2021 2月

2021年2月17日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 7   自分史

投稿者 : rfuruya
★1970年代後半の『カワサキ特約店構想』について書いてきたが、
その中には『二輪車新聞の衛藤誠さんの記事』を引用もさせて頂いたのだが、
衛藤さんは 二輪車新聞 の創刊号から関わっておられるベテラン記者なのである。
 二輪車新聞のネットのホームページの中にも衛藤さんの『創刊号作り』の話なども載っている。
  
衛藤誠さんとは、昭和36年川崎航空機に単車営業部が出来た最初の頃からのお付き合いだったが、昨年まで現役記者で活動されていたのである。
この時代の大阪特約店の記事は、衛藤さんにとっても懐かしい想い出なのだと思う。
そこには非常に詳しく当時の取材記事から書かれているので、
ご紹介しながら、私の感想を述べてみたい。
●印の文章が『私のコメント』である。
★まずは『カワサキ販売網づくりの今昔(1)』はこのように始まっている。
これは、これまでの“実用車のカワサキ”から脱皮し、“中・大型スポーツ車”を中心とする販売展開を目指すため、新しい販売方式を模索しての動きであり、特に東京・大阪・名古屋など大都市市場で見られてきた。
既にこの前年、70年(昭和45年)には東京で、中・大型機種の販売を指向する販売店約50店による「東京カワサキ会」が結成された。
これに触発された大阪でも、カワサキオートバイ販売大阪母店(近畿地区を統括)大阪営業所が1月、府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長が“中・大型機種を指向する販売店の組織化”を相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。
この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を示し「この早急な実施を図りたい」との話。
そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。
ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の荢野豊秋専務から“大目玉”。
荢野専務曰く「現在、全国にカワサキ車を販売してくれている販売店は1000店以上ある。この販売店は、何の前触れもなくこの記事がいきなり舞い込んできたら何とする。販売店の今後の経営方針にも大きく影響するばかりか、カワサキの今後の営業活動にも大きく支障が出る」というような主旨のお叱りの言葉を約3時間。私は荢野専務のお叱りは“ごもっとも”と思い、大いに反省させられた。
● 衛藤さんはこのように書かれているのだが、確かに本社サイドの決済など受けずに、取材に応じたというか、『取材をお願いした』のは間違いないのだが、当時の大阪市場での『カワサキ』が新販売網政策を展開し、その実現を目指すにはこれくらい迫力のあることをやらないとダメだったのである。
 強烈な反応があったということは、目的は達成できたということだと思う。
 衛藤さんは『反省』と言っておられるが、私は全く『反省などしていない
私の性格テストの中で一番強烈に出る欠点は『反省しない』ということなのである。
ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。
「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。
私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。
これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段であり、物事の実現には大きな“追い風”になります。
もちろん、これには多くの人たちを納得させる正当性がある限りです」とのこと。全く恐れいりました。
●衛藤誠さんとは、カワサキの二輪事業のスタート時点からお付き合いがあり、現役時代私はホントにいろいろとお世話になったが、この時期のカワサキの特約店政策が順調に推移したのも、この二輪車新聞の記事が大いに寄与したのは間違いないのである。
そして、『その2』はこのように続いている。
古谷氏の狙い通り、事はトントン拍子に進み、「半年あれば物事はある程度の現実をみる」とおっしゃる通り、この年の5月には大阪府下の主要な販売店25店が参加して「大阪カワサキ共栄会」の結成総会にこぎつけ、カワサキオートバイ販売から田中誠社長の出席もみた。
名称の「大阪カワサキ共栄会」は、その文字通り“カワサキとその販売店が共に栄える”という願いを込めたもの。また、その会長には船場モータースの岡田博社長が就任した。
さらに5カ月後の10月には、同共栄会の2回目の会合が開かれ、東京カワサキ会から北多摩モータース、城東カワサキの両社の社長さんも来賓で出席し、東京の組織活動などの情報を話し、相互に意見交換を行った。
このあと、カワ販大阪営業所は、カワサキ共栄会メンバーを軸とした販売強化策を展開して、府下の販売店のうち約500店もの販売店との取引中止を実施した。
同時に「カワサキ特約店制度の基本構想」の検討にも着手した。
これにはカワ販本社の田中社長も大阪の展開に強い関心を示し、その取り組みを側面から支援したこともテンポを早める要因になったようである。
おりしもカワサキは、この年(71年)、“二輪車事業10周年” を記念して、全国的な「二輪車事業10周年記念セール」を展開し、このセール成約の優良店100店を“KMC&米国市場視察旅行”に招待することにした。
このセールの主催は全国カワサキ会(小野寺和夫会長)。この会は、全国のカワサキ代理店組織で、カワ販の各地区母店もこのメンバーに含まれており、大阪母店長の古谷氏は同会の副会長に就任していた。
「米国視察旅行」は、72年(昭和47年)1月8日から15日までの7泊8日で、KMC(カリフォルニア)とサンフランシスコなど西海岸の旅で、参加した100店のうち、約50店は東京地区、残る50店が大阪をはじめとする関西と、名古屋地区の販売店であった。この帰国直後には、京都カワサキ共栄会も結成をみた。
● このアメリカ市場視察団は、全国カワサキ会が主催したもので、私自身の発案なのである。
当時のアメリカ市場の販売網がどのようなものなのか?
今後、国内市場で『二輪専門店網』を確立するためには先進市場のアメリカを是非観たいと思ったのである。
この時代未だ『海外旅行』など一般にはなかった時代で、二輪業界では勿論初めてのことだった。参加した国内100社はアメリカ市場を見て『洗脳』されたと思うし、東京を中心に、大阪・京都・名古屋などから参加した人たちは、
一気に燃え上がったとと言っていい。
私はこの視察団の団長を務めたのである。
このあと、4月にはカワサキ本社に東京・大阪・名古屋地区を統括する直営部が社長直轄として設けられ、直営部長に大阪母店長から古谷錬太郎氏が赴いた。
前年から検討されていた「カワサキ特約店制度」の構想も急ピッチで進み、8月中にはその概要がまとまり、二輪車新聞の8月31日付けに掲載。
9月8日、大阪の厚生年金会館で、この正式な発表説明会を開いた。
まずは直営部管内の東京・大阪・名古屋地区で先行することにして、正式なスタートは72年10月1日からだった。
契約第1号は、説明会を行った翌日の9月9日、大阪の船場モータースで、しかも船場モータースの岡田博社長は自店の契約だけでなく、東・名・阪各地で契約促進をバックアップした。
さらに翌年の73年9月からは、この「カワサキ特約店制度」を全国的に導入することになり、首都圏全域や広島、福岡などで積極的な活動が展開された。
これには、東京・大阪・名古屋地区で特約店契約を結んでいた販売店も積極的な協力を行ったという。
また、当時のカワサキは“ZⅡ”をはじめとする中・大型車の販売が好調で、これも特約店契約促進の追い風になったようである。
カワサキが現在取り組んでいる新しい販売網政策の「カワサキ・ネットワーク」と、46年前に取り組んだ「カワサキ特約店制度」は、新しい販売網を構築しようという狙いは共通している。しかし、唯一異なる点を挙げると、現在進めている制度は、寺西猛社長、清水泰博取締役を中心に、本社で綿密な計画を練り、これを全国展開している点で、
46年前の制度は、販売店の声などを汲み入れる形で地域の営業所長などが考え、これを可能な地域から全国的に拡大しようとした点だと思われる。
この差異は、混沌とした46年前の二輪車市場と、すでに成熟しきっている現在の二輪車市場という、全く異なる時代的な背景がもたらすものだと思う。
● この衛藤さんの原稿は2017年に書かれたものであり、
現在も進行中の『新しいカワサキの販売網政策』との比較が行われているのだが、時代も違うのだが最も異なる点を挙げるなら、
 現在の『カワサキネットワーク』はホンダさんも殆ど同じような政策を採られているのだが、
 1970年後半の『カワサキ特約店制度』は二輪業界でカワサキだけが先駆けてその『先頭を走った』ということだろう。
私自身は常に『二輪業界に貢献』ということがベースにあって、この時点の特約店制もそうだが、
カワサキ専門店システム』ではなくて、他メーカー車の販売OKなのである。
なぜ今は、各メーカーオンリー制に走るのだろうか?
末端のユーザーにとってみると、いろんなメーカーのクルマがある方がいい筈だと思う。
ずっと後、創ったユーザークラブKAZEも、その基本コンセプトは、
カワサキだけのユーザーのものではなくて、for Everybodyなのである。
2021年2月16日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 6

