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2021年10月17日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 6

投稿者 : rfuruya
★ 10年間の国内販売会社の出向を終えて、
 1970年10月に、川重発動機事業本部企画室課長に復職した。
企画室の中の企画班的な中枢の部門で、5人ほどの部下がいて、
その部下たちは東大出や優秀大学卒のエリートたちで、
10年の出向期間には、東北代理店や販売店では中学卒の従業員とばかり付き合ってきたので、何となく不思議に思ったりした。
そんな学歴などには関係なく『二輪の仕事は誰でも出来る』のがいいなと思うのである。
中長期計画など担当してたので事業本部長に直接報告する機会も多かったのだが、
当時の塚本本部長は就職の面接で、第一声『君は成績悪いね』と言われた塚本さんだったのだが、
この頃はそのこと覚えておられたのだろうか?
その時私は『成績は悪いかも知れませんが、会社の仕事など絶対にほかの人に負けたりはしません。』と答えているのである。
  
 企画室時代以降、塚本さんには結構重用して頂いたのである。
★ 当時の事業本部は本社では吉田専務が担当されていて、
 事業本部にお越しになることも多かったのだが、
 一番大きなプロジェクトとして『CMCプロジェクト』なるものが展開されていた。
CMC』とはコンパクト・モーターサイクル・プロジェクの略で
これは製造部が担当して、膨大な最新の製造設備投資をして、
小型車』を大量に安価に生産しようというもので、
 吉田専務が甚くこのプロジェクトにご熱心だったのである。
 ホンダのロードパルが世に出て、50ccの大量販売真っ盛りの時代だったのである。
 私は『コレはダメだと』思った。
 そんなバイクを幾ら安く造っても、それを売る販売網などどこにもないし、
 『成功するはずがない』とは思ったが『ダメだ』とは言えないので、
 『搦め手』からこんな提言をしたのが、
 当時始まったばかりの東南アジアへの『CKDビジネス』だったのである。
★そこで『小型車の考察』というテーマで、東南アジアのCKDビジネスを取り上げ
 まずその『市場調査を行うべし』という提言を行ったのである。
 当時の『CKDビジネス』は未だスタートしたばかりで
 各国は『生産機種』や『担当人員の入国』などに数の規制があって、
 後発のカワサキにとっても『競争条件の緩和』のようないい環境だったのである。
 そんなことですぐ承認されて、
 1971年5月には髙橋鐵郎さんを団長とするこんなメンバーでの『市場調査団』による市場調査
 台湾・タイ・インドネシヤ・イラン・マレーシヤ・フィリッピンというルートで、
 約1ヶ月間に亘って行いその報告を纏めたら、即刻承認され、
 新しい組織を創ることが検討されたのである。
★ その年の11月には、新組織『市場開発プロジェクト室』が出来て
 髙橋鐵郎さんが技術本部長兼務で室長に就任されるのだが、
 私もその統括マネージャーとして異動することになるのである。
 『企画室』という『いい組織』にいたのはたった1年で、
 自ら新組織に異動したようなもので、
 周囲では『惜しいな』と言ってくれる人もいたのだが、
 私自身はそんなことには一切関心はなかったのである。
★ 市場開発プロジェクト室では、
 タイ・インドネシア・イランの3か国を重点市場とし、
 それぞれ担当者を置いたのだが、
 その中でも中枢的な市場であったタイを、私は兼務することとなったのである。
 入社以来初めての海外市場担当で、英語もいるし大変だったのだが、
タイ市場』はマー・ファミリーという華僑のグループで、
 具体的にはオーナーの息子たち二人が担当だったのだが、
 いろいろ細かいことを言ってなかなか纏まらないのである。
 出張の最後の日のミーテングでもいろいろ言うので、
 私は黒板に漢字で『正直・誠実・勤勉・信頼・互譲・協力』と書いたのである。
   
これでオーナーのマーさんがカワサキの提案に『YES』と言ってくれたのである。
 息子たちは知らぬが、マーさんは漢字が読めたのである。
 これは最初に入社した川崎航空機工業『社是と執務態度』で、
 私は今も人生の信条としているのである。
★ そんなことでスタートした『タイ・プロジェクト』なのだが、
 カワサキのクルマは田舎ではよく売れたのだが、首都バンコックでは全然売れないのである、
 『なぜ?』と聞いたら、
 バンコクでは兎に角『メーター上だけでもいいから120キロ走る速いクル』なら売れるというのである。
 私自身は技術には詳しくないので、商品企画などにタッチしたことは全くなかったのだが、
 これくらい単純な話なら解るので、当時の技術本部長の大槻幸雄さんに
 そのままのことでお願いしたのだが『なかなか首を縦に振って』頂けないのである。
 大槻さんとは親しい中なので粘っていたら、
 横にいた松本博之さんが『私がやりましょう』と引き受けてくれたのである。
      
 その車がこの『カワサキ最高のヒット商品GTO』なのである。
 
 そのメーターは160キロまで表示されていて、
 タイ・インドネシアなどで、『何台売れたか解らない』のだが
 兎に角、カワサキの車種の中で『飛び抜けた台数』が出たのである。
 なぜ『台数がわからないのか?
 これはCKD なので、カワサキの明石工場では『部品出荷』となるので、
 その個数の記録しか残らないので、
 調べ上げたら解るのだろうが、台数としては残っていないのである。
★こんな想い出のある『東南アジアCKDプロジェクト』だったのだが、
イランは政治体制の変化でダメになってしまったが、
インドネシアも成功して、カワサキの新しいビジネスCKDは
その後、幾多の変遷があって、
今ではタイからバイクを輸入しているような状況のようである。
 ひょんなことから、始まった東南アジアプロジェクトではあったが、
 本体の『CMCプロジェクト』はその後数年は存在したのだが、
 そのうち消えてなくなってしまったのである。
 たった2年程の短い期間ではあったが、
 私にとっては『想い出多いいい2年間』だったのである。
2021年10月16日

