2021 3月

2021年3月31日

戦前の子供時代  自分史  その2 

投稿者 : rfuruya
★ 子供時代に『大きな影響を受けた人』と言えば、
 それは『伯父と父』だと言っていい。
 これは戦前の私の子供時代の伯父と父なのだが、
 写している場所は、伯父がオーナーだった『明石の錦江ホテル』の庭である。
 いつ、どんな時に写した写真なのか定かではないのだが、
 結構な正装である。
   
 当時、伯父にはこどもがいなくて、
 伯父は私を『古谷家の跡継ぎ』として可愛がってくれて、
 あちこちに連れまわされたので、
 私は父以上に伯父との会話が多かったように思うのである。
 こどもの頃は、朝鮮京城府に住んではいたのだが、
 小学生の頃、夏・冬の休みには毎年明石に里帰りしていたので、
 私は戦前の日本というか、当時は『内地』と呼んでいたのだが、
 戦前の明石も、神戸の街もよく覚えているのである。
 小学生だったのに、伯父に神戸花隈の夜の席や、有馬温泉での芸者さんが沢山の席などにも連れていかれて『大人の遊び』も見ているのだが、
 伯父の遊び方は、結構派手であったことは間違いないのである。
 そんな夜の世界だけではなくて、当時伯父が檀家総代をしていた
 明石藩松平家の菩提寺・長寿院などにも連れていかれて、
 こどもの頃にお上人の話なども聞かされたのである。
 伯父は当時は朝鮮の南鮮合同電気という今の韓国をテリトリーとする
 大企業であった電力会社のオーナー副社長だったのだが、
 現地に来るのは数回だけで、ずっと明石に居を構えていて、
 明石では『錦江ホテル』という結構大きなホテルの経営者でもあった。
 その立地は当時の『中崎海岸』に位置していて、
 松並木のある素晴らしい景観で
 夏休みなどそこを拠点に私は海水浴など楽しんでいて、
 ホテルにいた従業員のお姉さん方にもいろいろと可愛がって頂いたのである。
 アメリカ製のクルマが止まっているが、
 これはリンカーンか、パッカードで伯父の自家用車だったのである。
 勿論、運転手さん付だったのだが、よく乗せて貰ったし、
 車にラジオがついていたりしてビックリしたのである。
 車などの名前も、その当時覚えたものである。
   
 こんなパンフレットもあったし、
 
 装備や調度品や庭なども非常に凝ったホテルで
 当時から外人客なども訪れていたのである。
 ホテルにあった天婦羅やでよく天婦羅を食べたのも覚えている。
 
 戦前のことだがクルマもあったし、
 上の丸の家の庭には、私のためにプールを作ってくれたりした伯父だったのである。
 神戸に行くにも『車で行く』ことが多かったし、
 伯父の家には『爺や』もいて、私を明石公園の魚取りや明石川での鰻の子を採りにつれて行ってくれたりした、
 そんな上流家庭の生活だったのである。
 子どもの頃はそんな環境で伯父に可愛がって貰ったりはしたのだが、
 少々『派手に遊ぶ』伯父を見ていて何となく子供心に、
 『お金があることはあまりいいことではないな』とホントにそう思ったりもしたのである。
 逆に父は一切外では遊ばなかったように思うし、
 子どもの私に対して『金には厳しくて』一切小遣いなどは与えてくれなかったからかも知れない。
 そんな環境で育ったからか、戦後は一転金などない生活になるのだが、
 『お金が欲しい』とか『金を貯めよう』などと思ったことは一切なくて、
 『給料が安い・高い』なども全く関心がない生活が続いているのである。
  二人の子供たちが独立するまでは、家内は専業主婦だったし、
 貯金なども一切なくて『家計は苦しい』時期が続いたのだが、
 その当時もホントに『金には無関心』だった。
 それは何となく『お金があることはあまりいいことではないな』と
 こどもの頃思ったことが、
 そのまま続いているのだと思う。
★ 父は私が高校3年生の1月に亡くなってしまって、
  それ以降、伯父には大学入試にも世話になったのだが、
  その伯父も大学3回生の時に亡くなってしまうのだが、
  大学卒業後の就職が川崎航空機に当時の社長砂野仁さんのコネで入社できたのは、伯父のお陰なのである。
  前述した『錦江ホテル』は、その後大東亜戦争が始まってから、
 軍の指示で明石の川崎航空機に『軍の人たちの宿舎』として接収されることになり、
 その当時の川崎航空機の総務部長が砂野仁さんで、
 そんな関係もあって伯父は砂野さんとその後も懇意にしていたのである。
 結構な遊び人であった伯父だが、『人の面倒見』は非常に良かったようで、
 戦後の食糧難の時代に、酒などもなかったのになぜか伯父の家には酒などもあって、砂野さんともよく家で飲んでたし、
 後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんは京都の方なのだが、
 戦後明石の相生町で工作所を始められた際、伯父がその場所を提供したのだと思う。
 その土地は伯父や父の妹夫婦が住んでいた場所なのだが、
 二人とも戦災で亡くなってしまって、戦災で焼失したままになっていた場所なのである。
 私は戦後1945年12月に、引き揚げてきて翌年4月神戸一中に入学するまでの3か月間、伯父に連れられてしょっちゅう、相生町のその場所に来ていたので知っているのである。
 戦災で亡くなった叔父は『錦江ホテルの支配人』をしていてその家にはお稲荷さんがあったのをよく覚えているのだが、
 そのお稲荷さんは今でも残っているのである。
  かっての錦江ホテル跡は、今では『明石勤労福祉会館』となっていて、
 この写真の左上にあるのがその『お稲荷さん』なのである。
 
