一般情報、ニュース、お知らせ

2023年10月7日

彼岸花 咲いた

投稿者 : rfuruya

2023-09-29 03:16:56 | 発想$感想

★ 少し涼しくならないと彼岸花は咲かないとか。

 そんなことで今年の暑さではお彼岸の日にはまだもう一つだったので、

 5日経っ今朝はどうかなと思って、

 防災公園の『どっこいさん』の方向に行ってみた。

 

 満開とは言えないかも知れぬが、

 こんな状況で綺麗に咲いていた。

  

 

 毎年咲く面積が広がっているようにも思う。

  ここは自生なのか、公園が植えたのかは不明だが、

  見事に咲いていた。

 

 

 我が家の庭にも2本ほどあるのだが、

 まだ蕾で開花していない。

 今年も彼岸花見れてよかった。

 広い公園だが、ここと昨年はもう一箇所、これは間違いなく自生していたのだが、

 今年はまだ見ることが出来ていない。

 芝生を刈ってしまうので、刈られてしまったのかも知れない。

 

2023年10月4日

私と魚たち

投稿者 : rfuruya

2023-09-27 05:26:20 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ コドモの頃からだが、私はなぜか魚が好きである。

  ずっと家には池があったし、いっぱい魚たちはいた。

  一番立派な鯉がいたのは、明石公園の剛の池の魚たちを戦時中に食糧難から

  取って真鯉や鮒は食料にしたらしいが、

  錦鯉は助かってその錦鯉を伯父が貰ってきて池に入れていたことがあるのだが、

  大げさに言えば1m近くあったかも知れない。

 蝉をやったら食ったりしたほど大きかった。

 そんなことなので、

 私の周りにはずっと何か魚がいた。

 グッピーに凝ったこともあるし、

 一時は今の家にも本格的な池を造って、鯉を飼ってた時期がある。

 

 こんな鯉たちがいたのだが

 

 ある時、鯉の販売があって買ってきたら、

 どうも『鯉ヘルペス』に罹っていたらしく

 全滅してしまったので、

 

 池も埋めてしまったのである。

  いまは小さな池に小さな鯉と金魚やドジョウやメダカを飼っていて、

  毎日眺めて餌をやってるので、

  私が行くとこんなに集まってくるのである。

 昨年は金魚が子どもを産んだのだが、

 今年はなぜかダメだった。

 メダカは鉢でも飼っていてコドモをいっぱい産んだので

 こんな水槽を横に置いて眺めながらパソコンを打っている。

 

★ 朝散歩に行く協同学苑にはこんな池があって、

  鯉がいるのだが、

  

 

  この数年に生まれたコドモの鯉がいる。

  これが親だが、

 

  10cmぐらいの鯉がいっぱいいる。

 

  何十年も前から鯉はいたのだが、

 コドモを産んだりしたのは、ここ数年のことである。

 然し今年は産んでいないと思うので、何故かなと思っている。

 大したことではないのだが、魚好きはいろんなことを思うのである。

 我が家の金魚もそうだが、何故毎年産まないのだろう?

2023年10月3日

私と車

投稿者 : rfuruya

2023-09-26 05:12:26 | 発想$感想

★ 車の免許を取ったのは30歳の頃だが、

 当時はまだ自家用車を持つ人は少なくて、

 専ら社用車の運転をしていたのだが、

 仙台から大阪に転勤をした昭和45年(1970)に初めて自分の車として

 カローラの中古車を買ったのが最初の1台である。

 それは社宅のあった高槻から大阪への通勤が殆どだった。

 車の運転そのものが好きで、仙台時代も東北6県の仙台-盛岡、仙台-秋田など200kmの距離の運転を楽しんでいた。

 今でも毎日、距離は短いが乗っているので、

 もう60年間殆ど毎日車の運転をしていることになる。

 交通違反は若いころは2度スピード違反で捕まったが、

 それ以外は無事故・無違反ゴールド免許になってからもう何年になるのだろう。

 

 ★ 自分の車は最初がカローラ、

  そのあと、これも中古だが、ホンダアコードに乘った時期がある。

  会社では『ホンダに乗っている』と言う人もいたが、

  私は同じ二輪業界の車をむしろ乗るべきだと思っていた。

  娘にかってやったバイクスズキだし、

  私のゴルフクラブヤマハだった。

  小さな二輪業界だからみんが良くなる方向がいいと思っていて、

  ホンダに乗ってることなど、気にもしていなかったが、

  鈴鹿サーキットに行くと特別待遇で、

  サーキットの中の駐車場に止めることが出来たりして重宝したのである。

  そのあと買ったのがBMWの5シリーズの新車で、

  これは結構高かったが、

  なぜBMを買ったのかと言うと、

  カワサキにいた浜脇洋二さんが日本BMWの社長になられて、

  『買ってくれ』と言われたからである。

  それ以降今まで、BMWを乗り継いでいるのだが、

  3台目以降は新車ではなく中古車である。

  もうずっとBMWに乗っているのでBM独特の乗り味に慣れてしまった。

  BMだけで今の車は5台目である。最初の車は2台目を買う時に、娘にやった。2台目も5シリーズの新車だったが、3台目からは中古にして車が大きくなったので3シリーズにして、現在も3シリーズである。でも最初の5シリーズと同じか大きいかも知れない。 

