rfuruya

2024年9月8日

ダンスパーティーの想い出

投稿者 : rfuruya

2024-09-04 06:40:27 | 自分史

★ 昭和31年(1957)1月19日(土曜日)神戸商大硬式野球部主催のダンスパーティーを開催した。

 主催者は野球部だが、その起案を含めすべてその中心は自身であった。

 大学の3・4回生ではキャプテンを務め、卒業を1年延ばして監督を引き受けるなど野球に入れ込んでいたのはいいのだが、

 運動具店などへの借金15万円ほどになっていたのである。

 大学出の初任給が1万円の時代だから、今の時代のカネに直すと200~300万円ぐらいのカネだから相当な借金だったのである。

 当時の野球部の風習では、借金はそのまま次の世代が引き継いでいくことにはなっていたのだが、

 ちょっと額も膨らんだので、この借金を何とかするために開催したダンスパーティーなのである。

 当時は学生主催のダンスパーティーは数多く開催されてはいたが、

 その規模は大体200人前後のものだった。

 そんな規模では野球部の借金の返済などには役に立たないし、

 パーティーは手段でその目的は「借金返済」なのだから、

 私の起案その10倍、2000人を集めるという大規模なものだったのである。

 それが実現できるように選んだ会場は、

 新装なったばかりの神戸国際会館の5階の大ホーを借り切って、

 兎に角、部員全員で2000枚を売り切るという構想で行ったものである。

★ いまから70年近くも前の話だが、現存する神戸国際会館が新装開場したばかりで、

 その会場での実施が人気を集めて超満員になったので、

 当日券は途中で販売を中止するという大成功のダンスパーテイーで、

 まさに満員御礼だったのである。

 

 

 

 私自身は会社に入社してからもいろんなイベントは手掛けたのだが、

 この国際会館での2000人を集めたダンスパーティーが、

 人生で初めてのイベントだったが、私の最大のイベントだったかも知れない。

 

★ 当時の日記を読み返していたら、1月にこのパーテーをやっていて

 懐かしい入場券やその収支報告などが挟まれていた。

 入場券のデザインもデザイナーに頼んだので、結構カッコよく出来ている。

 

 

 

  その裏面である。

  後援をしてくれたのは借金をしていた運動具店である。

  

 

 その収支が出てきた。

 収入が20万円、支出が10万円だから、10万円の収益である。

 これは「目指した額」だから大成功だったと言える。

 収入の殆どはパーティー券の収入だが、

 支出の最大は税金32,700円で、会場費が27,200円なのである

 ちゃんと税金も払っての事業だったのである。

  

  

 そして、これが支払い先なのだが、

 運動具店のほかにもいろいろと借金をしてたようである。

 

 このダンスパーティのお陰で気分よく卒業することが出来た。

 それにしても、部員一同よく頑張ったものである。

★ ホントに超満員で、当日売りを途中で中止したりしたので、

  当時三宮にあったダンスホール新世紀に流れて、

  新世紀も満員になったそうで、何故そんなことになったのか不思議に思ったそうである。

  このダンスパーティーの成功は、

  何と言っても開催場所を開場したばかりの神戸国際会館の大ホールにしたことが人気を呼んだようである。

  当初はあの大ホールが埋まるかなと思ったりもしたのである。

  一口に2000人と言うが、それはホントに大人数だったのである。

  当日の大盛況で神戸国際会館の方たちもビックリされたようである。

  私の青春のいい想い出なのである。

  

薬とのご縁

投稿者 : rfuruya

2024-09-02 05:42:11 | 発想$感想

★ 91歳だが結構元気に生きているのに、

  薬にはいろいろとお世話になっている。

  元気なのは、薬のお陰か、本来の体質なのかはよく解らない。

  病気をしたと言えば若い時に肺結核を患って、1年ほど入院したことがあるのだが、

  いまは全く大丈夫だと思うのだが、未だに血圧の薬は飲み続けている。

 

★ テーブルにはこんな感じで薬がいっぱい並んでいる。

  