 私の小学生時代の懐かしい想い出『錦江ホテル』の辺りは、
 今は海の方に大きく埋め立てられてしまって陸地になり、明石市役所などがあるが、
 私の子供の頃は、そこは海だったのである。
 
★ 夏冬明石に里帰りをしていた小学生低学年の時代の想い出は
 朝鮮京城よりはむしろ内地の想い出の方が懐かしいように思うのである。
 ただ、当時の内地の印象は『旧くて小さい家が多いな』と思っていたのが正直な感想で、
 当時の京城の家はみんな、内地の家に比べると新しくて、敷地が大きい家ばかりだったように思ったし、
 神戸の市電や、神戸の三越よりも、京城の市電や京城三越の方が綺麗で大きいと思ったりしたのである。
 内地の小学校は木造だったが、京城の小学校は鉄筋コンクリートで冬はスチームが通っていたし、学校に当時からプールもあったりして、
 全般に近代的だったなと思っているのである。
そんな朝鮮・京城の当時の外地の想い出は次回に。
2021年3月30日

コロナ対策 どうなるのだろう?

投稿者 : rfuruya

★ ここにきて、収まり掛けていた関西でのコロナが急増傾向である。

 大阪では3日連続で300人を超え、東京を上回ったという。
 兵庫県では新たに93人とあるが、
 神戸市45人、尼崎市10人、西宮市7人、明石市7人、姫路市5人
 とやはり大阪に繋がっている『通勤圏』が殆どで、
 『三木市』の名前はない。
 
 『三木市』のホームページを見ると
 三木市はなぜか『加東健康福祉事務所管内』として公表されるようになっていて
3月1日付の発表より、三木市の新たな感染者数の増加はありません。 』
と公表されているので3月の新発生者はゼロということなのだろう。
★4月になると高齢者に対する『ワクチン接種』が始まるので、
 それまで『頑張ろう』と思っているのだが、
 これも市のホームページを見ると、『少し遅れている』ようである。
 
 然し、遅くとも4月中には『ワクチン接種』をして貰えるだろうから、
 あと1ヶ月の頑張りである。
 結構ちゃんと、『コロナ対策』になっているような日課をこなしている。
 殆どと言っていいほど『人との会話』はないし、
 この半年『外食も皆無』である。
 それなのに、あまり寂しくもないのは、Facebook でのネットのやり取りがあるからだろう。
 昨日もアメリカの孫のサッカーの実況を観ていた。
  無茶苦茶攻められて18本のシュートを打たれたが、
 見事セーブして2-0の勝利だった。
  
★ 昨年春以来の『私のコロナ対策日課』だが、
 ● 朝は三木総合防災公園を走る
 ● 家内の買い物があるとスーパーまで付き合う
 ● Facebook でのやり取り
 ● ネットで囲碁を打つ
 ● 庭仕事をする
 ● 結構確りと毎日ブログをアップする
    ぐらいのことなのだが、退屈せずに毎日が過ごせている。
 こんな日課なので、この1年『マスクをした時間』は殆どない。
 スーパーに行った時だけと言ってもいい。
 車の中に3枚のマスクがあるが、これは昨年3月以来のもので、
 『3枚のマスク』で間に合った三木の環境に感謝である。
  私だけではなくて、マスクをしていない人が殆どである。
  
 5月からは 新しい日課がこなせるようになることを期待している。
2021年3月29日

戦前の子供時代  自分史  その1   

投稿者 : rfuruya

★ 88歳の今現在に近いところから、逆に若いほうに向かって書いてきた自分史だが、
 戦後の中学生からの学生生活を終わって、
 いよいよ生まれてから小学生だった『戦前の子供時代』に入ることになった。
 この世に生を受けてから小学校を卒業するまでの『こどもの頃』は、
 ちょうど大東亜戦争が終わる昭和20年までで、
 当時は日本であった朝鮮京城(今のソウル)にいて、
 それ以降の人生とは全く違った『異質の時代』を過ごしたのである。
 生まれ故郷は兵庫県明石市上の丸で、それは昭和8年(1933)3月なのだが、
 3歳の頃には朝鮮太田市にいて、小学校に入学当時には既に京城府に移っていて、
 京城府城東区新堂町桜ケ丘という高級新興住宅地で、
 通った小学校は京城桜ケ丘国民学校だったのである。
★ なぜ、朝鮮などにいたのか?
  それは祖父・古谷虎雄が起業した『電気事業』を引き継ぐために朝鮮に渡ったのである。
  祖父・古谷虎雄のことにについては、
  ネットの中にもこのような記述で残っていている。
  
  そして、このように記述されている。
   
 更に こんな記述も残されている。
  
祖父・古谷虎雄は私が生まれた時は既にこの世にはいなくて、私は知らないのだが、事業家で一代で財を成したようである。
 早く亡くなってしまったので、伯父・古谷修一も若くして『太田電気』の社長になったようだが、
 その経営の実は、祖父時代からの重役陣や番頭さんであった竹内さんなどで実際には行われていたのだと思う。
 伯父はオーナー社長で明石に住んでいたので、
 その代わりに父が太田市の現地に赴いたのではなかろかと思っている。
 その太田電気は、昭和12年(1937)3月に朝鮮総督府の政策で、
 6社の電気会社が合併して『南鮮合同電気・株』となり、
 当初の本社は釜山に置かれたようだが、
  
 その後本社が京城(今のソウル)に移った時に、
 我が家も太田から京城に移転したのだと思うのである。
 南朝鮮の6社が合併してできた『南鮮合同電力株式会社』は、現在の日本の『各地電力会社』に相当する位置づけで、
 現在の韓国に相当する地域を担当した『大企業』ではあったのだと思う。
 その『南鮮合同電気』の経営陣は以下の通りなのだが、
 伯父・古谷修一オーナー副社長として経営陣に加わってはいるが、
 この時も伯父の居住地は兵庫県明石市だったので、
 年に何度かは京城府の我が家に来ていたが、
 その時の伯父の移動は、当時の新聞の『人事往来』に掲載されたりしたのである。
  
