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2026年2月19日

現役時代、初めてのことばかり その2 単車営業

投稿者 : rfuruya

★ 戦前の川崎航空機工業は文字通り航空機のメーカだったが、そのエンジンが明石工場で、機体は岐阜工場で造られていた。

 そんなことから戦後再開された川崎航空機の明石工場もJETエンジンや農業用の小型エンジンなどを扱っていて、オートバイのエンジンも川崎明発工業に提供して『メイハツ』と言う二輪車が世に出ていたのである。

  

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  昭和35年(1960)に川崎航空機工業は単車の車体も含めた一貫生産を明石工場でスタートさせて、カワサキオートバイ販売と言う販社を創って、「カワサキ」二輪販売を開始することになり、明石工場の発動機営業部の中に昭和36年11月に新しく『単車営業部』を立ち上げたのである。

 それまでは販売は川崎明発に任せていたので、販売の経験者など誰もいなかったので、新しく出来た『単車営業部』も部長以下みんな全くの素人だったのである。

 そんな新しい単車営業の実務者として入社4年目の私が抜擢されたのである。

 

 営業と言っても川崎航空機から新しく出来た『カワサキオートバイ販売』に単車を販売するのだが、そのカワ販は社長・専務は川崎航空機から出向していたが、それ以外はメイハツやメグロの方ばかりで構成されていたのである。

 50㏄のモペットと125㏄の単車を開発・製造していたのだが、  

 

  モペットは兎も角、『125B7』は大変な代物で、フレームに欠陥があって、

 私が新しい営業課に配属されてみると、生産するより返却される台数のほうが多くて生産台数が『マイナス17台』と言うとんでもないことになっていたのである。

 当時の二輪車は贅沢品と言うことで125cc以上のバイクには『物品税』が掛けられていて、工場出荷時に国税局に納税するのだが、納税そのものは至極簡単なのだが、それが工場に返却されると『物品税の戻入手続き』が要るのだが、これが大変厳しくて

すべて税務署員の立ち合い検査がMUSTなのである。

 基本的には工場出荷時と全く同じであることがMUSTで、メーターが回っていたらダメなので、そんな車はメーターの巻き戻しなどやったりして大変だったのである。

 そんな物品税戻入手続きなど社内での経験者は皆無なので新人の私がみんな担当したのだが、若しその手続きに間違いがあったりするとこれは申告税だから罰則としては体刑になると脅かされたりしたのである。

 そんな私の『初めての営業業務』だったのだが、現在の『企画部の業務すべて』が営業担当だったので、広告宣伝も今は品質保証部と言うサービス業務もすべて私の担当で、入社4年目だったが2人の男性部下と2人の女子社員の5人ですべてをまかなっていたのである。

 当然上には課長も部長もおられたのだが、すべて単車営業など全く初めての方ばかりなので、全く教えて貰えなくて、ホントに大変だったのである。

カワサキの最初のバイクはそんな散々な出来だったのだが、2代目のB8がそこそこの好評で何とか事業部も存続出来たのである。

   

入社してすぐ、財産課の償却計算のIBM化や、こんな全く新しい単車営業の仕事をやり切ったものだから、『あいつは初めてのことは得意』と言うような評価になったのだろう。

それ以降退社するまでの40年間の殆どが『全く新しい仕事』の連続だったのである。

  

  

 

 

2026年2月18日

現役時代、初めてのことばかり その1 IBM

投稿者 : rfuruya

★ 私の現役生活は川崎重工の二輪部門が殆どだったのだが、入社して初めての仕事は財産課での償却計算だった。

当時の川崎航空機は戦後再スタートばかりで、まだ大変な時代で財産物件は通常1万円からなのだが、JET部門は新規事業と言うことで300円以上の物件を財産物件にしていたものだから、工具器具備品を担当した私は、机や椅子、スダレなど大変な数の財産物件の償却計算をしなければいけなかったのである。

 そんな償却計算をタイガー計算機を使ってやっていたのである。

  

  高価な機械でも、机や椅子でも計算作業は同じことだから、件数が多いほうが大変なのである。

 そんなことで入社2年目にこれを『機械化』出来ないかと検討を始めたのである。

 当時の川崎航空機は米軍のジェットエンジンのオーバーホールをやっていて、米軍関係者が駐在していてIBM室があったのである。

 昭和33年当時は日本にはまだIBMは一般化していなかった時代なのだが、それがあったのである。

 日本にIBMが一般化したのは昭和40年代だから、ほぼ10年も前のことなのだが、そんな時代に財産の償却計算のIBM化など世の中でも初めてのことである。

 そんな大それたことを、入社2年目の私はやり始めたのだが、今思い返すとよくやったものだと思う。

 まさに初めてのことだから、誰も教えてくれる先輩などはいなかったのだが、IBM室の係の方と一緒に『その仕組み』を創り上げて行ったのである。

 IBM と言ってもまだパンチカードシステムの時代で、そのカードの桁数は100桁ほどである。その100桁の中に償却計算の必要項目を収める必要があるのだが、一番大変だったのは、財産物件の『コード化』で機械それぞれの名前や、机や椅子などすべてを4ケタほどのコードの中に入れるためにいろいろとやったのだが、こんなことは当時の職場では誰も経験のない『全く新しい仕事』だったのである。

