2022 2月

2022年2月18日

新入社員時代の想い出     その2

投稿者 : rfuruya
★当時の川崎航空機は戦後再開したばかりで、そんなに業績がよかったわけでもないのだが、
私自身は実力で入社出来た訳ではなくて、当時の副社長の砂野仁さんのコネでの入社だったのである。
 大学時代は野球一筋で単位は取れていたが可ばかりで、入社試験の面接でも、
 「君は成績悪いね」から始まったのだが、
 「会社の仕事では絶対に負けないでやれます」と言い切ったのである。
そんなことだったので、多分人事課も企画・経理・勤労などの部門には配属しにくかったのか、業務部財産課への配属だったのである。
その財産課の評判は大学の先輩たちもみんな「地味で面白くないところ」というのである。
 確かに、どの部門も大学での社員が何人かはいるのだが、
 財産課は課長以外は大学出の人はいないのである。
 配属してすぐの課長面接でも、部長面接でも「地味な部門だが、確りやってく」と仰るのである。
 財産課とは文字通り「会社の財産管理」をやるところで、
 土地・建物・機械などから工具器具備品・車両運搬具など取得価格が当時の金で1万円以上のものの管理なのだが、
 まだ再開されて5年の新しい会社で、その管理もお世辞にもきっちりできてはいない状態で、
 管理台帳も揃っていないそんな状況であった。
 その現物管理とともに1年に2回、財産物件の減価償却計算をしなければならなくて、その計算事務を当時の「タイガー計算機」を使ってやるのだが、
 それが結構時間と手間が掛かるので、極端に言えばその計算要員として、人が要るのである。
   
 配属されて私が担当になったのは
 一番簡単な車輛運搬具工具・器具・備品
 車両運搬具は車などは殆どなくて構内用の自転車
 工具・器具・備品とは工具や机や椅子などで、確かにそんなにムツカシクはないのだが、
 本来なら自転車は兎も角、机や椅子などは取得価格が1万円以下なので、財産物件にはならないのだが、
 当時ジェットエンジン工場が新設されたばかりで、
 「新設工場は1件300円以上」を財産物件に出来ることから、机や椅子まで300円以上のものががすべて「財産物件」になっているのである。
 そんなことから、償却計算する手間は5000円の机10万円の機械も同じ手間なので、工具器具備品の償却件数はべらぼうに多くて決算期の計算は大変なのである。
 さらに、自転車も回転いすなどはよく壊れて、その修理などの手続きなどに結構時間が掛かるのである。
 そんなことで新入社員ながら、私の下には女子の社員がいたし、
 2年目からは高卒の男子の部下などもいたのである。
★ 机や椅子だから、工場内のすべての課にそれはあるのだが、
 その台帳はないし、現物把握は出来ていないし、ただ償却計算だけをやていて「財産管理」などは全然できてはいない状態だったのである。
 それをちゃんとした管理台帳を作って、管理できる状況にしようとしたのだが、
 課の先輩たちは皆さん、それまでは放置していたものだから、
それはムツカシイ・不可能だ」などと仰るのである。
 ただ、私はそんな状態で放置するのはどうも気に入らなくて、
 すべて現物を把握して『固定資産台帳』を創ろうとしたのである。
 これは確かに「言うは易い」のだが、各課の現物把握が必要で、
 現実には各課の机でも財産物件になっているものと、経費で購入されたものと2種類存在していて、どれが財産物件かという特定が必要なのである。
 そんなことで私がやり始めたのは小さな「財産番号プレート」を造って、
 それを釘と金槌を使って机や椅子に打ち付けて工場の全課を回り始めたのである。
 これは大変な労力は要ったのだが、各課を実際に回っての作業だから、
 各課の人たちとも顔なじみになれたし、
古谷はいつ見ても釘と金槌を持って歩いている」と言われたりしたのである。
全課を回るのに半年以上も掛ったのだが、
その財産物件を管理するために「財産管理担当者」を組織したりしたものだから、
そんな「管理担当者」を入社1年目の私が統括するようなことになって、
全工場に私の顔は売れたし「財産課は変わった」となかなかの評価だったのである。
★ 当時の回転いすは木製だったのだがよく壊れて、
 1週間に一度、トラックに満載するほどの修理件数が出るのである。
   
