2020 12月

2020年12月10日

そうか、そんな生き方もあったのか?    2

投稿者 : rfuruya

★『そうか、そんな生き方もあったのか?』第2弾です。
 我が家には小西先生が本を送って下さいましたので、
 少しだけですが、読んでみました。
 こんな10人の偉人たちの人生が描かれているのだが、
 私もお名前だけはよく知っている偉人たちの人生は、
 結構な波があって大変だったようである。
 そんな人生の大波・小波を乗り切ったからこそ、
 世に名を遺す偉人となられたのだろうかなと思ったりしている。
★ 先日、この本のご紹介をしたのだが、
 Facebook で毎日のように出会っている『青木隆』さんからメッセージを頂いた。
   
Amazonで、注文しました。 はい、糧にしたいと思います。
古谷さんの人生も、十分楽しそうで、本の題目と似てると思っています。
 寒くなりました、公園の散策もいいですが、お身体ご自愛ください。』
 早速このような反響があることは嬉しい。
★ 小西一彦先生はFacebook に
  早速、こんな『仲俊二郎読書友の会』を立ち上げられている。
  その仕組みがよく解ってはいないのだが、
  私のFacebook のトモダチを招待したら、
  早速、20人ぐらいの方が参加されている。
 
 今週の新メンバーとあるのは、既に参加された方だし、
 招待済みの方が84人もいらっしゃる。
 ただ、つい先ほどまではこんな表示が出て、
 『現在友達を招待することが出来ません』などと言う表示が出てたのだが、
 もう今は解除されたのだろうか?
 ネットのシステムは、どうもこの辺りがよく解らないのである。
★ 『松田真弥』さんなどはこんな表示が現れるし、
こんな画面が現れる方もおられる。
  
 これらの方は、間違いなく私がご招待したのだが、
 この『仲俊二郎読書友の会』には招待なしに独自で加入は出来ないのだろうか?
 スタートしたばかりで、その辺のところがよく解ってはいないのだが、
 よく解ってはいないのだが、
 著者の『仲俊二郎』さんは
 かって川崎重工業にお勤めだったようだし、
 最初の勤務は私の一番下の妹と同じ職場だったようなので、
 そんなご縁もあって、私も応援したいなと思っている。
 70歳になってから『若い頃からの夢だ った作家へ転身された』のは
 これは大変なことである。
 それ以降、既に10冊を世に出しておられるのである。
 このプロジェクトは、そんなに急いでみても仕方がないので、
 じっくりと腰を据えて、そのご紹介を続けていきたいなと思っている。
 『青木隆』さんのように実際に本をご購入された方は、
 その読書の感想なども頂けたら幸いだなと思っている。
 本のテーマは
 『そうか、そんな生き方もあったのか?』という
 どなたにも関係のある『人の生き方』がテーマなので、
 是非、皆様も関心を持って頂きたいなと思っている。
2020年12月9日

定年後の生活が始まった    自分

投稿者 : rfuruya
★ 昭和32年(1957)4月川崎航空機に入社して始まった現役時代は、
 1999年5月末で北海道川重建機社長を退任することで幕を閉じた。
 42年間の現役生活は、オモシロかったと言っていい。
 それは一般のサラリーマンが経験するようなものではなくて、
 入社して退社するまで、『上司の指示』など全くなかったと言っていい。
 新入社員の時から一貫して『自分のやりたい』ようにやれたのがよかった。
 会社が再開したばかりで、新しく整備されていなかったこともあったし、
 上司が経験したことのない『IBMでの償却計算』などに取り組んだのが幸いしたのである。
★ そんな現役時代が終わって、
  定年から6年間は、このように纏められている。
  年齢でいえば67歳から73歳までだが、
  74歳以降の活動に比べたら、
  世間一般の定年後の生活に近いモノだっと言っていいだろう。
 
★札幌からの帰りは、飛行機ではなくて札幌から大阪まで
 『人気の22時間の汽車の旅』で戻ってきている。
 その少し前にはこれも家内と一緒に北海道全土を車で一周するなど、
 なかなかいい時間が過ごせたのである。
 5月から始まった定年生活は、
 『庭の手入れ』から始まったと言っていい。
 札幌に行っていた2年間庭はほったらかしにしていたので、
 その剪定が大変だったのである。
 そしてその翌年からは『薔薇の栽培』をスタートしている。
 当時はまだ『コロ・ラブ』という2匹の犬がいたので、
 毎朝夕、犬の散歩は日課だった。
 札幌行っていた2年間、面倒を見てやれなかったので、
 この時期は大いに『犬の時間』が多かったように思う。
    