私と池の魚たち     雑感

投稿者 : rfuruya

★ こどもの頃から何故か魚が好きである。
  私の人生で、一番最初に覚えているシーンは
  朝鮮・太田の川の中で隣のお兄ちゃんに魚を獲って貰っていた。
 私の近くに、魚がいないことは全くなく、釣りもしたし
 家には常に池があったし、池の無い頃は水槽があって、
 ドジョウやグッピーや熱帯魚を飼っていた。
 今はガレージの下を小さなT字型の池にしてるので、
 そこにいろいろ飼っている。
 昨日はAmazonで頼んだドジョウが30匹やってきた。
 釣りの餌用のドジョウだが、我が家では池で大事に飼うことにしている。
 
 ふと、ドジョウをと思ったのである。
 ドジョウを飼うのはコレで3回目である。
 1回目は仙台時代だから、50年も前の話だが
 息子と田んぼの畔で獲ってきて、水槽で飼っていた。
 2回目は近所の方に頂いて、この池で飼ってたのだが5年程は生きてたと思う。
 なかなか姿も見えないのだが、息つきに水面まで上がってくることもあって、
 何となく可愛いい。
 前回はこどは産まなかったのだが、何とかコドモを産まないかなと思っている。
 この池ももう40年にもなり水替えなどはしていないので、
 下には結構泥もたまり、ドジョウが住むには環境は悪くないのではと思っている。
★ こんな池だが、毎日1時間ぐらい魚に餌をやったり、
 ただ眺めたりしている。
  
昨日はこんな動画を撮った。
ほとんどがコメットだが、左の黄色いのは今年この池で生まれた金魚である。
上の小さいのは鯉の仔なのである。
そのうちに、一番大きくなるかも知れない。
 
 動画はちょうど1分に編集してあるので
 お時間のある方はどうぞ。
★ 今年の8月22日にコメットと鯉の仔を買ってきたのだが、
  約2ヶ月前はこんなに小さかったのだが、
  今では2倍以上に育った。
  いつの日にか、30cmぐらいになることを楽しみにしている。
★ いまこの池には
 ● かっての金魚の今年産れたコドモ(親はなぜかこの春死んでしまった)
 ● 20年も前に孫・真也ととってきたエビ、毎年コドモを産んで
  20年も池には数えきれないくらいのエビがいる。
 ● 田螺も20年以上ずっといる
 ● 数年前からメダカがいる。
  今年は数を増やしたので1000匹ぐらいいるのだが目立たない。
  手前がそうだが、鯉の仔はメダカの2倍ほどなのである。
 
 ● それにアメリカ産の金魚だというコメットが今は主力である。
   動画をご覧になるとその元気さがお解り頂けるかと思う。
 この金魚たちと私と『どちらが長生きするかな?』とも思っている。
 私以外には誰も関心のない
 『この池の魚たち』なのだが、
 そんなことを想いながら毎日眺めているのである。
2021年10月15日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 5