 そんな時、発売になったのが「ネコスの椅子」で
 こんな金属製の椅子だったので、それに変えようと提案したら、
 それは認可されて、順次木製から金属製へと変更することになったのである。
 
        
 ちょうど1年目の最後のほうの2月なのだが、
 予算があるのでそんなに一挙には変えられないのである。
 そしてこれは係員だけではなくて、係長・課長・部長用にそれぞれあて、
 みなさん「新しい椅子」を欲しがるのである。
 その配分権を新入社員だが私が持っていたので、
 各課の管理担当者からいろいろ申し入れがあったし、
 部長や課長からも電話があったりするのである。
 全部交換するのに3年も掛ったと思うが、こんな件でも結構名前と顔は売れたのである。
そんなこともあって、入社1年目からオモシロイ仕事や、新しい仕事が出来て、私にとっては財産課は「地味でオモシロくない職場」ではなくて、
結構「遣り甲斐のある」職場だったのである。
このように「上司の指示で動く」というようなことは一切なしにスタートが切れたのは幸いだった。
入社1年目からこのような「新しいこと」に取り組めたし、
ちゃんと実績を残すことも出来たので、
2年目以降も「私流のやり方」で仕事を進めれことが出来たのである。
2022年2月17日

新入社員時代の想い出     その1

投稿者 : rfuruya

 

川崎航空機工業入社したのは昭和32年(1957)4月のことだから、
 63年以上も前のことだし、私もまだ23歳の若さなのである。
 昨日は1日かかって当時の日記を読み返してみた。
 よく覚えていることもあるし、全く忘れてしまっていたこともある。
 いまは川崎重工業の明石工場としてこんなになっているのだが、
 戦時中には軍事工場ということで爆撃を受けて、
 
  工場も骨格だけで、残っていたのは
 ほんの一部の建物と、新しく建てられた工場だけだったのである。
 戦後の中断があり、川崎航空機工業として再開されたのは、
 昭和27年(1952)のことだから、
 入社当時は再開5年目のまだ新しい会社で、
 激しい爆撃の跡が随所にまだ残っていたそんな時代なのである。
 明石工場はエンジン工場であった関係から、
 戦後もエンジンや歯車・ミッションなどの製造が主で、
 バイクエンジンは明発に供給はしていたが、
 まだバイクそのものの生産は始まっていない時期なのである。
定期採用も正規に多くとり始めたのが、昭和32年度からで、
大学卒は事務系12人・技術系19人と約30名ほどの時代で、
翌年からは60名あまりも採用しているので、まだまだスタートの時期と言ってもいいのである。
 配属されたのは業務部財産課で、会社の財産管理を行うのだが、
まだ、財産物件の管理台帳すら整っていないような状況で、
工場の中には戦時中の機械が残っていたし、爆撃にあった工場の鉄骨などもあって、
 財産物件を管理するというよりも、そんな中古機械や鉄骨を売ったり、
 いまも明石工場は結構広いのだが、当時は今の倍ほどの22万坪もあって、
 その土地の売り食いなどで会社の経営が成り立っていた
 そんな時代なのである。
 大学卒の初任給が12000円という時代だったが、
 昭和32年という年は日本の戦後もようやく終わって
 朝鮮戦争が昭和25年に始まったこともあって、
 「神武景気」と言われた年なのである。
 そんなことで、大学卒の採用も多くなったし、
 われわれの入社同期の会の名称は「神武会」と名付けられていたのである。
★その当時の日記だが、いちおう毎日欠かさず書かれているので、
 読み返してみると、なかなか面白いのである。
  
 日記を書き出したのは、大学2回生の頃で、
 ちょうどその頃、肺浸潤になってちょっと療養をした時期もあったが、
 半年後からは野球も再開したし、入社当時も空洞があったりしたのだが、
 当時は肺結核は非常に多い時代だったのである。
 日記を書き出した理由の中に「そんなに長くは生きられない」かもと、
 「短い自分の人生」を記録しておきたいということもあったのである。
 入社して4年間は財産課で結構オモシロイ仕事もする傍ら、
 会社の野球部にも所属していたのだが、
 4年目に会社の診療所の先生が代わって「野球は止める」ように言われたのをそのまま続けていたら、ユニフォーム姿を見つかって、
 検査をしたら「菌が出ている」ということで結核療養所に入院させられてしまうのである。
 療養所に入って検査をしたら「菌など出ていなかった」のだが、
 1年間療養所にいたら、空洞も消えてしまったのである。
 そういう意味では、診療所の先生に感謝だし、
 私自身はいろいろ幸運に恵まれていると思ている。
 この4年間の間に、家内とも出会ったし
 オモシロイ仕事も出来たし、
 退院の時期に、たまたまカワサキの二輪の新事業が始まって
 新営業部が出来て、そこに第1号社員として配属されることになったのである。
★ そんな新入社員の頃の5年間が、どんなモノだたのか?
  仕事の内容や、家内との出会いの経緯など、
  何回かに分けて書いてみたいと思っている。
  私の青春時代の20代最後の5年間でもある。
2022年2月16日