 以上が私の憶測も入ってはいるのだが、
 戦前に朝鮮京城にいた理由と経緯なのである。
★私は昭和8年(1933)3月に明石市上の丸で生まれている。
 ここは祖父の別荘だったところだが、父の新婚時代はここに住んだのだと思う。
 この写真に写っているのは、祖父・祖母・叔母など祖父一家なのだが、
 伯父も父も未だ多分早稲田の学生時代なのである。
  
 これは 明石市細工町20番地でここが住居だったのだと思う。
 今も『魚の棚』で有名だがあの辺りが細工町である。
 小学校時代にはここが私の本籍だった。
 伯父一家も私が小学校に入ったころはここに住んでいたのである。
 
★ これらはみんな祖父が残した遺産なのだが、
 祖父の偉業を偲んで、伯父は祖父の銅像を上の丸の庭園に建てていた。
 これがその『祖父の銅像』なのだが、
 私は子供の頃から、この銅像で祖父と対面していたのである。
 不思議に戦災からも免れて、これは今も少しだけ残っている明石上ノ丸の本家の一隅に残っているものである。
    
★ こんな経緯で、私の少年時代は京城(今のソウル)にいたのだが、
 父は何をしていたのかはよく解らないのである。
 兎に角、勤め人ではなかったし、と言って自分で事業などもしていない。
 どのようにして生計を立てていたのかも知らない。
 ずっと家にいて、好きな絵を画いたり、旅行に行ったりしていた。
 古谷家の次男なのだが、祖父の遺言で伯父と財産分けなどしていなかったようなので、
 何もしていなかったが『暮らしに困る』ようなことは全くなくて、
 まさに悠々自適の生活だったのだと思う。
 伯父の一家には当時は子供がいなくて、私が『古谷家を継ぐ』立場にあったからだと思うが、
 こどもの頃から伯父には『古谷家の総領』として育てられたようなところがあった。
 逆に、父は私に特に何も言わなくて自由に育ててはくれたが、
 金には何故か厳しくて『こどもは金など持つな』ということだけを私は覚えている。
 私は生来そんなことで『小遣いもお年玉も』貰った経験がないのである。
 これは私の3歳の頃のそんな父との写真である。
 ほかにもいっぱいあったのだと思うが、戦災で焼けてしまったし、
 朝鮮から引き揚げの時に持ち帰らなかったので、
 父と二人の写真はこれだけなのである。
  
  これも同じころの写真だが、
  この頃も、間違いなく『良家のぼん』のような感じである。
     
★ 母は岡山の出である。
 父は52歳で亡くなってしまったが、母は103歳まで生きて、
 戦後、私と妹4人を育ててくれたのだが、103歳まで長生きした。
 これは若い頃の写真だが、多分結婚後直ぐの頃だと思う。
 明治42年生まれの明治の女で確りしていたと思うが、
 私には何にも言われたりはしなかった。
  
 これは先の写真にもあった、明石細工町の伯父宅での写真だが、
 母に抱かれているのが私である。
 一番右は母の兄・楠見幸信ご夫婦で、真ん中は父の妹の叔母ご夫婦、
 そして本家の祖母と伯母、それに書生の方がいて、
 当家の主、伯父はなぜか家の中である。
 
 母は岡山・楠見家の出で、
 楠見幸信は次兄・慶応黄金時代・宮武・山下・水原の頃の一番センターで、
 昭和の初期の未だプロがあったのか、なかったのか?
 当時の全日本のメンバーで、戦後は国鉄スワローズの初代総監督なのである。
 これは、岡山の楠見家での写真である。
 祖父・楠見忠三郎も写っているし、母の長兄・楠見一正伯父もいるし、そのお子様も
 母の一番下の弟、昭三叔父も未だ子供時代である。
 母方の楠見家は男3人女3人の6人兄弟で、母は3番目で長女なのだが、
 男兄弟3人は3人3様、長男の一正伯父は学者大阪市大の教授をされていた。
 次兄の幸信伯父はパリパリのスポーツ選手なのに、三男の昭三叔父は、この時代には自転車にも乗れずに、ピアノなどが得意で今は建築家なのである。
 楠見家も朝鮮で『楠見組』という土木事業などをやっていたので、
 祖父はよく京城の家にも来ていたが、
 今の『おじいちゃんと孫』のような関係ではなくて、
 常に毅然としていたし、父と囲碁を打ってたのを私は横から眺めていただけである。
 これも岡山の母方の実家で、同じ時なのかどうか?
 まだ私は小学校前かも知れない。
        
 子どもの頃は、服装を見てもこんな感じで、
 私など結婚してから今まで、こんな父のような服装をしたことがナイのだが、
 昔はこんな家庭で『ぼんぼん』として育てられたのである。
 少なくとも、こどもの頃の戦前の生活と
 戦後の中学校以降の生活とは180度違っているのである。
 いわゆる『お金持ち』の生活がどのようなものなのか?
 特に、私を可愛がってくれた伯父の生活は、
 父とは違って『派手だった』のである。
 それを子供心にどのように感じたのか?
 これらはまた次回に。
2021年3月28日

佐藤輝明  期待以上の大活躍!