投稿者 : rfuruya
★ 昭和45年(1970)10月、私は東北仙台から明石の本社には戻らずに、大阪に途中下車することになったのである。
 この時期漸く国内市場も実用車から中大型スポーツ車への需要の移行も見え始めた時期で、
 3社合併があって50ccの生産中止も決まったものだから、
 カワサキは他メーカーに先駆けて、中大型市場の大市場対策に入ったのである。
 それまでのカワサキは『実用車のカワサキ時代』で九州や東北など、
 地方市場がその主力であったため、特に大阪・名古屋市場が弱かったのである。
★当時の販売システムは『委託販売制度』で、
50ccのモペットを大量に売るために、全国の自転車屋さんに車を委託していて、
それを『サブ店』と称していた。
 今では考えられないほど多くのサブ店を有していて
 ホンダさんはその数4万店とも言われたし、
 カワサキでも1万店ほどのサブ店での販売展開だったのである。
 私が異動した大阪市場は、カワサキの中でも最低の弱小市場で、
 異動してすぐ挨拶に伺った『船場モータースの岡田博さん』には
 『東北ではどれくらい売っておられたかは知らぬが・・』と前置きがあって、
 『大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ
 と言われてしまったほど、カワサキの存在感は薄かったのである。
 確かに、大阪でもサブ店だけは500店もあったのだが、
 部品取引だけで完成車は1年に1台も売らない店も多かったのである。
 そんな大阪市場であったが、結構精力的に動いて、
 その年の年末に中心になるであろう販売店20店ほどを勝浦温泉に招待して
 今後の大阪市場対策についてその大綱を語ったのだが、
 大いに賛同を得て、船場モータースの岡田さんを中心に
 『カワサキ共栄会』を創ろうという動きになるのである。
 翌年2月4日の二輪車新聞のトップ記事には、
 カワサキは『2年以内に実績倍増を見込み
 その対策として『販売網再編構想を』と大々的に発表されたのである。
 『
 『明石のカワサキ』と言われたカワサキが突如動き出したので、
  大阪の業界でも大きな話題となったのである。
  ホンダさんの営業会議では
 『カワサキを双葉のうちに潰さねば』などと言われたとか・・・
  その考え方の骨子は、
 ● 今後のカワサキは中・大型スポーツ車を中心に販売する
 ● 当然その台数は50ccに比べて少ないが
 ● 中・大型車を数多くの店に委託することは不可能なので、
 ● 自転車屋ではなく、二輪専門店で販売されるべきで、
 ● そのような『新しいカワサキの販売網構想』に賛同する店に絞る
 という方向を採ったのである。
 そして大阪にあった500店の販売店の中から
 カワサキの趣旨に賛同する25店に絞っての
 『カワサキ共栄会活動』をスタートさせたのである。
 そして、8月には『特約店制度』のスタートに向け発進したのである。
 この時の『記事』を書かれた二輪車新聞の衛藤誠さんは
 ご自身の回顧録の中で、この間の事情を大要このように語られている。
● 古谷氏の狙い通り、事はトントン拍子に進み「半年あれば物事はある程度の現実をみる」とおっしゃる通り、
この年の5月には「大阪カワサキ共栄会」の結成総会にこぎつけ、
会長には船場モータースの岡田博社長が就任した。
● このあと、府下の販売店のうち約500店もの販売店との取引中止を実施し、
同時に「カワサキ特約店制度の基本構想」の検討にも着手した。
● 71年1月には、“二輪車事業10周年” を記念して、
全国の優良店100店を業界初の「米国視察旅行」に招待し、
KMCとサンフランシスコなど西海岸の旅で、
この視察旅行団長を古谷氏が務めた。
● このあと、4月にはカワサキ本社に東京・大阪・名古屋地区を統括する直営部が社長直轄として設けられ、
直営部長には古谷錬太郎氏が着任。
● 前年から検討されていた「カワサキ特約店制度」の構想も急ピッチで進み、
8月中にはその概要がまとまり、二輪車新聞の8月31日付けに掲載。
● 9月8日、大阪の厚生年金会館で、この正式な発表説明会を開き、
まずは直営部管内の東京・大阪・名古屋地区で先行することにして、
正式なスタートは72年10月1日からとした。
● さらに翌年の73年9月からは、この「カワサキ特約店制度」を全国的に導することになり、
首都圏全域や広島、福岡などで積極的な活動が展開された。
● 当時のカワサキは“ZⅡ”をはじめとする中・大型車の販売が好調で、
これも特約店契約促進の追い風になった。
                 二輪車新聞 大阪支社顧問 衛藤誠
★ ここに衛藤さんが纏めて頂いたように、
 私の大阪母店長着任の昭和45年(1970)10月からの4年間で、
 カワサキの新しい販売制度『特約店制度』は全国的に実現したのだが、
 その間私は、大阪母店長・直営部長・本社管理部長として、
 まずは大阪母店から始まって、
 続いて直営部長として東・名・阪、
 さらに全国展開を仕上げて、
 昭和50年(1975)10月には川崎重工業発動機事業本部企画室課長として、
 10年間の販社出向を終わって帰任することになるのである。
 この時期未だ他銘柄の販売網の主力は全国の自転車屋さんだったし、
 二輪専門の販売網を組織したのは『ひとりカワサキ』だけだったのである。
 カワサキアーカイブスでは、
 メーカーのことではなく、販売会社のことなのでそんなに詳しくは取り上げてはいないのだが、
 
 私自身にとっては、初めての全国的な販売網システムで、
 それも業界で初めての『二輪専門店販売網』であったことから
 その実現に漕ぎつけられたのは、非常に大きな成果であったと思っている。
 1975年と言えば、まだ43歳、
 川重では課長任用されたばかりの頃のことなのである。
 今思えば、若いのに『よく頑張ったな』と思っている。
 当時のカワサキオートバイ出向の10年間
 広告宣伝課長   3年間  広告宣伝とレース担当
 仙台事務所長   3年間  東北6県代理店、最後の半年は北海道も担当
 大阪母店長以降  4年間  特約店制度の全国展開だったのである。
 いま思うと全てが前任者のいない『初めての仕事』ばかりだったのである。
★ この時代から、もう50年が過ぎようとしているが、
 二輪業界も各メーカーとも、中大型車が主力となり、
 二輪専門店の販売網が敷かれている。
 逆に言うと『50年間進歩がなかった』とも言えるのである。
 ずっと、『ネットでの販売を』と言い続けてきたが、
  やっと昨今、ホンダの新販売方式 が登場した
 『国内自動車メーカー初 新車オンラインストア「Honda ON」オープン』
 10年遅かったと思っている。
 今の時代、店舗などよりは当然『システム』だと思うのだが・・・
2021年10月14日

三木山森林公園を歩いてきた

投稿者 : rfuruya
★ 昨日は三木山総合公園のジムで筋力トレーニングをしたあと、
  隣接する『三木山森林公園』を久しぶりに歩いてきた。
      50年前までは、廣野ゴルフ倶楽部を除いて。
  この一帯は壮大な『三木山』だったのだが、今は宅地造成がされて、
  幾つもの公園が並んでいる。
  左から、三木ホースランド・パーク
      三木山森林公園
      三木山総合公園
  これは三つ並んでいて、
  ずっと離れて一番右が、三木総合防災公園である。
 
   週に3回行っているジムは、三木山総合公園にあるのだが、
 すぐ左隣が『三木山森林公園』である。
 自然がそのまま残っている、私の一番好きな公園で、
 まだ今はアメリカにいる娘家族が日本にいたころは、
 孫たちとよく行ったし、犬の散歩もしょっちゅうだった。
 こんな広大な公園で、
 昨日はその一部の広場と『もみじ谷』を歩いてきた。
 これでも約3km、1時間ほど掛ったから、その広さがお解り頂けるだろう。
  三木の公園はどれも、兎に角広いのである。
 