耳鳴り          雑感

投稿者 : rfuruya
★右耳が聞こえにくくなって、初めて耳鼻科に行ったのは1月20日ごろのことだったのだが、
 電話などでも右耳では聞きにくい状況は続いている。
 もうよくなることはないので諦めてはいるのだが、
 一昨日は突然「耳鳴り」がした。
 キーンという音が続いて、30分近くも続いたのだろうか?
 その間にネットで「耳鳴り」など検索している間もなり続いていたから、
 多分、30分は続いたのだと思う。
 ネットではこんな情報がいくつもあった。
 
 「耳鳴りは脳が本来ない音を作り出している」というのである。
 
 こんな風に説明されていた。
 耳鳴りは周囲に音がないにもかかわらず、「キーン」という金属音や「」という不快な音が聞こえる症状で、
 日本人全体の10~15%に耳鳴りがあり、特に65歳以上に限ると約30%に耳鳴りがあると考えられている。
 外部からの音が不足すると、脳は音の不足を感じて興奮し、音を補おうとして本来ない音を作り出してしまうが「耳鳴り」で、
 実際に耳鳴りのある人の9割に難聴、多くの場合は加齢性難聴を伴っている。
★「耳鳴り」は本人しか解らず、治療もムツカシイなどとあって、
 これは困ったな、ずっとこのように「キーン」という音が続くのかと思ていたら、
 いつの間にか聞こえなくなって、2日経った今は全く「耳鳴り」はしていない。
今のところ、耳鳴りを確実に消失させる薬や治療法がないのが実情」とあるので、
 また「耳鳴り」がしたら、それが消えるまでじっと辛抱するしかないのだろうか?
  
  それにしても、人間いろいろ不思議なことがあるものだ。
  今日は全然、「耳鳴り」はしていないのだが、
  どんな時に、起こるのだろうか?
  
  人間、歳をとるといろいろ出てくるものだと思った。
  もう90歳に近いのだから、加齢性難聴は、歳をとるとともにどんどん進むようだから、仕方がないのかも知れない。
2022年2月15日

北京オリンピック  競技いろいろ    雑感

投稿者 : rfuruya
★北京オリンピック、連日沢山の競技で、
 今回は冬季最多の109種目が実施されているという。
 
第1回の冬季オリンピックの競技数は4競技16種目だったというのだが、
回数を重ねるごとに、種目数が多くなり、
今では競技種目だけで、こんなに沢山あるようで、
名前を聞いてもどんな種目か解らないものまである。
 冬のスポーツだということで、
 私などやったことがあるのはスケートぐらいで、
 小学生時代は朝鮮にいたのでスケートはよくやったし、
 スキーの真似事を竹刀の竹を曲げて坂を下ったりしたことはあるのだが、
 スノーボードなど面白そうだが
 始まったのが1980年代後半からというから勿論やったこともない。
★そういう意味では夏のオリンピック陸上競技水泳野球なども、
 自分でやったことがあるので、
 そのレベルは兎も角何となくよく解るのだが、
 冬季オリンピックのスノーボードビッグエアなどは、
 空中でくるくる回転して、これなどとてもやれないし、
 どんなことからこんなスポーツに入って行くのか不思議である。
 
 こんな画像を見ると
 私自身、運動神経は悪くないとは思っているが、
 高度恐怖症だし、とても無理だなと思ってしまう。
 スケートは小学6年生までだが、
 冬の間は毎日のように池で滑っていたので、
 こんなカーブでスピードが乗っていく感じなどは、
 何となくよく解って、解説者の言う理屈も納得できたりする。
   