投稿者 : rfuruya

★ このカワ販出向中の10年間、個人的にもいろいろなことがあったが、

 子どもたちはまだ小学生時代なのである。
 この間の住所は 明石ー仙台ー高槻ー三木 と移っている。
 何と言っても『三木に土地を買って家を建てた』というのが、個人的には最も大きな出来事だっただろう。
 当時、誰しもが自分の土地を買って家を建てようという機運にあった世の中であったことは間違いない。
 ただ私の場合は、仙台から明石に出張しているときに突如話が出て、
 出張中に独断で決めてしまっているのである。
 なぜそうなったのか?
 大体のことは覚えているが、当時の日記を読み返してみた。
 昭和45年(1970)6月12日に、かって広告宣伝課時代に付き合いのあった田中さん大和ハウスに移っていて
廣野にいい土地があるから』というのである。
 翌日には現地を見て『6月14日には予約書にサイン』をしている。
土地という大きな買い物なのにあまりにも簡単に決め過ぎるきらいがあ』と日記には書いているがその通りなのである。
★ 大体、何でもこんな調子で『決断は早い
 『いいと思ったこと』は直ぐ決めてしまう。
 それは『人を信じる』というのがその根底にある。
 田中さんは広告宣伝課時代には印刷屋さんに勤めていたのだが『いい奴』だった。
 大和ハウスに転勤して三木に開拓中の土地を川重の明石工場人たちに売り込んでいるのだが、なかなか決まらないという。
そこに私が出張で戻ってきたものだから『いい土地だから買ってくれ』というのである。
現地を見たら、廣野ゴルフ倶楽部の前の広大な土地なのだが、
まだ造成中で土地の地肌だけが見えるだけで、
家の場所さえ解らなかったのだが、細部は全て田中さんに任して『サインした』のである。
信じる者』と書いて『儲かる』という。
信じる者』は『儲かるように出来ている』と何となくそう信じている。
 当時直接担当した『大阪の特約店制』なども25店の販売店を信じて、
 500店の自転車屋さんを切ってしまったのである。
★ いま住んでいる三木はこんな立地なのである。
 今は周辺も開拓されているのだが、
 当時は明石からはずっと奥の田舎だったのである。
 
 三木に住んでもう50年近くになるのだが『よかった』と思っている。
 当時の給料や物価は年々20%以上も上昇している時代で、
 三木の土地は75坪を280万円で買ったのだが、
 土地も給料もどんどん上がって実際に家を建てた4年後の1973年の春ごろには、
 私の給料も土地の値段も2倍ぐらいになっていたのである。
 そんな私の『やり方』を見て周囲の人は、
 『そんなになることを読んでいたのか?』と言われるのだが、
 そんなことはなくて、ただ『田中さんの言うこと』を『信じた』だけなのである。
★ホントに『人を信じる』のである。
 大阪・京都・名古屋の3地区でスタートしたカワサキの特約店制なのだが、
 京都の所長をしていたのが『藤田孝昭』くんで、
 彼は川崎航空機入社の同期で野球部で私と三遊間を組み、1・2番を打った球友でもある。
京都営業所を任すときに『すべて自由にやれ』と言ったこともあったのだが、
突出して『徹底的に進めた』のが『京都営業所』なのである。
当時の京都営業所はオモシロいメンバーが揃っていて、
久後淳一郎・関初太郎・柏原久・吉川健一など今でもお付き合いのある人たちがいたのだが、
京都府は京都市内の9店と宇治カワサキの10店だけに絞ってのスタートだったのである。
ホントに10店だけで大丈夫かなと思ったが、当時の京都営業所の経営実績は抜群だったのである。
 『信じる者』というのは本当に『儲かる』のである。
 これは吉田純一さんの受賞のお祝いに集まったメンバーだが、
 右から二人目が『藤田孝昭』くんである。
 
 このメンバーもそうだが、お付き合いのあった方、
 みんな立派になられるのである。
 これは 会が始まる前だが、
 藤田くんもいるし、一番右が柏原久くんである。
 明石カワサキも和歌山の阿部ちゃんもいる。
 みんな当時の仲間たちである。
 一番左は村島政彦さんなのだが、昨日はFacebookのこの写真に、当時の出会いのコメントなど頂いたのである。
 
 同じ会だが、受賞者の吉田純ちゃんを囲んで一番右が関初太郎くんである。
 
★ 『カワサキ特約店制』に没頭していた1970年代後半だが、
 それから50年近く経つた今も、Facebookなどでは毎日のように繋がっているのは、
 みんな『信じ会えた仲間たち』だったからだと思う。
 いまお会いしても昔と同じように話ができる。
 人生、長く生きてきたが『人を信じて』生きていると
 本当に『いいことばかり』なのである。
 そういう意味では『バカみたいな性善説者』で、
 世の中でお付き合いした人たちは、みんな『いい人ばかりだ』と信じて生きてきたし、
 今後も間違いなく『そう生きる』と思っている。
2021年2月15日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その5  自分史

投稿者 : rfuruya

★ 1970年代の国内の二輪業界は、
 各社とも250cc以上のスポーツ車の上市もあったのだが、
 カワサキを除く業界3社はその販売の中心は50ccのモペットで、
 その販売方法は全国の自転車屋さんの店頭にバイクを委託するという
 『委託販売』の時代だったのである。
そんな環境の中でカワサキだけが、中大型スポーツ車を中心の販売であったし、
最大の市場東京では、既にカワサキは100店余りの『二輪専門店網』を敷いていたのである。
東京に次ぐ大市場の大阪なのだが、大阪では全くそのようなことにはなっていなくて、やっと『カワサキ共栄会』を創ったばかりの状況だったのである。
★ 『カワサキ特約店制度』と検索すると
 こんな野田浩志さんの記事、 が現れるのである。
 1971年時代にはカワサキの本社では野田君が『特約店制』なるものを
既に起案して承認はされてはいたのだが、
 第一線ではどこもそれを実施しようとするところはなかったのである。
  
 そんな状況だったので、私の管内で何とかそれを実現させたいと
 その前身の『カワサキ共栄会』なるものを創ってスタートを切ったのである。
 『特約店制』と簡単に言うが、既に取引のある自転車屋を切って、新しく『カワサキ特約店』を創るのは、口では簡単でも第1線の営業にしてみると『リスク』が大きすぎて実行しようというところが皆無の状態だったのである。
 まず大阪・京都と名古屋地区でスタートを切るべく検討を開始し、
 特に『カワサキ共栄会』が出来た大阪では500店以上の取引自転車店があったのだが、
 『カワサキ共栄会』の25店で大阪管内の実績の60%の販売台数になれば
500店の店を切って25店の『特約店制』に踏み切ると公言したのである。
約1年の期間を経て、管内の京都地区にも10店の京都カワサキ共栄会がスタート出来て、名古屋地区でも岡崎営業所がスタートするなど、徐々にその機運が高まっていったのである。
そして1972年9月1日に二輪車新聞のトップ記事で
 『カワサキ特約店制の実施構想』を発表したのである。
 
 これは簡単に出来たように思われるかも知れぬが、
 大変だったのである。
 特約店候補の店も数少なく絞ったが、
 その候補店に対しても、十分な理解を得るために、営業所で夜遅くまで『勉強会』をやったし、
 既に同じような『二輪専門店』にはなっていた東京地区の
 北多摩モータース・城東カワサキには、何度か大阪まで足を運んで頂いて
二輪専門店』なるものへの研修会の講師を務めて貰ったりしたのである。
 特約店契約の内容も非常に厳しいもので、従来の自転車屋さんとの
委託販売』とは全く違った『年間契約金額』も設定されたものだったのである。
 カワサキ場合は、大型車も多いので『台数契約』ではなく『金額契約』とし
 その最低を『1000万円』としたのである。
 大阪の場合で言うと25店だから契約総額は3億円を超え、
2年前に二輪車新聞に『2年で倍増』という公約は十分に果たせたのである。
★こんな細部のことを言っても、一般にはなかなか理解がムツカシイとは思うが、
 兎に角、当時としては『桁外れに高い条件設定』だったのだが、
 神様は援けて下さるのである。
 上の二輪車新聞の左上に『カワサキ750、国内用に明春発売』とあるが
 これが50年経った今も人気の『カワサキZ2』なのである。
    