★ 歩いたルートの写真を撮ってきた。
 まずは駐車場からすぐ横の前庭である。
 
 建物の向う側には池がある。
 
この公園のコンセプトを2年ほど前から『自然に戻す』としたこともあって、
かってはいっぱいいた錦鯉などは居なくなって、
今は睡蓮と自然に生えた藻だけである。
 広大な芝生広場も、今は草が生え放題に放置しているので、
 こんなになった。
 幼稚園のコドモたちが流れで何か採っていた。
 上の池から、下の池までの小さな流れには、
 メダカがいっぱいいた。
 これはかってはいなかったのだが・・・・
 これが下の池で
 
 その右手からが『もみじ谷』である。
 11月の『もみじ谷の紅葉』はそれは見事である。
 もみじ谷の山道にこんな看板が立っていた。
 開園以来25年もたって、森林が鬱蒼としてしまったので、
 木を切って『森林の若返り』を目指すという取り組みを始めている。
 
 すぐ横の山は樹を伐採して丸坊主になっていたが、
 1年ちょっとで、こんなに若木が生えていた。
 こんなもみじ谷である。
 急な坂道もある。
 いま体重が2キロほど増えて83kgあるのだが、
 この坂道は、以前と比べてきつかった。
 体重を元の81k台に落とそうとしているのだが、
 毎日、運動しているのに『落ちない』
 『食いすぎ』なのである。
 でも、88歳でこのコース1周出来る人は少ないのでは。
 昨日も沢山の方がほかの緩やかな散歩道はいっぱいだったが、
 もみじ谷では一人も出会わなかった
 
 
 山道を登りきると、こんな広場に出る。
 
 そこからこんな広い道を下ると駐車場である。
 約3キロの行程、
 1時間ほど掛った。
 今度は11月の紅葉の時期だと思う。
 それまでに『体重を落として』『スムースに山道を歩くこと』を
 目標に頑張ってみたい。
 どうなるかな?
2021年10月13日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 4

投稿者 : rfuruya
★ 広告宣伝課の後は、東北6県の営業第一線を『仙台事務所長』として4年間担当したのだが、
 私にとってこの東北の4年間は、『誰も経験しなかった』ような貴重な4年間なのである。
 広告宣伝課での3年目の11月に、
 突然『東北仙台に新しい事務所を創れ』という指示を受けたのである。
 当時の事業本部長カワサキオートバイの社長も兼務されていた岩城良三さんが、
 東北の代理店会で代理店から『仙台に事務所を』という要望を受けて、
 その場で即座に『創る』ことを約束されたという話が職場にも広がったが、
 それがまさか『私にお鉢が回るとは』全く予想もしていなかったのである。
  
★私の川崎航空機の入社試験の『君は成績悪いね』で始まった面接で、
 『ところで君は野球をやってたな』と話題を変えて頂いた、
 当時は総務部長であった岩城さんである。
 実は1億2000万円の広告宣伝の管理は、とてつもなく膨大な額でもあったので、
 その管理は担当の私が直接岩城本部長に報告するという『異例の形』だったのである。
 細部の指示などは全くなくて、殆ど任して頂いたのだが、
 たまに『厳しい指摘』があって、それは本当に厳しかったのだが、
 親父に怒られるような『愛情に満ちた』ものだったのである。
 『東北への異動』は直接の上司・苧野豊秋さんから言われたのだが、
 しばらくして、岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
 『ご苦労だが、頼むな』と一言言われたのが今も印象に残っている。
★ この異動が私の初めての『明石からの異動』であった。
 当時の東北市場にはまだかっての地元代理店が10店以上も残っていて、
 カワサキの中で最もよく売っていた最高の市場だったのである。
 それまでは東京の営業部から担当者が出張ベースで営業活動を行っていたのだが、
 それを『仙台に事務所を創って統括せよ』というのだが、
 それ以上のことは何の具体的な指示もないのである。
 日本で初めて創る事務所だから誰もその具体的なことは解っていなかったのだと思う。
 年が変わって1月初め、私は1台のワスプを会社から餞別に貰って、
 単身、明石から仙台まで、その車の陸送も兼ねての移動であった。
 文字通り独りで、どこに事務所を創るのかという指示も全くなく、
 全て自らが考え実行するというタートだったのである。
 昭和42年(1967)私がまだ34歳のことである。
★1年後には新しく土地を購入し、そこに仙台事務所を創ったのだが、
 それが現在の『カワサキプラザ』なのである。
  
   仙台事務所長になって、正直『TOPになった』と思った。
 従来のような大企業の事務所の中ではなくて、
 職制上は部長もいるのだが、現実の事務所にいる中では間違いなくTOPで、
 仕事の内容も誰の指示も受けずに『全て自分で決めれるTOP』なのである。
 普通のサラリーマンとは一寸違った『私のサラリーマン生活』の始まりだった。
 68歳で現役を引退するまで、『自分で決めて自分のやりたいようにやる
 それができる不思議なサラリーマン生活の始まりだったのである。
★ 東北6県すべての県にあった代理店の社長さんは、
 各県に何百店もの販売店を傘下に持ち、
 永年二輪営業を展開された経験豊かな方ばかりで、
 それを全く営業経験もない34歳の私がお相手をする訳だが、
 これはいま思っても大変なことだったのである。
 ただ私は当時の川崎航空機の『メーカー社員』ということで、
 従来はカワサキオートバイ販売の販売会社の方の担当だったので、
 この『メーカー社員』ということに若くても『メーカーから来た』ということは格別の重みがあったようである。
 赴任した1月末から、各地で代理店が開く『販売店会議』に招待されて、
 『仙台に来たメーカーの方』という紹介での挨拶をするのだが、
 100人以上の人前で話をすることなど『初めての経験』だったのだが、
 これは『不思議なほどスムース』に結構長い話が『上手く出来た』のは、
 ほんとに自分でもびっくりした。
 何の具体的な指示もないない『仙台事務所の創立』を今から私なりにやっていこうという『意気込み』だけはあったので、
 それがいろんなことを『語らせてくれた』のだと思っている。
 それまでも『他人がやったことがない・初めての仕事』の連続ではあったが、
 この仙台事務所はそれを全く一人から立ち上げていったのである。
★ 当時の東北では、岩手カワサキが毎年全国一の実績を上げていたのだが、
  このような抜群の成績を残していたのは、
  久保克夫社長の独特の経営が展開されていたからである。
 『私の恩人・久保克夫さん』というこんなブログも残している。
 詳しくお知りになりたい方は、是非ご一読を!
岩手の日本一の原動力は
販売網である』
『販売店への対応は』
『戦略的な対応は』
『システムでの対応』
『人間関係の維持』
『厳しさと優しさ