 小学生4年生以降はホッケーのスケート靴を履いていたので、
 ホッケー選手の滑りなど興味があって得点などより
 そのスケーテングに関心があったりするのである。
 
 オリンピックに出る選手たちだから当たり前の話だが、
 ほんとにスケーテングがうまいなと感心しながら見ているのである。
★ 現在のメダル数は11で、好調と言っていいのだろう。
 前回大会のメダル13個を超えられるように頑張ってほしいと思っている。
★ それにしても日本はいろんなスポーツをやる国だなと思う。
 世界のすべてのスポーツを殆ど全部をやっていると言っていい。
 そしてそこそこのレベルを保っているのである。
 アメリカなどもスポーツは強いが
 ラグビー剣道・柔道・テコンドーなどはやらぬし、
 ヨーロッパ野球アメフト等はもう一つなのだが、
 日本は世界のスポーツのすべてで争ったら
 ひょっとしたらトップになるかも知れないほどの
 スポーツ大国と言っていい。
 今回の北京オリンピックもなかなかの健闘だなと思っている。
2022年2月14日

息子との3日間

投稿者 : rfuruya
★ この三連休の休みに息子が鎌倉からやって来た。
  この前いつ何所で会ったのかなと調べてみたら
  2018年11月にアメリカの娘のところに遊びに行ってた時、
  アメリカで会って以来なのである。
  2年以上会っていないし、三木に来るのはもう5年ぶりかも知れない。
  11日の昼の飛行機でやって来て、
  13日の10時の飛行機で帰ったので実質2日間だったが、
  今回は滞在期間は短かったが、オリンピックもあってテレビも一緒に観たし、
  私の朝のスロージョッギングにも付き合ったくれたので、
  ずっと一緒にいたような感じである。
  
  1万歩・約7,5キロを付き合ってくれた。
  今年で58歳なので、息子と言っても還暦に近い。
 サッカー選手だったし、大学もサッカー一筋、いまのANAもサッカーでの入社なので、
 こんな子どもたちのサッカーにも未だに興味があるようである。
  一緒に歩いてみたが、
 お互いその年以上に「しっかりしている」ことは確認できた感じである。
 来た日はブリしゃぶをしたのだが、
 一緒に買い物をしたスーパーでは、「明石鯛のあら」を買って
  
 一つは塩焼きに、一つは鍋に入れて
 「旨い・旨い」食っていた、
 鎌倉でも「タイのあら」ぐらいはあるだろうと言ったら
 「明石鯛はやはり違う」というのである。
 どちらかというと「家内に似て」性格もきっちりしているし、
 「」についてもこだわりを持っていて
 私のような大雑把なところはない。
 やって来たのがちょうど昼時だったので、
 お互い昼抜きだったので、3時ごろから飲みだした。
 酒も家内に似たのだろう、結構強くて、
 ビールなどはいくら飲んでも大丈夫なようである。
  
 夜はブリしゃぶにビールに
 大吟醸の瓶を1本、殆ど一人であけていた。
 
 こんな珍しいビールの詰め合わせを
 アメリカの娘が贈ってくれていたのだが、
 2日の間に2本を残してみんな飲んでしまった。
  
 翌日の昼は定番の「焼肉こさる」に
 ここの焼肉は本当に「旨い」し「安い」ので
 息子にも孫たちにも人気である。
 ここでも結構食ったが
 大ビールを2本、独りで飲んだりもしていた。
 なんでも高い鎌倉に住んでいるからだろう。
 「安い・安い」と気に入っていた。
 「安い安い」というから奢ってくれるのかと思ったら
 払いは家内だったようである。
 
  三木に戻ってきたら
 全くのこども時代に戻ってしまうようなところもあるし、
 家内にとっては何歳になっても「こどもは子供」みたいなところがあって、
 そんな対応の二日間だった。
 伊丹空港まで送って、
 息子との2日間の幕は閉じた。
 今度やってくるのはいつだろう?
2022年2月13日

「べにしだ」を植えてみた    

投稿者 : rfuruya
★今年になってちょっと庭仕事に凝っている。
 20年近く薔薇栽培にも凝ったのだが、
 それにもちょっと飽きが来て薔薇はそこそこにして、
 日本庭園風アレンジをしようかなと思ったりしている。
 先日はなども買ったのだが、
 苔には付き物のような「しだ」の中から「ベニシダ」を植えてみようと
 10ポットほど注文したら昨日届いたので、
 庭のあちこちに植えてみた。
   
