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2023年10月13日

カワサキ単車の昔話  24     大庭浩本部長

投稿者 : rfuruya

2023-10-06 06:18:28 | カワサキ単車の昔話

★ カワサキが二輪事業をスタートさせた時から現役引退の時まで

 カワサキの二輪事業とともに歩いた人生だったと言っていい。

 

 そんなカワサキの二輪事業にも事業撤退をしなければならないと

 その当時のTOPが思ったほどの危機的な時代があったのである。

 当時の川崎重工の副社長山田熙明さんから

 1982年7月1日の朝、突然自宅に電話があって

 『本社に来るように』という指示なのである。

 何事かと思ったら、当時毎年100億円もの赤字が続いていた

 アメリカのKMCの赤字が止まると思うか?

 というのがご質問なのである。

 『そんなのは直ぐ止まります』と答えたら

 『それならお前が企画に戻ってやれ』ということになったのである。

 これが、そのあと直ぐ頂いた山田熙明さんからの手紙

 9月1日付で企画に戻すから、それまでは他言せぬようにと

 書かれている。

  

  

★ そんなことで私は10月1日から事業本部の企画に戻ることになったのだが、

 山田さんにお願いした条件が一つあって、

 「高橋鐵郎さんをアメリカの社長から戻して欲しい

 とお願いしたのである。

 世界の販社の販売計画や黒字化は、

 本部で全体を考えたバランスの取れた計画を組めば、即達成されるのは間違いないのだが、

 そんな指示を世界の全軍に指揮するには新米部長の私には荷が重くて、 

 高橋鐵郎さんのお力をお借りしたかったのである。

 この時期の単車事業部の赤字は川崎重工にとっても大問題で、

 『単車再建』は当時の川重の第一優先課題だったのでもある。

 そんなことで翌年春ごろからは『再建屋』と言われていた大庭浩常務を本部長に送り込むと言われたりしていた。

 それが7月1日に実現するのだが、

 大庭さんにとっても初めての経験だから、若し大庭さんが最初からおやりになるとすると大変だったと思うのだが、

 幸いにして大庭さんが来られた7月1日には既に新事業計画も完成していて、それに従って順調に推移していた時期なのである。

★ 人には『ツキ』があると思うが

 大庭浩さんはそんないい「ツキや運」を持っておられたと思う。

 現在の神戸にある立派な川重本社は大庭浩社長の時に建てられたもので、ちょうどそんな時期の社長だったし、

 1996年の川崎重工創立100周年時の社長で、

 その年の10月14日には英国のサッチャー元首相の記念講演会が実施されるのだが、

  

 サッチャー首相との結び付は、大庭さんが単車事業本部長時代に

 ヨーロッパ出張時に始まっているのである。

 

       

大庭浩さんは、川重の中でも『怖い・うるさい』などのイメージが強いのだが、

 単車のメンバーはみんな上に強くて、

 大庭さんに対しても自らの意見をはっきりという人ばかりなのである。

そんな単車事業部の雰囲気を大庭さんは大いに気に入って頂いて、

私の進言など一番聞いて頂いたのは『大庭浩』さんで、

私にとっては信頼して頂いた最高の上司だったのである。

大庭さんの単車事業本部長はそんなに長くはなかったが

結果的には『単車再建』を達成されて、川重副社長で本社に戻られたのである。

 それまでの川重の中における単車事業は造船などの受注産業の中での異色の事業だったのだが、

 大庭さんの社長時代に川重の中でも中枢の事業本部に位置付けられるようになったのである。

 そんな大庭さんの社長時代に川重の全役員を集めた席上で、

 『単車事業についての説明』を私にするように依頼があり、1時間ほどお話したのだが、

 非常に好評で『よく解かった』と多数の方からお褒めを頂いたのである。

★そんな大庭浩さんの単車本部長時代に大庭さんの番頭役を務めたのが私で、

絶大の信頼を頂いて特に目を掛けて頂いたのである。

 

 私の最後の職務は国内販社の担当だったが、

 それは大庭さんが打ち上げられた国内7万台販売というとてつもない目標達成なのである。

 ZEPHYRという商品にも恵まれて、

 高橋鐵郎さんとのコンビで、

 7万台目標が達成されたことは大満足なのである。

  

 

 

 この記録は多分今後も破られることはないのだろう。

★ところで、私の川崎重工での最後の職位は『技監』なのだが、

 これは文字通り技術屋さんの博士号などを取られた方や

 国からの来られる技術屋さんなどに与えられる取締役待遇の職位なのである。

 その『技監』という職位を事務屋ではじめて頂いたのが私で、 

 それは大庭浩社長自らのご指名だったのである。

 大庭さんは技術屋さんで何事もその根拠が必要なのだが、

 『お前はマーケッテング分野では博士号に値する』と言って頂いての『技監』だったので、大満足しているのである。

 