投稿者 : rfuruya

★ 阪神ーヤクルト戦をテレビで見ている。
 まだ4回だが、阪神が6-0で勝っている。
 昨日の第1戦では、初打席・初打点でスタートを飾った新人佐藤輝明だが、
 第2戦の第一打席は『初ヒットが初ホームラン』だった。
 『佐藤輝明』と検索すると
  こんなニュースが並ぶ。
 昨日は『初打席で初打点』だったが
 今日は『初打席が初ホームラン』でビックリした。
  
  
★ 試合は9-5で阪神が勝ち、
 佐藤輝明は『初のお立ち台』である。
   
  これは何と言っていいのか解らぬほどの大活躍である。
  スターはいろんな運を持っているものだが、
  この佐藤輝明のデヴューぶりは、
  長嶋一茂以来の鮮烈さを持っている。
  初ホームラン・初複数安打・初盗塁・初四球・初お立ち台
  『初尽くし』である。
  『期待以上の大活躍
  今年の阪神はオモシロそうである。
2021年3月27日

中学・高校・大学 私の学生時代  その7  自分史

投稿者 : rfuruya
★ 神戸高商からスタートし、神戸商科大学となり、
 今は兵庫県立大学となっている長い歴史を持つ野球部だが、
 2019年12月8日には『神戸ほっともっと球場』を借り切って、
 創部90周年イベントを盛大に行ったのである。
 
 70名を越すOBたちが集まったのだが、
 私が入部したころのマネージャーで2年先輩の多田和昭さんが一番旧く、
 (前列左から2番目)
 二番目がが私だったのである。
 
 当時86歳だったのだが、
 私は生まれて初めて『テイー・バッテング』なるものを経験した。
 結構、ちゃんと打てたから、不思議である。
 
 私たちの現役時代は、『ティ・バッテング』もなかったし、
 『金属バット』も、『ヘルメット』さえなかった時代の野球なのである。
 100周年は96歳である。 何とか出席できるように頑張りたい。
★ところで自分史に戻って、
 現役時代一生懸命練習はしたのだが、
 お世話になった運動具店の借金が10万円も溜まって、
 そのまま卒業するわけにもいかず、何とかその借金返済を考えたのである。
 当時は学生主催の『ダンスパーテイー』もよく行われていたのだが、
 大体が300名程度の規模で当時の入場料は100円が相場だったから、
 そんな規模ではどうしようもないのである。
10倍ぐらいの規模のダンスパーティー』が出来ないか? と
私なりに起案』したのである。
 ちょっと無茶なようにも思われるかも知れぬが、
 いろいろ考えると『何とかなる』ものなのである。
 『高い目標』を掲げそれに『戦略的に挑戦する』ことは、何となく私の身に付いていて、
 これは事業家であった祖父や伯父からのDNAかなと思ったりする。
 人生で多くの催し物の主催をやる機会があったが、
 これがその『最初の催し物』なのである。
 兎に角『2000枚の切符を売ろう』とその企画を始めたのである。
 『2000枚の切符を売る』ために、
 その年開場したばかりの『神戸国際会館』を選んだのである。
 会場費も高かったが、それ以上のネームバリューがあり、
 2000人が踊れる会場の広さは『神戸国際会館』であったゆえに可能だったのだが、それでも一つでは無理で、隣のホールも借り増ししたのである。
 一口に2000枚というが、これはなかなか大変で、
 野球部の借金返済が目的なので部員には野球以上にはっぱをかけたのだが、
 私は当時ダンスにも凝っていて、明石のホワイト・ローズでは教師の真似事などもやっていたので、私自身の人脈でも相当数のパーテイ券を捌けたのである。
 このパーテイーの収支が日記帳に挟んであった。
 
  ご覧の通り現役も頑張り、OBや体育会の協力が得られたのも、
 『神戸国際会館』というだけで販売しやすかったのである。
  当日の入場券売り上げも140枚もあって、
  TOTAL 204,000円の収入があり、見事10万円の利益を計上している。
  計画通り、運動具店の借金はほぼ支払うことが出来て目標達成だった。
 そのパーテイ券のデザインである。
 ちゃんとデザイン料も払ってまともなものに仕上げている。
   
 裏面にその内容が記載されているが、
 三つの運動具店の後援も取り付けているのである。
 『峰本運動具店』は中京ー明石のあの25回戦の時のショートだった明石高校の先輩の峰本さん経営だったので、
無理を言って本当によく面倒を見て頂いたのである。
★ 大学時代、勉強は殆どしなかったのだが、
 こんな野球部関連のお付き合いは、
 その後の人生でも大いに繋がっているのである。
 特に私は2年上の先輩の方々には、本当によく面倒を見て頂いて、
 それは社会に出てからも延々と続いていたのである。
 2年上の主将が太田武郎さんでマネージャーが多田和昭さんなのだが、
 つい何年か前までは、こんな野球部のゴルフコンペでも、ご一緒だったのである。
 私の隣が太田さんで、前に印を付けているのが、多田さんである。
 