  そんな世の中でも『初めての仕事=財産物件の償却計算』を約2年間かかって、やり遂げたのである。

  この仕事は単に明石工場だけでなく、本社も岐阜工場も同じシステムに創り上げたのだが、新入社員ながら本社や岐阜工場などの人達をリードしていたのである。

 こんなことを新入社員の2年目からやったりしたので、仕事のことなど先輩から指示されることなど全くなかったのである。

 この償却計算のIBM化が完成したら、財産課で償却計算をしていた人たちが不要になり、大幅な減員になったのだが、私自身も当時初めて出来た『単車営業課』に転籍することになって、それ以降は現役を卒業するまで『二輪事業一筋』だったのだが、これがまた会社にとっても全くの新事業で『初めてのことばかり』が延々と続くのである。

 そんなこともあって『私の現役時代』は、一言でいえば『初めてのことばかり』を約40年間やり続けたと言ってもいいのである。

 そんなことだったので『私の現役生活』はホントに楽しかった40年間だと言えると思うのである。

 

2026年2月2日

昔々の二輪市場

投稿者 : rfuruya

★ 私がまだ30代の若いころだが、カワサキの東北6県を仙台で担当していた。

 昭和42年(1964)からの4年間だが、当時の東北はカワサキの販売台数で断然他地区を圧倒したTOP市場だったのである。

 まだ実用車のカワサキの時代で扱っていた車は125ccB8やM50のモペットだった。

  

 

  まだスポーツ車は世に出ていない時代で、当時は3万店もあった自転車屋にオートバイを委託するという委託販売方式の頃である。

   

 まだ地方の代理店があった時代で、岩手カワサキ岩手県が日本で一番の販売台数を誇っていた。

南北200キロ、東西100キロの広大な岩手県だけでも何百軒ものサブ店を持ち、そこにクルマを委託していた委託販売なのである。

 そんな各県の代理店を管理するというか応援する形で仙台に事務所を創り、東北6県の販売を担当していたのだが、東北6県で約4000台、そのうち1500台を岩手県が販売していた。

 因みに関東などの都市部はモペットは兎も角125㏄などは全く売れなかった時代なのである。

 そんな時代、メーカーの出先の仙台事務所の所長と言う肩書は販売店である自転車屋さんにとっては結構エライ存在だったのである。

 各地の代理店の社長さんもエライのだが、さらに一段上の『メーカーの人』なので店を訪問するだけで『結構な販売促進』になったので、各代理店の社長に頼まれて地方のサブ店(自転車屋)を訪問するのが仕事だった。

 そんなサブ店は各地の地方にあるのでそんな『サブ店訪問』で東北6県は隅々まで知っている。

 地方に行くとまだ舗装道路ではないそんな時代で、『峠越え』は大変だった。

 当時の峠道はまだ殆ど砂利道の頃で、雪が降った冬のほうが、舗装されたような感じになって走り易かったようにも思うそんな時代だったのである。

 岩手県など全県の販売店を訪問したとも言えるので、こんな地図にある殆どの道は知っている。

 

 

カワサキ色とネーミングが入った 『カローラバン』を運転して東北6県を走り回っていたので東北六県は隅々まで知っていると言っていい。

 

そんなバンの後部には2級酒がいっぱい積んであって、サブ店へのお土産で渡すのだが、1000円もしない『2級酒』が大変喜ばれたりした。

 いまはもう『2級酒』などはないのだが、2級酒とは、1940年から1992年まで存在した。日本酒の特級・一級以外の品質審査を受けていない普通酒に付けられた区分で、主に日常的な晩酌用として親しまれた大衆酒の代表格だったのである。

いまはどうかは解らぬが、当時の東北はホントに『酒飲み』が多くて、それは関西などとは比較にならないレベルだった。

 青森など『酒が切れる』のはタブーで、床の間には1斗樽を置いての宴会だったのである。

まだモトクロスレースが、山野で行われていた時代で、そんな自然がいっぱいの東北は、日本で一番モトクロスの盛んな地方だったのである。

 