 右手前の錠剤が病院で毎月貰ってる薬で血圧関連と、血をサラサラにする薬である。

 手前にあるヒザ潤滑源はテレビ広告に出てたのを、いま1ヶ月半ほどだが飲んでるが、効いてるのかどうかはよく解らない。

 左側は足の水虫の治療薬と目薬。

 目薬もいっぱい貰ってきている。

 それに湿布などもある。

★ いっぱいの薬だが、殆どが保険が効くので助かっている。

  全部の薬がそうなのだが、

  「効いているのかどうか」はよく解らない。

  特に血圧は、110前後で高くても130ぐらいなのだが、

  これが薬のお陰なのかどうかはよく解らない。

  一度飲むのを止めてみたらいいのだが、なかなかそうはいかないので、

  一生お世話になることになるのだろう。

  昔の人はホントに薬など飲まなかった。

  祖母などは、私の知る限り薬など一切飲まずに102歳まで生きた。

  父や伯父などは医者にも掛からずに、薬も飲まずに50代で亡くなってしまった。

  薬があれば助かってたのかどうかはよく解らない。

  兎に角、現代は「薬とのご縁」は切れない世の中なのだろう。

日記とブログ    雑感

投稿者 : rfuruya

2024-08-31 06:24:41 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ 日記とは原則毎日書くものだろう。

 私の場合も20歳の頃から書き出した日記だが、

 70年間書かなかった日は「1日もない

 間違いなく毎日続いているのである。

  

 ただ、最近のように殆ど毎日同じことの繰り返しになってくると

 日記に書いている文章も殆ど同じようなことの羅列になるのだが、

 それは日記だから、殆ど同じでも問題はないのだろう。

 

★ 一方で、2006年9月からはネットで「雑感日記」なるものを書きだした。

 こちらの方も18年もアップすることが続いていて、

 それをツイッターFacebookにも転記しているので、

 毎日アップされ続けているのである。

  

 よく書くことがあるものだと自分でも思うのだが、

 ツイッターやFacebookは別に毎日アップしなくてもいい筈なのである。

 Instagram もやってるのだが、こちらの方は毎日ではなく気の向いた日にアップしているのである。

★ ちょうど8月末で区切りがいいので、

 「雑感日記」もInstagram並みに気の向いた日にだけアップするようにしようかなと思っている。

 なぜ、そんな風に思うようになったのかと言うと、

 昨今の同じことの繰り返しの毎日では、そのうちに「毎日アップする」ことが負担になるかも知れないからである。

 若し、スタンスを変えるのなら8月末がちょうどいいのかなと思っている。

 「そう思ったら」 多分そうすることになるのだろうと思う。

 そんなことでこんなことを書いている。

 最近はホントにすることもないので、

 この「雑感日記」を書くこと自体も楽しみの一つなのだが、

 「毎日アップする」ことが負担になる前にコンセプトをを換えた方がいいと思ったのである。

★ 従って、この「雑感日記」のほうは9月からは毎日ではなく、

 気の向いた日にアップする Instagram 並みに自由にすることにしたい

 黙ってそのように変更してもいいのだが、

 このように「意志表示」するのが、私の性格なのである。

 そんなことで、9月からはアップしない日が出るかも解らない。

 こんな風に、アップしてちょっと気が楽になった感じである。

 

 

2024年8月30日

私の生き方、考え方意見

投稿者 : rfuruya

2024-08-30 05:36:42 | 私の生き方、考え方&意見

★ よく人は「何になりたい」などと人生の目標を持つのだが、私自身は子どもの頃から「何になりたい」と思ったことは一度もない。

 これは考えてみると不思議だが、そうなのである。

 ご縁があって何となくサラリーマンになったのだが、

 それが希望だったわけでもなくて、何となくそうなるものだと、

 当時は思っていたように思う。

 そう言う意味では、私の進路は周囲の人が決めてくれようなところがある。

 たまたまカワサキの二輪の世界にスタートの時期から関わったのだが、

 「新しく出来た部門」を別に希望したわけでもなく、

 バイクが好きだったわけでもない。

 ただ、与えられた仕事は、どんな仕事でも結構面白かった。

 特に新しい経験者や先輩がいない環境で、

 広告宣伝レースと言う全く新しい分野を担当したのは、

 それを「やってくれ」と頼まれたからである。

 その後の、営業第1線の分野代理店営業東南アジアのCKDなど、

 それに関わった先輩たちが居ない分野を何となく頼まれてやったようなところがある。

 まだ係長にもなっていない時期に子会社に出向して

 広告宣伝課を担当したので「課長」という職位についたし、

 その後、与えられた職位は所長・母店長・統轄部長・常務などを早い時期に与えられ、一時は系列子会社の社長を7つも兼務した。

 川崎重工業の職位で言えば「部長」の頃の話である。

 川重の職位には全く拘らずに、むしろ事業本部長になることをずっと避けていた。

 その理由は事業本部長は技術系の事柄が多くて、

 どうも「技術関連」はややこしくて嫌いだったからである。

 そんなことで「取締役」などになることも何となく避けていたら、

 「技監」なる職位が与えられて私の最後の職位は「技監」なのである。

 

  