★太田武郎さんは、お兄さんが創立された『ノーリツ』の副社長をされていたのだが、
 創立者・太田敏郎さんは、川重副社長を務められて、私の長年の上司であった髙橋鐵郎さんとは海軍兵学校の同期で親交があったのである。
 さらに不思議なことに娘婿の門野匡秀はノーリツで若くして労働委員長をやったり、ノーリツがアメリカ進出をした時は、最初のメンバーで渡米したのだが、
当時カワサキの現地販社KMCのメンバーたちが、いろいろとお手伝いなどもしたのである。
 娘婿は現地に留まって今もアメリカにいるのだが、
そんなこともあって、太田武郎さんはゴルフの度に『門野のこと』を聞いて頂いたりしたのでだが、
 ほんとに突然に亡くなられてしまったのである。
  高校時代の野球部の連中ともずっと親交があったのだが、
残念ながら、みんな先に逝ってしまって、ホントに残りは少ないのである。
 上の写真の『淡水野球ゴルフ会』は昨年はコロナ禍で中止だったが、
 今年は5月13日に播磨カントリーで1年半ぶりの開催のようである。
 まだ、ご返事は差し上げていないのだが、
 『出席しようかな』と思っている。
 前回1昨年秋のコンペでは、後輩たちを差し置いて
 『優勝』させて頂いているのである。
  その舞台となる『播磨カントリー』はかってのメンバーコースで、
 コースはよく解っているので、
 今年からは『エイジ・シュート』でも狙おうかなと思ったりしているのである。
★学生の本文である勉強については神戸一中の2年生までは頑張ったのだが、
 それ以降は、『野球一筋』と言っていい学生生活ではあった。
 いろんな目標に挑戦したのだが、
 最後の『ダンス・パーテイ』は最高の出来で
 その後の人生でも『大いに自信』に繋がっているのである。
 目標達成のための『戦略的な対応』については
 野球部監督時代に自然に身に付いて行ったように思うし、
 その最後のダンスパーテーでは、
 現役は勿論・OBたちも本当に協力頂いて、
 当時の学生たちがやっていたダンスパーテイーの『10倍の規模』での『成功』は私の学生生活の集大成出あったようにも思うのである。
 これをもって『学生時代の自分史』を終わり、
 あとは『こども時代の戦前の話』になるのである。
 『私の人生の基盤』は、この戦前に受けた教育と家庭環境の中で築かれたようにも思うのである。
2021年3月26日

春の花たち と 新芽

投稿者 : rfuruya
★3月25日、この辺りも昨日桜の開花が伝えられた。
 いよいよ春である。
 この時期の我が家の花たち
 まずは春の木『椿
 満開のものもあるし、まだ蕾の樹もある。
 
 奥まっていて目立たないが『花かいどう』が咲くと
 春だなと思う。
 長く咲いているクリスマスローズだが、
 さらに花数が多くなったような気がする。
 この時期は花と共に『新芽の季節』でもある。
 いろんな樹や花の新芽がいっぱいである。
 昨今は、名前を忘れてしまうので、
 名前を省略して 写真だけ並べてみる。
 これらは間違いなく花たちである。
 
これは『あやめ か カキツバタ
 これは前庭の薔薇たち
 梅も花が終わって『新芽の季節』になった。
 もうすぐ『薔薇の蕾の季節』がやってくる。
 モッコウバラはもう蕾が付いている。
 4月まで、『あと数日』
2021年3月25日

中学・高校・大学 私の学生時代  その6 自分史

投稿者 : rfuruya

中学・高校・大学 私の学生時代  その6

2021-03-25 07:31:54 | 自分史
★神戸商大に合格して一番先にやったことは『野球部への入部』だった。
当時の神戸商大は近畿6大学野球連盟に属していたが、私が在学中にはずっと1部に属していて、
ひょっとして2部もあったのかも知れぬが、そんな入れ替え戦とは無縁のそこそこの成績は残していた、そんな野球部だったのである。 因みに現在の兵庫県立大学は残念ながら3部なのである。
この時代は、近畿大学(あの阪神の佐藤の出身校)がこのリーグにいて、
ずっと近大が優勝していて、3回生の頃まではあの甲子園球場でリーグ戦が行われていたのである。
私は1回生の春からショートで出場していたので、
当時は兵庫県の高校野球の予選も甲子園球場で行われていたし、
私が一番多く試合をした球場』は『甲子園球場』というウソみたいなホントの話なのである。
まだ球場の外壁が蔦(つた)で覆われていた頃の懐かしい甲子園球場だった。
      
★ 高校時代は明石高校の野球部だったが、
同期の連中でも旧制中学の1年からいる連中が何となく主流で、
私や溝畑など学区制で途中から加わったメンバーがチームの中心というわけでもなかったのである。
そういう意味では神戸商大での野球部では、
1回生の春からチームの中心にいたし、『名門明石』出身ということで
一目置いて頂いていた存在だったのである。
2回生の時は1回生に有望選手も入部し、チーム力も上がって、
この2回生の秋までが、私の大学での野球選手としての一番盛りだったのかも知れない。
その2回生の秋のリーグが終わって、『肺浸潤』の診断が出て、
流石に3回生の春のリーグ戦は休んだのだが、
その時のリーグ戦の成績が最低だったこともあって、
秋からはベンチも担当する『プレイイング・マネージャー』として復活したのである。
責任上『野球のルールブック』を精読したのもこの時期で、
正直そんなことをしたのは初めてのことだった。
4回生の時には当然のように主将となり、
ベンチも預かる『プレイイング・マネージャー』を続けたのだが、
まだ肺浸潤も完治していない状態だったので、
むしろベンチワークの方に重点が行っていたかもしれない。
★ 野球部時代の写真もあまりないのだが、
 これは1回生の夏、兵庫県高砂の鐘化のグランドでの夏合宿の時である。
 当時の鐘化の野球部監督が久留島さんで、
 久留島さんは明石でも神戸商大でも先輩にあたる関係だったのだが、
 そんなことで鐘化のグランドでの夏合宿だったのである。
 二人で写ってるのは商大の選手ではなくて、
 明石高校時代の私と三遊間を組んだ辰巳くんなのだが、
 なぜ彼が商大の合宿に参加してるのか?
 多分、手伝いに来てくれたのだと思う。
 因みに、久留島さんは戦後の全日本にも選ばれていた名選手なのである。
    
★ 2回生の秋に『肺浸潤』になって、自分の命も長くないと思ったこともあって、日記を書きだしているのだが、
 今回『自分史』を書いてみて、ホントに日記に援けられているのである。
 人の記憶がこんなに頼りないものだとはホントに思わなかった。
 3回生時代の私が復活した秋のリーグのこんな記録が、
 日記帳にあったのだが全然覚えていないのである。
全員安打』で大工大に延長で勝っているし、
 2位を掛けての工大戦だったので、
 この試合はショート2番で先発しているのである。
 そして延長10回私の2塁打2点を取って勝っているのだが、
 そんな勝利なのに、全く覚えていないのである。
  
