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2021年4月4日

戦前の子供時代  自分史  その4 

投稿者 : rfuruya
★昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争が始まった時は小学校2年だった。
『天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。』
 こんなムツカシイ『開戦の詔書』が出されて
 毎月8日は『大詔奉戴日』として校長先生がこの詔書を読まれて、
 運動場で直立不動の姿勢でそれを聞いていた。
 そんなこともあったのか、小学校時代にも『こども・こども』したようなところがなくて、
  自分で言うのもおかしいが、結構確りとした小学生だったような気がする。
 小学校に入学した時の記念写真である。
    
 その大東亜戦争はマレーシヤあたりから始まって、
   翌年の2月には『シンガポールが陥落』したし、その後も連戦連勝で、
 フィリッピンも今のインドネシアも日本軍の手中になった。
 小学生3年生の時だと思うが、白地図に日本が占領したところを赤く塗っていく教科があり、どんどん赤いところが増えるので、
 当時の朝鮮・満州はもとより東南アジアがどんどん赤く塗られて、
 これは『世界中が日本になる』などと思ったのを覚えている。
 こんな感じで、どんどん赤く塗っていったのである。
 こんなことが続いたので、地図や地理に興味を持つようになったのかも知れない。
 
★戦争当初はこんな感じだったので、確か小学校3年生までは戦時中ではあったが、夏・冬の休みの明石帰省は続いていたのである。
 京城から釜山までも、下の関から神戸までも1等車の展望車に乗っていたし、
 
関釜連絡船も金剛丸とか興安丸など豪華客船の1等船室での旅だった。
 
 こんな贅沢な経験があるのは、こどもの時だけなのだが、
 父には旅の途中での行動を結構厳しく躾けられたのを覚えている。
 こんな夏・冬の明石帰省は3年生までは続いたのだが、
 確か4年生の春に関釜連絡船がアメリカの潜水艦の魚雷で撃沈されてからは
 流石に終わってしまったし、
 その後は戦局も一転負け戦に転じて、本土空襲などもあって、
 昭和20年8月15日の終戦に繋がっていくのである。
 その年が中学1年生だった。
★『子供時代』には、父母は私には細かいことは言わずに自由放任だったが、
 今思うと父母に遊んでもらったことは殆どないし、
 母方の祖父も、父方の祖母も孫に対しても毅然とした態度を崩さなかったように思うのである。
 子どもを甘やかして育てない、そんな時代だったのかも知れない。
 戦時中ではあったが、朝鮮には空襲もなかったし疎開などもなく、
 食糧事情なども何の問題もなくて戦争をしている実感は殆どなかったが、
 小学生5年生頃からは、兵隊さんが来て『教練』があったりした。
 アメリカの飛行機は飛んでは来たが、爆弾などは落とさなかったのである。
 そういう意味では、内地のような戦時中とは全く違ったものだった。
★ 父は特に職など持ってはいなかったのだが、
 何故か経済的には何の問題もない生活を送っていたのである。
 父は家で絵を画いたりすることも多く、
 大きな絵は展覧会にも出したりしていた。
 明石の出で遠い姻戚に当たるという橋本海関に書を習い、
 その息子の橋本関雪に絵を習ったのが自慢だった。
 当時、橋本関雪は日本画の大家として第1人者だったのである。
これは関雪の絵なのだが、そんな関係で『関雪の絵』は家にいっぱいあったようである。
  
  そんな関雪の絵を見て、いろいろと同じような絵を画いていた。
  この絵は父の絵なのだが、なぜか戦後2番目の妹の家にあって、
  甥っ子がネットにこんなことをアップしていた。
 
 この絵は戦後、引き揚げてきてから画いた小さな絵だが、
 これは今も我が家にある。
  
★ 戦時中だったから小学校時代は、野球は全く無縁でボールを握ったこともない。
 スポーツと言えば冬はスケート、夏は水泳だったと言っていい。
 スケートは前回書いた『将忠壇公園の池』で冬中毎日やっていたし、
 水泳は学校にプールがあって、結構厳しく指導された。
 25メートルプールだが石ころを20個置いて戻ってきたら一個落として無くなるまで、毎日1000メートルは泳いでいたのである。
 先生がたの子供に接する態度も、今の時代と違って厳しかったように思う。
 クラスは男の子ばかりだったが、
 全体によく出来た生徒が揃っていたように思う。
 『級長』などもやらされたし、京城府伊賞なども頂いたので『よく出来た』ほうにいたことは間違いないが、
 『がり勉』などした覚えは全くない小学校時代だった。
  