これらのことを私は久保さんに学んだと、そこには書かれている。

そういう意味でもこの『東北での4年間の経験』は私にとって貴重なものだったのである。
★ この時代は日本は大量生産・大量販売真っ盛りの時代で、
 それは二輪業界でもホンダさんを中心に大量販売を各メーカーとも目指していて、カワサキも例外ではなかったのである。
 そんなメーカーの方針通りに大量販売に徹していた、東北の代理店網だったのだが、
 当時の販売方式がホンダの50ccの『カブ』を大量に売るための資金力もない自転車屋さんに委託販売するという独特の日本式販売方式であったこともあって、
 代理店が大量に販売しようとすると膨大な資金がいるのである。
   
 そんなことから『資金繰り』が続かずに、メーカーの言うことを聞いて、
 数を多く売る代理店にはメーカの貸付金などの関係で資本が入り、
 そのまま『メーカー系列店』という形になって行ったのである。
    より極端に言うと
 『カワサキに協力して沢山売った代理店から潰れて行った』とも言えるのである。
    
 自らの実力以上には販売をしなかった代理店は、メーカー系列にはなることなく自らの経営は維持できたが、
 代理店資格は自然になくなって一販売店の位置づけとなっていくのである。
 このような二輪業界の推移ではあったが、
 こんな事実を見て、
 二輪の販売経営は『自分の力以上には売ってはならない
 健全な経営を維持するには『営業外損益の健全化が必須』であることが理解できたのである。
      
  これはその後メーカー自体でも同じような現象が産まれて、
 カワサキの二輪事業の経営の危機が何度かあったのだが、
 それは自らの実力以上に販売をしようと頑張った時期なのである。
★東北での仙台事務所長は、昭和42年(1967)からの4年間で
 その間には1969(昭和44)年4月1日 には、
 川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併もあって、
 カワサキはそれを機に50ccの小型車生産を中止することになるのである。
 ようやく日本の二輪車需要も小型実用車から中間スポーツ車への移行がなされて、
 250A1やマッハⅢなどの中大型車と共に
 120C2SSなどのスポーツ車両も世に出て、
 モトクロスが盛んであった東北では大いに人気があったのである。
     
★ そんな世の中の動きもあって、
 『小型・実用車のカワサキ』から『中大型車のスポーツのカワサキ』への
 イメージチェンジを図り、その市場も東北や九州中心から
 東京・大阪・名古屋など太平洋メガロポリスの大都市中心に変わって、
 私は1970年10月から大阪を中心とする近畿2府4県を担当することに
なるのである。
2021年10月12日

贅沢な毎日の生活     雑感

投稿者 : rfuruya

★ 毎週、月・水・金の3日間は三木山総合公園のジムに行き、
  残り4日は、三木総合防災公園でのスロー・ジョッギングで、
  午前中の約2時間を運動に当てている。
  その環境が素晴らしいから、これは『最高に贅沢な毎日』と言っていい。
 右のほうにある公園が『三木総合防災公園
 我が家は真ん中の緑が丘、
 そして、ちょっと小さいが左がジムのある『三木山総合公園』である。
 
 小さいと言っても、野球場も陸上競技場もあるし、
 周りの周回路も2kmほどはある。
  防災公園では約7kmほどのスロー・ジョッギングをやると、
  歩数では1万歩をちょっと超えるぐらい。
  ジムに行った日も、1時間の筋力トレーニングの後は、
  30分ほど周回路を走っている。
★ なかなかこんな環境は少ないと思う。
 実は三木は、週刊誌「女性自身」の『住みやすいまちランキング』(大阪圏)で2位にランクインしている。
市内を通る山陽自動車道、中国自動車道、舞鶴若狭自動車道の道路網や三木駅から神戸駅、大阪駅へのアクセスの良さがありながら、水田をはじめとした自然が充実しているところが魅力として評価され、
 関西で泉佐野市に次いで2位にランクされているのだが、
 その環境は泉佐野よりはずっといいと内心思っている。
  
 三木総合防災公園の広さと緑の美しさは格別だが、
 三木山総合公園の周回路もなかなかのものである。
 これがジムのある総合体育館だが、
  
 野球場の周りの周回路はこんなに綺麗だし、
 こんな風に続いている。
 都会の公園と違って、そんなに沢山の人はいなくて
 借り切りのような環境なのである。
★これが『トカイナカ』の良さだと思う。
 ずっと三木にお住まいの方は『三木は金物の町』とか
 『田舎まち』と仰るのだが、
 私は公園も緑も、ゴルフ場も、スポーツ施設もいっぱいで、
 道は広いし、市内の広大な駐車場は『全て無料』で、
 『アメリカのような町』だと私は思っている。
 ジムはそんなに大きくはないが、『1ヶ月・1000円』だし、
 そんな町で毎日2時間、運動している環境は、まさに『贅沢かな』と思っている。
2021年10月11日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 3