 大庭さんに一番づけづけとモノを言ったのは間違いなく私だと思う。

 そんな大好きな大庭浩さんだったのだが、早く逝ってしまわれたのである。

 

霧の中を歩いてきた

投稿者 : rfuruya

2023-10-05 06:00:00 | 発想$感想

★今朝はちょっと早く5時半ごろに公園に着いたのだが、

 まだ陽は上がっていなかったが、こんな感じで雲が出ていた。

 雲かなと思ったのだが、

 雲ではなくて霧だったようである。

 すぐ手前は霧などなかったので、こんな写真が撮れたのである。

 

 

 歩き始めた時は霧はなかったのだが、

 直ぐに周囲に霧が立ち込め始めた。

 

  本当に急にこうなったのだが、

 全く周囲が見えないような深い霧になった。

 こんな経験は初めてである。

 ごく近くは見えるのだが、橋の向こうは全く見えない深い霧である。

 やっと太陽が一瞬見えたのだが、

 

 またこんな感じになってしまった。

  約1時間半のスロージョッギングだったが、

  戻って来て最初の写真と同じ位置なのだが、

  霧で綺麗に見えていた丹青山全くその姿が見えないのである。

 

 こんな初めての経験の霧の中の朝だった。

2023年10月8日

私とゴルフ

投稿者 : rfuruya

2023-10-03 04:30:49 | スポーツ

★ 今年はゴルフをやらずに終わりそうである。

  何となく『やる気にならない』のだが、こんなことは珍しい。

  昨日もわざわざゴルフのお誘いを受けたのだが、お断りをしたのである。

  何でもやりかけっると熱心なのだが、

  何故か、昨今はゴルフをやる気にならないのである。

  90歳にもなったから『エイジシュート』など簡単にできなくてはいけないと、

  気持ちの上では思うのだが、この1,2年のゴルフはそんなスコアにはど遠いのである。

★ ゴルフをやりだしたのは、40歳を過ぎてからなのだが、

  結構、一生懸命練習したので、

  ゴルフをはじめて2年ほどで ハンデー10になったのだが、

  シングルにはなれたと思うが、片手シングルは難しいと思ったので、

  それからは月例などには出ずに、遊びのゴルフに徹していた

  現役の最後の2年間は札幌にいたのだが、

  北海道のゴルフはシーズンが短いので、みんな熱心だし

  何よりも回数が多いのである。

  その頃の記録をブログにアップしているが、このように書いている。

  「北海道時代はホントによくゴルフをやっている。

  そのほとんどがウイークデーなのである。
  北海道のゴルフはアウト・インを連続して回るので

  朝はゴルフ、午後からは会社というそんなゴルフなのである。
  例えばその年の9月などゴルフ漬けなのだが
  5日   38・40   78
  8日   41・42   83
  12日  42・39   81
  14日  42・37   79
  18日  43・38   81
  21日  44・41   85
  25日  39・43   82

  こんな調子でやっていて、30台も結構出ているのである。

  一番悪いスコアで85で、70台も2度出ている。

  これが67歳ぐらいの時のスコアなのだが、

  昨今は80台は全くでないし、90台も難しかったりするので、

  何となく、ゴルフがオモシロくないのである。

  

★ 練習は全くしなくなったし、ぶっつけ本番ばかりで

  過去にいいスコアが出ていたので、

  100をオーバーしたりすると嫌気がさしてしまうのだが、

  練習もせずに、スコアばかり追っかけてもダメなのは解っているのだが、

  今更、練習する気にもならないのである。

  

  これが現役時代のスイングだが、

  

  結構柔らかく、スムースに振れている。

  いまは、ストレッチをしていて

  この頃よりは間違いなく体は柔らかいのに

  ゴルフのスイングが出来ていないのだと思う。

★ 今年はゴルフをやらなかったが、

  この秋から冬場にかけて運動するつもりで

  ゴルフの練習を再開してみようかなと思ったりしている。

  あまり球数など打たなくても、スイングを主に

  週に3回ほど練習場に行けば、少しはよくなって

  来年は91歳だから、90で廻ればエイジシュートなのである。

  何を馬鹿げたことをと、思われるかも知れぬが、

  ひょっとしたら、ひょっとするかも知れない。

  今年はゴルフはしなかったから、

  来年は最後だと思ってやってみようかと思ったりしている。

  来年、『エイジシュート』が出なかったら

  ほんとにゴルフとお別れしようかなと思う。

 