 これがソウルオリンピックの時に見つけて私が写真を撮ってきた
 桜ケ丘国民学校である。
 左手前の建物のところは体育館だったのだが、
 この建物は新しく建てられたものでその向こうにあるのは昔そのままの学校で懐かしい。
 当時の内地の木造の小学校などとは違って、冬はスチーム完備の綺麗で立派な施設だった。
 当時の外地での日本人の生活は、平均して内地よりは水準が高かったのだと思う。
★ 当時の私の家族は、私の下に3人の妹がいて、
  終戦時には4人目の子供が母のお腹にいた、そんな6人家族だったのである。
 妹が言うには、家族で外で食事をする機会も多かったのに、
 私だけは、夕方おそくまで友達と遊んでばかりで『連れて行って貰えてな』ようなのである。
 不思議なぐらい妹と話をした記憶などもない。
 小学校時代の記憶と言えば、『友達と外で遊んだ』ことが殆どで
 家に『シロ』という秋田犬がいて『シロ』と遊んだことなど、
 冬になると『キムチ』を幾つも甕に漬けるのに専門の女の人が来て、
 白菜の間にいろんなものを挟んで漬けていたのをなぜかよく覚えている。
 父とはそんなに話もしたこともないのだが、
 何となく父の背中を見ながら育ってきたようにも思う。
 一言で言うと『ハイカラな父』だった。
 背広は神戸元町の老舗『柴田』のものというのが自慢だったし、
 絵も字も書き、ヴァヨリンを弾いたりもした。
 家の造りなどもサンルームもあったし、結構大きな温室もあった。
 風呂は6畳ぐらいもあって広かったし、何よりもトイレが水洗だった。
 暖房も全室スチームがあって、冬中切らさず石炭を焚き続けていて、
 これは『石炭を夜中にくべる・焚き屋さん』がいてボイラ室だけは外から合鍵で入れるようになっていたりした。
 戦前だったが電蓄電気冷蔵庫もあったし、
 当時の内地の家などと比べると、所謂・近代的なものは殆ど揃っていたのである。
 そんな贅沢とも言える暮らしではあったが、
 伯父と違って父は外では遊ばなかったそんな父を見て、
 私は子供ながらに秘かに父を尊敬して、その背中を見て育ったのかなと思ったりするのである。
 こどもの頃の、ほんの一瞬のちょっと贅沢な生活だったのだが、
 それを『経験できたこと』は、
 それがどんなものかと解っただけで『よかったかな』と思っている。
 戦後の一転した生活や、自分で独立した『三木での生活』が
 戦前の生活に比べて『劣っている』とは決して思わないのである。
 88年、いろんなことを経験できたことが『私の財産』であることは間違いないのである。
2021年4月3日

トカイナカ   雑感

投稿者 : rfuruya
 
★『トカイナカ』って、ご存知ですか?
 私はこの4月1日に配布された三木市の広報誌で初めて知りました。
 その表紙に『永住しやすい「トカイナカ」三木市が2位に選ばれました
 と書かれていたので、
 ネットでチェックしたら、三木市のホームページにも、
 そのほかにもいろいろて出てきました。
  
 『家賃・病院数・診療所数・老人福祉費・小売店数・サービス業種』などから、
 それぞれの点数が合計されて、
 三木市は関西で泉佐野市に次いで2位に入っているようです。
  
  確かに三木は家賃も安いですし、病院の数も多くて、
 それ以上に『老人福祉費』が高いようです。
 これに『公園』とかスポーツ施設・ゴルフ場などの要素が入ると
 間違いなく他市を圧倒するのだと思います。
★ 『永住しやすい・都会に近いイナカ』という意味では、
 三木市はいろんな面で、最高にいいと私自身は思っています。
 近畿地区は若い頃の担当地域でしたから、
 どこの地域もよく解っていますが、
 ここに登場した 泉佐野・大和郡山・奈良・岸和田・明石 などよりは
 『三木』の方が圧倒的にいいと思うのは『住めば都』だけではなくて、
 三木には『世界一』や『日本一』もいっぱいあります。
 三木総合防災公園のビーンズドームやE-Defence は世界一でしょうし、
 金物・山田錦日本一と言われていますし、
 私が勝手に思っている『日本一』は、
 無料駐車場の広さ公園の広さテニスコートの数と広さなどがあります。
 25もあるゴルフ場の数で解るように、豊かな自然がありますし、
 道の広さと共にアメリカのような町だと思っています。
 ただ、三木の地の方たちは『単なる田舎町』と思っている方が多くて、
 『トカイナカ・関西2位』になったことを機会に
 『我が町・三木』を見直す機会になればと思っています。
  
★以下の地図は三木市と泉佐野市の同じ縮尺の地図ですが、
 ご覧になってもその広さは歴然ですし、
 自然の多さも比較になりません。
  
  
★『トカイナカ』で検索してたら、
 あるブログにこのように書かれていました。
 これはなかなか、『いいところ』をついているように思いました。
1. 都心まで自宅から1時間程度
2. 距離にすると15〜30キロ圏内
3. バス便も多いが著しく不便を感じるほどでもない
4. スーパー、医療機関、教育機関などのインフラは普通に確保されている
5. 自然が案外多い
6. 畑や田んぼも多く、少しだけ自給自足している人も多い
7. 川や里山で遊んだりすることが日常になる
8. 笑っている住人が多い
9. 坂が多いが眺望や通り抜ける風が良い
10.人間以外の生き物も多い
2021年4月2日