 この車が『特約店制スタートの初年度』に発売されて
カワサキの特約店制は最高のスタートを切ることが出来たのである。
 カワサキ特約店制がスタートしたのは1973年なのだが、
最初は大阪・京都・名古屋の3地区からスタートし。
既に同じような『二輪専門店制』を採っていた東京も加えて
東名阪メガロポリス地区』での特約店制が確立するのである。
東・名・阪の東海道メガロポリス地区での
★この時点では地元『兵庫県』が入っていないのだが、
 兵庫県は販売台数は多いのだが、典型的な自転車屋さんが主力で、
 『二輪専門店』になるような候補店が皆無の状態だった。
 そんな中で登場したのが、この稿の冒頭にご紹介した『従業員独立制度』、
 所謂『のれん分け制度』で兵庫県はカワサキの従業員の『のれん分け』のお
店が多いのは、そんな事情からなのである。
 これは最近の写真だが、
 みんな立派になられたが、『元カワサキの従業員』だし、
  
 これはその最右翼『叙勲』を受けられた吉田純一さんの祝賀会に集まった
 当時関係のあったメンバーたちなのである。
 不思議なほどその当時の主役たちが集まっている。
 今でも思うのは、この当時『特約店制』で関係のあったメンバーたちは、
 単なる販売元と販売店という関係ではなくて、
 『一緒に同じ目標に向かって邁進した仲間たち』なのである。
 50年経った今も、そんな絆で結ばれているのが素晴らしい。
 冒頭にご紹介した特約店制度のれん分け制度起案者野田浩志さんこと
 『のんちゃん』もFacebookで繋がっている。
私にとってもこの二輪業界で先頭を切って創り上げた新しいシステムだったし、こんな特約店制度の推進に関われたのは『最高の喜び』なのである。
2021年2月14日

梅の花と六地蔵と志染の石室

投稿者 : rfuruya
★ 天気がよかったし、三木総合防災公園の梅の花が咲いたので、
 その動画を撮ってきた。
 80分の行程を1分50秒に纏めてあるので
 ご覧になってみてください。
 三木総合防災公園とはこんなに広い公園です。
 そのついでに園内をスロージョッギングしてきたが、
いつもは通らない山道を通って、『六地蔵』や『志染の石室』にも久しぶりに行ってきた。
 2月も半ば、梅の花も開いている。
  
 土曜日で子どもたちがサッカーの試合で、
 駐車場はいつもより車が多い。
 こんな広い道をいつもは通るのだが、
 こんな山道ばかりを通ってみた。
急こう配の階段などを上って
 久しぶりに六地蔵さんのところに行ってきた。
  こんな彫り物のある石がある。
六地蔵 どっこいさん とは こんな石である。
  
  そこから更に、こんな坂道を下り
  さらにこんな石段を下った先に
  志染の石室はある。
  この時期『金色に輝くこと』があるというので
 このように言われている。
  ずっと下ってきたので、今度は登り、
 急な階段や坂道が続く。
 そしてやっと公園の道に戻ってきた。
 子どもたちがサッカーの試合をやっていた。
 歩いた歩数9000歩、約6km、80分掛かっている。
 消費カロリーは、1300kcal と1000を超えた。
 
 あと20日で88歳・米寿を迎えるが、結構元気である。
 今距離歩いたのではなくて、
 『スロー・ジョッギング』で登り以外は走ったから、
 アクテイブタイム81分と出ている。
2021年2月13日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その4 自分史

投稿者 : rfuruya
★カワサキオートバイ販売出向の10年間は,
自分自身にも初めての経験などいろいろあったのだが、
昭和44年(1969)4月には、川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併があったり、
その関係からカワ販の社長も岩城さんから田中誠さんに交代している。
田中誠さんは私の大学の先輩で、入社当時の部長で非常に身近だったし信頼も厚くて、100%自由に任して頂けたのである。
そういう意味で、特に出向期間の後半5年間は、田中誠社長直接の指示で自由に動けた時期だったと言っていい。
その信頼に応えて、それなりの実績も上げたので、
毎年のようにその職責の範囲が増大していったのである。
年齢で言うと38歳から40歳代の初めの頃で、
まだ川重では課長待遇の頃なのだが、
昭和45年(1970)からは大阪母店長として営業第一線を担当することになり、関西2府4県を担当したが、
2年後には名古屋・北陸・松本が加わって中日本営業部長となり、
翌年4月にはさらに東京が加わって直営部長となり、直営部管内は全て新しい特約店制の販売網となったのである。
そして全国の特約店推進を図るため、本社管理部長として明石に異動し、
大阪母店長就任以降5年間で、全国の特約店制度の完成を見たのである。
そして昭和50年(1975)10月に10年ぶりに川重企画室企画部に復帰ということになったのである。
★こんな目まぐるしい5年間だったのだが、
1970年の8月に『マッハⅢ』が国内にも登場して、
実用車のカワサキ』から『中大型、スポーツのカワサキ』へと移行する時代が始まり、
当時カワサキとしては『最弱の市場』と言われた大阪ほか関西市場を担当することになったのである。
    
仙台時代は勉強することばかりだったが、
この時期は入社以来初めて『トップとして旗を振る』ことになったのである。
大阪に赴任して最初に訪問したのは老舗の『船場モータース』だったのだが、
初対面の船場モータースの岡田博さんに、
東北ではどれくらい売られたか知らぬが・・』と前置きされて
大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサ』と言われてしまったのである。
★ 確かに販売台数も少なかったし、
取引店は500を超える自転車屋さんもあったのだが、
それはとても『販売網』と言えるようなレベルではなかったのである。
大阪に赴任したのが昭和45年(1970)11月なのだが、
大阪だけではなく京都・奈良・和歌山など関西圏が担当なので、
販売店廻りをして挨拶をするだけでも大変なのだが、
販売店訪問は東北で慣れていたし、
会って話をすると誰とでも直ぐ仲良くなれる性分で、
これは得意分野なのである。
年末までにはほぼテリトリーの全容が何となく掴めたと言ってもいい。
年が明けて1月には勝浦温泉大阪の主力店20店を招待して、
今後の大阪市場の販売網戦略などを検討したのだが、
非常に雰囲気もよくて、船場モータースの岡田さんを中心に、
カワサキ共栄会』を創ろうということにもなったのである
★そして2月には、
二輪車新聞にトップ記事でこのように大きく掲載されたのである。
2年以内に実績倍増を見込み、販売網再編構想決る』
今までに、カワサキがこんな派手なニュースを流したこともなかったので、
二輪業界だけではなくて、カワサキの中からも驚きの声が聞かれたのである。
二輪車新聞記者の衛藤誠さんとは広告宣伝課時代から密接な関係もあったので、
先方から取材申し込みがあり、
本社の許可など受けずに独断で、私自身の今後の販売網構想や
中期の事業計画を発表しただけのことなのだが、
2年で実績倍増』などと言ってるので大きく見えるのである。
実績が小さい』のだから、倍増はそんなにムツカシクはないと、
ホンネでそう思っていたのである。
ただ、業界紙のトップ記事は話題にもなったようで、
この記事が出た直後に前述の船場の岡田社長
ホンダの営業会議では、カワサキの名前はかっては出なかったのだが、昨今は「双葉のうちに潰さねば」と言ってるらしい』と言われたのである。
無視から注目に変わっただけでも進歩なのである。
★業界紙がこれくらい大きく取り上げてくれると『業界の話題』になることは間違いないのである。
世の中の注目を浴びることで『カワサキのイメージ』は変わるし、目標も明確になるのである。
目標を公表したのだから、それを実現するために頑張らねばならないし、
社内の会議などで言うよりは、部下たちにも徹底できるのである。
本気らしい』と思ってくれるので、ある意味やり易いのである。
★特にそのベースにあった販売網政策については、
この時期には取引のあった500店を超える自転車屋さんの中から、
25店ほどの二輪専門店候補を選び、
4月には正規に『カワサキ共栄会』を設立して船場モータースの岡田さんが会長を引き受けて頂いたのである。
その販売店候補の人たちも若くて元気なころである。
勝浦温泉に招待した販売店20店は、
大阪でもそこそこの実績のある『いいお店』なのだが、
その後25店に増えている。
その選択は別にその時点の実績に拘らずに
いい人・やる気のある人』を選んでいるのである。
その時点の実績などではなくて、将来性を求めたのだが、
その筆頭が今の『忍者』当時の伊藤モータースの伊藤彰さんである。
この3ヶ月の間に、多くの店をこの目で見ているのだが、
堺の伊藤モータースにも立ち寄っているのである。
その時点では、新車というよりは中古車主体のお店だったが、
兎に角『元気がいい』のである。
 場所は今の『株・忍者』と同じところだが、
こんなお店だった。
       