投稿者 : rfuruya

★カワサキの単車事業のスタートは大変なことの連続だったのだが、

 『青野ヶ原のモトクロスの完全優勝』で
 日本能率協会は『この事業続けるべし』という決断を下すのである。
 ただ『広告宣伝課を創るべし』という条件が付されていて、
 川崎航空機工業で初めての広告宣伝課が創られることになるのである。
 それまでのカワサキの広告宣伝は当時のカワサキ自動車販売で担当していて
 あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の実弟の
 小野田滋郎さんが総務課長兼務でおやりになっていたのだが、
       
       その実務が川崎航空機に移ることになったのである。
       そして単車営業課で企画・営業実務のすべてを担当していた私が、
  新しく出来る広告宣伝課を担当することになるのである。
  
 この時点で、従来の単車営業課のあった発動機事業本部から
 新しく単車事業本部が発足し、岩城良三常務が本部長を担当され、
 本社や明石事業所の各分野から多くの優秀な事務屋が単車に異動し、
 見違えるような立派な組織になるのだが、
 広告宣伝課を担当した私は未だ入社5年目で係長にもなっていない平社員だったのだが、
 課長は苧野部長が兼務されたが、実質100%任されることになるのである。
 2年目からは、全員がカワサキオートバイ販売に出向することになって、
 私は『広告宣伝課長』となるのである。
 そんなことで私はぺいぺいからいきなり『課長』となったのである。
   
 その広告宣伝費予算は1億2000万円という膨大な額で、
 川崎航空機の本社が開発費として3年間支給されることになったのである。
 1億2000万円と言えば今でも大きな額だが、
 当時の私の年収が40万円の時代だから、それは大変な額だったのである。
 1年目は一生懸命使ったが7000万円ぐらいしか使えず
 本社の専務に『お前らは金をやってもよう使わん』と怒られるのだが、
 なぜ使えなかったかというと、
 テレビや新聞広告の所謂『マスコミ』が使えないのである。
 それは当時のカワサキの二輪車は全て実用車で、東北や九州などの田舎中心で、
 東京・名古屋・大阪などの大都会では全くと言っていいほど売れていなかったので、
 大都会がメインのマスコミは使えなかったそんな事情があったのである。
  
★ 本社の専務に怒られたので、2年目はちょっと無茶苦茶をやったのである。
 朝日・毎日・読売という全国紙ではなく、地方紙50紙に全頁広告を打ったりしたのだが、
 これは『カワサキはとんでもないことをやる』と広告業界で大きな話題になったのである。
 テレビコマーシャルも破れかぶれで
 当時売り出しの『藤田まこと』を使って
 『あちゃん ても んせい めた カワサキ 
 という短いコマーシャルを流したりしたのだが、
 1965年のことだから、ご覧になった方も少ないと思う。
 そのほか、レース活動をこの広告宣伝予算を使って
 本格的に私自身が直接担当してスタートしたのである。
★特に『レース活動』は広告宣伝費の多くの部分を費やして、結構派手に動いたのである。
      
カワサキのレースのスタート』については
こんなブログもアップしているので詳しくお知りになりたい方は是非ご一読を!
 1962年に行われた第一回全日本選手権ロードレースを製造部のメンバーが観戦して
 大いに感激したという話を披露したが
 その250・350の優勝者が三橋実・片山義美(いずれもヤマハ
 カワサキのレースのスタートはこのお二人と密接に関係があるのである。
 
 三橋実は、前述の小野田滋郎さんがヤマハから引っこ抜いて、
 厚木にカワサキコンバットを創ったので、
 カワサキのレースは、『青野ヶ原』以前のB7時代にカワサキ自販で行われていたのが、そのスタートと言っていい。
 関西では山本隆・歳森康師・金谷秀夫など
 片山義美さんの『神戸木の実』のメンバーたちがカワサキと契約を結んだのである。
 これは当時のMCFAJの朝霧高原での、全日本モトクロスだが、
山本隆・歳森康師と
カワサキコンバット三橋実・安良岡健・岡部能夫・梅津次郎
未だ未契約の星野一義などが並んでいる。
    