戦前の子供時代  自分史  その3

投稿者 : rfuruya
★ 小学生の頃から、昭和20年(1945)終戦の年まで、
 この時は中学1年生だったのだが、朝鮮京城・今のソウルにいた。
 当時は朝鮮ではなくて日本だったし小学校は国民学校と称していたが、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘の『桜ケ丘国民学校』に行っていたのである。
 こどもの頃育った京城は私にとっては懐かしい故郷なのだが、
 当時の京城も間違いなく大都会ではあったのだが、
 その人口は100万人ぐらいで、
 現在の1000万人を超えるソウルとは全然違った街だったのである。
 懐かしい京城の街を思い出しながら、Google マップで今のソウルを眺めてみたので、
 自分のために纏めておきたいので、お許し頂きたいと思います。
★ 今は全く変わってしまったが、
 将忠壇公園の池に冬になるとスケートに行っていたので、
 まずそこからGoogle Map を拾ってみたのである。
 その場所は丸い大きな屋根のあるところで、
 そこから逆に我が家の方向を辿ってみると
 上のグランドが見えるところが、『桜ケ丘小学校』で、
 我が家はそのすぐ右側あたりの住宅地だったのである。
  
 ただ、当時はこの辺りは山ばかりで、
 我が家のあったあたりが山との境界線だったのだが、
 今は完全に家が密集してしまっている。
★ これがその小学校である。
  
 そして、これは外壁や門構えは変わってしまっているが、
 家は間違いなく、私が小学校時代を過ごした我が家なのである。
 瓦の横は銅板が張られているし、煙突のある下はスチームのボイラー室で、
 間違いなく『我が家』なのである。
  
 二つとも、私が写してきたものなのだが、
 なぜこんな写真があるのかというと、
 1988年『ソウルオリンピック』の時に、オリンピック委員会から正規の招待があって、
 オリンピック会場のすぐ横を流れる『漢江』で、世界のチャンピオンを集めて、ジェットスキーのデモンストレーションをやったのだが、私はその団長を務めたのである。
 その時の1日、JJSBAの苧野豊秋会長と一緒に、かっての家を探しに行って、 見つけて写真を撮ってきたのである。
  
 これが門構えの奥、我が家の玄関だったのだが、
 果たして、どんな形になっていたのだろう?
      
   写真には私は写っていないが、
   左は母の長兄・大阪市大の教授をしていた楠見一正伯父である。
★ 戦前の京城は人口100万人だが、
 現在のソウルの10分の1以下だから、
 まだ家などもそんなに建ってはいなくて、
 我が家の上あたりは山地だったし、
 漢江の辺りも、山野で家などは建っていなかったのである。
 
 この地図にある左から印をつけたところが
 『京城駅』・『南大門』・ 『東大門』
 そして其の下に並んでいるのが、『将忠壇』と『桜が丘』なのだが、
 それはGoogle マップでみると
 これが京城駅
 
 これが南大門
 これが東大門
 そしてこれが今の将忠壇公園公園
 そして、ここが小学校の前の大通りで、
 確かに道幅は広かったのだが、まだ地道で、
 この辺りは閑静な住宅街だったのに、賑やかな街に変貌してしまっていて、
 30年ちょっと前、ソウルオリンピックの時には
 間違いなく残っていた我が家あたりも
 今はこんなビル街に変わってしまっているのである。
★ 世の中75年も経つと全く変わってしまうものである。
 これが今のソウルだが、
 私が小学生の頃の我が家は京城の郊外に近い新興住宅地だったのだが、
 今観るとソウルの中心と言ってもいい位置である。
 左のマルが『ソウル駅』、真ん中の印が『我が家あたり
 そして、右が『オリンピック公園』なのである。
 漢江の南側など全くの荒れ地か野原だったのに、
 今はこのような大都会なのである。
 
★ それにしても Google Mapなどネット の機能 は凄いなと思う。
 京城には中学生の1年の夏までいたので、大体のことは解っていて、
 いろいろ調べてみると、いろいろと解るのである。
 これが戦時中の京城三越だが、
 
それは殆どそのまま残されて、 こんな形になっている。
 南山にあった朝鮮神宮は、よくお参りしたのだが、
 今は公園として残っているようである。
 
 そして、これが朝鮮総督府で、前の韓国風の門はなかったが、
 そのまま残っている。
 
 今の韓国大統領公邸の青瓦台のところに、
 朝鮮総督公邸もあって、たまたま小学校のトモダチに小磯総督のお孫さんがいて、
 『おじいちゃんがいる場所を観に行こう』をとわざわざ見に行ったことを覚えている。
 それは総督府のずっと奥の方だった。
 
  まずは、こんな当時の『京城』について纏めてみた。
2021年4月1日

春は成長の時期 & 育てるということは

投稿者 : rfuruya
★4月になった。
 我が家の薔薇たちは、今年の新芽をいっぱいに付けている。
 いまこんな状態である。
 
 同じ場所だが、2月にはこんな状態だったのに、
 今は葉がいっぱいで、ちょうど蕾も付きだした時期である。
    沢山の枝が交錯してるが、実は4種類の『蔓バラの枝』なのである。
 自分なりに『絵を画く心境』で枝を誘引している。
 ちょっと咲く時期も違うのだが、それでも4須類の薔薇がこの一面に咲く。
 木ばらも同じような状態だったのだが、
 お解り難いとは思うが、こんな風に枝を切り詰めた、
 所謂『整枝』の作業をやったのである。
 