 伊藤さんは、大阪のカワサキと共に『大きく立派』になられた
 まさに『共栄会』のコンセプトそのもののお店である。
 50年経った今も親しくお付き合いは続いているのである。
 『カワサキ共栄会』をベースに
 カワサキの正規の基本コンセプトとして展開したのが
 『カワサキ特約店制度』なのだが、
 次回はこの5年間の主たるテーマであった
 『特約店制度』についてご紹介をしてみたい。
★カワサキオートバイ販売出向の10年間は,
自分自身にも初めての経験などいろいろあったのだが、
昭和44年(1969)4月には、川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併があったり、
その関係からカワ販の社長も岩城さんから田中誠さんに交代している。
田中誠さんは私の大学の先輩で、入社当時の部長で非常に身近だったし信頼も厚くて、100%自由に任して頂けたのである。
そういう意味で、特に出向期間の後半5年間は、田中誠社長直接の指示で自由に動けた時期だったと言っていい。
その信頼に応えて、それなりの実績も上げたので、
毎年のようにその職責の範囲が増大していったのである。
年齢で言うと38歳から40歳代の初めの頃で、
まだ川重では課長待遇の頃なのだが、
昭和45年(1970)からは大阪母店長として営業第一線を担当することになり、関西2府4県を担当したが、
2年後には名古屋・北陸・松本が加わって中日本営業部長となり、
翌年4月にはさらに東京が加わって直営部長となり、直営部管内は全て新しい特約店制の販売網となったのである。
そして全国の特約店推進を図るため、本社管理部長として明石に異動し、
大阪母店長就任以降5年間で、全国の特約店制度の完成を見たのである。
そして昭和50年(1975)10月に10年ぶりに川重企画室企画部に復帰ということになったのである。
★こんな目まぐるしい5年間だったのだが、
1970年の8月に『マッハⅢ』が国内にも登場して、
実用車のカワサキ』から『中大型、スポーツのカワサキ』へと移行する時代が始まり、
当時カワサキとしては『最弱の市場』と言われた大阪ほか関西市場を担当することになったのである。
    
仙台時代は勉強することばかりだったが、
この時期は入社以来初めて『トップとして旗を振る』ことになったのである。
大阪に赴任して最初に訪問したのは老舗の『船場モータース』だったのだが、
初対面の船場モータースの岡田博さんに、
東北ではどれくらい売られたか知らぬが・・』と前置きされて
大阪ではホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサ』と言われてしまったのである。
★ 確かに販売台数も少なかったし、
取引店は500を超える自転車屋さんもあったのだが、
それはとても『販売網』と言えるようなレベルではなかったのである。
大阪に赴任したのが昭和45年(1970)11月なのだが、
大阪だけではなく京都・奈良・和歌山など関西圏が担当なので、
販売店廻りをして挨拶をするだけでも大変なのだが、
販売店訪問は東北で慣れていたし、
会って話をすると誰とでも直ぐ仲良くなれる性分で、
これは得意分野なのである。
年末までにはほぼテリトリーの全容が何となく掴めたと言ってもいい。
年が明けて1月には勝浦温泉大阪の主力店20店を招待して、
今後の大阪市場の販売網戦略などを検討したのだが、
非常に雰囲気もよくて、船場モータースの岡田さんを中心に、
カワサキ共栄会』を創ろうということにもなったのである
★そして2月には、
二輪車新聞にトップ記事でこのように大きく掲載されたのである。
2年以内に実績倍増を見込み、販売網再編構想決る』
今までに、カワサキがこんな派手なニュースを流したこともなかったので、
二輪業界だけではなくて、カワサキの中からも驚きの声が聞かれたのである。
二輪車新聞記者の衛藤誠さんとは広告宣伝課時代から密接な関係もあったので、
先方から取材申し込みがあり、
本社の許可など受けずに独断で、私自身の今後の販売網構想や
中期の事業計画を発表しただけのことなのだが、
2年で実績倍増』などと言ってるので大きく見えるのである。
実績が小さい』のだから、倍増はそんなにムツカシクはないと、
ホンネでそう思っていたのである。
ただ、業界紙のトップ記事は話題にもなったようで、
この記事が出た直後に前述の船場の岡田社長
ホンダの営業会議では、カワサキの名前はかっては出なかったのだが、昨今は「双葉のうちに潰さねば」と言ってるらしい』と言われたのである。
無視から注目に変わっただけでも進歩なのである。
★業界紙がこれくらい大きく取り上げてくれると『業界の話題』になることは間違いないのである。
世の中の注目を浴びることで『カワサキのイメージ』は変わるし、目標も明確になるのである。
目標を公表したのだから、それを実現するために頑張らねばならないし、
社内の会議などで言うよりは、部下たちにも徹底できるのである。
本気らしい』と思ってくれるので、ある意味やり易いのである。
★特にそのベースにあった販売網政策については、
この時期には取引のあった500店を超える自転車屋さんの中から、
25店ほどの二輪専門店候補を選び、
4月には正規に『カワサキ共栄会』を設立して船場モータースの岡田さんが会長を引き受けて頂いたのである。
その販売店候補の人たちも若くて元気なころである。
勝浦温泉に招待した販売店20店は、
大阪でもそこそこの実績のある『いいお店』なのだが、
その後25店に増えている。
その選択は別にその時点の実績に拘らずに
いい人・やる気のある人』を選んでいるのである。
その時点の実績などではなくて、将来性を求めたのだが、
その筆頭が今の『忍者』当時の伊藤モータースの伊藤彰さんである。
この3ヶ月の間に、多くの店をこの目で見ているのだが、
堺の伊藤モータースにも立ち寄っているのである。
その時点では、新車というよりは中古車主体のお店だったが、
兎に角『元気がいい』のである。
 場所は今の『株・忍者』と同じところだが、
こんなお店だった。
       
 伊藤さんは、大阪のカワサキと共に『大きく立派』になられた
 まさに『共栄会』のコンセプトそのもののお店である。
 50年経った今も親しくお付き合いは続いているのである。
 『カワサキ共栄会』をベースに
 カワサキの正規の基本コンセプトとして展開したのが
 『カワサキ特約店制度』なのだが、
 次回はこの5年間の主たるテーマであった
 『特約店制度』についてご紹介をしてみたい。
2021年2月12日