★翌2001年7月、パソコン購入とあるが、
 別に自分で買った訳ではなくて、娘婿の門野匡秀に買わされたのである。
 日記に
 『門野くんがノーリツの車内販売の残りのパソコンを持って専門家と一緒に来てくれる。
 18万円の買い物である。
 インターネットもメールも出来るように午前中掛ってセットしてくれたが、
 果たして使えるようになるだろうか?…』
 などと書いていて、私のネット生活がスタートしているのである。
★ 2002年は特に何も書いていないが、日記を見ても特に何もない。
 薔薇に一生懸命である。
 まだ膝や腰が痛くて整形外科に通っている。
 ストレッチや水泳などやりかけたので年末には何とかよくなっている。
 永年のサラリーマン生活で運動不足だったので、体調だけでいうと今の方が
 よほど元気である。
 ストレッチに関して言えば、以来ずっと続いていて、
 これが私の体調を支えてくれていると言ってもいい。
 『筋肉は何歳になっても付く』と言った医師の言葉はホントだった。
★ 2002年5月に廣野ゴルフ倶楽部の理事長宛に『手紙』を出している。
 廣野ゴルフ場は、神戸・三木線の道路と長く接しているのだが、
 その部分が雑草が生え放題で汚いのである。
 いつもそこを通って通勤していたので
 ずっと何年間も気になっていたのだが、現役時代は言えなかったのである。
 この年、70歳にもなったので
 『道路に面した部分は社会と繋がっているのだから・・』
 と思い切って書いてみたら、
 丁重なご返事を頂いて、それ以降本当に綺麗になったのである。
 昨今はネットで毎日のように自分の想いを書いたりしているが、
 この手紙が私にとっては『社会に物申した』最初のものだったのである。
 丁重なご返事も頂いたし『様変わり』したので、
 それが自信に繋がったと言っていいだろう。
★2004年にはデジカメを買っている。
 生涯で、初めてカメラを持ったのである。
 これもパソコンを持ったお蔭で、写真でも撮ろうかと
 最初に撮ったのが上記の『トム・ラブの写真』なのである。
 今も続いている『Z1会への入会』もしている。
 今はアメリカに移住してしまった娘一家が、
 ノーリツの転勤でアメリカに渡ったのがこの年の7月、
 もう15年にもなるのである。 孫たちも大きくなるはずである。
★ 2005年は特に何も書いていないが、確かに何もない。
 日記をめくってみても、確かに何もない。
 ただ、ゴルフは42~45で回っているし、
 パンダ碁も初段で打っているので、これは今よりもずっといい。
 体重も75kg前後で保てている。
 なぜかな?と思うが『気持ちの持ち方』かなと、思ったりしている。
 パソコンでブログをやりかけたのは、
 翌年2006年9月からで、それからは生活が一変した。
 今思うとこの数年間が
 人生で『一番落ち着いていた時期』だったのかも知れない。
2020年12月8日

三木の旧いまちを歩いてきた

投稿者 : rfuruya
★ 昨日は三木の旧い街を久しぶりに歩いてみた。
 三木の旧市内は左上あたりで、
 その右手に拡がる広大な新興住宅街は、
 かっては高台というか山だったのである。
  
 ジムは三木山総合公園にあるのだが、
 この辺りもかっては山だった。
 そのすぐ下に三木市役所はある。
 
 結構、立派な市役所の建物である。
 この市役所は、かっての三木城よりは高いところに位置している。
 お城は高いところに建っているのが常識だが、
 最近の開拓技術のお陰でさらに高いところに市役所がある。
 昔のお城みたいだなと思ったりする。
 
 その駐車場に車を止めて、旧市内を歩いてきたのだが、
 多分、三木市役所の駐車場は日本で一番広いのではないかと思う。
 これが上の駐車場で、下の方にももう一つある。
 左手の建物は図書館。
 
 こんな桜並木の坂道を下った左手に、
 大宮八幡宮がある。
 お祭りの時は人や神輿で埋まるのだが、ひとは1人もいなかった。
  町からは、こんな急な階段を上がったところにある。
 お祭りの時は、神輿を担いでこの階段を駆け上がるのである。
 
  これは『三木城址』から三木の街を眺めたところだが、
 美嚢川をはさんで旧市内は広がっている。
 これが美嚢川。
 美嚢川の橋の上から眺めると、
 左の山あたりが『三木城址』、
 右の高い山の上に建っているのが、『三市役所』なのである。
 神戸電鉄の三木駅は先日火事で焼けてしまって、今は駅舎はない。
 近代的な駅になると言うので、どうなってるのかと思ったが、
 まだ、手は付けられていなかった。
 三木はかっては『城下町』である。
 城下町特有の曲がりくねった小さな道が続いている。
 これが昔々の道である。
 