 折角、伸びた枝だが、結構思い切って切っている。
  
 これは切る前だが、
 折角、伸びている枝だが、内側に向かっている2本は切ってしまうのである。
★ 『育てる』ということは、
 どれを『育てるのか』という『育てる目標』を明確にしないと、
 『全部育てよう』とすると形が整わないし、確りとは育たないのである。
  人間の『入学試験』みたいなもので、
  『試験に通った人』だけが『育てる目標』となるのである。
  まずは冬の時期に『育てる枝』を選択して、
  4月には、そこから芽生えた枝も、不要なものは切り落としてしまうのである。
  これは結構『面倒な作業』で、解っていてもサボってしまうのである。
  今年は頑張って、やれてるのは『コロナ様様』で、
  有り余る時間があるからなのである。
★ 今年は、冬の肥料も確りやれたし、
  『冬剪定』も出来ている。
  いつもはこの辺りで、サボってしまうのだが、
  今年は4月に『整枝作業』を始めたのである。
  つる薔薇など、結構枝が長いから、なかなか大変だが、
  何日か掛るが、昨日はその第1日目だったのである。
  あと1ヶ月、5月には『綺麗な花』を見ることが出来ることを
  祈っている。
2021年3月31日

戦前の子供時代  自分史  その2 

投稿者 : rfuruya
★ 子供時代に『大きな影響を受けた人』と言えば、
 それは『伯父と父』だと言っていい。
 これは戦前の私の子供時代の伯父と父なのだが、
 写している場所は、伯父がオーナーだった『明石の錦江ホテル』の庭である。
 いつ、どんな時に写した写真なのか定かではないのだが、
 結構な正装である。
   
 当時、伯父にはこどもがいなくて、
 伯父は私を『古谷家の跡継ぎ』として可愛がってくれて、
 あちこちに連れまわされたので、
 私は父以上に伯父との会話が多かったように思うのである。
 こどもの頃は、朝鮮京城府に住んではいたのだが、
 小学生の頃、夏・冬の休みには毎年明石に里帰りしていたので、
 私は戦前の日本というか、当時は『内地』と呼んでいたのだが、
 戦前の明石も、神戸の街もよく覚えているのである。
 小学生だったのに、伯父に神戸花隈の夜の席や、有馬温泉での芸者さんが沢山の席などにも連れていかれて『大人の遊び』も見ているのだが、
 伯父の遊び方は、結構派手であったことは間違いないのである。
 そんな夜の世界だけではなくて、当時伯父が檀家総代をしていた
 明石藩松平家の菩提寺・長寿院などにも連れていかれて、
 こどもの頃にお上人の話なども聞かされたのである。
 伯父は当時は朝鮮の南鮮合同電気という今の韓国をテリトリーとする
 大企業であった電力会社のオーナー副社長だったのだが、
 現地に来るのは数回だけで、ずっと明石に居を構えていて、
 明石では『錦江ホテル』という結構大きなホテルの経営者でもあった。
 その立地は当時の『中崎海岸』に位置していて、
 松並木のある素晴らしい景観で
 夏休みなどそこを拠点に私は海水浴など楽しんでいて、
 ホテルにいた従業員のお姉さん方にもいろいろと可愛がって頂いたのである。
 アメリカ製のクルマが止まっているが、
 これはリンカーンか、パッカードで伯父の自家用車だったのである。
 勿論、運転手さん付だったのだが、よく乗せて貰ったし、
 車にラジオがついていたりしてビックリしたのである。
 車などの名前も、その当時覚えたものである。
   
 こんなパンフレットもあったし、
 
 装備や調度品や庭なども非常に凝ったホテルで
 当時から外人客なども訪れていたのである。
 ホテルにあった天婦羅やでよく天婦羅を食べたのも覚えている。
 
 戦前のことだがクルマもあったし、
 上の丸の家の庭には、私のためにプールを作ってくれたりした伯父だったのである。
 神戸に行くにも『車で行く』ことが多かったし、
 伯父の家には『爺や』もいて、私を明石公園の魚取りや明石川での鰻の子を採りにつれて行ってくれたりした、
 そんな上流家庭の生活だったのである。
 子どもの頃はそんな環境で伯父に可愛がって貰ったりはしたのだが、
 少々『派手に遊ぶ』伯父を見ていて何となく子供心に、
 『お金があることはあまりいいことではないな』とホントにそう思ったりもしたのである。
 逆に父は一切外では遊ばなかったように思うし、
 子どもの私に対して『金には厳しくて』一切小遣いなどは与えてくれなかったからかも知れない。
 そんな環境で育ったからか、戦後は一転金などない生活になるのだが、
 『お金が欲しい』とか『金を貯めよう』などと思ったことは一切なくて、
 『給料が安い・高い』なども全く関心がない生活が続いているのである。
  二人の子供たちが独立するまでは、家内は専業主婦だったし、
 貯金なども一切なくて『家計は苦しい』時期が続いたのだが、
 その当時もホントに『金には無関心』だった。
 それは何となく『お金があることはあまりいいことではないな』と
 こどもの頃思ったことが、
 そのまま続いているのだと思う。
★ 父は私が高校3年生の1月に亡くなってしまって、
  それ以降、伯父には大学入試にも世話になったのだが、
  その伯父も大学3回生の時に亡くなってしまうのだが、
  大学卒業後の就職が川崎航空機に当時の社長砂野仁さんのコネで入社できたのは、伯父のお陰なのである。
  前述した『錦江ホテル』は、その後大東亜戦争が始まってから、
 軍の指示で明石の川崎航空機に『軍の人たちの宿舎』として接収されることになり、
 その当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さんで、
 そんな関係もあって伯父は砂野さんとその後も懇意にしていたのである。
 結構な遊び人であった伯父だが、『人の面倒見』は非常に良かったようで、
 戦後の食糧難の時代に、酒などもなかったのになぜか伯父の家には酒などもあって、砂野さんともよく家で飲んでたし、
 後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんは京都の方なのだが、
 戦後明石の相生町で工作所を始められた際、伯父がその場所を提供したのだと思う。
 その土地は伯父や父の妹夫婦が住んでいた場所なのだが、
 二人とも戦災で亡くなってしまって、戦災で焼失したままになっていた場所なのである。
 私は戦後1945年12月に、引き揚げてきて翌年4月神戸一中に入学するまでの3か月間、伯父に連れられてしょっちゅう、相生町のその場所に来ていたので知っているのである。
 戦災で亡くなった叔父は『錦江ホテルの支配人』をしていてその家にはお稲荷さんがあったのをよく覚えているのだが、
 そのお稲荷さんは今でも残っているのである。
  かっての錦江ホテル跡は、今では『明石勤労福祉会館』となっていて、
 この写真の左上にあるのがその『お稲荷さん』なのである。
 