紀元節  雑感

投稿者 : rfuruya
 
★2月11日は『紀元節』である。
小学校の頃、
 紀元節・天長節・明治節など『』と付く日は祝日だった。
 戦前には祝日として四方拝(1月1日),紀元節(2月11日),天長節(4月29日),明治節(11月3日)の四つを四大節と呼ぶ祝日があったが、
何故か『紀元節』が一番よく覚えている言うか懐かしいのは、紀元節の歌があったからだろう。
このほかにも、神嘗祭(かんなめさい10月17日),新嘗祭(にいなめさい11月23日)などもあったが
今はみんな違った呼び名で呼ばれてはいるが、祝日としては残っている。
その紀元節の歌詞である
歌詞(現代表記)
一、
雲に聳(そび)ゆる 高千穂(たかちほ)の
高根おろしに 草も木も
なびきふしけん 大御世(おおみよ)を
仰ぐ今日こそ たのしけれ
二、
海原なせる 埴安(はにやす)の
池のおもより 猶ひろき
めぐみの波に 浴(あ)みし世を
仰ぐ今日こそ たのしけれ
三、
天(あま)つひつぎの 高みくら
千代よろずよに 動きなき
もとい定めし そのかみを
仰ぐ今日こそ たのしけれ
四、
空にかがやく 日のもとの
よろずの国に たぐいなき
国のみはしら たてし世を
 
 小学生のそれも1・2年生の頃に覚えた歌だが、
その意味ははっきり解らぬままに、今でも2番まではよく覚えている。
 最近のことは、何でも直ぐ忘れてしまうのに、
こどもの頃覚えた歌詞は何故今でも思い出すのだろうか?
人間の脳の不思議さである。
★ところで『雲にそびゆる高千穂』は九州だとは解っていたが、
 その地図と写真を見るのは、初めてのことである。
 宮崎県だとは思ったがこんなところなのである。
 もう少し南かなと思っていた。
 
高千穂町には『天の岩戸』の洞窟もあるとか。
  
 高千穂はこんな綺麗な山である。
 
 87歳にして小学校で覚えたことをさらに勉強したりしている。
 ある意味何もすることのない『コロナのお陰』なのかも知れない。
建国記念日』よりは、何となく『紀元節』の方が日本らしくていいなと思う
 戦前派なのである。
2021年2月11日

有馬キャスター降板問題 いろいろ   雑感

投稿者 : rfuruya

★こんなニュースが流れた。
 NHKニュースウオッチの有馬キャスターが3月で降板だという。
 文春の記事では『菅官邸を怒らせた・・・』とあるが
 本当だろうか?
 若しホントなら、『菅さんはダメだな』と思う。
 一国の総理大臣なのだから、どんな質問にも対応して当然で、
 有馬さんがどんな嫌な質問をしたかは知らぬが、
 国会の野党議員の質問のような『ツマラヌ質問』ではなかったはずである。
  
昨年10月に菅義偉首相が番組に生出演した際、日本学術会議問題について直接質問したら、菅首相が不快そうな表情で答えたこともあって、
文春が「事前の打ち合わせにない質問をして官邸を怒らせた
として「今年度で番組降板か」と話題となっていたようだが、
NHK関係者は「降板報道以前内々では決まっていたことで、官邸の圧力によって降板したわけではない」と語っているという。
『前任の大越健介キャスターは5年、その前の河野憲治キャスターは2年』だったというから、有馬さんの4年妥当なのかも知れない。
★この番組は、私も観ることが多いのだが、
 有馬さんも人気らしいが、私は特にファンでもない。
 むしろ一緒に出ている和久田麻由子アナのファンで、
 彼女はどうなるのかな? と思ったら、
 4月以降は『和久田麻由子アナが看板に』とある。
  
★ 折しも『森発言』で『女性問題』がいろいろ言われている日本だから、
 NHKの看板番組の主役が女性になるのは、
 なかなかいいと思っている。
 ちょっとネットで『和久田麻由子』のこと調べてみたら、
 東大出の才媛で、既婚のようである。
 ご主人もちょっとした有名人らしい。
 このように書かれていた。
早稲田大学競走部のスター選手でした
駅伝界きってのイケメンとして有名だっただけでなく
’11年の箱根駅伝では『山の神』こと東洋大の柏原竜二とデッドヒートを演じ、早大の優勝に大きく貢献しました
大学卒業後は5大商社に入社。和久田アナとは、社会人になってから友人を介して知り合ったそうです 
    
 この頃は、調べたら何でも解る世の中である。
  大いに期待したいと思っている。
2021年2月10日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その3  自分史

投稿者 : rfuruya

★ 仙台事務所を開設し、事務所長として東北6県の代理店との取引を総括していたのだが、
東北6県には10店以上の代理店があったのだが、
メーカーに協力的で数を沢山売ろうとする代理店ほど資金繰りが苦しくて、
その経営はムツカシイという状態だったが、
東北6県で年8000台ほどの販売規模で、カワサキの最有力市場ではあったのである。
 そんな環境の中で新しく創られた『仙台事務所』だったのだが、
その機能をどのようなものにすべきか? いろいろ考えて代理店の在庫負担の軽減のためにも、
仙台事務所の第一の機能を『倉庫機能』として東北6県への新物流形態を考えたのである。
 従って開設された『仙台事務所』は事務所はほんのわずかで、その殆どを倉庫とし、仙台から小型トラックによる頻繁な物流としたのである。
 当時は田舎だったが、今では町の中に位置している。
        
★東北6県は岩手県が日本一の広さで縦が200キロ横が100キロあるのだが、
ご覧いただいても解るように、宮城県を除いては大きな県ばかりなのである。
結構山坂が多くて、登坂力の強いカワサキのバイクが好まれたのである。
     
 当時は二輪専門店などではなくて、
 東北の1000店もの自転車屋にバイクを委託する『委託販売』の時代で、
 そんな地方の販売店訪問を代理店の社長さんと一緒に訪問することが多かったので、
 東北の道は、東北の人より詳しくなったかも知れない。
 その距離も長くて、仙台から盛岡も、盛岡から青森も隣の県だが200キロもある。
 神戸から名古屋までが200キロだから、
 関西なら兵庫・大阪・京都・滋賀・岐阜県を通ってやっと愛知の名古屋なのである。
★ホントにいろんなことを経験したのだが、
一番勉強したのは資金繰りというか経営のバランスシートかも知れない。
それはいろんな理由があるのだが、『勉強せざるを得なかった環境』だったのである。
 ●直接の上司であった北日本営業部長の宮川さんは元々は『経理部長』だったし、カワ販の社長になられた田中誠さんは元川崎航空機の『資金部長』なのである。
 ●そして代理店の経営が思わしくないので、資金繰りが大変で、その対策が大きな仕事の一部でもあった。
 ●代理店の社長と一緒に地元銀行にもご一緒する機会も多かったのだが、
 それは『メーカー保証』があるので銀行は融資をしてくれるので、
 『メーカ社員の私』がご一緒することがMUSTなのである。
 そして、その時に説明するのは資金繰りやバランスシートなのである。
  非常に不思議に思ったのは、その時提出する事業計画やバランスシートは
  赤字ではなく、黒字に修正されていたりした。
  銀行はそんな資料は『建前』で、『川崎航空機のメーカー保』で融資に応じていたように思う。
 ●兎に角、販売もさることながら『貸借対照表』とはご縁が深かったし、
  代理店の経営で販売増加も勿論大事なのだが、赤字対策には『営業内』よりは『営業外対策』の方が肝心なのである
私は神戸商大卒業なのだが、大学では『簿記は取らずに卒業』していて、
全く知識はなかったのだが、この東北の4年間で実地に勉強して身に付いていて、
後の『カワサキの二輪事業の経営危機対策』にも自信を持って当たれたのはこの『東北での経験』がベースなのである。
★ 勿論、販売対策も熱心に推進した。
 当時の主力のクルマは125B1や
  
