、それが結構『効果がある』のである。
それだけ東北という地域の方たちが純真だったのかも知れない。
★この東北・仙台時代は月の殆どを東北6県を走り回ていたのだが、
 当時の道は4号線や6号線などの主幹道路を除いては、
 県を越える山道さえも『砂利道』で、そんな峠越えの道はむしろ雪が降った冬の方が走り易かったりしたのである。
 当時、英国は殆ど100%の舗装率だと聞いて、
 日本もそんなことになるのだろうか?とホントにそう思っていたのである。
 昨今のテレビである山奥の『ポツンと一軒家』に行く細い山道でさえ
 舗装はされていて、いつも『東北の山越え道』を懐かしく思い出すのである。
こんなことを言っても、何人の方が信用してくれるだろうか?
日本もホントに立派になったものである。
そんな東北仙台事務所長としての4年間だったのだが、
ようやく時代は『中大型のスポーツ車』への時代へと移りはじめて、
私も仙台から大阪へと異動になるのである。
2021年2月9日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  自分史

投稿者 : rfuruya
★『カワサキオートバイ販売出向の10年間』と題して自分史を連載することにしたのだが、
 この昭和40年(1965)年前後はどんな時代だったのか?
 前回に運転免許を取ったなどと書いたが、運転免許も未だ珍しい時代だった。
日本で高速道路なるものが初めてスタートしたのは1964年の尼崎-栗東間で、
鈴鹿サーキットへは行く機会が多かったので、『尼崎-栗東間』はよく走ったものである。
当時は殆ど車も走っていなかった、今では考えられないような状態だった。
名古屋まで開通して『名神高速』と呼ばれたのが昭和40年(1965)で、
その年には前回の東京オリンピックが開催され、東京-大阪間の新幹線が開通したという、
漸く日本も『新時代の幕開け』といった時代だったのである。
★ そんな時代に川崎航空機では初めての『広告宣伝課』という初めての職制が出来て、
単車事業』という新しい事業を育成するために、毎年1億2000万円という膨大な広告宣伝費を3年間本社開発費として投入されていたのである。
今の金額にすると10億円にも相当する金額を使い切るのはなかなかムツカシクて、
当時のレース活動のライダー契約費や運営活動費をその予算の中から使っていたのである。
そんな広告宣伝費の投入期間の3年目が昭和41年(1966)だったのだが、
その年の11月に苧野専務から東北・仙台への異動を告げられたのである。
仙台に行って新しく事務所を創れ』という命題なのだが、
ただそれだけで具体的な指示は一切なかったのである。
この話は何となく解ってはいた。
この年に当時の岩城本部長が仙台に行かれて東北の代理店の社長たちとの会合を持たれたのだが、
その時東北の代理店側から『仙台に事務所を創って欲しい』という要望があって、
岩城本部長は即座に承諾の返事をされたというのである。
そんな話が伝わってきて『誰が行くのか?』など話題にはなったのだが、
その時岩城さんにお供した販売推進課長の八木さんが行くのだろうと、もっぱらの噂で、
それが『自分にお鉢が回ってくる』とは夢にも思わなかったのである。
       
★ その当時の国内市場は未だ『実用車市場時代』で販売の中心はモペットを中心とする125cc以下のバイクだったので、
カワサキの最大市場は九州と東北だったのである。
九州は『カワサキ九州』という1社が九州全体を纏めていたのだが、
東北市場は6県に10社を超える地方代理店があって、それを統括する機能は持っていなかったのである。
そのために『仙台事務所を創る』ということだけは決まっていたのだが、
それをどんな形で展開するのかなどは、全く『試案』さえない状況で、
よろしく頼む』というだけなのである。
入社以来、先輩たちがやったことがナイ『新しい仕事』ばかりを手掛けてきたので、
古谷に任しておけば何とかやるだろう』ということだったに違いないのである。
12月になって岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
よろしく頼む』と仰られたのである。
頼まれたらちゃんとやらねば』と思うのが『私の生き方』なので、仕方ないなと割り切ったのである。
★そんなことで年が明けた翌年1月5日に、
コロナのトラックを仙台まで独りで陸送することから始まったのである。
それが私の初めての『転勤経験』なのだが、こんな転勤は世の中にはないだろう。
いま考えてみると、ホントにひどいものである。
誰も手伝ってくれる人はいなくて、すべて自分1人で決めて解決していったのである。
ただ、何でも自分の思うように出来たという利点もあったのだが。
その日に書いている日記の『予定時間と実績』である。
それまでも長距離を運転したことはあるのだが、『独りで』というのは初めてだった。
5時45分に明石を出発して、
名古屋までは名神なので10時には到着しているのだが、
そこからは2号線の地道を走るので大変なのである。
何とか635kmを無事走り切って
東京渋谷の親戚の楠見宅には夜の7時45分に到着している。
  