 私の小学生時代の懐かしい想い出『錦江ホテル』の辺りは、
 今は海の方に大きく埋め立てられてしまって陸地になり、明石市役所などがあるが、
 私の子供の頃は、そこは海だったのである。
 
★ 夏冬明石に里帰りをしていた小学生低学年の時代の想い出は
 朝鮮京城よりはむしろ内地の想い出の方が懐かしいように思うのである。
 ただ、当時の内地の印象は『旧くて小さい家が多いな』と思っていたのが正直な感想で、
 当時の京城の家はみんな、内地の家に比べると新しくて、敷地が大きい家ばかりだったように思ったし、
 神戸の市電や、神戸の三越よりも、京城の市電や京城三越の方が綺麗で大きいと思ったりしたのである。
 内地の小学校は木造だったが、京城の小学校は鉄筋コンクリートで冬はスチームが通っていたし、学校に当時からプールもあったりして、
 全般に近代的だったなと思っているのである。
そんな朝鮮・京城の当時の外地の想い出は次回に。
2021年3月30日

コロナ対策 どうなるのだろう?

投稿者 : rfuruya

★ ここにきて、収まり掛けていた関西でのコロナが急増傾向である。

 大阪では3日連続で300人を超え、東京を上回ったという。
 兵庫県では新たに93人とあるが、
 神戸市45人、尼崎市10人、西宮市7人、明石市7人、姫路市5人
 とやはり大阪に繋がっている『通勤圏』が殆どで、
 『三木市』の名前はない。
 
 『三木市』のホームページを見ると
 三木市はなぜか『加東健康福祉事務所管内』として公表されるようになっていて
3月1日付の発表より、三木市の新たな感染者数の増加はありません。 』
と公表されているので3月の新発生者はゼロということなのだろう。
★4月になると高齢者に対する『ワクチン接種』が始まるので、
 それまで『頑張ろう』と思っているのだが、
 これも市のホームページを見ると、『少し遅れている』ようである。
 
 然し、遅くとも4月中には『ワクチン接種』をして貰えるだろうから、
 あと1ヶ月の頑張りである。
 結構ちゃんと、『コロナ対策』になっているような日課をこなしている。
 殆どと言っていいほど『人との会話』はないし、
 この半年『外食も皆無』である。
 それなのに、あまり寂しくもないのは、Facebook でのネットのやり取りがあるからだろう。
 昨日もアメリカの孫のサッカーの実況を観ていた。
  無茶苦茶攻められて18本のシュートを打たれたが、
 見事セーブして2-0の勝利だった。
  
★ 昨年春以来の『私のコロナ対策日課』だが、
 ● 朝は三木総合防災公園を走る
 ● 家内の買い物があるとスーパーまで付き合う
 ● Facebook でのやり取り
 ● ネットで囲碁を打つ
 ● 庭仕事をする
 ● 結構確りと毎日ブログをアップする
    ぐらいのことなのだが、退屈せずに毎日が過ごせている。
 こんな日課なので、この1年『マスクをした時間』は殆どない。
 スーパーに行った時だけと言ってもいい。
 車の中に3枚のマスクがあるが、これは昨年3月以来のもので、
 『3枚のマスク』で間に合った三木の環境に感謝である。
  私だけではなくて、マスクをしていない人が殆どである。
  