 ちょっとスポーツタイプのC2SSだが、
 このC2SSは全国でも群を抜いて東北がその販売台数を誇ったのである。
当時、全国で一番『モトクロス』が盛んな地域が東北で、
前任がレース担当だったものだから、レースチームには顔が利いて
山本隆・岡部能夫・梅津次郎・歳森康師・星野一義というカワサキ最強のメンバーたちや、
ノービスでは清原明彦・従野孝司モトクロスライダーとして、
よく東北に来てくれたのである。
★この東北仙台での4年間は学んだことばかりの時代で、
その販売実績は東北が日本一を続けたのだが、それは仙台事務所が売ったのではなくて、
各地の代理店が販売してくれたお陰なのである。
中でも久保克夫社長が率いる岩手カワサキは全国一の実績を誇っていたのである。
久保さん率いる岩手の販売店も特に飛び抜けた店はないし、従業員も大学出など一人もいなくて、トップセールスの山本君は中学卒なのである。
何が岩手を日本一の代理店にしているのか?
そこには久保さん独特のリーダーシップと、非常に高度に仕組まれた経営システムと、特に何を言うではないのだが販売店から絶大な信頼を得ている『久保さんの人柄』かなと思った。
運転免許を持たない久保さんとは私の運転で岩手の販売店をよく回ったものだが、一度も久保さんの口から『売ってください』などと言う言葉は聞かれなかったのである。
私の人生で一番多くを学んだのは久保克夫さんからだと思っていて、そういう意味では『恩師』なのである。
田舎なれども南部の国は西も東も金の山』と唄われる『南部牛追い歌
南部の国」とは、安土桃山時代に豊臣秀吉から公認された東北地方の南部藩のことで、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっているのだが、
久保さんは南部の方で、こよなく『南部』を愛されていたのが印象に残っている。
当時はまだ県よりは、昔の藩単位でいろんなことが考えられていて、
八戸などは青森だが何となく南部だったし、
実際青森カワサキの販売店会は『南部カワサキ会』と『津軽カワサキ会』の二つに分かれていて、まだ『青森カワサキ会』としては統一することが出来なかったような時代であった。
★当時の二輪業界はまだ『本田宗一郎さんが健在』で、
日本国内もカブという50ccのモペットを中心に、
全国の自転車屋5万店に『委託販売』という独特の取引形態だったのだが、
一方では世界のGPレースにも参加、鈴鹿サーキットの建設など、非常に先進的な事業展開をしたので、
三菱重工業・富士重・トーハツ・BSといった大企業も当時は業界の中にいたのだが、浜松勢の身軽な展開に『ツイて行けず』に脱落していったのである。

そんな中で、なぜカワサキだけが残ったのか?
誤解を恐れずに持論を申し上げると

● カワサキは最前線の販売を『川崎航空機の人たちがやらなかったからである』メイハツメグロの人たちや、地方代理店の人たちは大企業の従業員にない柔軟性みたいなものを持っている。
● 国内の第一線を担当してくれたのは、『メイハツ』や『メグロ』の人たちだし、展開した販売網もすべて『メイハツ・メグロ』の代理店だった。
そんな実用車の時代に『カワサキの二輪事業を支えた』のは、東北や九州の代理店だったのである。
そんな時代に30代の若さで私が、銀行の支店長さんや、代理店の社長さん方と親しくお付きあいが出来たのは、
東北という『地方』では『川崎航空機というメーカー』の存在が大きかったし、
地方の販売店を訪ねても代理店の社長さんは私を『メーカーの人』と紹介して頂いて、それが結構『効果がある』のである。
それだけ東北という地域の方たちが純真だったのかも知れない。
★この東北・仙台時代は月の殆どを東北6県を走り回ていたのだが、
 当時の道は4号線や6号線などの主幹道路を除いては、
 県を越える山道さえも『砂利道』で、そんな峠越えの道はむしろ雪が降った冬の方が走り易かったりしたのである。
 当時、英国は殆ど100%の舗装率だと聞いて、
 日本もそんなことになるのだろうか?とホントにそう思っていたのである。
 昨今のテレビである山奥の『ポツンと一軒家』に行く細い山道でさえ
 舗装はされていて、いつも『東北の山越え道』を懐かしく思い出すのである。
こんなことを言っても、何人の方が信用してくれるだろうか?
日本もホントに立派になったものである。
そんな東北仙台事務所長としての4年間だったのだが、
ようやく時代は『中大型のスポーツ車』への時代へと移りはじめて、
私も仙台から大阪へと異動になるのである。
2021年2月9日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  自分史

投稿者 : rfuruya
★『カワサキオートバイ販売出向の10年間』と題して自分史を連載することにしたのだが、
 この昭和40年(1965)年前後はどんな時代だったのか?
 前回に運転免許を取ったなどと書いたが、運転免許も未だ珍しい時代だった。
日本で高速道路なるものが初めてスタートしたのは1964年の尼崎-栗東間で、
鈴鹿サーキットへは行く機会が多かったので、『尼崎-栗東間』はよく走ったものである。
当時は殆ど車も走っていなかった、今では考えられないような状態だった。
名古屋まで開通して『名神高速』と呼ばれたのが昭和40年(1965)で、
その年には前回の東京オリンピックが開催され、東京-大阪間の新幹線が開通したという、
漸く日本も『新時代の幕開け』といった時代だったのである。
★ そんな時代に川崎航空機では初めての『広告宣伝課』という初めての職制が出来て、
単車事業』という新しい事業を育成するために、毎年1億2000万円という膨大な広告宣伝費を3年間本社開発費として投入されていたのである。
今の金額にすると10億円にも相当する金額を使い切るのはなかなかムツカシクて、
当時のレース活動のライダー契約費や運営活動費をその予算の中から使っていたのである。
そんな広告宣伝費の投入期間の3年目が昭和41年(1966)だったのだが、
その年の11月に苧野専務から東北・仙台への異動を告げられたのである。
仙台に行って新しく事務所を創れ』という命題なのだが、
ただそれだけで具体的な指示は一切なかったのである。
この話は何となく解ってはいた。
この年に当時の岩城本部長が仙台に行かれて東北の代理店の社長たちとの会合を持たれたのだが、
その時東北の代理店側から『仙台に事務所を創って欲しい』という要望があって、
岩城本部長は即座に承諾の返事をされたというのである。
そんな話が伝わってきて『誰が行くのか?』など話題にはなったのだが、
その時岩城さんにお供した販売推進課長の八木さんが行くのだろうと、もっぱらの噂で、
それが『自分にお鉢が回ってくる』とは夢にも思わなかったのである。
       
★ その当時の国内市場は未だ『実用車市場時代』で販売の中心はモペットを中心とする125cc以下のバイクだったので、
カワサキの最大市場は九州と東北だったのである。
九州は『カワサキ九州』という1社が九州全体を纏めていたのだが、
東北市場は6県に10社を超える地方代理店があって、それを統括する機能は持っていなかったのである。
そのために『仙台事務所を創る』ということだけは決まっていたのだが、
それをどんな形で展開するのかなどは、全く『試案』さえない状況で、
よろしく頼む』というだけなのである。
入社以来、先輩たちがやったことがナイ『新しい仕事』ばかりを手掛けてきたので、
古谷に任しておけば何とかやるだろう』ということだったに違いないのである。
12月になって岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
よろしく頼む』と仰られたのである。
頼まれたらちゃんとやらねば』と思うのが『私の生き方』なので、仕方ないなと割り切ったのである。
★そんなことで年が明けた翌年1月5日に、
コロナのトラックを仙台まで独りで陸送することから始まったのである。
それが私の初めての『転勤経験』なのだが、こんな転勤は世の中にはないだろう。
いま考えてみると、ホントにひどいものである。
誰も手伝ってくれる人はいなくて、すべて自分1人で決めて解決していったのである。
ただ、何でも自分の思うように出来たという利点もあったのだが。
その日に書いている日記の『予定時間と実績』である。
それまでも長距離を運転したことはあるのだが、『独りで』というのは初めてだった。
5時45分に明石を出発して、
名古屋までは名神なので10時には到着しているのだが、
そこからは2号線の地道を走るので大変なのである。
何とか635kmを無事走り切って
東京渋谷の親戚の楠見宅には夜の7時45分に到着している。
  