翌日の1月6日には東京事務所に出社し、
今回所属する北日本営業部の宮川弘部長以下にご挨拶や会議にも出席して、
仙台へは1月8日に到着し、
翌1月9日には仙台の代理店宮城カワサキに出社しているのである。
★ ホントに誰もいない全くの『独り』なのである。
何はともあれ、住むところを探したらこれは直ぐ新しい一戸建てが見つかった。
家賃は関西などと比べると格安で、『庭付きの1戸建てを借りてもいいか』と会社に電話したらすぐOKが出たので、
結婚以来『はじめての一戸建て』に住めることになったのである。
北国の冬は寒いので『春になってからにしたら』と会社側は気を遣ってくれたのだが、住む場所ぐらいは『家族と一緒がいい』と
1月20日には家族の仙台引っ越しが終わっている。
ただ、仙台での会社は誰もいなくて全くの『独り』、
職制上は北日本営業部東北販売課があり課長以下何人かはいるのだが、
みんな東京勤務でそこからの出張ベースなのである。
何でも好きなようには決められるのだが、
まず、毎日出社する事務所をどこにするか? を決めねばならないのだが、
川崎航空機の仙台事務所は? とも言われたのだが、
東北の代理店の総括という仕事なので、
出来る限り第1線に近いほうがいいと考えて、
仙台の宮城カワサキの中に机をひとつ置かして頂いてのスタートだったのである。
★こんな調子での『新しい業務』のスタートが始まるのだが、
独りではホントに大変なので、『女子を雇う』ことにしたのだが、
それをどうすればいいのか解らないのである。
新聞広告でもやったら応募があるだろうというので、
広告を打ったらすぐ就職希望者が現れて面接などしたのだが、
その一人目の女子をその場で『採用OK』としたのである。
それが菊地文子さん、その後ずっとお世話になったのである。
いろんなことがあるのだが、そのどれもが全く経験のしたことのない『はじめてのこと』ばかりなのである。
まず『仙台事務所』を造る場所の設定からスタートするのだが、
不動産屋に相談すると、『候補地』は幾らでもあるが、
どこにするのかという場所も肝心だが、
どのくらいの広さを買うか?が一番の課題だと、言うのである。
当時は土地ブームで『大きな土地を買いたい人』はいっぱいいるのだが、
道路沿いなどのいい場所は『規定があって』なかなか許可にならないのだが、
川崎航空機関連だから理由はいろいろ付けられるから『何千坪でも買え』というのである。
広い土地を買っておけば直ぐ値上がりするから、切り売りすればいい
というのである。
当時は日本国中、そんな傾向で『土地成金』がいっぱいいたのだが、
会社にそのことを言うと、川崎航空機はマジメな会社だから、
そんなことは出来ない、300坪でいい』というものだから、
真四角ではなくて、ちょっと斜めの土地となってしまったのである。
そんなこともあったが、
翌年4月末には新しい仙台バイパス沿いに、新仙台事務所が完成して、
東京から出張ベースであったメンバーも仙台に集まり、
やっと『仙台事務所をつくれ』という命題の答えが実現したのである。
★ まずは最初の課題の『仙台事務所』という舞台が出来て、
 いろいろなことが始まるのだが、
 そのいずれもが『経験のない初めてのこと』ばかりなのである。
 何から書くか考えて、次回に纏めてみたいと思っている。

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その2

2021-02-09 07:33:20 | 自分史
★『カワサキオートバイ販売出向の10年間』と題して自分史を連載することにしたのだが、
 この昭和40年(1965)年前後はどんな時代だったのか?
 前回に運転免許を取ったなどと書いたが、運転免許も未だ珍しい時代だった。
日本で高速道路なるものが初めてスタートしたのは1964年の尼崎-栗東間で、
鈴鹿サーキットへは行く機会が多かったので、『尼崎-栗東間』はよく走ったものである。
当時は殆ど車も走っていなかった、今では考えられないような状態だった。
名古屋まで開通して『名神高速』と呼ばれたのが昭和40年(1965)で、
その年には前回の東京オリンピックが開催され、東京-大阪間の新幹線が開通したという、
漸く日本も『新時代の幕開け』といった時代だったのである。
★ そんな時代に川崎航空機では初めての『広告宣伝課』という初めての職制が出来て、
単車事業』という新しい事業を育成するために、毎年1億2000万円という膨大な広告宣伝費を3年間本社開発費として投入されていたのである。
今の金額にすると10億円にも相当する金額を使い切るのはなかなかムツカシクて、
当時のレース活動のライダー契約費や運営活動費をその予算の中から使っていたのである。
そんな広告宣伝費の投入期間の3年目が昭和41年(1966)だったのだが、
その年の11月に苧野専務から東北・仙台への異動を告げられたのである。
仙台に行って新しく事務所を創れ』という命題なのだが、
ただそれだけで具体的な指示は一切なかったのである。
この話は何となく解ってはいた。
この年に当時の岩城本部長が仙台に行かれて東北の代理店の社長たちとの会合を持たれたのだが、
その時東北の代理店側から『仙台に事務所を創って欲しい』という要望があって、
岩城本部長は即座に承諾の返事をされたというのである。
そんな話が伝わってきて『誰が行くのか?』など話題にはなったのだが、
その時岩城さんにお供した販売推進課長の八木さんが行くのだろうと、もっぱらの噂で、
それが『自分にお鉢が回ってくる』とは夢にも思わなかったのである。
       