  現在の車は昨年、突然前の車の調子がおかしくなって、

  修理をすると結構かかるというので、

  思い切ってその日のうちに今のBMWを買ったのだが、

  勿論、中古車である。

  BMWは高級車ということになっているが、

  中古車の値段は国産車と変わらず、そんなに高くはない。

  然し、だんだんと年式が新しくなると車もどんどん良くなるものである。

  いまの車はデイーゼルなので燃料は軽油である。

  デイーゼルだと言ってもめちゃ静かだし、

  いまの乗り方は1100回転位までしか回さない、

  まさに安全運転の静かな乗り方だが、

  いい道では時速80Kmぐらいまでにはなる。

  そのお陰で燃料代1ヶ月5000円ほどで収まってしまう。

  そんなことで今まで乗った車で一番気に入っていて、

  殆ど三木市内だけなので、渋滞もないし毎日気分よく乗っている。

 

  

  ハンドル周りの感じもなかなかいいし、

 

  

 

  気分よく運転している。

 

  まだ4万キロぐらいなので、

  この車が私の最後の車になるかも知れない。

  ところで、運転免許は何歳になっても大丈夫なのだろうか?

  それが一番心配なのである。

  目も大丈夫だし、あと10年は大丈夫と自分では思っているのだが、

  果たして最後はどんなことになるのだろう。

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2023年10月2日

カワサキ単車の昔話  22     ナイジェリアの旅 

投稿者 : rfuruya

2023-09-25 05:09:28 | カワサキ単車の昔話

★世界のいろんな国に行ったが、

 一番ユニークな印象を持っている国と言えばナイジェリアかなと思う。

 人口は2億1000万人もいて、アフリカ州最大の規模である。

 19世紀以来の英国による植民地支配が続いていて、

 1960年に正式に独立したが、公用語は英語なのである。

 アフリカのほぼ中央部に位置している。

  

 1977年8月のことだが、

 カワサキが発展途上国へのCKDビジネスをスタートさせた頃で、

 ナイジェリアの現地調査に行くことになったのだが、

 ナイジェリアに行くにはマラニアの予防注射が必須事項な、

 そんな時代のことである。

 これが私の初めてのヨーロッパへの旅でもあったのだが、

 タイのバンコックからフランクフルト経由ロンドンに入ったのだが、

 日本ーバンコックーロンドン経由がおかしいと思われたのか、

 私の荷物検査はほぼ1時間ほどトランクの隅々までチェックされたのである。

 そして、先ずはマンチャスターにあるPZ本社を訪れ打ち合わせをしたのち、

 ナイジェリアの当時の首都ラゴスへ飛んだのである。

 とかっこよく言ってるが、ロンドン二つも空港があるとは解らなくて、

 1日目は、ヒースロー空港 に行ったが、ラゴス行の飛行機の便がないのである。

 アフリカにはもう一つの ガトウィック空港 から出ていて予定が1日遅れることから始まった。

★ 当時のナイジェリアは石油ブームで、その首都ラゴスは無茶苦茶な混雑ぶりで、

 街には車が溢れていて、それも1日ごとに奇数・偶数のナンバーしか走れないように規制をしているのだが、

 それでも車がいっぱいでなかなか思うように走れないというような状態だった。

 そんな現地にはカワサキから森田君が単身赴任していて、

 彼と一緒に行動したのだが、彼も奇数と偶数の2台の車番の車を持っていた。

  当時の首都ラゴスはこんな海岸に面した島の上にあり、

 

 こんなに立派なビルが立ち並んでいて、

  島の上に立派な街が出来ていて、ここではそこそこ走れたが、

  一般原住民の町はこんな混雑ぶりで

  どこに行っても人で埋まっているほど人もクルマも多いのである。

  

 原住民はこんな海の上に住んでいたり

 そのスラム街はこんな状態だから、

 ラゴス島との格差が大変なのである。

 

 

 ナイジェリアの人達は色は黒いが、

 常にニコニコ誰もみんなフレンドリーで

 流暢な英語を話すので良かったのだが、

 どこに行っても『子供がいっぱい』なのである。

 「子どもが多いな」と言うと『あなたは何人か?』と聞くので

 「二人だ」と答えたら『なぜ?』と不思議がるのである。

  どうやら『避妊』などは全く関係がないのだと思った。

★そんなナイジェリアのラゴスだったが、

 ちょっと郊外の販売店なども訪ねたりした。

 一歩ラゴスを出ると、人は殆どいないと言っていいほど

 閑散としていて、ホントに一局集中なのである。

 その時代、ラゴスにもすでにホンダさんは来ていたし、

 川崎重工の出先事務所もあった。

 このプロジェクトは結局陽の目をみなかったので、

 カワサキの二輪部門でナイジェリアを知ってるのは森田君と私だけかも知れない。

 日曜日に森田君がテニスをしようと言うので付き合ったのだが、

 私はテニスをしたのはこの時だけである。

 ミスってばかりだったのだが、ボールを拾う子供たちがいて、

 ボールボーイ付きの贅沢なテニスを楽しんだのである。

 8月16日(火)から8月25日(木)までの10日間のナイジェリアだったが、

 世界にはいろんな国があるのだと実感させて貰ったナイジェリアのだった。

 もう50年近くも前の話だが、

 いまはどうなっているのだろう?