 かっての繁華街『なめら商店街』は今はこんな状況で人はいない。
 でも、ここの主たちはお金持ちである。
 ここはこんな状態だが、新しい立地に新しい店など構えている方も多いようだ。
 この商店街ら右に階段を上ったところに『稲荷神社』がある。
 
 この階段を上ってきたが、95段あった。
 
 三木はホントに旧い歴史のある町で
 神社やお寺は幾つあるのか解らない。
 神社やお寺『だらけ』なのである。
 三木金物神社も『三木城』の直ぐ横にあった。
 
 ここが『三木城址』 お城は残っていない。
 別所長治公のこんな像が建っていた。
 『三木城址』からパノラマで撮るとこんな感じである。
★ 『三木城址』から少し上ると『三木市役所』に出る。
  さらに少し上ったところに
  三木山総合公園も、三木山森林公園もある。
  さらにそのずっと東側はかっては広大な山だったのだが、
  今は新興住宅で三木市の人口の半分以上がそこに住んでいる。
  私もその一人なのである。
       調べてみたら、
  三木の旧市内の標高は、20~40メートル
  三木城址や三木山あたりが114メートルなのに、
  廣野ゴルフ場150メートル
  わが町『緑が丘』はいろいろあるが120~140メートルと結構高い立地なのである。
  廣野ゴルフ場の南側は神戸市だが、
  ここは『廣野』という名のごとく『廣い広大な野原』が広がっている、
  ちょっと珍しい地形なのである。
2020年12月7日

そうか、そんな生き方もあったのか!     1

投稿者 : rfuruya

★『そうか、そんな生き方もあったのか!
 仲 俊二郎著 の本の題名である。
 同じ題名で、多分このブログも何回か続くと思われるので
 『そうか、そんな生き方もあったのか 1』とした。
 久しぶりに私が取り組む『プロジェクト』になるのかも知れない。
   
 本の帯には、
 兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生
 『人生には迷いもあり、悩みもある。
  しかし10人の偉人たちは、運命に敢然と立ち向かい生き抜いた。
  若者から年配の方まで、明日を生きるためにお薦めしたい一冊。
 と書かれている。
★ その小西一彦先生から、長いメールを頂いたのである。
 大要は次のようなものだった。
『さて、久しぶりにメールを送らせて頂きましたのは、 実は、大学時代からの親友の仲元俊二君からの依頼で、 古谷様へたってのお願いです。
仲元君は、大阪市立大学を卒業した後、 川崎重工業に就職し、その最初の配属先が、 健康保険組合でした。
その彼が、その後、フランスに出張して、 世紀の大事業と言われるドーバー海峡のトンネル 掘削工事を受注し見事に成功させました。その実績が 買われてか、外資系のケミカル会社の取締役にヘッド ハンティングされ、そこを退職後、若い頃からの夢だ った作家へ転身することに成功しました。
これまで、10冊の本を書いていますが、いずれも素晴 らしい作品です。最近刊は『そうか!そんな生き方も あったのか!』(栄光出版社)という本ですが、今年 の夏前に、いつものように、まず、私に原稿を送って きて読みました。一読して、今回も素晴らしいと直感 し、早々の発売を心待ちにしていました。
ところが、その後、いくつかの出版社にあたったが、 どこも引き受けてくれない、電子書籍の影響で、昨今 の出版業界の経営悪化に加えて、今回のコロナの影響 が加わり、大衆受けするかしないかわからないような 本の出版はどの企業も手を出したくなくなったのでし ょう。
せっかく苦労して書いた作品もそんなことで日の目が 見られないのはまことに残念なことであるので、私も 販売に協力するから、もう一度、出版社と交渉して、 出してもらうようにしてはどうかと、肩を押したとこ ろ、彼と私の販売協力を条件に、一社(栄光出版社) が引き受けてくれることになりました。
コロナ禍の中でではありましたが、さる11月12日に、 添付のような「仲俊二郎出版記念祝賀会」を開催し、 参加者及び参加できないが販売には協力するという人 たちから、100冊近くを買って頂くことが出来ました。
しかし、初版本の販売目標は最低1000部だそうで、 もうひと頑張りしなければなりません。そこで、 最近の研究会で知りえた情報を参考に、この後は、 インターネット経路もフル活用して宣伝して売って いく必要があるのではないかと考え、その方向での 販売協力を彼に提案しました。
古谷様は、既に、何十万というフォロアーを持つ、 ブロガーなので、、何か情報を お持ちのはずで、良いアドバイスは頂戴できるので はないかと考え、メールを出させて頂いた次第です。』
仲元俊二さんが川崎重工で最初に務められた健康保険組合では、
私の一番下の妹と同じ係で一緒に仕事をしていたというのである。
それも何かのご縁である。
要は『電子書籍』などの影響で本の販売がムツカシクなっている昨今、
ネットでの販売促進』をやりたいので手伝って欲しいということなのである。
★その依頼主が兵庫県立大学名誉教授の小西一彦先生というのである。
 兵庫県立大学はかっての神戸商大で私の母校ではあるのだが、
 大学時代は野球一筋で殆ど授業にも出ずに、
 は体育実技・体育理論という運動部員は優、中国語の1,2というこれも試験を受ければ優、それに野球部の部長だったゼミの先生のたった5つだけで、当然優が取れる科目のみなのである。
 そんなことで 大学の先生など殆ど無縁の存在だったのだが、
 その大学の先生からのご依頼なのである。
 『人生いろいろと変わるものである
 私は現役時代もずっと、人から頼まれた仕事をやってきたことが多かった。
 『他人からの頼まれごと』は『私への期待』なのだから、
 頼まれた方が満足するような成果が出ないと失敗なのである。
 幸いにして殆どの『頼まれごと』は120%の成果を得たと自負している。
そうか、そんな生き方もあったのか!』を
 1000部売ることが目である。
 これはなかなかムツカシそうだが、目標としてはオモシロい。
 どんな結果になるのかはよく解らぬが、
 私なりに、独自のやり方で『その広報展開』を進めてみたい
★ こんなメンバーが応援されているようである。
  その中には『松本茂樹先生』のお顔もある。
 著者の名前は『仲俊二郎』となっているが、
 本名は『仲元俊二』さんのようである。
 まずは、その一報なのである。
 ご興味のある方は、是非ご一読下さい。
 『そうか、そんな生き方もあったのか! 
 人の生き方はいろいろあるのでしょうが、
 『頼まれごと』はちゃんとやるのは『私の生き方』なのである。
 そんなことで『私の生き方、考え方&意見』というカテゴリーで纏めてみたいと思っている。
2020年12月6日