 5月からは 新しい日課がこなせるようになることを期待している。
2021年3月29日

戦前の子供時代  自分史  その1   

投稿者 : rfuruya

★ 88歳の今現在に近いところから、逆に若いほうに向かって書いてきた自分史だが、
 戦後の中学生からの学生生活を終わって、
 いよいよ生まれてから小学生だった『戦前の子供時代』に入ることになった。
 この世に生を受けてから小学校を卒業するまでの『こどもの頃』は、
 ちょうど大東亜戦争が終わる昭和20年までで、
 当時は日本であった朝鮮京城(今のソウル)にいて、
 それ以降の人生とは全く違った『異質の時代』を過ごしたのである。
 生まれ故郷は兵庫県明石市上の丸で、それは昭和8年(1933)3月なのだが、
 3歳の頃には朝鮮太田市にいて、小学校に入学当時には既に京城府に移っていて、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘という高級新興住宅地で、
 通った小学校は京城桜ケ丘国民学校だったのである。
★ なぜ、朝鮮などにいたのか?
  それは祖父・古谷虎雄が起業した『電気事業』を引き継ぐために朝鮮に渡ったのである。
  祖父・古谷虎雄のことにについては、
  ネットの中にもこのような記述で残っていている。
  
  そして、このように記述されている。
   
 更に こんな記述も残されている。
  
祖父・古谷虎雄は私が生まれた時は既にこの世にはいなくて、私は知らないのだが、事業家で一代で財を成したようである。
 早く亡くなってしまったので、伯父・古谷修一も若くして『太田電気』の社長になったようだが、
 その経営の実は、祖父時代からの重役陣や番頭さんであった竹内さんなどで実際には行われていたのだと思う。
 伯父はオーナー社長で明石に住んでいたので、
 その代わりに父が太田市の現地に赴いたのではなかろかと思っている。
 その太田電気は、昭和12年(1937)3月に朝鮮総督府の政策で、
 6社の電気会社が合併して『南鮮合同電気・株』となり、
 当初の本社は釜山に置かれたようだが、
  
 その後本社が京城(今のソウル)に移った時に、
 我が家も太田から京城に移転したのだと思うのである。
 南朝鮮の6社が合併してできた『南鮮合同電力株式会社』は、現在の日本の『各地電力会社』に相当する位置づけで、
 現在の韓国に相当する地域を担当した『大企業』ではあったのだと思う。
 その『南鮮合同電気』の経営陣は以下の通りなのだが、
 伯父・古谷修一オーナー副社長として経営陣に加わってはいるが、
 この時も伯父の居住地は兵庫県明石市だったので、
 年に何度かは京城府の我が家に来ていたが、
 その時の伯父の移動は、当時の新聞の『人事往来』に掲載されたりしたのである。
  
 以上が私の憶測も入ってはいるのだが、
 戦前に朝鮮京城にいた理由と経緯なのである。
★私は昭和8年(1933)3月に明石市上の丸で生まれている。
 ここは祖父の別荘だったところだが、父の新婚時代はここに住んだのだと思う。
 この写真に写っているのは、祖父・祖母・叔母など祖父一家なのだが、
 伯父も父も未だ多分早稲田の学生時代なのである。
  
 これは 明石市細工町20番地でここが住居だったのだと思う。
 今も『魚の棚』で有名だがあの辺りが細工町である。
 小学校時代にはここが私の本籍だった。
 伯父一家も私が小学校に入ったころはここに住んでいたのである。
 
★ これらはみんな祖父が残した遺産なのだが、
 祖父の偉業を偲んで、伯父は祖父の銅像を上の丸の庭園に建てていた。
 これがその『祖父の銅像』なのだが、
 私は子供の頃から、この銅像で祖父と対面していたのである。
 不思議に戦災からも免れて、これは今も少しだけ残っている明石上ノ丸の本家の一隅に残っているものである。
    
★ こんな経緯で、私の少年時代は京城(今のソウル)にいたのだが、
 父は何をしていたのかはよく解らないのである。
 兎に角、勤め人ではなかったし、と言って自分で事業などもしていない。
 どのようにして生計を立てていたのかも知らない。
 ずっと家にいて、好きな絵を画いたり、旅行に行ったりしていた。
 古谷家の次男なのだが、祖父の遺言で伯父と財産分けなどしていなかったようなので、
 何もしていなかったが『暮らしに困る』ようなことは全くなくて、
 まさに悠々自適の生活だったのだと思う。
 伯父の一家には当時は子供がいなくて、私が『古谷家を継ぐ』立場にあったからだと思うが、
 こどもの頃から伯父には『古谷家の総領』として育てられたようなところがあった。
 逆に、父は私に特に何も言わなくて自由に育ててはくれたが、
 金には何故か厳しくて『こどもは金など持つな』ということだけを私は覚えている。
 私は生来そんなことで『小遣いもお年玉も』貰った経験がないのである。
 これは私の3歳の頃のそんな父との写真である。
 ほかにもいっぱいあったのだと思うが、戦災で焼けてしまったし、
 朝鮮から引き揚げの時に持ち帰らなかったので、
 父と二人の写真はこれだけなのである。
  
  これも同じころの写真だが、
  この頃も、間違いなく『良家のぼん』のような感じである。
     
★ 母は岡山の出である。
 父は52歳で亡くなってしまったが、母は103歳まで生きて、
 戦後、私と妹4人を育ててくれたのだが、103歳まで長生きした。
 これは若い頃の写真だが、多分結婚後直ぐの頃だと思う。
 明治42年生まれの明治の女で確りしていたと思うが、
 私には何にも言われたりはしなかった。
  
 これは先の写真にもあった、明石細工町の伯父宅での写真だが、
 母に抱かれているのが私である。
 一番右は母の兄・楠見幸信ご夫婦で、真ん中は父の妹の叔母ご夫婦、
 そして本家の祖母と伯母、それに書生の方がいて、
 当家の主、伯父はなぜか家の中である。
 