★ その当時の国内市場は未だ『実用車市場時代』で販売の中心はモペットを中心とする125cc以下のバイクだったので、
カワサキの最大市場は九州と東北だったのである。
九州は『カワサキ九州』という1社が九州全体を纏めていたのだが、
東北市場は6県に10社を超える地方代理店があって、それを統括する機能は持っていなかったのである。
そのために『仙台事務所を創る』ということだけは決まっていたのだが、
それをどんな形で展開するのかなどは、全く『試案』さえない状況で、
よろしく頼む』というだけなのである。
入社以来、先輩たちがやったことがナイ『新しい仕事』ばかりを手掛けてきたので、
古谷に任しておけば何とかやるだろう』ということだったに違いないのである。
12月になって岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
よろしく頼む』と仰られたのである。
頼まれたらちゃんとやらねば』と思うのが『私の生き方』なので、仕方ないなと割り切ったのである。
★そんなことで年が明けた翌年1月5日に、
コロナのトラックを仙台まで独りで陸送することから始まったのである。
それが私の初めての『転勤経験』なのだが、こんな転勤は世の中にはないだろう。
いま考えてみると、ホントにひどいものである。
誰も手伝ってくれる人はいなくて、すべて自分1人で決めて解決していったのである。
ただ、何でも自分の思うように出来たという利点もあったのだが。
その日に書いている日記の『予定時間と実績』である。
それまでも長距離を運転したことはあるのだが、『独りで』というのは初めてだった。
5時45分に明石を出発して、
名古屋までは名神なので10時には到着しているのだが、
そこからは2号線の地道を走るので大変なのである。
何とか635kmを無事走り切って
東京渋谷の親戚の楠見宅には夜の7時45分に到着している。
  
翌日の1月6日には東京事務所に出社し、
今回所属する北日本営業部の宮川弘部長以下にご挨拶や会議にも出席して、
仙台へは1月8日に到着し、
翌1月9日には仙台の代理店宮城カワサキに出社しているのである。
★ ホントに誰もいない全くの『独り』なのである。
何はともあれ、住むところを探したらこれは直ぐ新しい一戸建てが見つかった。
家賃は関西などと比べると格安で、『庭付きの1戸建てを借りてもいいか』と会社に電話したらすぐOKが出たので、
結婚以来『はじめての一戸建て』に住めることになったのである。
北国の冬は寒いので『春になってからにしたら』と会社側は気を遣ってくれたのだが、住む場所ぐらいは『家族と一緒がいい』と
1月20日には家族の仙台引っ越しが終わっている。
ただ、仙台での会社は誰もいなくて全くの『独り』、
職制上は北日本営業部東北販売課があり課長以下何人かはいるのだが、
みんな東京勤務でそこからの出張ベースなのである。
何でも好きなようには決められるのだが、
まず、毎日出社する事務所をどこにするか? を決めねばならないのだが、
川崎航空機の仙台事務所は? とも言われたのだが、
東北の代理店の総括という仕事なので、
出来る限り第1線に近いほうがいいと考えて、
仙台の宮城カワサキの中に机をひとつ置かして頂いてのスタートだったのである。
★こんな調子での『新しい業務』のスタートが始まるのだが、
独りではホントに大変なので、『女子を雇う』ことにしたのだが、
それをどうすればいいのか解らないのである。
新聞広告でもやったら応募があるだろうというので、
広告を打ったらすぐ就職希望者が現れて面接などしたのだが、
その一人目の女子をその場で『採用OK』としたのである。
それが菊地文子さん、その後ずっとお世話になったのである。
いろんなことがあるのだが、そのどれもが全く経験のしたことのない『はじめてのこと』ばかりなのである。
まず『仙台事務所』を造る場所の設定からスタートするのだが、
不動産屋に相談すると、『候補地』は幾らでもあるが、
どこにするのかという場所も肝心だが、
どのくらいの広さを買うか?が一番の課題だと、言うのである。
当時は土地ブームで『大きな土地を買いたい人』はいっぱいいるのだが、
道路沿いなどのいい場所は『規定があって』なかなか許可にならないのだが、
川崎航空機関連だから理由はいろいろ付けられるから『何千坪でも買え』というのである。
広い土地を買っておけば直ぐ値上がりするから、切り売りすればいい
というのである。
当時は日本国中、そんな傾向で『土地成金』がいっぱいいたのだが、
会社にそのことを言うと、川崎航空機はマジメな会社だから、
そんなことは出来ない、300坪でいい』というものだから、
真四角ではなくて、ちょっと斜めの土地となってしまったのである。
そんなこともあったが、
翌年4月末には新しい仙台バイパス沿いに、新仙台事務所が完成して、
東京から出張ベースであったメンバーも仙台に集まり、
やっと『仙台事務所をつくれ』という命題の答えが実現したのである。
★ まずは最初の課題の『仙台事務所』という舞台が出来て、
 いろいろなことが始まるのだが、
 そのいずれもが『経験のない初めてのこと』ばかりなのである。
 何から書くか考えて、次回に纏めてみたいと思っている。
2021年2月8日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その1

投稿者 : rfuruya

★ カワサキオートバイ販売と名称変更があって、

 その通称カワ販へ出向となったのは、私が33歳の時で、
 その出向は10年間続いたのである。
 いろんな経験をさせて頂いたのだが、
 その1年目の昭和40年(1965)はいろいろなことのあった年だった。
 私も若かったが、カワサキの二輪事業も若かったのである。
 当時はまだ国内市場中心で、アメリカ市場はやっとその販売がスタートしたばかりの時期だった。
 こんな年表に纏めてある。
★ 昭和35年(1960)に単車の一貫生産が始まったのだが、
スタート以降の5年間はまだ事業も安定していなかったのだが、
この年の4月に単車事業本部長に岩城良三常務が就任されて、
国内販社は従来の『カワサキ自動車販売』から『カワサキオートバイ販売』に名称変更され、
それまでの川崎航空機工業営業部からカワ販へ全員が出向となったのである。
                  