旧いカワサキの創生期の写真から  2

投稿者 : rfuruya

★ この写真に写っている方、私にとってはいろんな思い出いっぱいの方たちである。
 まずは最後尾の列の中央の大柄な方が、営業部で青野が原のレースを支援された『小野助治さん』である。
新しく出来た単車営業を担当されて、私をその営業に引っ張られたのも小野さんだし、
私の仲人をして頂いたのも『小野助治さん』である。
当時の営業部には『苧野豊秋さん』と二人の次長がおられて、
小さい小野さん』『いもの苧野さん』などと言っていたのである。
その苧野さんは写真前列右から2番目である。
苧野豊秋さんも明石高校の先輩で、
その後もご縁があって長く国内を担当されたし、
最後の方では国内のジェットスキー販売時に大いに援けて頂いて、
初代のJJSBA会長もされたのである。
青野ヶ原に出場したライダーたちは、みんな社内の人たちだったのだが、
左から3番目が秋原くんである。
私が新しく出来た単車の営業部に移って一番最初に仕事でおつきあいの出来た人である。
カワサキB7、ご存じだろうか?
カワサキが最初に世に出したバイクだが、フレームに欠陥があって
毎日、毎日返品が続いたのである。
当時はまだ125cc以上のバイクには物品税が掛けられていて、
物品税の納入は至極簡単なのだが、
返品した場合の戻入はなかなか大変なのである。
要は、工場を出たままの形でないと、戻入は出来ない。
少しでもメーターが回っていたりすると許可にならなくて、
メーターの巻き戻し』などという中古車屋のようなことを当時はメーカーでもやってたのである。
秋原くんとは、そんな作業で毎日のように会っていたが、
彼がレースのライダーをやれるなど知らなかったのである。
そんな大変だったB7は1年で生産中止になり、
翌年はB8が新発売されて、そのB8で青野ヶ原の優勝が決まったのである。
不思議なことに『カワサキ優勝』・『1位から6位まで独占』と言われるのだが、
1位が誰だったのかはよく解っていないのである。
なぜそれをみんな話題にしなかったのだろう?
この写真には4人のライダーが写っているが、
右側の二人は加藤・飯原くんで
彼らは鈴鹿6時間耐久レースにペアで出場している。
因みにそのレースに神戸木の実から金谷秀夫・歳森康師コンビが出場し、
それが金谷のカワサキでの最初のレースだったのである。
 