 母は岡山・楠見家の出で、
 楠見幸信は次兄・慶応黄金時代・宮武・山下・水原の頃の一番センターで、
 昭和の初期の未だプロがあったのか、なかったのか?
 当時の全日本のメンバーで、戦後は国鉄スワローズの初代総監督なのである。
 これは、岡山の楠見家での写真である。
 祖父・楠見忠三郎も写っているし、母の長兄・楠見一正伯父もいるし、そのお子様も
 母の一番下の弟、昭三叔父も未だ子供時代である。
 母方の楠見家は男3人女3人の6人兄弟で、母は3番目で長女なのだが、
 男兄弟3人は3人3様、長男の一正伯父は学者大阪市大の教授をされていた。
 次兄の幸信伯父はパリパリのスポーツ選手なのに、三男の昭三叔父は、この時代には自転車にも乗れずに、ピアノなどが得意で今は建築家なのである。
 楠見家も朝鮮で『楠見組』という土木事業などをやっていたので、
 祖父はよく京城の家にも来ていたが、
 今の『おじいちゃんと孫』のような関係ではなくて、
 常に毅然としていたし、父と囲碁を打ってたのを私は横から眺めていただけである。
 これも岡山の母方の実家で、同じ時なのかどうか?
 まだ私は小学校前かも知れない。
        
 子どもの頃は、服装を見てもこんな感じで、
 私など結婚してから今まで、こんな父のような服装をしたことがナイのだが、
 昔はこんな家庭で『ぼんぼん』として育てられたのである。
 少なくとも、こどもの頃の戦前の生活と
 戦後の中学校以降の生活とは180度違っているのである。
 いわゆる『お金持ち』の生活がどのようなものなのか?
 特に、私を可愛がってくれた伯父の生活は、
 父とは違って『派手だった』のである。
 それを子供心にどのように感じたのか?
 これらはまた次回に。
2021年3月28日

佐藤輝明  期待以上の大活躍!

投稿者 : rfuruya

★ 阪神ーヤクルト戦をテレビで見ている。
 まだ4回だが、阪神が6-0で勝っている。
 昨日の第1戦では、初打席・初打点でスタートを飾った新人佐藤輝明だが、
 第2戦の第一打席は『初ヒットが初ホームラン』だった。
 『佐藤輝明』と検索すると
  こんなニュースが並ぶ。
 昨日は『初打席で初打点』だったが
 今日は『初打席が初ホームラン』でビックリした。
  
  
★ 試合は9-5で阪神が勝ち、
 佐藤輝明は『初のお立ち台』である。
   
  これは何と言っていいのか解らぬほどの大活躍である。
  スターはいろんな運を持っているものだが、
  この佐藤輝明のデヴューぶりは、
  長嶋一茂以来の鮮烈さを持っている。
  初ホームラン・初複数安打・初盗塁・初四球・初お立ち台
  『初尽くし』である。
  『期待以上の大活躍
  今年の阪神はオモシロそうである。
2021年3月27日

中学・高校・大学 私の学生時代  その7  自分史

投稿者 : rfuruya
★ 神戸高商からスタートし、神戸商科大学となり、
 今は兵庫県立大学となっている長い歴史を持つ野球部だが、
 2019年12月8日には『神戸ほっともっと球場』を借り切って、
 創部90周年イベントを盛大に行ったのである。
 
 70名を越すOBたちが集まったのだが、
 私が入部したころのマネージャーで2年先輩の多田和昭さんが一番旧く、
 (前列左から2番目)
 二番目がが私だったのである。
 
 当時86歳だったのだが、
 私は生まれて初めて『テイー・バッテング』なるものを経験した。
 結構、ちゃんと打てたから、不思議である。
 
 私たちの現役時代は、『ティ・バッテング』もなかったし、
 『金属バット』も、『ヘルメット』さえなかった時代の野球なのである。
 100周年は96歳である。 何とか出席できるように頑張りたい。
★ところで自分史に戻って、
 現役時代一生懸命練習はしたのだが、
 お世話になった運動具店の借金が10万円も溜まって、
 そのまま卒業するわけにもいかず、何とかその借金返済を考えたのである。
 当時は学生主催の『ダンスパーテイー』もよく行われていたのだが、
 大体が300名程度の規模で当時の入場料は100円が相場だったから、
 そんな規模ではどうしようもないのである。
10倍ぐらいの規模のダンスパーティー』が出来ないか? と
私なりに起案』したのである。
 ちょっと無茶なようにも思われるかも知れぬが、
 いろいろ考えると『何とかなる』ものなのである。
 『高い目標』を掲げそれに『戦略的に挑戦する』ことは、何となく私の身に付いていて、
 これは事業家であった祖父や伯父からのDNAかなと思ったりする。
 人生で多くの催し物の主催をやる機会があったが、
 これがその『最初の催し物』なのである。
 兎に角『2000枚の切符を売ろう』とその企画を始めたのである。
 『2000枚の切符を売る』ために、
 その年開場したばかりの『神戸国際会館』を選んだのである。
 会場費も高かったが、それ以上のネームバリューがあり、
 2000人が踊れる会場の広さは『神戸国際会館』であったゆえに可能だったのだが、それでも一つでは無理で、隣のホールも借り増ししたのである。
 一口に2000枚というが、これはなかなか大変で、
 野球部の借金返済が目的なので部員には野球以上にはっぱをかけたのだが、
 私は当時ダンスにも凝っていて、明石のホワイト・ローズでは教師の真似事などもやっていたので、私自身の人脈でも相当数のパーテイ券を捌けたのである。
 このパーテイーの収支が日記帳に挟んであった。
 