 日記にはこのように書いている。
10回表、2死1・2塁でバッターボックスに、
 ワンストライクの後2球目に好きなインコースに直球が来た、
 左翼フェンスにショートバンドで当たる2塁打で、
 2点を取ってこれが決勝点・・』とある。
★5回生では『野球部の監督』を引き受けているのだが、
 4月4日からは新チームの春の合宿が奈良橿原球場で始まる予定で、
この合宿には手伝いにはいこうとは思っていたのだが、
その前日の4月3日に野球部長の田中教授に呼ばれて正式に監督を依頼をされて、
この合宿には『チーム監督』としての参加となったのである。
これなども今回日記を読み返してみて『そうだったんだ』と思ったのである。
★この年は春のリーグは3位秋は2位とそれなりの成績を残しているのだが、秋のリーグ戦のことである。
1回生の小山修身投手が凄い記録を作っている。
これは意識的に『造った記録』でもある。

11月2日 市大戦  7-1 小山完投勝利、ここからスタートしている。

1週間空いて後半戦
11月7日 市大戦  2-0 と快勝、小山完投。
11月8日 工大戦  1-0 で勝利、小山の連投。
11月9日 工大戦。 0-0 9回引き分け、小山の3連投である。

ここまでは、惰性できた。3連投も凄いし29イニング連続無失点である。
7-1と1点を取られた1点もエラーからだから、36イニング連続無自責点である。

ひょっとしたら『新記録ではないか』と思って、ここからは記録を意識した。
本人もチームメイトも知らなかったと思うが、私は解っていた。
翌日の経大戦も『行けるところまで』と記録を意識して小山でスタートした。
11月10日 経大戦 4-0 小山完投完封。
少々無茶な起用だが、チームとしての無失点記録も伸ばしたくてやった、4日連続の4連投なのである。
そして翌週、ここまできたら小山しかない
11月14日 経大戦  4-0とまたも完封勝利。5試合無失点である。
11月15日 薬大戦  13-3勝利、だがここで記録は途切れた。

小山修身君の記録は『53イニングス連続無失点・64イニング連続無自責点』で、勿論当時は『学生野球の新記録』であった。

小山自身が知らなかったから、出来たのかも知れない。
私自身は30イニングあたりから気付いていて、
チームとしての無失点記録ともしたかったので、
4日連投』という無茶な起用にもなったのである。
★こんな大記録も創ったこの秋のリーグ戦も、
近大とはいい試合をしているのだが勝てなくて、2位に終わっているのだが、
監督としては『まずは及第』の1年だったかなと思っている。
こんなことで私の大学5年間の野球部生活は終わりとなるのだが、
野球は一生懸命やったのだが
お世話になっていた運動具店には10万円ほどの借金が残っていたのである。
当時の大学出の初任給が1万円ぐらいの時代だから結構な額の借金なのである。
これを幾らかでも『減らす』べく考えるのだが、
この件については次回に。
2021年3月24日

三木総合防災公園のスロー・ジョッギング と コロナ禍

投稿者 : rfuruya
★ 毎日の日課になっているのだが、
 朝は三木総合防災公園まで車で行って、
 公園の中のいろんな道を約6キロ、時間にして70分ぐらいの
 スロー・ジョッギングすることにしている。
 昨年、ジム・トレーニングを止めて、
 三木防災公園のスロー・ジョッギングだけにしてからちょうど1年になる。
 今月になって下り坂だけは、少しだけ早いジョッギングに変えたのだが、
 今のところ大丈夫続いている。
 昨日は天気も良かったし、
 こんな動画を撮ってきた。
 70分を約2分に纏めてあるので、ご覧になってみてください。
 動画をご覧になってもお解りだと思うが、
 公園が広いので、なかなか人に会わない。
    こんな環境だからだと思うが、マスクを付けている人が少ない。
 勿論、マスクをしている方もいるのだが、
 毎朝、どちらが多いか数えているのだが、
 特に朝早いうちは『マスクをしていない』人が圧倒的である。
 ジョッギングしている人たちは勿論だが、
 散歩されてる方も『ノー・マスク』なのである。
 階段でお会いしたご夫婦も『ノーマスク』だった。
 
★ 私も『マスクをしていない』ので、それなりに気にはなるので、
 毎朝、どちらが多いのか、数えているのである。
 朝8時台は、圧倒的に『ノーマスク』で
 9時半を過ぎる頃からは『50;50』になるような傾向である。
 昨日は8時半からのジョッギングだったのだが、
 『マスクをされてる方』は殆ど見かけなかったのである。
 こんな恵まれた環境だから、こうなるのだと思うが、
 「コロナ禍」早く何とかなって欲しい。
 4月中旬には、高齢者はワクチン接種が可能かも知れないので、
 もう1ヶ月は頑張りたい。
 『ワクチンを接種』したら、『ジム・トレーニング』を再開したいと思っているのだが、
 いつになったら『再開できる』だろう。
2021年3月23日