カワサキ単車の昔話  21  カワサキのデグナーのこと

投稿者 : rfuruya

2023-09-20 05:13:33 | カワサキ単車の昔話

★ 鈴鹿サーキットには幾つものカーブがあって

 それぞれいろんな名前が付けられているのだが、

 その8番目と9番目は『デグナーカーブ』と名付けられている。

 

 

 その命名の由来は、

 1962年11月に竣工したばかりの鈴鹿サーキットで行われた

 全日本選手権ロードレースで、

 トップを走っていたスズキの契約ライダー・エルンスト・デグナーが転倒したことから

 「デグナーカーブ」と名付けられたのである。

 1962年シーズンには、デグナーはこの年から始まった50ccクラスで、

 スズキにグランプリ初タイトルをもたらした名ライダーなのである。

  

カワサキが初めてGPレースに参入したのは1966年のことで、

 その年の日本GPには藤井敏雄・安良岡健・シモンズ等のライダーでの参加を目論んでいたのだが、

 マン島のプラクテイスで藤井敏雄が事故死したため、

 急遽、デグナーとの契約を行うことになったのである。

 契約交渉は当時の技術部長の山田熙明さんが行われたが、

 その契約書を私に作れという指示が出たのが9月の初めであった。

 日本人ライダーとの契約は何度も行ってきたのだが、

 外人契約は初めてで、具体的にどのような契約内容にするのかもう一つよく解らない。

 こんなレースライダーの契約などについて社内には聞く人もいないので、

 9月10日のことだが、ホンダのレース担当の前川さんに電話して『教えて欲しい』と頼んだのである。

 前川さんとはMFJのレース運営委員会でご一緒しているだけの関係だったのだが、

 電話をしたら快く引き受けて頂いたのである。

 

その日の2時に鈴鹿までお伺いして、具体的に教えてもらったのだが、 

契約書の最後の『疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・』という日本式はダメだよ、

疑義を生じた場合は甲の判断による』などと教えて貰ったのである。

 

契約書は当然英文なのだが、私が作ったのは日本文で、

その英訳は山田熙明さんに引き受けて頂いた。

山田熙明さんは神戸一中の私の先輩なのだが、

一中・一高・東大航空機の秀才は英訳などは至極簡単なようだった。

 

★そんなことで契約したエルンスト・デグナーだが、

 彼がサーキットでカワサキに乗って走る姿は見られなかったのである。

 

 9月29日のFISCOでの練習走行で転倒し頭部を打って、

 御殿場の中央病院に入院するのだが、すぐに意識は回復して、

 10月1日には明石市民病院に移して、完全回復することになったのだが、

 それが突然意識がおかしくなってしまうのである。

 それまでは英語を喋っていたのだが、そこからは突然ドイツ語になってしまって明石病院のお医者さんも困ってしまうのだが、

 その通訳をされたのが、ドイツ留学を終えたばかりの大槻幸雄さんで、

 明石病院のお医者さんもドイツ語を喋る大槻さんにビックリしてしまうのである。

 当時は『脳外科のお医者さん』は非常に少なくて明石病院でも専門医はいなかったので、

 急遽、神戸医大に移送したのが10月4日で、この1週間はデグナーのことで大変だったのだが、

 神戸医大に移ってからは順調に回復して10月21日に無事退院するのである。

★この年の日本GPは初めて10月14日FISUCOで開催され

 カワサキはまだグリーンではないこんな赤タンクの時代だが、

 GP125は安良岡健が7位に入るのである。

  

  

  

カワサキのデグナー』はこんなことで見ることは出来なかったのである。

 デグナーとは約2か月間いろいろとあったのだが、

 彼はサーキットで、赤タンクのGPマシンに乗ることはなかったのである。

 そんことでカワサキのデグナーは実現しなかったし、

 カワサキがデグナーと契約したことなど、

 殆どの方はご存じないのである。

 

 

★デグナーとの契約では、さらに後日談があって

契約金を日本円で渡したので、デグナーが海外に持ち出すことが出来ないというのである。

当時はまだそんな時代で、その後処理にも私は走り回ったのである。

 いずれにしてもこの2か月間は私にとっては忘れられない大変な2ヶ月だったのである。

 

 若し、カワサキのデグナーが実現していたら

 ひょとして、もう少しいい線まで行ってたかも知れない。

 

 そんなカワサキ単車の昔話である。

2023年9月19日

カワサキ単車の昔話  20   松尾勇さんのこと     

投稿者 : rfuruya

2023-09-14 04:45:01 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機が単車事業に本格的に進出したのは

 1960年(昭和35年)のことで、

 私は昭和32年入社で昭和36年末、初めて出来た単車営業課に異動したのだが、単車のことなど何にも解っていなかった。

 

 私だけでなく、周囲の人達も、上司も、

 技術屋さんも、事務屋も、

 単車のことが解っている人はいなかったと言って過言ではない。

 技術屋さんもエンジンの専門家はいっぱいいたが、

 なんとか単車のことが解っていたのは、

 B7のレースにも関係した井出哲也さんぐらいではなかったのか?