★ この写真の髙橋鐵郎さんの右が川合寿一さんである。
 営業部には私の後に入ってきて、青野ヶ原のチームの面倒を見たのだが、
最初のレース担当が川合さんで『ライダー契約』などをやったリ、チーム運営などもやっていた。
当時は全国各地で毎週草レースがあったのだが、
城北ライダースなど強いチームがくるところは避けて出場していたので、
カワサキは連戦連勝だったのである。
私が担当してた広告宣伝課がレースも担当してたので、
その結果は新聞社に広報してたので『カワサキはレースは強い』ということになっていたのである。
 レースのことなど全く知らない私もホントに『強いのだ』と思っていた。
青野ヶ原』の翌年、MFJ 第1回全日本モトクロスが相馬ヶ原で開催されたが、
川合さんが『困った困った』と言うので、
なぜそんなことを言うのかと思ったら、
そこには全国の強豪が集まるので、なかなか勝てないというのである。
結果はホントにその通りで7位が最高の成績だった。
然し、この年の秋のMCFAJ全日本では4種目中3種目に優勝するなど、
カワサキのレース活動の進化は早かったのである。
ところがその年の暮れだったか『歳森・山本のBS仮契』事件が発生して、川合さんが私に『片山義美さんに話をしてくれ』というのである。
そんなことで、レースなど全く解らなかった私が最初に話をしたのは、
歳森・山本の所属した神戸木の実の御大・片山義美さんなのである。
西海義治さんなども出てこられて、この件は何とか無事決着したのだが、
その時の話の流れで、レースを直接担当するようなことになったのである。
今思い出しても、純粋に川合寿一さんはいい人だった。
髙橋鐵郎さんの左隣が多賀井君である。
1976年に、10年間の国内出向から川重企画室に復帰するのだが、
小型車開発プロジェクト』として、
私は東南アジアの市場調査チームを起案すしたのである。
その時の調査団長を務めて頂いたのが髙橋鐵郎さんで、
現地の案内役を務めてくれたのが多賀井君なのである。
この調査団には、技術部から写真の川崎芳夫さんも参加されたし、
製造関係からは安藤佶郎さんが参加されていて副団長を務められた。
因みに、この東南アジア市場調査チームの団長は
当時の塚本事業部長は最初に『大槻幸雄』さんを指名されたのだが、
大槻さんが辞退されたので髙橋鐵郎さんに代わったという経緯なのである。
★この調査団は私にとっても髙橋鐵郎さんにとっても『転機』になったのは間違いない。
調査の結果は『このプロジェクト進めるべし』という結論になって、
市場開発プロジェクト室』が出来て、その室長を髙橋鐵郎さんが技術本部長と兼任されることになるのである。
そして『お前も来い』ということになって、
私も企画室から異動になったのである。
その後、髙橋鐵郎さんは技術本部長から、営業本部長・事業部長となられて、その後ずっとと言ってもいいほど、私とのコンビでの展開が続くのである。
これはずっと後の1990年代、
髙橋さんが川崎重工の副社長におなりになる直前まで、
高橋さんが社長を兼務され、私が専務を務めたのだが、
その最初が『市場開発プロジェクト室』でのコンビだったのである。
    
そういう意味では『青野ヶ原モトクロス』は単なるレースの優勝だけではなくて、
カワサキの二輪事業に大きな転機をもたらした出来事だったと言えるのである。
2020年12月5日

旧いカワサキの創生期の写真から  1

投稿者 : rfuruya

 
★ コロナで閑なものだから、旧い日記などを見たりして時間つぶしをしているのだが、
 こんな写真が出てきた。
 昭和38年(1963)5月、青野ヶ原モトクロスでの1位から6位まで
 カワサキが独占したレースの優勝記念撮影なのである。
  