★ みんな『世界の』とか『日本の』と語られる有名選手になっていくのだが、
 当時はまだそんなに有名でもなかった選手たちに、
 日本のトップクラスの選手とほぼ同額の契約金を弾んだので、
 全国のモトクロスライダーたちの注目を集めたのは間違いないのである。
 当時はそんなにトップライダーは多くなかったので、
 ライダーの殆どをカワサキにしたら『間違いなく勝てる』と
 私は本気で思っていたのである。
 当時のトップライダーの契約金が100万円ぐらいだったので、
 1億2000万円の予算なら、ホントにどうにでもなったのである。
 当時のカワサキは何をやってもホンダ・スズキ・ヤマハに太刀打ちできずに
 『ドンケツ』に位置していたのだが、
 何とか『レースだけ』は『一番になる』といろいろと思い切ったことをやったのである。
 前述の『カワサキ・コンバット』に対しても。
 この広告宣伝費から毎月20万円の運営費三橋実に渡していたのだが、
 20万円は相当な額だったので、厚木には全国からライダーたちが集まったのである。
 その中の一人が星野一義であったり、
 後『星野インパル』を運営した金子豊などもその時秋田から来ていたメンバーなのである。
 カワサキの中では『レース運営』はこんなメンバーたちで構成されていて、
 『レース運営委員会』が基本方針を出すことになっていたが、
 その具体的な運営費は、金を持っていた私が担当していたのである。
 これは今思うと錚々たるメンバーだし、
 当時、やってたレース運営は、その後の予算ではとても出来ないような
 豪勢な運営だったのである。
 ヘリコプターも持っていて、レース開催地に持っていったりしてたので、
 他メーカーの選手たちに乗せてくれと頼まれて、
 そんなこともあって、いろんな有名選手と私は親しくなったりしたのである。
このメンバーの中から、後川崎重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が1人、出ているのである。
 当時はみんな若かったから、レースに関しては『気違いじみた熱心さ』だったのである。
 このメンバーは私の単車現役時代本当に密接に関係のあった方々で
 大槻さん・田崎さんとは今でも密接なお付き合いがあるのである。
 お二人は、当然この『カワサキアーカイブス』でも私と同じように、
 カワサキの歴史を語っておられるのである。
★この広告宣伝課時代は3年間、1億2000万円の予算がある間を担当したのだが、
 このような膨大な額の予算を持っていたので
 電通・博報堂・大広などの広告代理店は神戸支店の管轄ではなくて、
 全て本社企画部門の優秀なメンバーたちが担当してくれたので、
 お蔭様で私はマーケッテングなるものの本質を3年間勉強することが出来たのである。
 多分、川崎重工業の中でもこのような経験をされた方は少ないのだと思う。
 そういう意味で、私自身ホントに若い時分にこの広告宣伝課を担当できたことは『よかった』と思っているのである。
 この3年間、いろんな意味で私の人生の糧を与えて頂いた方々に感謝である。
それは
 ● 広告代理店の優秀なメンバーの方々
 ● カワサキ自販の広告宣伝課長であった陸士出の小野田滋郎さん
  小野田さんからは本格的な戦略・戦術・戦闘論を
 ● その後もカワサキの二輪事業の中心であったレース運営委員会のメンバー
 ● それに当時の単車本部長であった岩城良三常務
   岩城さんについては次回の『その4』で述べることにしたい
2021年10月10日

今日のニュースから

投稿者 : rfuruya

★岸田総理の所信表明演説があったようだ。
 全文を読んだわけではない。
 いつもの通り与党は評価、野党は批判である。
 野党は、どのようにケチをつけるかという態度でまともな評価をする気は
 毛頭ないようにも思える。
早く行きたければ一人で進め。遠くまで行きたければ、みんなで進め
 首相は演説の最後に、アフリカのことわざを引用し、新型コロナウイルスなどの困難に対し、国民と共に乗り越えていく姿勢を示した。
全閣僚に国民との「車座対話」を開くことを指示し、国民のニーズを行政に反映させることを約束した。
 などとニュースは伝えている。
 演説の評価ではなく、今からどんな政治をするのかを見たいのだが、
 そんな間もなく、すぐ選挙が始まる。
 選挙をやっても、総理を評価することは出来ずに、
 選挙区に立候補した候補者を選ぶだけしかできないのは、
 日本のルールでは仕方のないことである。
★ 先日のワールドカップ予選でサウジアラビアに負けた日本代表。
 森保監督の進退が話題に上がっているが、
 
 サッカーの監督の評価はなぜこうも厳しいのだろうと思う。
 先日の試合に負けたのは、バックパスのミスからで、
 これは監督はどうしようもないように思う。
 そんなに詳しいことは勿論解らないのだが、
 サッカーの監督は、そんなに試合の勝敗に大きなウエイトを持ってるのかなと思う。
 野球の監督のほうが『監督の采配』は多くのことがあって。
 責任は重いと思うのだが、これはあまり言われないのは何故かなと思う。
 今シーズンのセリーグなら、ヤクルトの高津監督以外は
 サッカー流に言うと全部、解任論が出てもおかしくない。
★ コロナの感染者数は連日1000人を切っている。
 感染者0の県も7県もあるし、1桁の県が半分以上の30県に近い。
  
 これは素人考えだが『菅さんのワクチン接種効果』だろう。
    ワクチン接種はさらに進むだろうし、
 『9月末には殆ど終わってしまう』と思うのは楽観的過ぎるのだろううか?
 大体世の中の『カシコイ人』たちは『危ない・危ない』と言いたがる傾向にある。
 所謂『専門家先生』はそういう傾向にあるのだが・・・
2021年10月9日

カワサキアーカイブス & 私のアーカイブス    その 2

投稿者 : rfuruya

★ 昭和32年(1957)4月に川崎航空機に入社して、最初の仕事は財産課だったのだが、
ここでは実質2年ちょっとで肺結核になってしまって三田の療養所に10か月ほど入院することになったのである。
ちょうどその頃、新しく単車事業がスタートすることになり、
昭和35年(1960)から明石工場で単車の一貫生産が始まるのだが、
営業部にも新しく『単車営業課』が新設されて
それが11月にスタートしたちょうどその時期に退院だったこともあって、
その『単車営業課』に異動することになったのである。
そんな好運に恵まれて私の単車事業とのお付き合いが始まるのである。
 最初に造られた車が『125ccB7』なのだが、
 これが大変な車で、フレームに欠陥があって毎日、毎日返却されるのである。
  