中学・高校・大学 私の学生時代  その5 自分史

投稿者 : rfuruya

★ 高校3年生の年の1月2日に突然父が亡くなって、

 『その治療費も要らなくなるので』伯父が『大学に行け』というのである。
 当時は健康保険などない時代で、父の打っていたマイシンの注射は非常に高価で、それも当時は殆ど手に入らなかった貴重品だったのだが、
 父の知人に明石の医者が多かったので、そんな医院から明石に入ったマイシンの殆どを手に入れていたのである。
その値段は、1本1000円と今の金に直したら10万円もするそんな金が要った時代なのである。
その費用を伯父は明石上ノ丸の土地を売って工面してくれていたである。
当時の土地は1坪2000円ぐらいだったと思う。
 それまでは父が寝ていたので、就職をしようと思っていて、
 高校3年時代も全然受験勉強らしきものはやっていなかったのである。
 それが1月になって『突然大学へ』などと言われて、
 兎に角、受験科目が少なかった神戸商大を受けることにしたのである。
 英語・数学・国語・地理の4科目だった。
 その年の神戸商大は歴史的に見ても最大の競争倍率で『16.5倍』もあったので、
 通る訳がないと思っていたのだが、何とか通ったのである。
 英語・国語はそこそこ、数学は何とか答えは合っていた。
 地理は白紙に世界地図を画いて、ジブラルタル海峡子午線を入れる問題で、
 私は地図は好きなのでラッキーだった。
 しかも子午線というのは生まれ故郷の明石を通っているのである。
 それでも『なぜ通ったのか?』自分でも不思議で入学後に野球部長の教授に聞いてみたら、
 『君は県会議長が頼みに来た』と仰るのである。
 これは伯父が手を回したに違いないのだが、『県会議長が頼むと通るのですか?』とさらに聞いたら、
 『当落線上はいっぱいいるからな』と解ったような解らぬ答えだったのである。
★ そんなことで入った神戸商大だったのだが、大学時代は殆ど教室にも入らず、野球一筋になってしまったのは、
 新入生の歓迎会で、先輩がなぜこんなことを言ったのか解らぬが、
この大学に入ったら勉学に勤めること、幾ら運動部など強くてもダと言ったのと、
 当時は就職難の時代で、学生は『一つでも多くの優を取る』ことに集中していた風潮に反発したのだと思う。
 そんなこともあって、学校には行ったが『食堂とグランド』だけで教室には殆ど入らなかったのである。
 それでも単位を取ることは試験さえ受ければ何とかなって、
 『』ばかりだったが単位は早く取ってしまっていたのである。
 野球部の私と同じような連中と『二桁モスキート』と『可』が二桁あることを楽しんでいたのである。
 『モスキート = mosquito = 蚊 = 可 なのである。
★ そんな大学時代だったのだが、神戸商大には大いに愛着もあるし、
 食堂のおばちゃんとも仲が良かったし、
 そこに『たむろしていた運動部の連中』も懐かしいのである。
 こんな学舎だった。
 
 今は大学名も兵庫県立大学と変わり新しい場所に移っているのだが、
 当時はこんな立地で星陵高校の直ぐ上だったので、
 
 今は高速道路になっている、この辺りだったのだと思う。
 今でも『商大筋』という道の名前だけは残っている。
★ 大学時代、私は引き揚げ者で母子家庭ということで授業料免除で且つ奨学金を頂いていたので、
 こういうとおかしいが『結構裕福』で『給料を貰って大学に通っていた
 ようなところがあったのである。
 2回生の秋に『肺浸潤』になってしまったが、その後も野球は続けていたのだが、
 ただ『ひょっとしたら早く死ぬかも?』と思って、
 この年から『日記』を書き出したりしているのである。
★ 大学3回生の時に、ずっと世話になっていた伯父(古谷脩一)が亡くなってしまって、
その葬儀のあと、当時の川崎航空機の社長だった砂野仁さんに会社に呼ばれて、
若し就職で他がダメだってもその時はうちにいらっしゃい』と言って頂いたので就職は川崎航空機と決めていたのである。
ところが、卒業年次の昭和31年がなぜか大変な年で、就職も大変で、
砂野さんから『今年は採る人数が少ないし、1年大学の卒業を伸ば』と仰るのである。
単位は取れていたので、卒論だけ提出せずに1年延ばすことにしたのだが、
ゼミの先生だった野球部長から『野球部の監督を』という依頼があって、
5回生の時は野球部の監督をやっていたのである。
ただ、この1年は授業など一切受けないのに、
授業料免除も奨学金もなくなって、ちょっと大変だったのである。
★ 私自身の88年の人生は、『何になりたい』と思ったりしたこともなく、『自分の進路』を自分で決めたことも一切なくて、
 周囲の人たちの勧めるままに動いた結果なのである。
 そんな『人が薦めてくれた』の上を歩いてきただけなのだが、
 そんな中でも『自分がやりたいこと』だけは常に明確に持っていて、
 それに集中した人生だったなと思っている。
 大学時代はそれが『野球』だっただけのことである。
 それと人を信じて生きてきた。
 川崎航空機の社長の砂野さんが『面倒を見る』と仰ったので任していたら
 『今年はダメだから卒業を1年延ばせ』と仰るのである。
 ホントに1年延ばしたら大丈夫かどうかは解らないのだが、
 100%信じて、その年の就職活動など一切やっていないのである。
 『信じる者は儲かる』とホントに性善説で生きてきた。
 そして野球部長に頼まれての『野球部監督』を務めたりしたのだが、
 その大学時代の野球部関連については次回に書くことにしたい。
2021年3月21日

中学・高校・大学 私の学生時代  その4

投稿者 : rfuruya
 
★ 明石高校の3年間は『野球部=100%』と言ってもいい。
当時はまだ『名門明石』と言われていた。
 これは中京-明石の甲子園での25回戦から来るのだと思うが、
 その25回戦を戦った先輩たち横内・峯本・加藤さんなど、
 練習にも試合にも来られて、厳しく指導されたのである。
特に夏の大会前は殆どが明石公園球場での練習だったのだが、これは大変だった。
1年生の補欠時代は、練習が終わって家に戻るのが夜の11時近くになったりしたのである。
この時期、1948年から51年まで3年間は日本でも『サマータイム制』が実施されていたのである。
暗くなってノックが出来なくなるのが8時過ぎ、
それからベースランニングなどあって練習が終わるのが9時過ぎ、
1年生はそれからグランド整備などして球場をでるのが10時近くになっていたので、
それから家に戻ると、ホントに11時になったりしたのである。
そんな厳しい練習の毎日ではあったが
昭和25年(1950)の夏には兵庫県で優勝し甲子園出場を果たしているのである。
  