 いまはこんな緑の葉だが、
 
 新しく出る葉は、こんな紅色になるので
 「ベニシダ」という名のようである。
        
  紅葉は落ち葉寸前だが、
  新芽が紅葉とは面白そうなので選んでみたのである。
  ベニシダはその名前からも分かる通り若葉が紅色をしている所が特徴で、
  葉の色は若葉が橙色をしており成熟すると緑色になるという。
  この春に紅い葉が見られるのだろうか?
  反日蔭に植えて、水を絶やさねばそんなにムツカシクは無いようである。
★早咲きの春の花・椿が2輪咲いている。
  小さな苗から育てた椿だが、もう10年以上にもなる。
    
  ちょっと変わった、珍しい椿である。
 いよいよ春も近いなと思える季節になった。
2022年2月12日

梅一輪一輪ほどの暖かさ

投稿者 : rfuruya

★ 「梅一輪一輪ほどの暖かさ
 そんな時期になった。
 松尾芭蕉だろうと思っていたら、
 松尾芭蕉の弟子である服部嵐雪がよんだ句だという。
 毎朝走りに行っている三木総合防災公園の梅林は、
 いま、ちょうどそんな時期である。
 じゃ今は春なのか、冬なのか?
 そのあたりがよく解らなくて、この句の解説を読んでみた。
 この句の解説を見るとなかなかムツカシイのだが、
 この句の季語「梅」かと思ったら、
 この句の季語は別にあって、
 実際は実際はこの句は冬によまれていて、
  この句が読まれる前には詞書があって、
 そこには「寒梅」という冬の季語が用いられているので、
 正確にはこの句の季語は「寒梅」だというのである。
 さらに、この俳句の意味は、主に2つの解釈があって、
  • 梅が一輪咲いている。それを見ると、一輪ほどのかすかな暖かさが感じられる。」
  • 「梅の花が一輪咲くごとに、少しずつ暖かくなっている。
  前者は「寒さの中、ほのかな暖かさにじんわりと心がふるえる様子」
 後者は「聞こえ始めた春の足音に心躍らせる様子」となるのだが、
 この句は冬によまれたものなので、有力な解釈は前者の方になるという。
 なぜ後者のような解釈が生まれたのか。
 それはこの句の詠み方にあって、
  前者の読み方「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」と【上、中、下】全部に間をつけると、冬になり
 後者「梅一輪一輪ほどの 暖かさ」と【上と中】を一緒に読んでしまうのだと思うと春になるというのである。
 そして、詞書が示されなければ、
なおさら春の句なのかなと思い混乱を招くことになってしまったのだと解説されていた。
★ 読んでみて、何となく納得したが、
 日本語はなかなかムツカシイ
 ただ俳句は5・7・5と上・中・下に分かれているのが普通だから、
 やはりこの句は「冬の句」なのかなと思った。
 そういう意味も含めて、撮って来た写真の中から、
 たった一輪咲いている「まさに梅一輪」の写真を使ったのだが、
 こんなにいっぱい咲いている写真もあったのである。
 この写真では何となく、早春のイメージかなと思った。
 
★まだ我が家の梅はつぼみばかりで、
 一輪の花も咲いてはいない。
 
  いまはまだ冬という方が当たっている。
     「梅一輪一輪ほどの暖かさ」という俳句は知っていたが、
  この句のこんなに詳しい分析を読んだのは初めてである。
  なるほど、これは冬の句だというのがよく解った次第である。
  みなさんはご存じでしたか?
 
2022年2月11日

紀元節 三連休     雑感

投稿者 : rfuruya
★ 私たちの年代にとっては2月11日の紀元節は懐かしい。
今は「建国記念の日」だが、かつては「紀元節」と呼ばれた祝日であり、
日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日が、
明治政府によって紀元節と定められたものである。
私のこどものころは四大節という四つの祝日「四方拝・紀元節・天長節・明治節」があって、
いまでいうなら「新年・建国記念日・みどりの日、文化の日」なのだが、
 紀元節にはこんな紀元節の歌もあったし、
 学校で歌わされたので、その意味は兎も角、
  紀元節の歌の歌詞などは2番までは今でも覚えている。
 雲に聳ゆる 高千穂の高根おろしに 草も木も
なびきふしけん 大御世を仰ぐ今日こそ たのしけれ
 