隣国の兵は大なり、その武勇は優れたり、その武器は豊なり、然れども指揮の一点譲るべからず』ということから常に話が始まる
岩城良三本部長が『カワ販社長』も兼務され、社名も変更されたのである。
私は未だ川航では係長にもなっていない平社員だったのだが、
子会社ということもあったのだが、
カワ販』ではいきなり『広告宣伝課長』と一挙に課長になったりしたのである。
★ 当時の広告宣伝課では、年に1億2000万円という膨大な予算が、
本社開発費で3年間、二輪事業を育てるために投入されていて、
広告の他ライダー契約金他レース運営費をすべて広告宣伝課で担当していたのである。
今の金に換算すると10億円ぐらいのそんな膨大な予算だったので、
その管理は私がやっていたのだが、
報告先は上司ではなくて、直接岩城本部長に報告していたのである。
★ 4月の朝霧でのMCFAJ全日本では90ccノービスで星野一義が優
これが星野一義の初優勝なのである。
その頃のライダーたちである。
左から 岡部能夫・山本隆・星野一義・歳森康師
当たり前の話だが、みんな若い。
    
5月にはMFJ鈴鹿ジュニアロードレース山本隆が出場し3位入賞を果たしているのである。
このレースはモトクロスライダー山本隆が是非出たいということで、
まだ会社ではロードレースの出場許可などなかったのだが、
黙ってロードレーサーを造って出場したら
ホンダ・ホンダ・カワサキとまさかの3位入賞だったのである。
この時のレーサーにした車を都合してくれたのが田崎雅元さんで、
モトクロス予算を使っての出場だった。
現場に行ってた川合寿一さんから『ヤマ3、シオ8、セイコウ カワ』という電報が我が家に届いたのは、5月3日のことだった。
ヤマ』は山本隆、『シオ』は北陸の塩本選手なのである。
このレースが『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』となったのである。
★非公式ながらロードレースで
3位入賞』となってカワサキのロードレースに火がついて、
翌月6月にあった『鈴鹿アマチュア6時間耐久レース』には90㏄3台のマシンを正規に造って
大槻幸雄監督・田崎雅元助監督』で、カワサキが初めてレースに『監督』が出現したのである。
山本隆は前月のジュニアロードレースに出場したために出場できないので、
神戸木の実の歳森康師が相棒にと連れてきたのが金谷秀夫なのである。
このレースが金谷秀夫の初レースだったのだが、正規の契約などなしに走ったのである。
 流石に金谷秀夫は速かったが、それでも90㏄で3分20秒ぐらいだったから、当時のマシンはその程度だったのである。
★この年の7月には一緒にレースをやっていた大槻さんはドイツ留学となり
田崎さんは明石工場から初めてアメリカ市場にサービス担当として渡米することになり
お二人の送別会を一緒にレースチーム関係者でやっている。
この年のGPレースには安良岡健の個人参加ということでの出場だったが、
本番には出走出来なかったのである。
125ccのGPレーサーの開発や試験走行が始まったばかりの年で、
鈴鹿のタイムが2分50秒という程度のものであった。
当時のMFJのGP準備委員会は各メーカーの部長さんが出席なのだが、
カワサキからは若い私が出席したりしているのである。
その年の11月のMFJ運営委員会で、スズキの岡野さんから
藤井敏雄が辞表を出した。引き抜きは止めて欲しい』との発言があったりしたのだが、
その時は私はホントに何にも知らなかったので、
どこのことかな?』と思ったりしてたのだが、実はそれはカワサキだったのである。
そんな色々なことがあった昭和40年だったのだが、
藤井敏雄のことは技術部の方でいろいろやってたようで、
翌年初出の日に藤井敏雄は契約関係のことで私を訪ねて来たのである。
カワサキがGPレースに参戦するのは翌年の1966年からで、藤井敏雄がヨーロッパGPを転戦するのだが、マン島のプラクテイスで転倒、不慮の死を遂げるのである。
本当にいい男だったのに残念である。
★カワサキオートバイ販売出向の1年目は、ざっとこのようにスタートしているのである。
個人的には結婚間もない頃で長男・長女が生まれたばかりの頃である。
運転免許取得』とあるが、当時はまだ免許を持っている人は少なかったが、
ライダーたちは勿論みんな4輪免許を持っているので、
長女が生まれるために家内が里帰りしている間に、私は免許を取ったりしたのである。
勿論、まだ個人では車を持ってる人など少ない時代だから、
会社の社用車の運転をしたのだが、全国のレース場を駆け巡っていたので、
最初から箱根や富士山麓などまでの長距離ドライブをやったりしたのである。
そんな初心者の私に『運転技術』を教えてくれたのはライダーたちで、
当時は鈴鹿サーキットを1周だけだがホンダのスポーツカーで走れたので、
アウト・イン・アウト』や『ヒール&トウ』などのレーステクニックをいろいろと教えてくれたのである。
お蔭様で結構運転には自信があって、後、カワサキの安全運転本部長なども長くやったものだから、
免許取得以来『無違反』とは言わぬが『無事故』なのである。
この『カワ販出向の10年間』は、主として末端市場を担当して、
川崎航空機や川崎重工業の人たちが経験しなかった分野を経験できて、
末端の販売店の人たちや業界の方たちと密接に繋がって、
それは今でも生きていると思っている。
そんな貴重な10年間のこれは主として1年目の話だが、
この10年間のいろんな話をシリーズでお届けしようと思っている。
2021年2月7日