  ご覧の通り現役も頑張り、OBや体育会の協力が得られたのも、
 『神戸国際会館』というだけで販売しやすかったのである。
  当日の入場券売り上げも140枚もあって、
  TOTAL 204,000円の収入があり、見事10万円の利益を計上している。
  計画通り、運動具店の借金はほぼ支払うことが出来て目標達成だった。
 そのパーテイ券のデザインである。
 ちゃんとデザイン料も払ってまともなものに仕上げている。
   
 裏面にその内容が記載されているが、
 三つの運動具店の後援も取り付けているのである。
 『峰本運動具店』は中京ー明石のあの25回戦の時のショートだった明石高校の先輩の峰本さん経営だったので、
無理を言って本当によく面倒を見て頂いたのである。
★ 大学時代、勉強は殆どしなかったのだが、
 こんな野球部関連のお付き合いは、
 その後の人生でも大いに繋がっているのである。
 特に私は2年上の先輩の方々には、本当によく面倒を見て頂いて、
 それは社会に出てからも延々と続いていたのである。
 2年上の主将が太田武郎さんでマネージャーが多田和昭さんなのだが、
 つい何年か前までは、こんな野球部のゴルフコンペでも、ご一緒だったのである。
 私の隣が太田さんで、前に印を付けているのが、多田さんである。
 
★太田武郎さんは、お兄さんが創立された『ノーリツ』の副社長をされていたのだが、
 創立者・太田敏郎さんは、川重副社長を務められて、私の長年の上司であった髙橋鐵郎さんとは海軍兵学校の同期で親交があったのである。
 さらに不思議なことに娘婿の門野匡秀はノーリツで若くして労働委員長をやったり、ノーリツがアメリカ進出をした時は、最初のメンバーで渡米したのだが、
当時カワサキの現地販社KMCのメンバーたちが、いろいろとお手伝いなどもしたのである。
 娘婿は現地に留まって今もアメリカにいるのだが、
そんなこともあって、太田武郎さんはゴルフの度に『門野のこと』を聞いて頂いたりしたのでだが、
 ほんとに突然に亡くなられてしまったのである。
  高校時代の野球部の連中ともずっと親交があったのだが、
残念ながら、みんな先に逝ってしまって、ホントに残りは少ないのである。
 上の写真の『淡水野球ゴルフ会』は昨年はコロナ禍で中止だったが、
 今年は5月13日に播磨カントリーで1年半ぶりの開催のようである。
 まだ、ご返事は差し上げていないのだが、
 『出席しようかな』と思っている。
 前回1昨年秋のコンペでは、後輩たちを差し置いて
 『優勝』させて頂いているのである。
  その舞台となる『播磨カントリー』はかってのメンバーコースで、
 コースはよく解っているので、
 今年からは『エイジ・シュート』でも狙おうかなと思ったりしているのである。
★学生の本文である勉強については神戸一中の2年生までは頑張ったのだが、
 それ以降は、『野球一筋』と言っていい学生生活ではあった。
 いろんな目標に挑戦したのだが、
 最後の『ダンス・パーテイ』は最高の出来で
 その後の人生でも『大いに自信』に繋がっているのである。
 目標達成のための『戦略的な対応』については
 野球部監督時代に自然に身に付いて行ったように思うし、
 その最後のダンスパーテーでは、
 現役は勿論・OBたちも本当に協力頂いて、
 当時の学生たちがやっていたダンスパーテイーの『10倍の規模』での『成功』は私の学生生活の集大成出あったようにも思うのである。
 これをもって『学生時代の自分史』を終わり、
 あとは『こども時代の戦前の話』になるのである。
 『私の人生の基盤』は、この戦前に受けた教育と家庭環境の中で築かれたようにも思うのである。
2021年3月26日

春の花たち と 新芽

投稿者 : rfuruya
★3月25日、この辺りも昨日桜の開花が伝えられた。
 いよいよ春である。
 この時期の我が家の花たち
 まずは春の木『椿
 満開のものもあるし、まだ蕾の樹もある。
 
 奥まっていて目立たないが『花かいどう』が咲くと
 春だなと思う。
 長く咲いているクリスマスローズだが、
 さらに花数が多くなったような気がする。
 この時期は花と共に『新芽の季節』でもある。
 いろんな樹や花の新芽がいっぱいである。
 昨今は、名前を忘れてしまうので、
 名前を省略して 写真だけ並べてみる。
 これらは間違いなく花たちである。
 
これは『あやめ か カキツバタ
 これは前庭の薔薇たち
 梅も花が終わって『新芽の季節』になった。
 もうすぐ『薔薇の蕾の季節』がやってくる。
 モッコウバラはもう蕾が付いている。
 4月まで、『あと数日』

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