★ そんな状態の中での事業のスタートだったのだが、

 直ぐにファクトリーレースチームが出来て、

 ここには『単車のことしか解らない』と言った方がいいようなライダーたちが集まっていたのである。

 それにこのカワサキのレースをスタートさせた張本人は先にも書いたように、

 兵庫メグロの西海義治社長で、この方は元プロのオートレーサーだったからバイクには当然詳しかったのだが、

 その西海さんがカワサキの単車事業部に子飼いの松尾勇さんを送りり込んで、

 そのレース職場は製造部に属していて、そこにいた松尾勇さんのノウハウで運営されたと言ってもいい。

★ この写真はカワサキファクトリー結成25周年記念として、1988年に実は私が企画して実施したものだが、

  ここに集まったメンバーがカワサキの創成期のレースを支えたと言って間違いない。

  何故か安藤佶郎・百合草三佐雄のお二人がいないのだが、多分お二人は当時アメリカ勤務だったのだと思う。 

 この写真の最前列に並んでいる方たちが、レースの創始者と言ってもいいだろう。

 左から糠谷省三・松尾勇・山田熙明・西海義治・高橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄である。

  

  

 糠谷省三さんは大槻・安藤に次いで3代目のレース監督でメグロの出身、

 山田熙明さんは事業スタート時の技術部長で西海さんと懇意でレースに熱心だったが、この当時は川重副社長を退任されてすでにOBだった。

 高橋鐵郎さんは当時の川重副社長中村治道さんと一緒に青野ヶ原モトクロスの主導者だった。

 苧野豊秋さんは営業関連のレース責任者で私の直接の上司だった。

 そして大槻幸雄さんは初代のカワサキレースチームの監督で、Zの開発総責任者で、後川重常務ある。

 

 こんな錚々たるメンバーに伍して、

 会社の職位では掛長にもなっていない松尾勇さんが最前列にお座りなのは、

 こと創生期カワサキのレースでは如何に重要な地位にいたかと言うことなのである。

  2列目には岡部・金谷・安良岡・和田・山本・清原もいるし。

  平井稔男・田崎雅元(後川重社長)さんも私もいる。

  星野一義は最後尾の一番右である。

  後ろの方と左側は当時のレース現役諸君で宗和多田の顔も見える。

  

★ そんな松尾勇さんは、兎に角バイクには詳しかったし、エンジンも車体も、何でもこいだった。

 青野ヶ原の最初のレースでB8をモトクロッサーに仕上げたのも松尾さんだし、

 その後のレース職場でも、技術部が担当したのはエンジンだけで、

 それをマシンに仕上げたのはみんな松尾勇さんなのである。

 そんな松尾さんの最高傑作はあのF21Mだと言っていい。

 当時スズキがRH2台を造って、ヨーロッパ市場にも遠征したりしていたのだが、

 カワサキもそんな本格的なファクトリーマシンを創ろうと、

 エンジンは当時の監督の安藤佶郎さんが238ccのエンジンを新たに提供されたのだが、

 それをマシンに仕上げたのは松尾勇さんである。

 当時のヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、

 図面など全くなしに、べニア板にフレームの形の釘を打って、創り上げたのである。

 パイプを曲げるのにそこに詰める砂を海岸で取ってきたりしたので、よく覚えている。

 スズキの2台などとは違って、契約ライダー分すべての台数を造って

 青森県嶽岳で開催された全日本にデビューし、ヤマハがDT1を開発するまでは、まさに連戦連勝だったのである。

 このF21Mをベースに技術部が車体の図面を正式に造って、

 正規に生産をしたのが市販車のF21Mだが、

 

  

  ファクトリーライダーたちが最初に乘ったF21Mは、

  すべ松尾さんが創り上げたもので、

  ひょっとしたら F21Mと言うネーミングは技術部が後に名付けたのかも知れない。

  

 

★ カワサキがレースを技術部ではなく製造部の管轄レース職場でやっていた時代は、

  すべて設計図などはなく、松尾勇さんの手作りだったのである。

  その辺の町工場のような感じだったのである。

  そのレース職場にはライダー諸君も出入りしていたので、

  場所も製造部とは別の場所でちょっと変わった特異な職制だったのである。

  当時のレース運営は、前述の主要メンバーで構成された「レース運営委員会」がベースでその事務局を私が担当していたのである。

  そんなことで先の『カワサキファクトリー結成25周年記念』の会合も私が主宰したりして、

  集まったメンバーは当時のレース関係者とライダーたちなのである。

  レースマシンのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、

  マシンの名称KXがつく時代からである。

  レース監督で言えば4代目の百合草三佐雄さんの時代からである。

  それまではレース職場の松尾勇さん時代が続いたのである。

  私が幾らかでもマシンとか技術とかに興味を持ったのは、

  『松尾勇さん時代』で、

  カワサキ創生期に、そんな時代があったとはなかなか信じられないかも知れないが、

  こんな感じで、航空機メーカーが、二輪専門メーカーに成長していったのである。

  松尾勇さんはそんな「橋渡しをした人」と言ってもいい。

★実は今年はそのKX50周年に当たるのである。

 これは10年前のKX40周年の時の写真だが、

 その時は私はアメリカに行っていて出席できなかったので、

 アメリカから祝意のメッセージをお送りしたのだが、

 