 これは技術関係の博士や、官公庁から天下りしてきた技術屋さんに与えられる、取締役待遇の職位なのだが、

 当時の大庭社長が「お前はマーケッテングの分野が得意だか」と

 川崎重工業始まって以来初めての事務屋の技監になって自分でも大いに満足していた。

 当時はカワサキの国内市場担当だった頃である。

★ 生き方としては、人を疑わずに徹底的に人を信じて、部下を信じて、殆どすべてを任していた。

 部下にあまりと言うか、殆ど指示をしたことがない。

 好きなようにやらせたら結構上手く行くものである。

 「信じる者は儲かる」と思っていた。

  

★世の中には、性善説と性悪説があるが、

 私は「人はみな生まれつき善の性質をもつ」とする馬鹿みたいな「性善説」なのである。

 部下でも、取引先でもみんな信じてしまうのだが、

 幸いにして「騙された」ことがない。

     

  性善説型に「新しいことを始める」とあるが

  「新しいこと」はいっぱいやって生きてきた。

  定年後もネットの世界を楽しんで、

  ブログやツイッターFacebook にハマっている。

  世の中に91歳の人ネットの世界にいる人は珍しいのかも知れぬが、

  Facebook などいっぱいトモダチがいる。

  そんなに知っている訳ではないのだが、どなたも「信じている」のである。

  疑ったりするよりは、信じて騙される方がいい

  でも、ホントに騙されたりしないのである。

2024年8月29日

メダカを池に放した

投稿者 : rfuruya

2024-08-27 06:29:56 | 発想$感想

★ メダカは今も毎日産まれ続けている。

 水槽にもメダカがいっぱいいたのだが、少し大きくなったので池に放した。

 何百匹の単位である。

 小さいがこれくらいになると食われる心配はない。

  

  先に放したメダカは少し大きくなっている。

  

  来年は池でもメダカが増えるだろうか?

 水槽には新しく小さなメダカを入れた。

 まだまだ暑さも続きそうだから。

 メダカも生まれ続けることだろう。

2024年8月22日

久し振りによく降った

投稿者 : rfuruya

2024-08-21 05:21:59 | 発想$感想

★ 先日来北の方では大雨だったが、

 この播磨地区はなぜか雨が少なくて、

 この時期毎日夕方には打ち水をしているので、

 「たまには雨が降ればいいのに」と思うこともある。

 昨夜はそんな雨が結構降ったようで、

 朝新聞を取りに行ったときはこんなに通路が濡れていた。

 

   

  こんな感じになることは滅多にない。

  

  

  メダカの鉢の水がいっぱいになっていて、

  もうすこしで水が溢れるところだった。

 

  ただ、朝には上がってしまったが、

  お陰様でホントに久しぶりに夕方、打ち水をしなくて済んだ。

  

  

  それにしても、なぜ播磨地方は雨が少ないのだろう?

2024年8月21日

昭和29年(1954)大学3回生の年   自分史

投稿者 : rfuruya

2024-08-20 06:28:43 | 自分史

★ 前年度の昭和28年の秋、10月20日から突然日記を書きだしたことは

 前回の自分史で書いた通りである。

 前年度は大学ノートに書いているのだが、この年には日記帳に記している。

 前年度の秋に突然「肺浸潤」の宣告を受けたのが日記を書きだした一つの理由であったのだが、

 「絶対安静」などと医者には言われたのだが、寝てたのは前年秋の10日間だけで、

 その後は寝たりはしていないが、何となく気を付けた生活になっている。

 この年の1月には兵庫県の高校のOB戦があって、明石高校のメンバー表の中には私の名前も載っていて、優勝候補の筆頭と書かれているのだが、

 その通り1月13日にめでたく優勝を飾っている。

 

 

 当時の社会人野球の花形スターが名を連ねていて、

 朝日スポーツ賞に輝いた山本治さんや当時の社会人野球の日本代表の4番を打っていた大津淳さんや同期の完全試合投手溝端圭一郎ほかホントにそのまま社会人野球に出ても大丈夫だというようなメンバーだったのである。

流石にこの時期は私も野球を止めてたので名前は出ているがプレーはしていない。

 こんな野球で始まった1年で、前半期は学校には行っているが

 野球の練習などもやめていた。

 日記にも結構病気を気にした記述も多いのだが、

 8月に名古屋の中日球場で第1回の全国商大大会が開催されて、

 この試合には是非参加をとマネージャーに頼まれて、ベンチワークなどをやっている。

 残念ながら優勝戦で敗れたのだが、こんなことから野球を再開して

 翌月の9月の合宿には参加し、来年度のチームのキャプテンに選ばれたりしている。

 当時のチームは4回生は1人しかいなくて3回生の私が実質のキャプテンを務めたりしたのである。

 そんなこともあって、秋のリーグの予想記事には

 遊撃・古谷のカムバックで内野陣も締まりとあったりして、

 近大に次いで「2位を狙う神商大」などと書かれたりしているのである。

 