 このレースに関係したのは製造部と営業部で、
 この写真では神武事業部長を真ん中にまさに記念撮影となっている。
 ただ、このレース出場は正規のレース活動などではなくて、
 製造部の有志のメンバーが出場を決めて、それを営業部の有志が支援したもので、
 市販車B8のレーサーに改造作業も、正規の仕事が終わってから
 サービス残業で創り上げたものなのである。
 優勝など思ってもいなかったはずだが、このような結果になったのは、
 『神様が援けて下さった』のだと思うのである。
★ なぜそんなことを知っているのかと言うと、
 当時私は営業部にいて小野助治次長の下にいたのだが、
 営業部でもこのレースを支援した張本人が小野次長なのである。
    小野さんはこのレース活動に、かって野球部のマネージャーをしていた
 川合寿一さんにチームの面倒を見るように指示し、
 私には『残業料もなしにやっているので、パンでも買う金を出してやれ』との指示があって、
 私は営業の経費の中から幾らかの『パン代』を支援したので知っているのである。
 因みに『川合寿一』さんは私の係で私の下にいた人なのである。
 製造部でこのチームの指揮を採られたのが中村治道さんで、
 その下に髙橋鐵さん、実際にマネージされたのは川崎芳夫さんだと思う。
 上の写真を拡大したものだが、この3人の名前が書かれている。
 髙橋鐵郎さんの右隣りが川合寿一さんなのである。
   
★このレースのホントの仕掛け人は、社内の方ではなくて
 間違いなくこの方兵庫メグロの西海義治社長なのである。
    
    西海さんは元オートレースのプロライダーで、レースにかけては玄人、
 当時の兵庫県のMFJ支部長もされていたのである。
 このレースをやるきっかけは、昭和37年(1962年)11月3、4日の両日、鈴鹿サーキットで第1回全日本選手権ロードレースが開催され、
日本では初の本格的ロードレースだったのだが、
このレースをバスを仕立てて、製造部のメンバーが見学に行ったのである。
この企画を仕組んだのも西海さんで、中村治道さん以下、
レースを観人たちは、『燃え上がって』しまったのである。
青野ヶ原』はそれから半年後なのだが、
当時のカワサキにはレーサーのノウハウなどなかったので、
西海さんは子飼いの『松尾勇』さんをカワサキに送り込んで、
松尾さんが独りで創り上げたものなのである。
★それにしても、レース初出場のカワサキが『1位から6位までを独占』するような快挙は、ライダーも社内の人たちだし、
実力ではなく『雨のお陰』だったと言っていい。
当日のレース場はこの写真のように水溜りだらけで、
他メーカーのマシンはみんな水を被って止まってしまったのだが、
防水対策が完全だったカワサキだけが止まらずに完走した結果なのである。
長いカワサキのレースの中でも1位から6位まで独占はこのレースが最初で最後なのである。
ご存じ、山本隆さんなども当時はまだ他メーカーのマシンで参加してたようだが、
やはり水で止まってしまったようである。
   
何はともあれ、こんな結果が『カワサキの二輪事業』の本格的な再建に繋がったのである。
 中村治道さんについては、あまり語られていないが、
 当時のカワサキの二輪事業の先頭を走った方であることは間違いない。
 年次は髙橋鐵郎さんよりもちょっと上で、
 その後、私が事務局を務めた『レース運営委員会』に於いても
 実質的に『旗を振られた』方なのである。
 明石の出身で明石高校の先輩・後輩にもなるので私は特に面倒を見て頂いたのだが、
 兎に角『あんなに熱心で迫力のある』人はいないと言っていい。
 当時の日曜日にあったレースの結果を、正門の横に張りだせと言う指示を受けたのだが、
 月曜日に来て火曜日の朝に張りだしたら、ご機嫌が悪いのである。
月曜日の朝になぜ張らんのか』と仰るのである。
それは・・・』と言ってたら『では俺がやる』と言われて、
日曜日に家でご自分で書かれて、月曜日の朝早く張り出されたりするものだから、
私がやります』とその後は日曜日に家で書いて、
 朝早く正門の横に張り出すようになったりしたのである。
 当時のカワサキの単車事業部を支えた人たちは、
 不思議なほどユニークな人たちが揃っていたと思う。
 何度もご紹介している写真だが、
 この最前列にお座りの方が単車事業を引っ張ったと言っていい。
 真ん中にお座りの方が『兵庫メグロの西海さん』でその左は元川重山田副社長、右が髙橋鐵郎さん(元川重副社長)。
 山田さんのヨコが『松尾勇』さんである。
 そして右から二人目、大槻幸雄さんと並んでるのが『中村治道』さんなのである。
 2列目は左から岡部・金谷・平井・田崎(元川重社長)古谷・安良岡・和田・山本・清原・大西と錚々たるメンバーが並んでいる。
 最後尾の右端が星野一義で梅津と並んでいる。
 3列目以降の左側は現役諸君だが、宗和・多田などの顔を見えるし
 ごく最近までカワサキのレースを引っ張った安井君などもいる。
  