 その返却台数も半端ではなくて、
 私が営業に異動した翌月の1月には返却が生産を上回って
 『生産台数がマイナス17台』を記録したというウソみたいな話だったのである。
当時の二輪車は125cc以上は贅沢品ということで、『物品税』が掛けられていたのだが、
この物品税は納入するのは簡単なのだが、
返却があって収めた税額を戻してもらう『戻入手続き』は大変だったのである。
戻ってきた車は工場を出た時と同じ状態でないと『戻入』は認められないのである。
例えばもし『メーターが回っていたらダメ』なのである。
そんなことだから、『メーターの巻き戻し』などと言う中古車屋のようなことをメーカーでやったりしていて、
今思うと信じられないようなことをやっていたのである。
そんなこともあって、私の営業での最初の仕事は『物品税対策』だったのである。
★そんな状態だからカワサキの単車事業のスタートは大変で当然大赤字だし、
 この事業を続けるかどうかの大々的な調査を日本能率協会に依頼したりしたのだが、
 思わぬ幸運もあって単車事業の継続が決まるのである。
 
★ 鈴鹿サーキットが出来たのが、昭和37年(1962)で、
 この年の11月に日本で初めての本格的な二輪ロードレースが開催されたのだが、
 このレースをカワサキの製造部の人たちが観戦に行ったのである。
 このレースを見て感動し、カワサキもレースを!と
 翌年の6月に開催された青野ヶ原モトクロスに、出場するのである。
 その結果は1位から6位までを独占する完全優勝で、
 事業部全体の意気は一挙に上がり、
 その時、この事業存続の可否を調査していた日本能率協会は、
 この末端の意気を感じて『この事業続けるべし』という結論を出したのである。
★ これは『青野ヶ原モトクロス』に関係したメンバーの記念写真なのだが、
 このメンバーは全て当時の製造部門と営業部のメンバーなのである。
 
 あまり語られていない『青野ヶ原モトクロス』の裏話を。
 実はこのレースへの出場は、会社の正式な業務としての出場ではなくて
 製造部と営業部の有志による『プライべート』な出場だったのである。
 例えばレーサーを造る時間も、会社の仕事が終わってからだったし、
 兵庫メグロから来た松尾勇さんを中心に残業料などは貰わずに作られたものなのである。
 このチームのマネジャーを私の下にいた川合寿一さんが担当していたのだが、
 上司であった小野助治さんから
 『残業代も出ていないし、残業食も出ないのでパンでも買う金を営業の経費から出してやってくれ』と言われて、
私がやったと言えばなにがしかの金を出したぐらいのことなのである。
 もう一つ初出場のカワサキがなぜ1位から6位まで独占できたのか?
 このレースには他メーカーの有力選手も出場していたのである。
 あの山本隆さんもヤマハで出場していたのだが、
 当日は雨で水溜りがいっぱいできて、みんな車が止まってしまったのだが、
 カワサキだけが『防水対策』が出来ていて、
 止まることなく『走り続けた』結果なのである。
 さらに言うと、このレースの仕掛け人兵庫メグロの西海義治さんで、
 西海さんは元オートレーサーのプロ選手で、カワサキでレースをやるべく、
 ● 鈴鹿サーキットの『レース見学のバス』を仕立てたのも、
 ● 松尾勇さんをカワサキに送り込んだのも、
 ● 『青野ヶ原のレースを開催』したのも
 当時MFJの兵庫支部長だった西海さんなのである。
     
  ここにこんな写真を出したのも、
  若し本田宗一郎さんが、鈴鹿サーキットを創らなかったら、
  多分カワサキが単車事業の存続の決定はしなかったのでは?
  そういう意味で、今この世にカワサキがあるのは
  西海義治さんと本田宗一郎さんのお陰だと
  私は秘かにそう思っているのである。
2021年10月8日

好奇心 いろいろ     雑感

投稿者 : rfuruya
★ 今回のノーベル賞受賞の真鍋さん
 その原動力は『好奇心』という記事が出ていた。
 『好奇心が原動力か?』と思ったりした。
 私自身は『好奇心は結構ある方だ』とは思う。
 現役時代は『古谷さんは好奇心の塊だ』などと言われたりしたが、
 周囲から見ると、そう見えるのかも知れない。
 ただ、『好奇心』から『関心』が湧くと、そこそこまではやるのだが、
 ある一定のレベルに来ると『そこで止めてしまう』から
 間違いなく『専門家にはなれない』し、
 意識的に『専門家になることを拒否』している。
 『専門の分野』は『専門家』に任せばいいという発想なのである。
★ただ、『好奇心』は確かに人並み以上にはあって、
 一体『好奇心』とはどんなことなのか?ネットで調べてみたのである。
 そこにはこんな解説が載っていた。
  
『何事につけ興味を持つ人は「奇心旺盛な人」といわれ、
好奇心旺盛な人には、知識を得るための努力を惜しまないという一面もあり、
職場では好印象で、「有能な人」という印象を持つ人も多いのでは。』
とも書かれていて、そんな風に周囲は見てくれていたのかも知れない。
ただ長所ばかりではなくて『長続きしない人は成功体験を続けることがお勧め』とあって、
私の場合は幸いにして『成功体験』ばかりなのは『努力さえすれば何とかなる目標』ばかりに挑戦したからかも知れない。
一般企業なら『新しいプロジェクトの策定』などが向いているのではないでしょうかと書かれていて、確かにそんなことばかりやってきたのだが、
物事を極めたことは何一つなく、
先日も書いたが『ハンデー10の人生』だったと言えるのである。
★ 好奇心旺盛な人に向いている仕事や働き方としては、研究職・記者・フリーランスなどがあって、
まず、興味をそのまま仕事にできるのが研究職で、
『研究はコツコツとした作業ですが、好奇心があればその作業がただ苦になるだけではないはずです』とあるので、
真鍋さんの『好奇心』は当たっているのだが、
ただ同じ『好奇心のある人』でもピンキリなのは、世の中の常である

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