 立春  2月の庭仕事

投稿者 : rfuruya
 
★2月3日が立春だそうである。
 2月の庭仕事と言えば『薔薇の冬剪定』なのだが、
 これは1月末に今年は終えてしまった。
 コロナで他にすることも少ないので、段々と早くなってしまうのだろう。
 昨日は午後からぽかぽか天気で2時間ほど『庭仕事』に精を出した。
 別に大したことをするわけではないが、
 『万両の種』を初めて、庭に蒔いてみた。
 庭にはこんな万両が20本以上もある。
 その殆どは、実が落ちて勝手に自生したものである。
 
 こんな紅い実がいっぱいだが、放っておくと野鳥が実を食べにやってくる。
 この種を撒いてみたらどうなるか?
 今までやったこともないし、こんなに沢山の実を撒いて全部育ったら
 大変なことになるが、それはその時のことにして。
 昨日は庭のあちこちに種を撒いてみたのである。
★ 種を撒くために土を触ってたら、
  福寿草の芽がもう顔を出してたのでびっくりした。
  
 春の花としては『福寿草』がアタマにあるのだが、
 過去のブログを調べてみたら、
 福寿草がこんな黄色い可憐な花を咲かせるのは、3月初めなのである。
 
 いつもは今どき土など触らないので、気が付かなかったのだと思う。
 ちょっとお解り難いかと思うが、
 これは『京鹿の子』の芽なのである。
  これも3月初めには、こんな綺麗な芽を見せるのだが、
 いずれもあと1ヶ月後のことである。
  
 意外だ多のは『クリスマスローズ』が蕾を付けていたし、
 
 花を咲かせているのもあった。
 これらも旧い葉を除いたから解ったのである。
 
★  何もしなくても梅はもう蕾を付けている。
  
 これも、昨年買ってきた『しだれ梅』なのだが、
 家で花を付けるのは、今年が初めてなのである。
 果たしてちゃんと咲くだろうか? 
 この歳になって『この春初めてのこと』いろいろ、
 『世の中のコロナ禍』のお陰である。
 その『コロナ』は桜の咲くころにはどうなっているのだろう?
2021年2月6日

日本一美しいまち   雑感日記 2021-02-06 07:27:33 | 私の生き方、考え方&意見

投稿者 : rfuruya
★2006年9月にこのブログ雑感日記をスタートさせている。
 ネットの世界の良さの一つはそれが『完全な形』で『整理されて』保存されていることである。
 最初はホントに恐る恐るのスタートである。
★一番最初のブログは『美しい』という題でスタートしている。
 もっといろいろと書きたかったのだと思うが、これだけしか書いていない。
 『書いていない』というより『書けなかった』のだと思う。
美しい
2006-09-09 14:10:27 | 政治
美しい国,安倍さんの書いた本の題名に使われている。
美しいという言葉の意味は深く、外面的な美しさのほかに、調和のとれた、こころの優しさなど内面的な美しさもあらわしている。

本来、日本に至極似合う言葉だと思う。せかせかとしたことばかりが目立つこの頃だが、もう少しゆったりとした美しい生き方をしたいものである。
どなたが総理になっても、真に美しい国日本を目指してほしいものである。

★9月9日から5日後に『薔薇』を取り上げている。
 もうこの時は『薔薇栽培』に凝っていたというか、熱心だった頃だと思う。
 15年経った今も本数は減ったが、同じように『冬剪定』など熱心なのである。
薔薇
2006-09-14 09:07:43 | 日常生活、園芸、バラ
薔薇はむつかしいとよく言われる。
小さな庭だが、70本ほどのバラがある。冬の施肥、初春の剪定、毎月の消毒、秋の剪定など、一年中結構忙しい。
これらの作業のひとつひとつは、日頃の努力で解決できる類のもので、決してむつかしいものではない。
努力の結果は、必ず美しい花として戻ってくる。
自分だけではなく、周りの人の目も楽しませてくれる。
もう直ぐ秋薔薇のシーズンである。
定年後はじめた薔薇だが、手ごろな健康法だと思っている。
★さらに三日後の9月17日に『日本一美しいまち』というテーマでアップしている。
一番初めの『美しい』ホントはこの事が書きたかったのだと思う。
日本一美しいまち
2006-09-17 19:20:46 | みっきぃふるさとふれあい公園
日本一美しいまちをめざす と高らかに宣言したまちがある。
そして、スローライフなまちづくりを、ふれあい、文化、景観、賑わい、情報発信の五つの視点から造り上げることを目指そうというのである。

このまちを訪れる人たちとも、人それぞれの考え方や生き方を、互いに尊重しあいながら生きていく、そういう生き方が美しいのだと言っている。
そして、今まで気に留めていなかったことにふと気づく、そんなゆったりとした、人に優しい暮らし方を、スローライフなまちづくりと称んでいる。
年間に市の人口の50倍もの人たちが訪れるこのまちは、来訪者を友達と位置づけ、市民と同じ目線で対応しようというスタンスも特長である。