 今回は主としてレースの話に限定したのだが、これら写真に載ってる方とは
 『レース以外』の実務でもいろいろとお付き合いがあったので
 次回に、そんな旧いカワサキの話を纏めてみたいと思っている。
2020年12月4日

サッカーのへデイング禁止

投稿者 : rfuruya

★ 『世の中どんどん変わるなと思う
 アメリカの子供たちのサッカーで『ヘディングが禁止』だなどとは全然知らなかった。
 孫たちはそのアメリカで子どもの頃からサッカーをしながら育ったのだが、
それはヘディングが禁止になる2016年以前だった。
 記事によると、
『米国では、2005年頃から、脳震盪を繰り返してきた元プロアメリカンフットボール選手たちが、深刻な後遺症に悩まされていることが明らかになった。2010年代には元選手らがNFLを相手取り、補償を求めてきた。』のがスタートで、
『米サッカー協会は、2016年に10歳以下のヘディング禁止は、米サッカー協会のユース代表チームとMLS傘下のユースアカデミーなどで適用され、それ以外の各組織では推奨されるにとどまっていたが、全米各地の多くの協会やリーグもこれに追随し、10歳以下のヘディングを禁止とするところが増えている。』
★サッカー発祥の地英国でも『ヘディング禁止』が広がっているという。
 そんなニュースが流れた。
サッカーの母国が施策を打ち出したことで、日本でもヘディングの安全性の議論が進みそうだという。
「日本でも基準があれば、安心する」
日本の小学生年代のサッカークラブでは、ヘディングの弊害は大した関心事ではないようだとも書かれていた。
★サッカーの試合から『ヘディング』がなくなるということはないようだが、
 大人のサッカーでも『ヘディングの衝撃』は相当なもののようである。
 
そういう意味では大相撲の立ち合いなども『危ないのかな』と思ったりする。
2020年12月3日

三木山森林公園の山の中を歩いてきた

投稿者 : rfuruya
★昨日は水曜日、ジムに行くことにしてる日なのだが、
朝いろいろやってたら9時半過ぎになってしまった。
ジムに行くと『8名の満杯状態なのでお待ちいただけますか?』と仰る。
コロナ対策で『8名以上は入れない』ことになってるので、
ジムは諦めて、隣の三木山森林公園を歩くことにした。
駐車場に車を止めて、青い線のように森の中を歩いたのだが、
このサイズでは歩いたところが全部は入らない。
 ひと廻りサイズを変えてみるとこうなる。
森の中の外周を通って、もみじ谷を下って、
更に南側の一番険しい山の中を歩いてきた。
   Fitbit の記録では
 『10400歩、7,43km、アクテイブタイムが1時間半
 『消費カロリーが 1400cal 』と出たのはびっくりだった。
 これならジムに行くよりは、よほどハードな内容となった。
 どんなところなのか?
 最初の外周の山道の写真はないのだが、
 『もみじ谷』を下るところからは写真も撮ってきたのでご紹介してみよう。
 いつもは登る『もみじ谷』だが、今回は下りである。
 
 何かちょっといつもと感じが違う。
 地面に落ちた種子から小さなもみじがいっぱい生えていた。
 『もみじ谷』はそんな自生のもみじが主なのだが、
 新しくこんな苗木も植えられていた。
表の広場に出て
 小さな流れに沿って歩いた。
 こんな溜まりもあってなかなかいい。
この広場には人影も見えるが、山の中ではたまに人に出会うだけである。
 それからもう一度南の方の山道に入った。
 この道は狭く勾配も厳しい。
 殆ど人も通らない細く険しい道が続く。
 勾配がきついので、上り下りの階段 が続いたりする。
       
    こんなキツイ階段を降りてきたら、写真を撮る手も震えたのか、
 こんなにブレてしまっている。
       
 道路わきにはこんな小さな標識が所々にあって、事務所への電話番号の表示がある。
ホントに足でもくじいて動けなくなったら、
殆ど人も通らないので事故になる可能性もある。
こんな険しい山道が約600メートル続くのである。
このルートは滅多に通らない、多分1年ぶりだと思う。
毎日のようにこの公園に来られている方も、
多分通ったこのない険しい道なのである。
やっとこんな標識があって、普通の周回路に出る。
今までの細い山道は『遊歩道』なのである。
 ここからはこんな一般の周回路になり『ピクニック広場』に通じている。
ここが『ピクニック広場
山の中に突然広場が現れて、花壇などもある。
   