 

★ そんなこともあって「肺浸潤」は完治したわけではなかったのだが、

 この年の秋からはまた「野球部の生活」が復帰したのである。

 私の大学での生活はこの年の前半だけが、野球からちょっと離れていたのだが、

 その期間を除けば「野球漬け」の大学生活だったと言えるのかも知れない。

 授業にも出てはいるが「勉強をした」と言ういう記憶はないが、

 日記には授業のことも書いてはいるが、全く覚えていないのである。

 そんな大学生活は、翌年の4回生、更には卒業を1年延ばした5回生と続くのである。

  

 

今年のメダカは何匹になるのだろう?

投稿者 : rfuruya

2024-08-19 06:00:41 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 今年「メダカ」のことを最初にブログにアップしたのは

 4月25日のことである。

 「今朝初めて腹にいっぱいの卵をを付けた」と書いている。

  

 そして5月6日に今年のメダカの第1号が孵った。

 とブログにアップしている。

  

★ 今日は8月18日だが、まだ毎日メダカは卵を産み続けていて、

 一体、何匹生まれたのか?

 いま池には今年うまれたメダカがこれくらいになて元気に泳いでいる。

 

 1cmちょっとぐらいの大きさだが、

 何百匹単位の数にはなった。

  ホントに毎日産み続けるので、

 家の水槽にも入れているが、こんな状態で、

 間違いなく何百匹の単位である。

  

  こんな状態で池に入れると、メダカに食べられてしまうので

 5ミリぐらいになるまでは、こんな器で育てている。

 

 

 いまも親のメダカは元気で6匹ほどが毎日卵を産み続けているから、

 1日に孵るメダカの数は100匹以上になる。

 9月の半ばまでは産み続けるから今からでも1000匹以上生まれるだろう。

 

 果たして何匹になるのか?

 ひょっとしたら「1万匹」にもなるかも知れない。

 少々数が増えても池があるからその処理には困らない。

 メダカの生涯は2年ほどだというが、

 親たちは来年も卵を産み続けるのだろうか?

 こんなに増やすことが出来たのは、今年が初めてである。

 先日、小さなメダカを池に放したら、みんな食われてしまって可哀そうなことをした。

 自然界でもメダカだらけにはならないのは、食われてしまうものが多いのだろう。

 そんなことで、今年のように人が世話をすれば幾らでも増えるのだが、

 その手間はなかなか大変なのである。

 時間がいっぱいあるから出来ることだが、

 9月の何日ぐらいまで続くのだろう?

 今年はその最後まで観察して、世話を続けたいと思っている。

 

2024年8月19日

門野真也くん 有難う

投稿者 : rfuruya

2024-08-18 05:40:09 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★ スマホの写真がパソコンに現れなくて困ってしまっていたのだが、

 昨日、アメリカにいる孫の門野真也が電話をかけてきてくれて、

 彼の言う通りにいろいろやったら「治った」のである。

 

 スマホで今日撮った写真が現われなくなってしまっていたのだが、

 パソコンの画面にそれが現れるようになった。

 こんな感じで「今日撮った写真」が並ぶのである。

 

 これでブログに「新しい写真を使うことが出来る」ようになった。

 大したことではないと思われるかも知れぬが、

 ブログをアップしたり、Facebookにそれを使たりしている私にとっては、

 新しく撮った写真が現われぬことは「一大事」だったのだが、

 それが出来るようになってホッとしている。

 門野真也は今はアメリカのプロのサッカー選手で、

 チームのキャプテンをやってる中心選手だが、

 4人の孫の中で一番、私に近くて私のネット関係のお師匠さんなのである。

 バークレー大学出身だから、秀才と言えるのかも知れない。

 

 

 なぜ、ネット関係に詳しいのかはよく解らぬが、

 おかしくなったら「真也に聞く」ことにしている。

 非常に親切に嫌がらずに「きちっと教えてくれる」のである。

 それにしても便利な世の中になったものである。

 家内のアイパッドの画面を通して、こちらのスマホやパソコンを写して、

 真也の言う通りに触っていたら治ったのである。

 アタマもよく、運動も出来るのだが、

 一番いいのは人柄で、こんな面倒なことでも嫌がらずに親切に最後まで

 「教えてくれる」人柄が一番いい。

 