このような、日本一美しいまちをめざしているのは、兵庫県三木市です。
人口85000人のこのまちは、旧い歴史のある城下町で、金物のまちとして知られていた。
昭和50年頃から大規模な宅地開発が進み人口も増え、昨年吉川町と合併し美嚢川沿いの美しい田園地帯も仲間入りした。
空気、水、自然、山、川、湖、街並み、田園地帯みんな水準以上に美しい。
日本一の廣野ゴルフ場をはじめ25ものゴルフ場が市内に点在する。
グリーンピア三木、森林公園、ホースランドと緑に恵まれた、グリーン施設がいっぱい、旧い歴史をもつ寺院や仏閣も静かな雰囲気のなかに存在する。
今までの日本の価値観は、通勤に便利なところ、駅に近いところを評価するもので,
毎日をせかせかと、利便性、効率ばかりを企業も、個人も追っかけ過ぎたと思う。
欧米では、空気、水、自然が価値観の基盤である。
ようやく、日本も真に人間らしい生き方を提案する、行政が出現したことは、今後の時代の流れる方向を示唆しているのかも知れない。
安倍さんが、美しい国、日本を提言しています。
三木市の提言は、それ以上に次元が高いことを、誇りにしたいと思う。

★このように書いている。
15年経ってもう少し補足すると、
2006年当時はこの年に初当選された薮本市長を応援してた頃なのである。
兵庫県は『美しい兵庫』を標語にしているのだが、追随する市がないので、
県庁から来られた薮本さんは、是非この『兵庫のコンセプト』を実行・実現して欲しいと、
日本一美しいまちをめざす三木』というテーマを提言したのは、実は私なのである。
三木市が2007年度策定の『三木市総合計画』には、
『日本一美しいまち三木』
 ~人にやさしいスローライフなまちづくりをめざします~
 書かれていて
         
15年経った現在でも、このような看板が上がっているのである。
  
 ブログをスタートして15年の歳月が流れたが、
 初心を忘れず、私も『美しく生きたい』と思っているのである。
2021年2月5日

高血圧の話   雑感

投稿者 : rfuruya
★ テレビの『ためしてガッテン』で『高血圧』を取り上げていた。
  私自身も68歳の時に『くも膜下』になってそれ以来『高血圧の薬』を飲むようになったのだが、
自分では『高血圧』だとは思っていない。
血圧を測っても『高血圧』という域に達した経験がないのである。
多分、薬を飲まなくてもそんなに高い値にはならないのでは?と思っている。

★ そんなこともあって、『高血圧』に関する一般知識もよく解っていないので、
高血圧の人の割合』と検索してみたら、
30歳以上ではこんな比率のようだし、
  
 
 
 
年齢に比例して多くなるようで、
   
  
75歳以上では、男性の74%、女性の70%が該当し、男女とも同じくらいの割合で高血圧であることがわかります。 
年齢とともに高血圧患者の割合は増加しますが、特に男性では30代でも5人に1人、40代では3人に1人が高血圧であり、中壮年期においても有病率が高くなっています。 
  
と出てきて、改めてビックリしたのである。
これだと『世の中の人』は殆どが『高血圧』だと言ってもいい。
★ 自分も薬は飲んでいるのだが、
 勝手に『自分は高血圧ではない』と思っているので
 無関心なために何にも解っていないのである
   
 テレビで取り上げていたので、ちょっと調べてみて
 ホントにビックリなのである。
 病院で薬を頂くために、ずっと血圧は測って記録をとっているのだが
 『黒線が朝』『赤線が夜』なのだが、ずっとこんな調子なので、
 『安定している』と言っていいのだろう。
130を超えることなど皆無だし、
120にもなかなか達しなくて、大体が100から110の間なのである。
★ ためしてガッテンの中では、血圧を下げる対策として、
 こんなことを取り上げていたが、
 この中のことは無意識に、『よく実行している』と言っていい。
  
青魚や野菜もよく食うし、ピーナツやチョコレートも好きである。
ジョッギングは毎日やってるが、
そんなことも薬も効いているのだろうが、
一番は『持って生まれた体質と運の良さ』だろうと思っている。
20年前にやった『くも膜下』も怒ったら突然アタマに血が上って、
無意識になってしまった』ので、通常血圧が高かった訳でもない。
ムツカシイところが切れたので、手術などせずに『安静にしてたら』1ヶ月で退院できたのである。
怒って倒れた場所が『警察の本署』だたので15分後には『いい病院』に運ばれたのである。
そういう意味では『運がいい』のである。
それ以来、特に何もない。
どちらかと言えば、ホントは短気で怒りっぽいのだが、
現役時代からそれは出さずに『辛抱』してたのである。
くも膜下』以降は、意識して『怒らない』ようにはしているのである。
2021年2月4日

私の履歴書      自分史

投稿者 : rfuruya

★前回まで80歳代から逆に若い時代へと自分の人生を振り返ってみたのだが、
ちょうど真ん中の40歳代の時代になっている。
現役時代は財産課に始まって16回の異動を経験しているのだが、
不思議なことに1回も引き継ぎ書を受け取っていないし、逆に引き継ぎ書も書いていない。
その殆どが全く『新しい仕事』だったのである。
20歳代以降、10年毎に纏めたこんな表があって、
私の履歴書』と名付けてこんな一覧表に纏めている。
 
★ 前回まで40歳代の時期の『KHI企画』と『市場開発室』の時代のことを書いてきたが、
その時カワサキの二輪事業は『大変な変動期だった』のだなと今更ながらそう思う。
その時期だけを切り抜いてみると
経営再建』とか『カワ販再建』などの文字や『ダンピング問題』など
更には『二輪事業撤退の危機』というショッキングな文字が並んでいる。
 