 今年は12月2日に明石のグリーンホテルで

 『kX50周年を祝う有志の会』が開催の予定なので、

 今回は私も出席して、ご挨拶をすることになっている。

 カワサキのKXモトクロッサーも、50年の歳月が流れている。

 私が直接レースに関与したのはそれ以前のことで、

 松尾勇さんと同じ『レース職場の時代』なのである。

  

2023年9月14日

カワサキ単車の昔話  19     山本隆のこと 3

投稿者 : rfuruya

2023-09-10 07:24:09 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキ一筋に長くレース界に貢献された山本隆だが、

 そんな功績をたたえて

 久保和夫・鈴木忠雄・吉村太一と並んで

 『MFJ モーターサイクルスポーツ殿堂』入りをされている。

 

 私がレースの世界に入った時、

 久保和夫はすでにモトクロス界の第一人者だったが、

 山本隆鈴木忠男も新人だったし、吉村太一星野と同期で、

 まだノービスだったのである。

 

 山本隆は最盛期には3年連続全日本チャンピオンにも輝いて、

 その褒章でヨーロッパの二輪市場見学旅行などにも行っているので、

 この殿堂入りも当然だと思う。

 二輪のライデングにかけては独特の理論派

 現役時代『講釈師・山本』と言われたのだが、

 確かにそのライデイングは理に適っていて

 いつどんなところで写真を撮っても様になるのである。

 この写真はタンクが「グリーン」だから

 晩年の山本隆だと思うが、

 綺麗な逆ハンでカーブを周っているが、

 力がどこにも入っていなくて、綺麗なライデングである。

  

 

★ 私とは長いお付き合いなのだが、

 私が初めて4輪の免許を取った時には、いろいろと運転技術を教えてくれたので、

 そう言う意味では、私のライデイングのお師匠さんである。

 私は二輪は持ったことはないのだが、会社のマシンで山本譲りのライデイングを結構練習したので、何となく『逆はん』も切れたりするのである。

 レースでは、二輪も4輪もレースは早く走るのだが、

 ひっくり返っては元も子もないので基本は安全運転なのである。

 ブレーキを踏むときはバックミラーを

 カーブではスローイン・ファーストアウトなどは

 レーステクニックだけではなくて、安全運転の基本だと思っている。

 二輪でも四輪でもアクセルを踏んでいる時が一番車は安定しているので、

 カーブでもアクセルが開けれるミッション選択が肝要だと言って、

 4輪の「ヒール・アンド・トウ」などのテクニックも教えてくれて出来るようになったので、

 東北6県の砂利道や雪道の走行では大いに役に立ったのである。

 

 お陰様で事故は一回も経験がない。

★ これはもう20年も前になるのだが、

 山本隆、60歳の頃に『60おじさん』と自ら称して

 ゼッケンも「60番」を付けて頑張ってた時代があったのだが、

 マシンに乗せると、その辺の若い人たちでは

 彼の敵ではないのである。

 こんな感じでずっとTOPが彼の定位置だったのである。

  これはまだ1周目だが、

  そのうちに60おじさん一人旅になってしまうのである。

★カワサキのライダーたちとは

 現役を卒業してからも長いお付き合いが続いて、

 これは私がシャッターを切ったのだが、

 私と山本が東京に行ったときに星野岡部と金子を連れてやってきたのである。

  これに金谷秀夫がいたら、私が一番関係のあったライダーたちだと言える。

  

 最近でもいろんなところで、山本隆や昔の仲間たちと会うのだが

 これも昨年11月 明石であった『Z40周年記念』の時の写真である。

  

 こうしてみると、現役時代は兎も角、

 みんな立派に成長されたものだと思う。

 今は、山本隆さん、私が立ち上げたNPO 法人・The Good Times の2代目理事長を務めてくれている。

 これはその事務局での私との2ショットなのだが、

 彼は私よりちょど10歳若いので

 最近、80歳を迎えられたようである。

 

 

    

  そんなこんなで、山本隆さん、私とは何となく約60年も密接に繋がっている。

  ひょっとしたら、私の人生でも山本隆が一番長いお付き合いかも知れない。

  

  彼、何歳の時に結婚したのだったかな?