 当時は組合せが決勝戦まで決まっていて、
 スポーツ新聞などには優勝は『瑞陵・小倉・明石か』などと
 優勝候補の一画に上げられたりしたのだが、
  
 1回戦で初出場の鳴門高に4-2で敗れてしまうのである。
  
★こんな夏の大会に出たのも『いい想い出』なのである。
当時の明石が強かったのはピッチャーがよかったからである。
前回もアップしたが同期の溝畑圭一郎はそんなに大きくもないのだが、
兎に角『野球は上手かった
彼が投げるとホントに2点以上は取られたりしないのである。
野球は』と敢えて書いているのは『ゴルフ』など全くダメなのである。
卒業後は神戸製鋼に入って都市対抗には常に常連で出場していた。
兵庫県のどこが勝っても、『補強選手』で選ばれるものだから、
毎年出場していたように思う。
   
 そんな明石高校の野球部だったが、
 今も甲子園春の選抜をやっているが、昨今の高校野球に比べると
 守備は兎も角、打撃のレベルが全然違うように思う。
 当時の高校球児で甲子園でホームランを打つ選手など見たこともなかったのである。
 甲子園はプロ野球の選手でも広すぎて『ラッキーゾーン』が作られていたし、
 明石球場にもラッキーゾーンはあったのだが、練習でもホームランは見られなかった。
 私はショートだったのだが、これが3年当時の明石の内野陣である。
 飛び抜けて『上手い選手』もいなかったが、
 明石の内野は堅実ということで定評があった。
 当時は、練習試合数なども今のように多くはなかったが、
 私自身は高校時代『エラーをした』という記憶がない。
 『エラー』をしなかった記録などもないのだが、少なくとも覚えていない。
 チームとしても殆ど『エラー』などしなかったように思うのである。
  
★高校時代の写真と言えば
 野球部に関連するものばかりである。
 特に我々の年次は、旧制中学の最後の年次だったので、
 下級生が入ってこずに中学の3年間と高校の1年の4年間を『最下級生』で過ごしたので、
 2年生になって初めて後輩が出来るのだが、
 そんな下級生を本当に歓迎し可愛がったところがある。
 最近よくある部内でのいじめや暴力事件など考えられもしなかった。
 野球部の同期の連中たちである。
 この人たち、社会に出てからもずっとお付き合いがあった。
 小学校・中学校或は大学の同窓生は同窓会で会うぐらいだが、
 明石の野球部の連中とは社会人になってからもずっと付き合いがあったのだが、
 それは明石の野球部時代がよかったからだと思う。
 みんな勉強はそんなにしなかったのに、
 社会に出てからは成功者になっているのは不思議である。
★そんな明石高校は兵庫県の自動車試験場の直ぐ近くなので、
 免許更新の時などに覗いてみたりするのだが、
 校舎などは新しく建て替えられている。
  学内には『甲子園の足跡』なども残されていて
 名門と言われた戦前が多いのだが
 昭和23年の春(1948)
 昭和25年の夏(1950)と戦後も2回続いていている。
 
 昔のグランドもそのまま残っていて懐かしい。
 
★なぜ、夏の大会前の練習が明石球場だったかというと、
内野が今のように黒土で整備されていなくて、小石がいっぱいだったからで、
当時、内野が黒土で整備されているようなところはなかったのである。
明石球場は明石公園内にあってこんないい立地の当時から素晴らしい球場だった。
私が高校大学時代は巨人軍が毎年春のキャンプを張っていた。
川上・千葉・青田・与那嶺・別所などのスター選手がいて広岡が入団したばかりの頃である。
長嶋も王も入団時のキャンプは明石球場だった。
私の高校2年の1950年には国鉄スワローズがスタートとしている。
この年の8月に『金田正一』が高校中退して入団しているのである。
その時の総監督が伯父(母の兄)の楠見幸信なのだが、
伯父楠見幸信宮武・山下・水原など慶応の黄金時代のメンバーで、
1番センターでスター選手だったようである。
当時の全日本にも選ばれアメリカ代表とも戦ったりしている。
卒業後は東鉄でプレーしたのだが、
そのチームメートだった前川八郎さん(後巨人に入った名選手)が当時の兵庫県工の監督をされていて、
明石球場で練習試合をした時、『私のショートの守備』を褒めて頂いたりして、非常に嬉しかったのを覚えている。
★ こんな野球一筋の高校時代であった。
 ようやく修学旅行も復活した時期なのだが、
 野球部はその間、島根・鳥取・山口と野球遠征をしたので、
 私は修学旅行の経験はなく学生生活を終わっている。
 高校時代の野球以外の想い出としては、
 学校の先生がたがよかったという印象が強い。
 野球部長の塚本先生にもお世話になったし、
 先生がたにも当時の野球部は人気があったように思う。
 いま、明石商業が野球では有名だが、
 当時は明石高校に商業科があって、そこが分かれて独立したのが
 明石商業なのである。
 前述の溝畑や同期で同じく神戸製鋼の野球部に進んだ藤原は二人とも商業科だった。
★ただ、この高校時代は父がずっと病床に臥せていて、家庭環境は苦しかったのだと思う。
 明石の伯父にも世話になったし『楠見幸信』にもいろいろ就職のお世話になったりしていたのだが、
高校3年の卒業直前の1月2日に父がなくなって、私は大学に進むことになったのである。

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