ここまでは遊歩道を通らなくても
普通の広い周回路を通れば200メートルほどの距離なのだが、
 下りもその道を通らずに、
 こんな細い遊歩道を下ってきた。
 流石に、ちょっと疲れて昼寝をしたりしたのだが、
 こんな山道を7キロ歩けるのは、『結構な体力』だと我ながらそう思う。
2020年12月2日

大相撲横綱問題 いろいろややこしい

投稿者 : rfuruya
★ こんな大相撲の横綱問題のニュースが流れていた。
 よく解らないのだが、兎に角『ややこしい』ということだけはよく解る。
 横綱審議会が休場した白鵬・鶴竜に『注意』をしたというのである。
注意』は「引退勧告」に次ぐ横審の決議事項で、結構重いという。
 然し、そもそも「引退勧告」からして強制力はないという。
 旧い話では平成13年秋場所から、貴乃花が7場所連続全休したが、
注意」も、その下の「激励」すら出されなかった。
 8場所連続途中休場や全休を繰り返した稀勢の里は「激励」止まりだったというのになぜ『注意』なのか?
 というのである。
横綱は休場だったが、前回の場所はさらに2大関も休場だったが結構盛り上がったし、オモシロかった。
ほかの記事で『貴闘力』が解説をしていたが、
 白鵬は8月にひざの手術を受け、復帰を目指しているが、
鶴竜については「もう横綱の力がない。早く辞めたいと思うが日本国籍がないので親方株が取得できない」ので、来年の初場所も「出たら負ける」し「負けたら引退しろと言われる」ので出場したくても出られないと言っていた。
★ 大相撲も人気でオモシロいのだが、
 旧いいろいろの仕来りや伝統文化があって『純粋にスポーツ』とも言い難い。
 相撲協会の外に『審議会』などがあっていろいろ言うから余計にややこしくなる。
 それに元々、日本人以外が参加するなどとは思ってもいなかったのに
今はモンゴル勢や欧州やブラジルからの力士もいる。
 せめて『日本人に帰化』しないといろいろできないというルールぐらいは
はずせばいいのではと思うが、ムツカシイのかな?
 私のような『俄かファン』から言えば、
あまりムツカシイことを言わずに、実情に合った新しいルールづくりの提案でも、『横綱審議会』はすればいいのにと思ってしまう。
2020年12月1日

三木山森林公園のもみじ谷を歩いてきた

投稿者 : rfuruya
★11月末には毎年、『三木山森林公園のもみじ谷』を歩くことにしている。
 三木山森林公園はいま
昭和30年代の里山環境を復元を目指していて、外来種を駆除し、芝生広場をかつての草原に戻す取り組みなどが奏功し、カヤネズミやニホンアカガエルといった多様な生物が定着しだした』という。
そのもみじ谷の紅葉も、自生して大きなった樹々の『自然のもみじ』なのである。
歩いた経路の写真を撮ってきたのでご紹介しよう。
11月末ともなると、もうすっかり葉を落とした樹々もある。
 
 芝生広場の横も、自然の雑草が生えるままになっている。
 かっては錦鯉などいた池も今は自然のまま、こんな水鳥が泳いでいた。
 もみじ谷の入口のもみじはもう半分散ってしまっていて、
 その標識の根本は落ち葉でいっぱいだった。
 入口からずっとこんな上り坂が続く。
 
 登っていくと、紅葉は盛りなのである。
 殆ど人とも出会わない、静かな環境である。
まだこんなに青い葉を残したもみじもあった。
 さらに進むとこんな感じになる。
 自然そのもので、公園という雰囲気でないのがいい。
 さらに奥に進むとさらに自然度は増す。
 何年も経っていて樹は大きい。
 根本には種子から芽生えた小さなもみじがいっぱい生えている。
 奥に進むにつれて、勾配はどんどんきつくなる。
 こんな山の中の細い道を上っていく。
ここを登りきると、もみじ谷も終わりになる。
勾配は急だが、もう一息である。
 ここから下った方が楽なのだが
 なぜかいつも下からの上り道を通ている。
 
 そしてこんな下り坂の道を降り切ると駐車場に出る。
 やっと、人に出会えた。
 歩いた距離約3キロ、30分の行程である。
★ ちょうど1ヶ月前、10月27日の三木山森林公園である。
  表の池の周りも、
   
 もみじ谷の入口も、まだ紅葉は始まっていない。
 青々としたもみじである。
 
 もみじ谷を登り切った、上の芝生広場の並木道が紅葉の始まりだった。
 
 1ヶ月の月日で、こうも変わるものである。
    毎年来ているが、今年が一番よかったような気がする。
 三木山森林公園、大好きな公園である。

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