  突然、やって来て『私に仲人を』と言うのである。

  私も結婚したばかりの頃で、30歳ちょっとだったと思うのだが、

  『どうしても』と仰るので、仲人を引き受けたのだが、

  多分、世の中にこんなに若い仲人などいないと思っている。

  そんな、ご縁があって

  山本隆さんとは特別な仲なのである。

2023年9月13日

カワサキ単車の昔話  18     山本隆のこと 2

投稿者 : rfuruya

2023-09-09 07:43:19 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースチームに最初に契約をしたのは歳森康師なのだが、

 そのあとすぐに契約を結んだのが山本隆で、 それは1963年のことだと思う。

 当時の契約ライダーはカワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫

 神戸木の実クラブ歳森康師・山本隆の5人で

 主として地方の草レースに出場していたので、どこでも連戦連勝だった。

 私は当時広告宣伝課担当だったのでそのニュースを全国の販売店に流していたのだが、

 『兎に角、強いのだ』と思っていたのである。

 

 ところがMFJの第1回モトクロス日本グランプリ相馬が原で開催されたのは、

 その翌年の1964年の春だったのだが、他メーカーのファクトリーチームが集まる全日本では確か山本隆だったと思うが7位ぐらいに入ったのが最高で、最初の全日本は歯が立たなかったのである。

★カワサキが初めて全日本で優勝したのは、

 同じ年の春だが富士の裾野でMCFAJの全日本が開催されて、その時初めて山本隆がオープンで優勝したのである。

 当時のスズキの城北ライダースの久保和夫やヤマハのスポーツライダースの荒井市次など当時の第一人者の実力は群を抜いていて、

 なかなかそれに勝つことはムツカシカッタのである。

 その年の秋、東京オリンピックの開催された年だが、同じ時期に

 伊豆の丸の山高原で行なわれたMCFAJの全日本

 カワサキは4種目中3種目90cc三橋実オープンが梅津次郎

 そして日本選手権の250㏄に山本隆久保・荒井の両雄を抑えて

 見事優勝を飾ったのである

 その時の表彰式の写真だが

 TOPが山本隆、2位荒井市次、3位が久保和夫で、

 この表彰台の写真はなかなかカッコいい。

 山本隆も20歳ちょっとの頃である。

  

 

 一番右は梅津次郎で、この大会でカワサキのモトクロスの地位が確固たるものとなったのである。

★ 明けて1965年は年初から『山本・歳森のBS仮契約』問題から幕を開けるのだが、

 この年の5月に開催された鈴鹿サーキットのジュニア・ロードレース

 山本隆がどうしても出たいというのである。

 まだ会社ではモトクロスは認められていたが、ロードレースはまだ許可されていない頃だったのだが、

 山本隆は「自費で車を買ってでも出たい」と言うものだから。

 モトクロス職場の松尾勇さんに『ロードレーサーを造れるか』と聞いたら、

 「大丈夫」と言う返事なので、出てみるかと言うことになったのである。

 車は当時製造部にいた田崎雅元さん(後・川重社長)が都合してくれて、

 レースの費用は『鈴鹿のモトクロスに行った』ことにしようと言うことでスタートしたのである。

 順位などは誰も期待などしていなかったのである。

★ 当時北陸カワサキにいた内田道雄さんが山本はロードは初めてだからと、北陸のロードに経験のある塩本を貸してくれたので、

 2台のロードレーサーを準備して、

 松尾勇さん以下数人のメカニックを付けての出場だった。

 現場から来た連絡でもなかなかタイムが出ないというので、誰も期待などしていなかったのだが、

 レース当日は鈴鹿は雨になったのである。

 

 5月の連休で休んでいた自宅に現場の川合さんから

ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
 喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

 その時代、電話もなくて、電報の時代なのである。

 それもホンダの神谷・鈴木が1,2位だったのだが、

 ずっと3位を走っていたBSの滋野の後を『スリップ・ストリーム』でついていって

 最終コーナーの下り坂のところで滋野をかわしての3位入賞だったのである。

 そのゴール寸前の写真でTOPを走っているのが山本隆である。

  

★ この話は『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』と言う題目で

 2009年11月にブログをアップしているが、

 カワサキが初めて鈴鹿を走ったのはこの日だったのである。

 会社には内緒で出たレースだったのだが、

 思わぬ3位入賞、それもホンダに次いでカワサキと言うことで、

 社内も盛り上がって、モトクロスだけでなくロードレースもやろうという機運になったのである。

 その翌月の6月に鈴鹿サーキットで初めての

 『アマチュア6時間耐久レース』が行われたのだが、

 このレースに3台のマシンを用意し 

 カワサキコンバット・神戸木の実社内のテストライダーチーム

が出場することになったのだが、

 山本隆は『ジュニア・ロードレース』に出場したので出場できないので、

 歳森康師が相棒として急遽呼んできたのがあの金谷秀夫なのである。

 