 海原なせる 埴安(はにやす)の池のおもより 猶ひろき
めぐみの波に 浴みし世を仰ぐ今日こそ たのしけれ
   
 更に、昭和という年号とともに、現在の西暦ではなく紀元という年号が使われていて、
 小学校2年生だった昭和15年がちょうど紀元2600年にあたったので、
 「紀元2600年」という国民歌もできて、
 歌詞は難しかったのだが「紀元は2600年」というところだけを歌っていたのを覚えている。
 この紀元という年号は西暦より660年長いので、
 紀元でいうと、今年・西暦2022年は、紀元2682年なのである
★ そんな子供の頃の想い出があるので、
 2月11日は紀元節だと思ってしまうのである。
 私の小学生時代は、確かに戦時中ではあったのだが、
 いまのように「こどもにやさしく」接するようなところはなくて、
 子供が解らなくても「お構いなしに」ムツカシイことを先生は教えたような気がする。
 紀元節の歌でも、紀元2600年の歌でも、歌詞の意味など解らぬままに唄っていたのである。
 よく戦前の教育はと言われるが、
 小学校(当時は国民学校と言っていた)では、そんなに軍国主義的な教育が行われていたわけではなくて、
 確かに教え方は厳しかったし、先生もやさしくなかったのは間違いないが、
 それはそれでよかったのかなと思ったりする。
 
★ 紀元節について書いているが、
 ここに書いたことを何も見ずに書けた訳ではなくて、
 これは現在の「ネット時代の有難さ」で、
 検索すると昔のことでもなんでも、詳しく現れるのである。
 「紀元節の歌」も
  
紀元は2600年」という国民歌もこんな動画があって
 その歌が聞けたりするのである。
 
 小学校時代から約80年の年月が流れているのだが、
 この80年間の時代の変化激動と言って間違いなく、
 全く違った世の中になったと思う。
 こんなに変わった時代を生きた人は少ないのではないかと思っている。
 特に昭和の時代はまさに激動そのものだったと思うし、
 もう少なくなってしまったが、
 昭和一桁=紀元節が懐かしい世代が、一番その変化を体験したのだと思う。
★ そんな昔流にいう紀元節は三連休で、
 今日は珍しく息子が鎌倉からやってくる。
 何を想ったのか、突然電話してきて来るというのである。
 息子といってももう60近いのだが、
 私と息子の関係は、子どもの頃から全く変わらないように思う。
 子供の頃から息子を怒った記憶など全くない。
 学校の勉強のことなど一切言わなかったが、
 それは「父が私に対した態度」と全く同じだったのだと思う。
 私も子供の時から自由にさせて貰ったが、
 息子にも何の注文もしたことはないし、受験も就職も相談に乗ったりはしていない。
 子どもの頃は、魚釣りを一緒にしたり、サッカーを見に行ったり、
 トモダチ付き合いのような関係だったが、今でも一緒なのである。
 学校の勉強のことなど一切言わなかったが、
 何となくだが、子供の育て方などは
 「建国記念日流」よりは「紀元節時代」のほうがいいのではと思ったりする。
 さて、この3連休どんな3日間になるのだろうか?
2022年2月10日

カワサキが初めて鈴鹿を走った日 Ⅱ   

投稿者 : rfuruya
★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログをアップしたのは
 9月にブログをスタートしたばかりの2006年11月2日なのである。
 実は北陸の竹田学さんから昨日、Facebook のメッセージで
 「古谷さん「塩本選手」という御名前のライダーご存知では無いでしょう か?
 私の居住しております石川県と関係のある方らしいのですが詳細を知る方がこちらに居ないので・・・・」というメッセージを頂いたのである。
 私は「塩本選手とは直接お会いしたことはない」のだが 、
 塩本選手のことは知ってたので、それなりのご返事はしたのだが、
 その中で「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログがあるから、
 「それを検索してみて下さい」とご返事したのである。
 これはカワサキのロードレースのスタートの話で、
 なかなかオモシロイ話だから、改めてそのままご紹介してみることにする。
★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日
 
1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。

当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。

4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。

当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。

メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。

あまり大きな声では言えないが、2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

★モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある陸の塩本にも出場を要請したのである。
案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。

駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆は、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,佐藤(佐藤ではなくて鈴木だったようです)であった。

結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。

雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。

私は、現場には行っていなかったが、

チームマネージャーの川合さんから、

5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

★カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助となった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、
一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参を認めることになったのである。
約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤飯原(いずれもキヨさんの先輩ライダーである)は決まったのだが、
関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

★ もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。

このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれたさん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。

こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。

●不思議なことだが、カワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、1965年5月3日、ライダーは、後全日本モトクロスチャンピオンを3年連続で獲得した山本隆君
●1ヶ月後のアマチュア6H耐久の監督は、Z1の開発責任者の大槻幸雄さん、副監督が田崎雅元さん(のち川重社長)である。
●走ったマシンは90cc、  この耐久レースヤマハは確か鈴木忠さん、スズキは菅家などみんなモトクロスライダーが走ったのである。
タイムは3分20秒は切れなかったと思う。
 以上がその全文なのだが、
 そのブログに山本隆さんがこんなコメントを寄せてくれているので、
 それもご紹介してみる事にする。
     
一番最初にカワサキを鈴鹿で走らせた男! (山本隆)
そうです思い出は鮮明に記憶しています!
私が鈴鹿ジュニアーロード参戦に駆り立てたのは訳があります!
その年の初春にブリジストンサイクル工業への移籍を密かに目論見、仮契約まで行っていました!
その内容は勿論MXエースライダー契約でしたが、新たに始まる鈴鹿ジュニアーRRの参戦も入っていました。
一度は憧れの鈴鹿を走るチャンスが来た!と色気の多い私はその気になっていたのに、大きなプレッシャーのせいで?元の鞘に収まってしまいました!
それじゃ自費でもRR参戦を!と固い決心をしたのを知った田崎さんが「山本君僕に任せなさい!」と言って生産ラインからカワサキ85J-1の新車を1台宛がってくれました。”(-“”-)”
 そうです。
 こんな山本・歳森のBSへの仮契約事件があって、
 山本隆さんは「大きなプレッシャーがあって」とそれが実現しなかったと書いているのだが、
 それには私も関係がって、このBSへの移籍を止めるために
 神戸木の実の片山義美さんに頼んだのは私なのです。
 片山義美さんと兵庫メグロの西海社長というレース界の大先輩が二人を説得してカワサキに留まることになったのです。
 そして、私はそれまではレースには直接関わっていなかったのですが、
 この事件を機に直接「レース担当」することになったのです。
 もう昔のことですが、私にとってもこの事件がなければレースを直接担当しなかったかも知れません。
一つの岐路になった事件であり、その結果のロードレース参戦だったのです。
2022年2月9日

二輪車の世界と私     雑感

投稿者 : rfuruya
★私は現役時代には二輪の世界に40年ほどいたのだが、
 個人的には二輪車も持っていないし、乗れるけどそんなに乗ったりもしない。
 技術的には全然ダメなので、その性能やメカについては全く駄目である。
 でも二輪車の世界には魅せられて、ハマってしまったところもある。
 引退した今でも、二輪関係の方とはいろんなところでお付き合いがあるし、
 そんな一つが未だに「二輪車新聞」や「カワサキバイクマガジン」が送られてくるので、
 二輪業界のことなど何となく解っているのである。
★その二輪車新聞の最新号に「小型二輪30年連続増175万台」とあった。
 750cc以上の所謂大型車の分野だが、30年も連続して増え続けているというのである。
 販売台数ではなくて「保有台数」なので、それだけの数のバイクが今日本にあるということである。
 この分野はカワサキの主力分野だから、
 銘柄別のシェアはひょっとしたらカワサキがトップかも知れない。
 こんな記事で、
小型二輪は175万台に
軽二輪は初の200万台越え」とある。
 
 二輪の分類は原付1種・原付2種・軽2輪・小型2輪に分かれていて、
 これは排気量50cc以下・50cc以上・250cc・750以上なのである
★ 日本の二輪車市場は、戦後100社を超えるメーカーが存在したのだが、
 ホンダ・スズキ・ヤマハ浜松勢に席巻されて、
 かっては三菱富士重BSもいたのだが、
 唯一大きなメーカーで残ったのはカワサキだけなのである。
 さらに特徴的なのはホンダスーパーカブヤマハメイトに代表される
 50㏄の原付1種がメイン市場という世界でも珍しい市場だったのである。
 下図をご覧になればお解りのように、
 国内の出荷台数は昨今激減しているのだが、
 それは原付1種の50㏄モペットが減ってしまったので、
 逆に250cc以上の中・大型車市場は堅調に推移しているのである。
 