翌日の1月6日には東京事務所に出社し、
今回所属する北日本営業部の宮川弘部長以下にご挨拶や会議にも出席して、
仙台へは1月8日に到着し、
翌1月9日には仙台の代理店宮城カワサキに出社しているのである。
★ ホントに誰もいない全くの『独り』なのである。
何はともあれ、住むところを探したらこれは直ぐ新しい一戸建てが見つかった。
家賃は関西などと比べると格安で、『庭付きの1戸建てを借りてもいいか』と会社に電話したらすぐOKが出たので、
結婚以来『はじめての一戸建て』に住めることになったのである。
北国の冬は寒いので『春になってからにしたら』と会社側は気を遣ってくれたのだが、住む場所ぐらいは『家族と一緒がいい』と
1月20日には家族の仙台引っ越しが終わっている。
ただ、仙台での会社は誰もいなくて全くの『独り』、
職制上は北日本営業部東北販売課があり課長以下何人かはいるのだが、
みんな東京勤務でそこからの出張ベースなのである。
何でも好きなようには決められるのだが、
まず、毎日出社する事務所をどこにするか? を決めねばならないのだが、
川崎航空機の仙台事務所は? とも言われたのだが、
東北の代理店の総括という仕事なので、
出来る限り第1線に近いほうがいいと考えて、
仙台の宮城カワサキの中に机をひとつ置かして頂いてのスタートだったのである。
★こんな調子での『新しい業務』のスタートが始まるのだが、
独りではホントに大変なので、『女子を雇う』ことにしたのだが、
それをどうすればいいのか解らないのである。
新聞広告でもやったら応募があるだろうというので、
広告を打ったらすぐ就職希望者が現れて面接などしたのだが、
その一人目の女子をその場で『採用OK』としたのである。
それが菊地文子さん、その後ずっとお世話になったのである。
いろんなことがあるのだが、そのどれもが全く経験のしたことのない『はじめてのこと』ばかりなのである。
まず『仙台事務所』を造る場所の設定からスタートするのだが、
不動産屋に相談すると、『候補地』は幾らでもあるが、
どこにするのかという場所も肝心だが、
どのくらいの広さを買うか?が一番の課題だと、言うのである。
当時は土地ブームで『大きな土地を買いたい人』はいっぱいいるのだが、
道路沿いなどのいい場所は『規定があって』なかなか許可にならないのだが、
川崎航空機関連だから理由はいろいろ付けられるから『何千坪でも買え』というのである。
広い土地を買っておけば直ぐ値上がりするから、切り売りすればいい
というのである。
当時は日本国中、そんな傾向で『土地成金』がいっぱいいたのだが、
会社にそのことを言うと、川崎航空機はマジメな会社だから、
そんなことは出来ない、300坪でいい』というものだから、
真四角ではなくて、ちょっと斜めの土地となってしまったのである。
そんなこともあったが、
翌年4月末には新しい仙台バイパス沿いに、新仙台事務所が完成して、
東京から出張ベースであったメンバーも仙台に集まり、
やっと『仙台事務所をつくれ』という命題の答えが実現したのである。
★ まずは最初の課題の『仙台事務所』という舞台が出来て、
 いろいろなことが始まるのだが、
 そのいずれもが『経験のない初めてのこと』ばかりなのである。
 何から書くか考えて、次回に纏めてみたいと思っている。

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その2

2021-02-09 07:33:20 | 自分史
★『カワサキオートバイ販売出向の10年間』と題して自分史を連載することにしたのだが、
 この昭和40年(1965)年前後はどんな時代だったのか?
 前回に運転免許を取ったなどと書いたが、運転免許も未だ珍しい時代だった。
日本で高速道路なるものが初めてスタートしたのは1964年の尼崎-栗東間で、
鈴鹿サーキットへは行く機会が多かったので、『尼崎-栗東間』はよく走ったものである。
当時は殆ど車も走っていなかった、今では考えられないような状態だった。
名古屋まで開通して『名神高速』と呼ばれたのが昭和40年(1965)で、
その年には前回の東京オリンピックが開催され、東京-大阪間の新幹線が開通したという、
漸く日本も『新時代の幕開け』といった時代だったのである。
★ そんな時代に川崎航空機では初めての『広告宣伝課』という初めての職制が出来て、
単車事業』という新しい事業を育成するために、毎年1億2000万円という膨大な広告宣伝費を3年間本社開発費として投入されていたのである。
今の金額にすると10億円にも相当する金額を使い切るのはなかなかムツカシクて、
当時のレース活動のライダー契約費や運営活動費をその予算の中から使っていたのである。
そんな広告宣伝費の投入期間の3年目が昭和41年(1966)だったのだが、
その年の11月に苧野専務から東北・仙台への異動を告げられたのである。
仙台に行って新しく事務所を創れ』という命題なのだが、
ただそれだけで具体的な指示は一切なかったのである。
この話は何となく解ってはいた。
この年に当時の岩城本部長が仙台に行かれて東北の代理店の社長たちとの会合を持たれたのだが、
その時東北の代理店側から『仙台に事務所を創って欲しい』という要望があって、
岩城本部長は即座に承諾の返事をされたというのである。
そんな話が伝わってきて『誰が行くのか?』など話題にはなったのだが、
その時岩城さんにお供した販売推進課長の八木さんが行くのだろうと、もっぱらの噂で、
それが『自分にお鉢が回ってくる』とは夢にも思わなかったのである。
       
★ その当時の国内市場は未だ『実用車市場時代』で販売の中心はモペットを中心とする125cc以下のバイクだったので、
カワサキの最大市場は九州と東北だったのである。
九州は『カワサキ九州』という1社が九州全体を纏めていたのだが、
東北市場は6県に10社を超える地方代理店があって、それを統括する機能は持っていなかったのである。
そのために『仙台事務所を創る』ということだけは決まっていたのだが、
それをどんな形で展開するのかなどは、全く『試案』さえない状況で、
よろしく頼む』というだけなのである。
入社以来、先輩たちがやったことがナイ『新しい仕事』ばかりを手掛けてきたので、
古谷に任しておけば何とかやるだろう』ということだったに違いないのである。
12月になって岩城本部長がわざわざ私の席まで来られて、
よろしく頼む』と仰られたのである。
頼まれたらちゃんとやらねば』と思うのが『私の生き方』なので、仕方ないなと割り切ったのである。
★そんなことで年が明けた翌年1月5日に、
コロナのトラックを仙台まで独りで陸送することから始まったのである。
それが私の初めての『転勤経験』なのだが、こんな転勤は世の中にはないだろう。
いま考えてみると、ホントにひどいものである。
誰も手伝ってくれる人はいなくて、すべて自分1人で決めて解決していったのである。
ただ、何でも自分の思うように出来たという利点もあったのだが。
その日に書いている日記の『予定時間と実績』である。
それまでも長距離を運転したことはあるのだが、『独りで』というのは初めてだった。
5時45分に明石を出発して、
名古屋までは名神なので10時には到着しているのだが、
そこからは2号線の地道を走るので大変なのである。
何とか635kmを無事走り切って
東京渋谷の親戚の楠見宅には夜の7時45分に到着している。
  