★ カワサキも山本も、なかなかの幸運を持っていると思う。

 モトクロスの青野ヶ原では走ったライダーはテストライダーなど素人ばかりだったのだが、

 結果の1位から6位まで独占の完全優勝も、

 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、みんなマシンが止まってしまった結果なのである。

 当日山本隆も自分のヤマハで出ていたらしいが、マシンが止まってしまったのだという。

 その山本隆が初めて走った鈴鹿だが、若し天候が良かったら

 多分3位入賞など考えられなかったと思う。

 いずれのレースも。雨がカワサキを援けてくれたのである。

 そんな結果なのだが、

 この山本隆の鈴鹿での入賞で、カワサキもレースに本格的に取り組むことになり、

 1か月後のアマチュア6時間耐久レースで初めてレース監督なるものが実現したのである。

 レース監督は後あのZの開発責任者となった大槻幸雄さん、

 助監督田崎雅元さん、レースマネージメントだったのである。

 そんなことで山本隆は『私がカワサキのロードレースの道を拓い』と大威張りなのだが、確かに間違いないのである。

 後、『ミスターカワサキ』と言われる山本隆だが

 若いころからそんな華を持っていたような気がする。

2023年9月11日

カワサキ単車の昔話  17     山本隆のこと 1

投稿者 : rfuruya

2023-09-08 04:58:17 | カワサキ単車の昔話

★ 私がレースに関係したきっかけを作ってくれたのは実は山本隆なのである。

 なぜそんなことになったのかと言う経緯を『山本隆のこと』を書く第1弾としてお話してみたい。

 話は飛ぶが、日本で一番最初に本格的なロードレースが行われたのは、

 鈴鹿サーキットが出来た1962年11月なのだが、

 このレースの優勝者は250ccが三橋実・350ccが片山義美で、

 当時はいずれもヤマハの所属なのだが、

 後二人は三橋実がカワサキコンバット片山義美は神戸木の実クラブというレーシングチームを主宰したので、

 お二人ともカワサキとは密接な関係が出来たのである。

 その鈴鹿の第1回ロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行って、モーターレースの素晴らしさに感動して

 翌年6月兵庫県の青野ヶ原で行われたモトクロスに出場したのだが、

 初出場ながら1位から6位までを独占するという完全優勝で、

 これがカワサキの二輪事業を本格的にスタートさせ、

 カワサキもレースチームを創るきっかけになったのである。

 この5人が一番最初にカワサキが契約したライダーなのだが、

 三橋実・岡部能夫・梅津次郎カワサキコンバットで、

 山本隆・歳森康師神戸木の実クラブ所属だったのである。

  

★ 私はその頃、新しく出来た広告宣伝課の担当で、

 青野ヶ原モトクロスも、その後のレース関係も担当分野ではあったのだが、

 直接の担当者は青野ヶ原モトクロスのチームマネージャーをやった川合寿一さんが担当していて、

 彼にすべてを任していたのでレースのことなど全く知らなかったのである。

 ところが1965年2月に突然山本隆と歳森康師の二人から辞表が出て、

 BSと仮契約をしたというのである。

 それがどのくらい重大なのかもよく解らなかったが、

 川合さんは『これは大変なこと』だから『止めねばならない』と言うのである。

 どうすればいいのかと聞くと、

 神戸木の実クラブ の片山義美に会って、二人がBSに行くのを止めるように頼んで欲しいというので、

 私はレースのことなど全く解らず、神戸木の実片山義美も全く知らなかったのだが、

 言われるままに片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと頼んだのである。

 こんなことだから、私がレース関係者と話したのは片山義美が初めてだったのである。

 片山義美がどれくらいの有名人なのかも全く知らぬままにお会いしたのである。

   

   

    

★それは1965年2月13日のことだった。

 片山義美に会って『山本・歳森のBS行き』を止めて欲しいと単純に頼んだのだが、

 片山義美カワサキのそれまでのレース運営についての問題点をいろいろと鋭く指摘して、

 こんなことを直さない限り、ライダーたちはカワサキに留まらないだろうと言うのである。

 言われてみると『尤もなこと』ばかりなのである。

 そんなことで『今後は私が直接担当して、ご指摘の点を直しましょう』と言ったら、

 それなら『山本・歳森』を呼んで直接言ってあげると言うことになって、

 2月20日に片山義美・兵庫メグロの西海義治 社長 山本隆・歳森康師と私の5人で会って、

 片山から「カワサキに残れ」と言う一言でこの問題は解決したのである。

★初めてレース界の方と話をしたのは片山義美さんなのだが、

 そんなこともあってその後片山さんとは何度もいろんなところでお会いをしたり、

彼の現役引退パーテーでも一番最初にご挨拶をしたのは

スズキでもマツダでもなくカワサキの私だったのである。

 こんな神戸木の実クラブの集まりにも、

 私を招待して頂いたりしたのである。

  

 

 カワサキのレースのOB会にも片山義美さんは来てくれて、

 真ん中に座っての記念撮影なのである。

 そんな片山義美を偲ぶ会に集まったメンバー、

 勿論、山本隆も星野一義もいる。

  ★そんなことから、私はその後レースの世界に関係することになったのだが、

 これは私にとっても『レース界に関係』したことが一生の財産となったのである。

 そういう意味では2月20日の会合が本当に大きかったのだが、

 この席には兵庫メグロの西海義治社長も同席されたのである。

 カワサキの製造部に鈴鹿のロードレース観戦のバスを仕立てたのも

 青野ヶ原のモトクロスを主催されたのも実は西海さんで、

 カワサキにレースをスタートさせた張本人は西海さんなのである。

 西海さんは元プロのオートレースのライダーで、

 この日西海さんをお呼びしたのは私ではなくて、

 片山義美さんがレース界の先輩として呼ばれたのだと思う。

   