  東北に来る前までは、広告宣伝とレース担当だったので、

  カワサキのレース部門には顔も聞いたので、ファクトリーチームのメンバーたちが

  東北のレースにはやって来て、そんなことでも結構楽しい4年間だった。

  昭和45年(1970)まで仙台にいたのだが、ちょうどその頃カワサキも250A1などのスポーツ車など『スポーツ車カワサキ』となって、市場は東北や九州から、関東圏や近畿圏の大市場が主力市場となり、私は新しく出来た大阪営業所の署長に転勤になるのだが、それまでの4年間の「東北時代」は本当に懐かしい時代だったのである。

2026年1月26日

今朝の三木

投稿者 : rfuruya

★ 今朝の三木は寒かった。気温はマイナス2℃。

 いつも散歩に行く三木総合防災公園もこんな感じに冷えていた。

  朝7時半、今朝はクルマも止まっていない。

  神戸の丹生山も霞んでいた。

 


 

  小雪が舞い落ちてきて、

  その丹生山も霞んで見えなくなってしまった。

 そんな朝だったのだが、6000歩、約1時間歩いた頃は太陽も上がっていつもの公園に戻っていた。

  

  自然の変化はオモシロい。

2025年12月1日

カワサキの赤とグリーン

投稿者 : rfuruya

★ カワサキはエンジンの専門メーカーではあったが、二輪は素人と言っていい段階からスタートした。

 スタートの年に鈴鹿サーキットが出来て、日本で初めてのロードレースが開催され、

それを観戦した製造部の連中が、カワサキもレースをとスタートしたのがモトクロスの始まりである。

  その時のレーサーのタンクが赤に塗られて、『赤タンクのカワサキ』の時代がスタートした。

  別に会社の決済などはなくて、自然に発生した『赤』だった。

  

  日本市場からのスタートだったが、1960年代末ごろには、アメリカ市場がメインとなり、デイトナ200マイルレースに出場するに当たって、当時の現地のアメリカ人が『ライムグリーン』のレーサーを出場させたのである。

 この『ライムグリーン』も会社の決済など受けていない。

 当時私は国内の広告宣伝とレースを担当していたが、この分野の経験者は皆無で、

 全般に会社の決済などなしに、何となく何事もやれた『いい時代』だった。

 当時の日本でもロードレースに出場したが、金谷秀夫が乗りFISCOを走ったそのロードレーサーは赤だった。

 

  当時、モトクロスにはホンダは出場していなくて『赤タンクのカワサキ』は、

  モトクロスレース時代だったのだが、

  ロードレースの世界では、ホンダのレーサーのタンクが赤だったので、レースを担当してた私は『まずいな』と密かに思っていたのである。

  そんなとき、アメリカでのレーサーが『ライムグリーン』で登場し、

  製造部と広告宣伝課で担当していた『レース』も技術部に移管されたのである。

  技術部では『レース』を百合草三佐雄さんが本格的に担当しカワサキのレーサーは『グリーン』となったのである。

  

  

  更に、レーサーだけにとどまらず、

  市販車にもグリーンが多く使われるようになって

  

 

   

   カワサキの赤とグリーンは、カワサキの二輪事業の初期のこんな時代を経て、グリーンに定着することになったのである。

   そんな初期の時代が懐かしいなと思っている。

2025年11月27日

草抜き

投稿者 : rfuruya

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★ 閑ですることもないので、庭の草抜きをした。

  結構手入れをしているので、一見すると草など生えていないように見える。

  

  ところが、大写しするとこんな具合で、小さな草が生えている。

 それを抜いたらこれ位採れた。

  

  普通はこんなのは草抜きの範囲に入らないのかも知れない。

  この一画、草や落ち葉があったので、拾ったり抜いたりしたら、

  これくらいにはなった。

  ずっと奥の方もこんなになってたので、

  草を抜き、ごみを拾って綺麗にした。

   1時間ほど掛ったが、『自己満足』の範囲で、庭にそんなに変化などない。

   時間がいっぱいあるので、暇な時にはこんなことをして時間を潰している。

2025年11月24日

晩秋の三木山自然公園もみじ谷

投稿者 : rfuruya

★ 毎年のことだが、私の『紅葉狩り』は三木山自然公園の『もみじ谷』と決めている。

  公園全体が秋の雰囲気だが、

 

 

『もみじ谷』界隈は自然に生えたもみじがいっぱいで独特の雰囲気なのである。

 やはり自生のもみじの雰囲気はいい。

 

  谷に沿った道を上っていく。

  毎年来るのだが、何度来ても素晴しい。

  ずっと登り道が続いて、92歳にはちょっときついが、

 登り切って、上の広場に出るのだが、

 そこも秋の雰囲気だった。

  『来年、来ることが出来るだろうか』

  確か、去年も同じことを想った。

  車を止めたところまで、ぐるっと1周・3300歩のいい散歩だった。

2025年11月12日

東大出の関取

投稿者 : rfuruya

編集

★ 九州場所が始まって3日目である。

  最近は何でもすぐ忘れてしまう。

  『東大出の関取』と言う記事をどこで読んだのか?