★こんな事業本部の渦中にあって『私や田崎雅元さん』はその『ど真ん中』にいたのである。
二人とも『課長』の頃で、その中心になって纏めなければならない運命みたいなものを背負っていたように思う。
特に『アメリカダンピング問題』は田崎さんは技術屋なのだが、
直接の担当だったのは1964年に明石工場から初めてアメリカに単身赴任し、アメリカ市場には詳しかったからだろう。
ダンピング対策の具体的な解決案の『国内販社新体制の起案』は、
国内販社のことがよく解っている私が担当することになった、そんな『危機対策コン』だったのである。
まさに『大変な問題』ではあったが、結構『ネアカに前向き』に対応出来たのは、
二人とも生い立ちがよく似た『大陸育ち』だったからかも知れない。
口の悪い後輩が『古谷さんや田崎さんは日本人じゃないから』などと言ったりしてたが、
あまり『ものごとに動じない』ところがあったのは間違いない。
田﨑さんは歳では私の二つ下だが、小学校時代は私と同じ朝鮮京城にいたし、
終戦時には満州にいたのである。
確かにこどもの頃から、朝鮮・満州で育ち、終戦・引き揚げなどの、
それこそ『大変な出来事』を経験してるので、そんな風に育ったのかも知れない。
★私は、国内販社への10年間の出向を経て、1975年10月に発動機事業本部企画室に戻ってくるのだが、
この企画室への異動は、私の現役生活を左右する様な『運命的なもの』だったようである。
企画に戻って本社に異動の挨拶に行った時、たまたま山田専務にお会いしたら、『古谷くん、今回は大変だな』と仰るのである。
発本の企画に戻りました』と言ったら、『それはよかったな』と仰るので直属の部長に聞いてみたら、
君は本社の中國班から貰いが掛かって、殆ど決まっていたのを取り返してきた』と仰るのである。
ちょうど『日中国交正常化 』が成立して、川崎重工業としても本社に新しく『中國班』を新設すべく、そん人選に私の名前が挙がったようなのである。
それは解らぬではなかった。
私の大学の成績は無茶苦茶悪くて、優は5つしかなかったのだが、
それな体育実技・体育理論と野球部の部長の経済地理と中国語1・2の5つだけだったのである。
中国語は神戸の中華料理店のオーナーの方が先生で、
試験を受けたら殆どの人に『』をくれるので、別に中国語が話せたりはしなかったが、本社人事の目に留まったのだと思う。
企画室長と勤労部長が本社人事に直談判に行って『取り返してきた』というのである。
山田専務が仰るように、若し『中國班』に行ってたら大変だったかも知れぬし、
或は全く新しい職制だったので『オモシロかっ』のかも知れぬが、
発本の企画室ということになって、私の『現役生活の将来』が決まったし、
それ以降も最後まで二輪事業に携わることになったのである。
★今年は3月には88歳の米寿を迎えるのだが、私の80年の人生を要約すると
 ● 10~20歳代    野球一筋
 ● 20~30歳代    勉強期間
 ● 30~40歳代    新しいシステム構築
 ● 40~50歳代    経営再建
 ● 50~60歳代    事業経営
 ● 70~80歳代    引退後の年金生活
 こんなことかなと思う。
家庭は?』と聞かれたら、
 20歳代は熱烈な恋愛を経験し
 30歳代にはいい子供が出来て
 40歳代からこの三木に定住して
 50歳代には子どもも独立して孫も生まれ
 60歳代は人生で初めてお金に余裕が出来て
 
 70歳代以降はパソコン、ネットの世界に出会って
 今の『新しい生活』を結構楽しんでいる。
 『異種・異質・異地域をみんな繋いで、楽しくいい時を過ごそう
 という『基本コンセプト』のNPO The Good Times を設立して、
 メンバーたちといろいろ交流しているからである。
 ネットの世界は世界と繋がっているし、
 幾ら上手に利用してもお金が掛からないところがいい。
 このブログを転載するFacebook やTwitterには
 遠くアメリカからも『いいね』や『コメント』を毎日頂いているのである。
 ひょっとしたら、『現役時代』よりオモシロいのかも知れない。
 3月には88歳米寿を迎えるのだが、
 果たして、いつまで続くのだろうか?
2021年2月3日

好きな人嫌いな人   雑感

投稿者 : rfuruya

★ 現役時代から『八方美人』で生きてきて、

  身近にお付き合いのある人たちには、
  あまり『人の好き嫌い』は言わないことにしているのだが、
  それは直接関係ができる人たちとの間では、
  『』を作らぬほうが、何となくやり易いかなと思っていたからだろう。
 世の中には、自分とは直接関係のないような人もいる。
 例えば、テレビに出てくる『人気スター』や『政治家』などはその部類に入るのだろう。
 そんな人たちとは、直接繋がったりはしていないので、
 そんなに詳しく解っている訳ではないのだが、
 何となく『好きな人』と『嫌いな人』ができるから不思議である。
 政治家で言えば『安倍さんは好』だが『二階さんはどうも』と思っていた。
 なぜ?と理由を聞かれても困るが、何となくそんな感じなのである。
★なぜ、突然そんなことを? と思われるかも知れぬが、
 昨日、こんなニュースがネットに載っていた。
  
★「S」とは、世耕弘成参院幹事長、「H」は林芳正元文科相 、「K」は河野太郎行革担当相だそうである。
 林さんはよく知らぬが、世耕さん、河野さんは『好きな政治家』の範疇に入ると言っていい。
 特に、世耕弘成さんは直接は何の関係もないのだが、
 その経歴は、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業、NTTに入社。
 NTTからの派遣でボストン大学コミュニケーション学部大学院へ留学し、
 企業広報論修士号を取得、帰国後、本社広報部報道部門報道担当
 などとあって政治の道に入ってからも『広報の専門家』なのである。
 2006年9月に、私はこのブログを始めているのだが、
 直接のきっかっけは、当時高槻市役所に総務省から出向されていた
 『樋渡啓祐』さんの『blog,blog,blog』という記事を見たからなのだが、
 もう一つの『決め手』になったのは、
 政治家の『世耕弘成』さんがその時点で、ブログを既に始めておられて、
 『広報の専門家』がやってるのだから、やってみようと思ったのである。
     