 これはずっと後、兵庫県で開催された全日本モトクロスでの

 本田宗一郎さんと西海義治さんとのツーショットなのだが、

 本田宗一郎が「鈴鹿サーキット」をあの時造らなかったら、

 あのレースをカワサキの製造部が観戦しなかったら

 カワサキの二輪事業は今のようにはなっていなかったと思う。

 そう言う意味でカワサキの二輪事業にとってはこのお二人は恩人と言えると思う。

 カワサキのその後のレースには私も直接関わることになるのだが、

 そのきっかけを創ってくれたのは山本隆なのである。

  

  

   

山本隆のこと」の第1回はこんなことで、山本隆のことは少なかったが、

 これから何回かに分けて書いてみたい。

 私は今でも山本隆とは親交があるのでもう70年近いお付き合いなのである。

 因みに山本隆・星野一義・片山義美などと敬称抜きにしているのは有名人は通常敬称抜きで語られるもので、

 そう言う意味では山本隆・星野一義は有名人なのである。

2023年8月29日

神戸ベンチャー会に行ってきた

投稿者 : rfuruya

2023-08-27 06:14:16 | NPO The Good Times

★ 神戸ベンチャー研究会8月例会 は、「魅力ある伝統を生かすことにチャレンジ」 をテーマに

 『NPO法人・二輪文化を伝える会』の理事長の松島裕さんが発表者の一人だったので、

 KAWASAKI Z1 FANNCLUBの登山さんたちと参加してきた。

 
  

 1時間半にわたる松島裕さんの話は、なかなか奥行きの深い日本の二輪文に関する話であった。

 松島裕さんは1900年後半に鈴鹿8耐を走った二輪ライダーなのだが、

 

  

  

 松島さんとはNPO The Good Times のホームページ制作でお世話になって以来のお付き合いで、

 その間ずっと続けてきた『二輪文化を伝える会』を今回、NPO法人化することに挑戦、

 めでたくNPO 法人・二輪文化を伝える会がこの8月に誕生し、その理事長を務められているのだが、

 来年4月には10年ほど前に私が立ち上げた

 NPO 法人・The Good Times の理事長も引き受けてくれることになっている。

  そんなこともあって話の中には

  NPO The Good Times との出会いや

  当時の私のことなども語られたのだが、

 

 

 話しの中心は『二輪文化とは』という

 昨今は二輪メーカーもあまり語らない

 高次元な話だったのである。

 そのスローガンは

 バイクに乗らなくても『バイクが好き』という人を増やしたい。

 と言うもので、なかなかいいスローガンだと共感したのである。

 物事、スローガンとかコンセプトは、

 本来非常に大事なものなのだが、

 単にスローガンだけで終わったしまうことも多いのだが、

 松島さんの場合は

 『二輪文化を伝える会』を立ち上げて以来10年、

 ひたすら二輪の歴史を追い続けてその蓄えられた知識の実績は、

 メーカー以上と言ってもいい。

 ごく最近もこんな会合を開催されているし、

 日本の二輪文化の創造に貢献した人物名も列記されていて、

 ライダーたちが殆どなのだが、

 本田宗一郎・藤澤武夫・酒井文人などと並んで私の名前なども載っていて、

 恐縮しているのだが、

 私自身は現役時代から二輪文化の創造には結構なウエイトをもって臨んでいたことも事実ではある。

 

  

★ そんな高次元の話をされた松島裕さんだが、

 今後ますますの活躍を期待したいものである。

 私が歳をとり過ぎているのだが

 神戸ベンチャー会の窪田代表松島理事長もお歳を聞けば、

 私の子どもたちと同年代なのである。

 自分のこどもたちはいつまで経っても『子供』だが、

 よそのお子さんは立派に育つものである。

  

  兎に角、松島さんはいろんな歴史を調べ上げて

  その知識の豊富さに驚かされるのだが、

  話の中にはこんな『寄り道』もあって

  夏の全国大会の会場は

  第1回・第2回が豊中球場

  第3回から第9回までは鳴尾球場

  第10回からが甲子園球場なのだが、

  戦後再開された1946年は、甲子園球場はまだ進駐軍に接収されていて、

  西宮球場で開催されたのだが、

  この大会は平古場を有した浪商が優勝したのである。

  1946年は私は中学1年生だったが、平古場も浪商もよく覚えている。

  そんな記録を正確にご存じなのは驚きなのである。

  

  

  

★ご縁があって、

 神戸ベンチャー会二輪文化を伝える会さらには

 NPO The Good Timesも繋がったので、

 NPO The Good Timesの基本コンセプト

 『異種・異質・異地域をみんな繋いでいい時を過ごそう

 の通りの活動になって欲しいと思っている。

 昨日は間違いなく『いい時』が過ごせた1日だった。

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