  忘れてしまって思い出せない。

  こんな記事を切り取ってネットにあるのだが、

  どこで見たのだろう。

  

  この須山さん、四股名は『須山』である。

  テレビで観てやろうと思って、1時から始まる相撲のテレビ放送を付けたのだが、

  そのスタートは三段目の14番目ぐらいで、

  『須山』は三段目の17番目ぐらいだから残念ながら写らないのである。

  

 

  大学出の関取は珍しくはないのだが、『東大』となると須山一人だけではじめてなのである。

  もう少し頑張って順位を上げてくれたらと思うのだが、

  今場所は始まったばかりだが『2戦2敗』である。

  炎鵬もケガで休んで順位を下げていたので、

  須山とも対戦したのだが完敗だったとか。

  

  何とか頑張って、テレビに映るように成ることを祈るのみである。

 

2025年10月31日

KAZE   雑感

投稿者 : rfuruya

★ KAZEの機関誌が送られてきた。

 Kawasaki Amusing Zone for Everybody  その頭文字をとって KAZEという。

 1988年当時は、HART も YESS もそうだったしカワサキの正規特約店を ARK (Authorized & Reliable shop of Kawasaki)と言ったりしていた。

1988年末にスタートしているが、未だに私は現役のKAZE会員なのである。

  

 当時あったHARTもYESSもじゃじゃ馬もみんな無くなってしまって、

 いま残っているのはKAZEだけである。

 当時カワサキが業界で最後に創ったKAZEなのだが、何故残っているのか?

 それは創った当時のコンセプトが『ずっと続くように』と言うことだったのである。

 当時ホンダのHARTは10万人の会員と言われていたが、実際に10万人いたのではなくて、それは『延べ10万人』だったのである。

 

 私がKAZEを創るに当たって一番気を遣ったのは、会員数の維持で具体的には

 『辞めにくいシステム』にすることだった。

 集めるのはそんなにムツカシクはないのだが一般の方式では1年経つと殆どの方が辞めてしまうので、会員数の維持は結構ムツカシイのである。

 そんなことで『辞めにくいシステム』として会員証を『JCBと提供した会員カード』としたのである。

 JCBなどの会員カードは一度入るとなかなか辞めることがムツカシイ。

 そんなことで『JCBの会員カード』としたことが今でも残っている原因で、その発想は大成功だったと言っていい。

  こんな会員証なのである。

 

  私の現役当時はKSS(ケイ・スポーツシステム)と言う遊び会社を創って、

  そこを中心に本格的な遊びの活動をやっていた。

  それが好影響したのか当時の目標販売台数7万台を達成したのである。

  

  機関誌の発行も1988年に第1号を発行したのだが、それもずっと続いて今では立派な機関誌となってVOL302号となって続いている。

  今では「KAZE」とGoogle検索するとこんな画面が現れる。

        

  

  もう辞めることもないので、生涯現役のKAZE会員となるだろう。

  ひょっとすると、一番旧い会員かも知れない。

  現役最後の10年間、一番充実した時期でその中心にKAZEがいたのである。

2025年10月30日

高市早苗総理の出足は・・・

投稿者 : rfuruya

★ 日本で初めての女性総理高市早苗さんが実現したばかりだが、その出足は至極順調のようである。

  アメリカのトランプ大統領と直接会う機会が早々にあったのも『ツキ』と言っていいだろう。

  その結果は上々のようである。

  早々にファーストネームで呼ぶ関係になったとか。

 

 日米会談での具体的な成果は、前の石破さんからの継続事項も多かったのだと思うが、その仕上げを高市早苗総理が調印したと言うことで彼女のツキだと言ってもいい。

 いずれにしても『出足上々』と言うべきで、『ツキ』もその人が持っている実力の一つだろう。

 高市総理は韓国で31日に中国の習近平国家主席と初めての首脳会談を行う方向のようだが、この結果がどうなるのか?

 こちらはトランプさんとのようにはいかないかも知れぬが、

 先日の国会での所信表明演説では、

「中国は重要な隣国であり、建設的かつ安定的な関係を構築していく必要がある」と述べていて、会談では日中両国の戦略的互恵関係を推進する方針を確認する見通しだとか。

  

  

  これがトランプさんとのツーショットのように『にこやかなもの』になればいいのだが、果たして結果はどうなるだろう?

  明日の結果が楽しみである。

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