現役時代初めてのことばかり その4 特約店制度
★昭和44年(1969)川崎重工・川崎車両・川崎航空機の3社合併があって、当時の単車事業部の方向も国内市場中心からアメリカ市場へ、実用車からスポーツ車へとその方向を変えていた。
そんなことから東北や九州などの地方から大都市中心へとその方向が変わっていくのだが、昭和45年(1970)11月に大阪を中心とする京都・滋賀・奈良・和歌山地区の担当を命じられたのである。
最初に挨拶に行った大阪の船場モータースの岡田博社長から『東北6県は知らないが、この大阪では、ホンダは別格、世界のヤマハ・日本のスズキ・明石のカワサキ』だと言わてしまうほどのカワサキの評価だったのである。
確かに大阪の市場ではバイクを委託した販売店の数だけは何百店もあるのだが、弱小店の自転車屋さんばかりなのである。
そんな大阪の販売網を再構築して『新しいカワサキ』のイメージを確立するにはどうすべきか?
いろいろ考えた末に広告宣伝課時代から親交のあった『二輪車新聞』の衛藤誠さんにお願いしたのである。
それは約500店も取引のあったこの地域の販売店を25店に絞って『カワサキ特約店』と認定するという突拍子もない計画なのだが、これを二輪車新聞のTOP記事に扱って貰ったのである。

この当時のことを衛藤誠さんご自身が後年こんな回顧録を書いておられる。
大阪母店(近畿地区を統括)が府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長が「中・大型機種を指向する販売店の組織化」を提案相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。
この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を早急に実施を図りたいとの話。そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。
ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の荢野豊秋専務から“大目玉”。ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。
「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。」これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段である。
衛藤さんの回顧録にもあるように少々粗っぽかったが、二輪車新聞のTOP記事は迫力があり、粗っぽい戦略だったが、業界でも大評判となり、カワサキではじめてスタートした『特約店制度』は私の担当地区の大阪、京都を中心とする近畿地区で大成功となったのである。

当時の国内の二輪車市場は、『50㏄モペット』が各社とも中心で全国に何万店もある自転車屋さんにバイクを委託しての『委託販売方式』だったのである。
そんな『委託販売方式』から一転、20数点の販売店に絞って買い取り方式とする画期的な大転換で、そんな大胆な『販売方式の転換』だったが、ちょうど時を同じくして発売された750Z2がその推進を大いに促進してくれて、こんな新しい『二輪の販売方式』が展開されることになり、成功を収めることになるのである。
それ以降は世の中も『スポーツバイクの方向』となり、カワサキの販売網は近畿地区だけではなく、中部地区から更に全国展開となるのだが、それを順次私が責任者として担当することになるのである。
そんなことで大阪担当は2年ほどで終わり、住所も高槻から今住んでいる三木に変わったのも、昭和48年(1973)のことなったである。
この『カワサキの特約店制度』はまさに世の中でも初めてのことだったのだが、二輪の世界も実用車・モペット中心の時代から『スポーツ車中心』へと変わるにつけて、他社も『二輪専門店方式』へと変わっていくのである。







































































