 「スマホとWiFiが繋がっていなかっただけや」と簡単に言ってたが、治ってホッとしている。

 「真也、有難う

日記を書きだした・昭和28年(1953)     自分史

投稿者 : rfuruya

2024-08-13 06:36:41 | 自分史

★ 昭和28年(1953)10月8日から突然日記を書きだしている。

 その最初の1日、10月8日の日記はこんな書き出しで始まっている。

 「昭和28年も早いもので今日は霜月8日、この1年もこの月と師走を余すのみである。

今日の新聞で蒋介石主席が30年間日記を付けているとかの記事を読んだので、自分も真似事ながら日々のよしなしごとを記してみようかと言う気になったのである。・・・」

 確か、「日記を書くぐらいなら自分にもできる」と思ったのである。

 突然だったのでこんな大學ノートを使っている。

 大学2回生の秋、20歳の時だから、もう70年以上続いていて、

 蒋介石の2倍以上になった。

 

  

 翌日の11月9日に日記とは別にこんなその時の想いを纏めているので、

 そのまま転記してみる。

 

 平安の昔より十六夜・かげろう・紫式部日記と日記も上の部類では文学として1000年の年代を経て現在に残っている。そのような部類のものにしようとは毛頭考えないのであるが、ただ単なる青春の想い出として、後々には自分の脳裏から消え失せてしまうであろうささいな日々の出来事をまた考え、大袈裟にに言えば思想というものをつたない筆ではあるが記していこうと思うのである。

 日記というものを自分で記そうと思いたったのはこれが初めてである。そしてその生まれて初めての日記の書き出しが、肺浸潤という病気に悩まされている日々であることは思っても不幸極まりないことである。

 日記とは読んで字のごとく日々の記である。このようなものは少なくとも後に自分の考えなり行動なりを残そうという意志表示であるとしなければならないだろう。体の健康な時は日記など見向きもしなかった代物である。

 10日間ほど寝たというだけで日記を記そうというような気持ちになるのはどういう意味を持つのだろうか?

 人生五十年という短いとされている期間を更に短縮されるかも知れないという人の弱い気持ちから出てくるのだろうか? いや一日の手持ち無沙汰からかも知れない。まあ兎にも角にも悪いことではなさそうである。世に名の聞こえた人々も多く記していることではあるし・・・

 いつまで続くかが問題である。これから先一生続いたら大したものである。2・3日で止まってしまっても又それもよかろう。

 身分相応に『あきしょう』の自分に最適な大学ノートによってその一頁を始めることにする。

 いついつまでも続くことを祈るや切である。

 昭和28年11月9日 朝  錬太郎 記

  

★ 最初は突然のことだったので大学ノート

 2年目からは一年ごとの日記帳を使っていたのだが、

 それが『3年連用日記』になり、更に『5年連用日記』になって、

 70年も続くと書棚がこんなにいっぱいになっている。

 いまは『5年連用の3年目』だが、できればもう1冊ぐらいはと思っている。

 

★日記を書きだした昭和28年は大学2回生の時で、

 この年の夏の野球部の合宿で『夏風邪』を引いて体調を壊したのだが、

 そのまま合宿も続けて、秋のリーグ戦に入ったのだがその間ずっとおかしかったのである。

 そんなことでリーグ戦が終ってから、医者に行ったら『肺浸潤』の宣告を受けて『絶対安静』を言われて10日間ほど寝ていた時に、

 朝日新聞に蒋介石の日記のことが出て、ふと始めた日記なのである。

 ホントに人生、そんなに長くは生きられないと思った。

 父も伯父も50代で亡くなってしまっていたのである。

 ただ、祖母は102歳、母は104歳まで生きたので、

 結果的には運よく『祖母と母の遺伝子』を受け継いだのかも知れない。

 ただ、私自身の性格は非常に楽観的で、安静をと言われた肺浸潤だったが、結局寝たのは10日間だけで、その後は野球もやめずに続けていたら、

 4回生の時には肺結核になり『空洞』も出来てしまったのである。

 そんなことで4回生の時には単位は取れていたのだが、

 就職難でもあったし1年卒業を延ばしたら、翌年は『神武景気』となって、川崎航空機に入社することになったのである。

 そう言う意味では『いい運』を持っていると自分では思っている。

 そんなことなので、昭和29年(1954)からは、日記帳が残っているので、

 1年毎に日記帳を読み返してみて、その年がどんな年だったのか、

 自分史として私なりにもう一度振り返ってみようかなと思っている。

 いまとなっては、日記があってよかったなと思っている。

 

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