翌日の1月6日には東京事務所に出社し、
今回所属する北日本営業部の宮川弘部長以下にご挨拶や会議にも出席して、
仙台へは1月8日に到着し、
翌1月9日には仙台の代理店宮城カワサキに出社しているのである。
★ ホントに誰もいない全くの『独り』なのである。
何はともあれ、住むところを探したらこれは直ぐ新しい一戸建てが見つかった。
家賃は関西などと比べると格安で、『庭付きの1戸建てを借りてもいいか』と会社に電話したらすぐOKが出たので、
結婚以来『はじめての一戸建て』に住めることになったのである。
北国の冬は寒いので『春になってからにしたら』と会社側は気を遣ってくれたのだが、住む場所ぐらいは『家族と一緒がいい』と
1月20日には家族の仙台引っ越しが終わっている。
ただ、仙台での会社は誰もいなくて全くの『独り』、
職制上は北日本営業部東北販売課があり課長以下何人かはいるのだが、
みんな東京勤務でそこからの出張ベースなのである。
何でも好きなようには決められるのだが、
まず、毎日出社する事務所をどこにするか? を決めねばならないのだが、
川崎航空機の仙台事務所は? とも言われたのだが、
東北の代理店の総括という仕事なので、
出来る限り第1線に近いほうがいいと考えて、
仙台の宮城カワサキの中に机をひとつ置かして頂いてのスタートだったのである。
★こんな調子での『新しい業務』のスタートが始まるのだが、
独りではホントに大変なので、『女子を雇う』ことにしたのだが、
それをどうすればいいのか解らないのである。
新聞広告でもやったら応募があるだろうというので、
広告を打ったらすぐ就職希望者が現れて面接などしたのだが、
その一人目の女子をその場で『採用OK』としたのである。
それが菊地文子さん、その後ずっとお世話になったのである。
いろんなことがあるのだが、そのどれもが全く経験のしたことのない『はじめてのこと』ばかりなのである。
まず『仙台事務所』を造る場所の設定からスタートするのだが、
不動産屋に相談すると、『候補地』は幾らでもあるが、
どこにするのかという場所も肝心だが、
どのくらいの広さを買うか?が一番の課題だと、言うのである。
当時は土地ブームで『大きな土地を買いたい人』はいっぱいいるのだが、
道路沿いなどのいい場所は『規定があって』なかなか許可にならないのだが、
川崎航空機関連だから理由はいろいろ付けられるから『何千坪でも買え』というのである。
広い土地を買っておけば直ぐ値上がりするから、切り売りすればいい
というのである。
当時は日本国中、そんな傾向で『土地成金』がいっぱいいたのだが、
会社にそのことを言うと、川崎航空機はマジメな会社だから、
そんなことは出来ない、300坪でいい』というものだから、
真四角ではなくて、ちょっと斜めの土地となってしまったのである。
そんなこともあったが、
翌年4月末には新しい仙台バイパス沿いに、新仙台事務所が完成して、
東京から出張ベースであったメンバーも仙台に集まり、
やっと『仙台事務所をつくれ』という命題の答えが実現したのである。
★ まずは最初の課題の『仙台事務所』という舞台が出来て、
 いろいろなことが始まるのだが、
 そのいずれもが『経験のない初めてのこと』ばかりなのである。
 何から書くか考えて、次回に纏めてみたいと思っている。
2021年2月8日

カワサキオートバイ販売出向の10年間  その1

投稿者 : rfuruya

★ カワサキオートバイ販売と名称変更があって、

 その通称カワ販へ出向となったのは、私が33歳の時で、
 その出向は10年間続いたのである。
 いろんな経験をさせて頂いたのだが、
 その1年目の昭和40年(1965)はいろいろなことのあった年だった。
 私も若かったが、カワサキの二輪事業も若かったのである。
 当時はまだ国内市場中心で、アメリカ市場はやっとその販売がスタートしたばかりの時期だった。
 こんな年表に纏めてある。
★ 昭和35年(1960)に単車の一貫生産が始まったのだが、
スタート以降の5年間はまだ事業も安定していなかったのだが、
この年の4月に単車事業本部長に岩城良三常務が就任されて、
国内販社は従来の『カワサキ自動車販売』から『カワサキオートバイ販売』に名称変更され、
それまでの川崎航空機工業営業部からカワ販へ全員が出向となったのである。
                  
隣国の兵は大なり、その武勇は優れたり、その武器は豊なり、然れども指揮の一点譲るべからず』ということから常に話が始まる
岩城良三本部長が『カワ販社長』も兼務され、社名も変更されたのである。
私は未だ川航では係長にもなっていない平社員だったのだが、
子会社ということもあったのだが、
カワ販』ではいきなり『広告宣伝課長』と一挙に課長になったりしたのである。
★ 当時の広告宣伝課では、年に1億2000万円という膨大な予算が、
本社開発費で3年間、二輪事業を育てるために投入されていて、
広告の他ライダー契約金他レース運営費をすべて広告宣伝課で担当していたのである。
今の金に換算すると10億円ぐらいのそんな膨大な予算だったので、
その管理は私がやっていたのだが、
報告先は上司ではなくて、直接岩城本部長に報告していたのである。
★ 4月の朝霧でのMCFAJ全日本では90ccノービスで星野一義が優
これが星野一義の初優勝なのである。
その頃のライダーたちである。
左から 岡部能夫・山本隆・星野一義・歳森康師
当たり前の話だが、みんな若い。
    
5月にはMFJ鈴鹿ジュニアロードレース山本隆が出場し3位入賞を果たしているのである。
このレースはモトクロスライダー山本隆が是非出たいということで、
まだ会社ではロードレースの出場許可などなかったのだが、
黙ってロードレーサーを造って出場したら
ホンダ・ホンダ・カワサキとまさかの3位入賞だったのである。
この時のレーサーにした車を都合してくれたのが田崎雅元さんで、
モトクロス予算を使っての出場だった。
現場に行ってた川合寿一さんから『ヤマ3、シオ8、セイコウ カワ』という電報が我が家に届いたのは、5月3日のことだった。
ヤマ』は山本隆、『シオ』は北陸の塩本選手なのである。
このレースが『カワサキが初めて鈴鹿を走った日』となったのである。
★非公式ながらロードレースで
3位入賞』となってカワサキのロードレースに火がついて、
翌月6月にあった『鈴鹿アマチュア6時間耐久レース』には90㏄3台のマシンを正規に造って
大槻幸雄監督・田崎雅元助監督』で、カワサキが初めてレースに『監督』が出現したのである。
山本隆は前月のジュニアロードレースに出場したために出場できないので、
神戸木の実の歳森康師が相棒にと連れてきたのが金谷秀夫なのである。
このレースが金谷秀夫の初レースだったのだが、正規の契約などなしに走ったのである。
 流石に金谷秀夫は速かったが、それでも90㏄で3分20秒ぐらいだったから、当時のマシンはその程度だったのである。
★この年の7月には一緒にレースをやっていた大槻さんはドイツ留学となり
田崎さんは明石工場から初めてアメリカ市場にサービス担当として渡米することになり
お二人の送別会を一緒にレースチーム関係者でやっている。
この年のGPレースには安良岡健の個人参加ということでの出場だったが、
本番には出走出来なかったのである。
125ccのGPレーサーの開発や試験走行が始まったばかりの年で、
鈴鹿のタイムが2分50秒という程度のものであった。
当時のMFJのGP準備委員会は各メーカーの部長さんが出席なのだが、
カワサキからは若い私が出席したりしているのである。
その年の11月のMFJ運営委員会で、スズキの岡野さんから
藤井敏雄が辞表を出した。引き抜きは止めて欲しい』との発言があったりしたのだが、
その時は私はホントに何にも知らなかったので、
どこのことかな?』と思ったりしてたのだが、実はそれはカワサキだったのである。
そんな色々なことがあった昭和40年だったのだが、
藤井敏雄のことは技術部の方でいろいろやってたようで、
翌年初出の日に藤井敏雄は契約関係のことで私を訪ねて来たのである。
カワサキがGPレースに参戦するのは翌年の1966年からで、藤井敏雄がヨーロッパGPを転戦するのだが、マン島のプラクテイスで転倒、不慮の死を遂げるのである。
本当にいい男だったのに残念である。
★カワサキオートバイ販売出向の1年目は、ざっとこのようにスタートしているのである。
個人的には結婚間もない頃で長男・長女が生まれたばかりの頃である。
運転免許取得』とあるが、当時はまだ免許を持っている人は少なかったが、
ライダーたちは勿論みんな4輪免許を持っているので、
長女が生まれるために家内が里帰りしている間に、私は免許を取ったりしたのである。
勿論、まだ個人では車を持ってる人など少ない時代だから、
会社の社用車の運転をしたのだが、全国のレース場を駆け巡っていたので、
最初から箱根や富士山麓などまでの長距離ドライブをやったりしたのである。
そんな初心者の私に『運転技術』を教えてくれたのはライダーたちで、
当時は鈴鹿サーキットを1周だけだがホンダのスポーツカーで走れたので、
アウト・イン・アウト』や『ヒール&トウ』などのレーステクニックをいろいろと教えてくれたのである。
お蔭様で結構運転には自信があって、後、カワサキの安全運転本部長なども長くやったものだから、
免許取得以来『無違反』とは言わぬが『無事故』なのである。
この『カワ販出向の10年間』は、主として末端市場を担当して、
川崎航空機や川崎重工業の人たちが経験しなかった分野を経験できて、
末端の販売店の人たちや業界の方たちと密接に繋がって、
それは今でも生きていると思っている。
そんな貴重な10年間のこれは主として1年目の話だが、
この10年間のいろんな話をシリーズでお届けしようと思っている。

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