 私が現役時代はこの図表以前の40年間なので、
 50㏄モペットはあの「HY戦争」の時代がその頂点だったし、
 逆に250cc以上の中大型スポーツ車の分野は微々たるものだった。
 4社の中で独りカワサキだけが、その中・大型スポーツ車を中心に、
 業界の中でも独自の販売戦略を展開していたし、
 私自身はその中心にいて、結構面白かったのである。
 当時の業界の主力機種50㏄の分野では、カワサキは全く駄目だったが、
 「中・大型スポーツ車」の世界では機種でも販売網政策でも、
 業界を一歩リードして走っていたのである。
 保有台数の分野だが30年連続して増え続けているということは
 個人的にも本当に「嬉しい限り」なのである。
★ そんなカワサキの二輪事業の中で、いろんな機種にいろんな想い出があるのだが、
 まずはこの250A1、カワサキが世に出した初のスポーツ車だと言っていい。
 これがその時のカタログだが、これは私の広告宣伝課時代の作なのである。
 
 この車の開発時代は、まだ名神がガラ空きの時代で
 名神高速でその走行テストなどやったりしたのだが、
 あの金谷秀夫歳森康師など、レースライダーたちが手伝ったりしているのである。
 デザインの分野にもアメリカ人たちのアイデイアがいっぱい入っていて、
 「タンクはメッキ」が定番だったのに、それがカラーになったのはA1が最初なのである。
 いまでこそカワサキのイメージカラーはグリーンなのだが、
 A1の時代はまだレーサーなども「赤タンクのカワサキ時代」なのである。
 A1の後に続いたのが、マッハⅢで、
 この車からはタンクマークとニーグリップが消えて
 所謂「カラータンク」となったのだが、これも業界初だったのである。
  
    これは1970年のバイソンだが、
 この時期からカワサキのイメージカラーが、
 アメリカのレースでの影響を受けて「ライムグリーン」が使われるようになるのである。
★ これが当時の「ライムグリーン」のレーサーだが
 「赤タンク」もそうだが、この「ライムグリーン」も別に社内の正規の規定などで決まったのではなくて、
 社内の誰かが勝手に決めてしまったのである。
 二輪事業という末端民需大量生産販売事業は当時の川崎航空機にとって全く初めての事業であったし、
 やることなすこと、みんな初めての経験ということばかりだったので、
 社内には極端に言えば何の規定もなかったことが多かったし、
 当時の上司の方よりは、市場に近いところにいる若手のほうが、
 業界での知識などに詳しかったという、オモシロイ時代だったのである。
★ 1960年代後半からスタートしたカワサキのレース界での活躍は、
 世の脚光もあびる実績を積んだのだが、
 国内レースはモトクロスからのスタートで「赤タンク」だったのだが、
 これを決めたのはデザインルームなどではなくて、
 青野ヶ原のモトクロスに出場したレーサーを造った製造部の人たちなのである。
 そんなことからモトクロスからスタートしたファクトリーマシンのタンクも
赤で「赤タンクのカワサキ」と呼ばれていた。
 ロードレスに参戦してみると、ホンダのレーサーが赤タンクなので、
 レース担当だった私は内心「これは困ったな」と思っていたのである。
 カワサキの初のGP参戦は1966年のFISCOなのだが、
 この時のカワサキのGPマシンのタンクも赤なのだが、
 幸いにしてこの年はホンダが参戦しなかったので、赤タンクが重なることはなかったのである。
 この年が私のレース担当最後の年だったのだが、
 その後、アメリカでのレースで「ライムグリーン」が登場してほっとしたのを覚えている。
 そんなこともあって、アメリカでライムグリーンに決めた経緯を知りたかったのだが、
 現役時代には聞く機会もなくて、退職してZ40周年記念をアメリカで開催した時に
 当時のKMCのR&D 責任者だった斎藤定一さんに会って、直接聞いてみたのだが、
 「ライムグリーン」を決めたのはR&Gで、
 選んだ色の『ライムグリーン』は、それなりに勇気の要った選択だったのだが、そんなことはあまり気にせずに決めた様である。
★いろんな想い出も多い二輪の世界なのだが、
 いまもなお、Facebook などで繋がっているトモダチも
 二輪関係の方や二輪ファンが圧倒的なので、
 二輪と一緒に生きてきたなと思っている。

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