 自分が若い頃『広報の世界』に出会っていろんな経験もしたのだが、
 『広報の世界』は『独特のいいモノ』がいっぱいだし、
 広報に興味のある人は、『オモシロい人』のはずだと信じている。
★ そんなこともあって『世耕弘成』さんの動向はずっと注目しているので、
 たまたま、この記事は『もう一つ好きになれない二階さん』との関連で、
 記事には、
「世耕さんは、次の衆院選で二階さんの選挙区である和歌山3区から、鞍替え出馬する意思を固めているとか。 世耕さんは選挙に自信があって、二階さんが相手でも、『勝てる』と踏んでいるらしい」とあった。
 世耕さん、今度は衆議院に立候補なのだろうか?
★テレビの人気スターでは
 『さんまやタモリ』は好きだが、どうも『たけし』は好きになれないし、
 プロ野球選手では、『長嶋』は好きだったが『』はもう一つだった。
 その理由を聞かれても、自分でもよく解らないが何となくそうなのである。
2021年2月2日

開発途上国・市場開発プロジェクト その3   自分史

投稿者 : rfuruya

★この開発市場プロジェクト室という新しい職制は、

 東南アジアの市場調査に始まってのスタートで、
 自らが企画し、自らがその渦中の中にいたようなものだったが、
 カワサキにとっては合弁事業の推進など全く『新しい事業』で、
 その段階までは、どちらかというと『私の得意分野』だったのである。
 タイに於ける合弁会社 Glory Kawasaki の設立までは非常に順調だったし、私の出番も多かったのだが、
 さて『CKDビジネス』を推進するとなると、これはなかなかムツカシイのである。
タイ市場にバイクを売る』ということは間違いないのだが
そのためには『タイでバイクの部品の製造』をしなければならないのである。
新しい工場で『何を造るのか』を決めなくてはならないのである。
これは私の最も苦手とする分野で、そんな細部のことをきっちりと決めるのは苦手だし、
何よりもバイクの部品について、詳細には何も解っていないのである。
私自身は合弁会社の設立には色濃く関与したが、
それ以降は殆ど何もやっていないのである。
★前回ご紹介をした、タイ市場の担当だった小池博信さんの自分史の中に
 こんな一節がある。
  
このように書かれているが、正直このことは『覚えていない』のである。
ただ、『車種開発関係を除いては現地で解決されたい』と返事してるのだが、
その車種開発については、間違いなく私は動いているのである。
長い二輪事業の担当ではあったが、『新機種開発』に関しては殆ど関係していない。
バイクの技術的な部分がよく解らかったし自信がなかったからである。
ただ『私自身』が単身当時の技術本部にお願いに行った機種が一機種だけある。
それで世の出た車が、あのGTOなのである。
  
★ 当時のタイ市場では、カワサキの販売網は農村地域に限られていて、
 首都バンコックでカワサキを見ることはムツカシイような状況であった。
まだタイ市場を調査中の頃のことだが、
なぜ『バンコックで売れないのか?』と 販売担当のチャンさんに聞いた時の話がこうだった。
それはモペットを持っていないこと、100ccのバイクにはヒット商品になるような『いい商品』がないというのである。
では、どんなバイクなら売れるのか?
その答えは、『兎に角速い車、メータだけでも120キロ出るバイクがあれ』というのである。
この話は私のアタマの中に、明確に残っていて、
その後合弁会社が設立された後、当時の技術本部長の大槻幸雄さんに
110㏄ぐらいで、兎に角速く走るクルマを』とその開発をお願いに行ったのである。
 大槻さんはなかなか『うん』と言って頂けなかったのだが、
 私が粘るものだから、ヨコにいた松本博之さんが
 『私がやりましょう』とその開発を引き受けてくれたのである。
             
     そしてこのような話に続いていくのである。
     タイ市場向けというかバンコックで売れる 新機種開発なのである。
  
      ホントに空前のヒット商品になったのだが、
 発売されたのは1979年なのである。
  カワサキの二輪事業の長い歴史の中で
 飛び抜けた台数が売れたのが『GTO』なのである。
 だが、CKD市場向けなので明石工場では『部品出荷』だから
 台数の記録が残っていないのである。
 その時には既に私は国内市場担当に異動していたので、
 バンコクの町を走るGTO は見ていないのだが、
 タイの首都バンコックがGTOで溢れたそうである。
 私がホントに『たった1回だけ関わった』新車開発なのだが、
 松本博之さんがいいエンジンを造ってくれたし、
 外観デザインなどについては、タイ市場の人たちが熱心に関わってくれたのである。
           
 小池博信さんは『自分史』の中でこのように書いているし、
 その『自分史』の 標題も『豪華川崎GTO青春物語』としているのである。
 この中の記述にもあるが、販売台数も倍増以上になっているし、
 ひょっとしたらインドネシアはタイ市場以上に売れたかも知れないのである。
 私にとっても記念すべきヒット商品で、
 よくあの時松本博之さん、引き受けてくれたと感謝である。

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