カワサキ単車の昔話  23  日活映画 と 浜田光夫

投稿者 : rfuruya

2023-09-30 05:08:17 | カワサキ単車の昔話

★ 1965年(昭和40年)単車事業がスタートした頃の話だが、

 世の中はまだ映画が真っ盛りの時代で、

 カワサキの東京の広告宣伝課が日活といろいろと提携し、

 映画の中にカワサキを登場させていたので、

 日活映画の招待券なども沢山手に入っていたのである。

 そんな招待券で明石日活に『風と樹と空と』を観に行ったのは、

 この年の7月12日のことなのだが、

 7月14日にその明石日活に、この映画の主演俳優の浜田光夫舞台挨拶に来るという情報を課の女子社員が言うのである。

 全く突然の話で、何の約束もなかったのだが、

 私は『ダメ元で』と明石日活に出掛けて、

 浜田光夫のマネージャーに『カワサキの工場に見学に来ませんか』と言ったのだが、 

 何の問題もなく『伺います』というのである。

★『風と樹と空と』は、石坂洋次郎の小説で、

 1964年に映画化されたのである。

 その主演は、吉永小百合と浜田光夫の日活純愛路線で、

 多くのファンの支持を集め爆発的人気となっていたのである。

   

 そんな当代の大スターに突然「明石工場に来ませんか」と言ったら、

 びっくりするほど簡単に『伺います』ということになって

 浜田光夫と松原智恵子の二人がやって来たのである。

 そんな突然の話だったが、当時の塚本本部長に対応して頂いて、

 その録音を録ろうとしたのだが、録音器を持ち込むのがほんの少しだが遅れてしまって、既に始まっていたのだが、
 浜田光夫は、全く自然に『最初の挨拶』から『やり直して』くれたりしたのである。
 そんな対応が自然に出来るのは『流石だな』とその時そう思った。

 そんな話の後、『テストコースで単車に乗りませんか?』と言ったら、

乗ります』と言われて、テストコースにご案内したのだが、
浜田光夫が来るらしい』とは、いろんなところに伝わっていたらしく、
 テストコースはちょうど発動機工場の横だったのだが、

 発動機の女工さんたちがラインを離れて、群がって見に来たものだから、

 発動機のラインが止まってしまったのである。

 それくらいの人気スターだったのだが、

 当時の勤労部長に「突然、浜田光夫など連れてきて」と文句を言われたのだが、
 これは発動機の管理体制の問題で、私が文句を言われる筋合いはないと思ったりしたのである。

  

  

 然し、今思うと『よくやったな』と思うし

 浜田光夫も『よく単車に乗った』ものである。

 若し、怪我でもしていたら大変なことだったかも知れぬが、

 何の問題もなく上手くいって、

 浜田光夫もテストコースで単車に乘れて喜んでいたのである。


 どのように『お礼をしたらいいのか?』よく解らなかったが、

 3万円を謝礼に包んでいる。 

 当代のスターにこの金額が妥当だったかどうかはよく解らない。

 3万円か?と思われるかも知れぬが、

 その年の私のボーナスが6万円の時代なのである。

 そのあと、明石日活の劇場の壇上での本番では、

 浜田光夫は、カワサキのバイクの話を詳しく話してくれたし、

 広報担当の私としては大満足の出来事だったのである。

★ 私の行動は、このように突然、直感で動くことが多いのだが、

  その殆どの場合上手く行くのである。

  そんな中でも、この『浜田光夫の1件』は今思うとよくやったなと思う。 

  ただ突然のことだったし、何の約束事もない出来事だったので、

  この件の広報は一切やていない

  明石日活で浜田光夫が喋ってくれたのはよかったが、

  これをカワサキが広報に使うのはダメだなと判断したのである。

  外に広報したのは、このブログが初めてなのである。

2023年10月7日

彼岸花 咲いた

投稿者 : rfuruya

2023-09-29 03:16:56 | 発想$感想

★ 少し涼しくならないと彼岸花は咲かないとか。

 そんなことで今年の暑さではお彼岸の日にはまだもう一つだったので、

 5日経っ今朝はどうかなと思って、

 防災公園の『どっこいさん』の方向に行ってみた。

 

 満開とは言えないかも知れぬが、

 こんな状況で綺麗に咲いていた。

  

 

 毎年咲く面積が広がっているようにも思う。

  ここは自生なのか、公園が植えたのかは不明だが、

  見事に咲いていた。

 

 

 我が家の庭にも2本ほどあるのだが、

 まだ蕾で開花していない。

 今年も彼岸花見れてよかった。

 広い公園だが、ここと昨年はもう一箇所、これは間違いなく自生していたのだが、

 今年はまだ見ることが出来ていない。

 芝生を刈ってしまうので、刈られてしまったのかも知れない。

 

2023年10月4日

私と魚たち

投稿者 : rfuruya

2023-09-27 05:26:20 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ コドモの頃からだが、私はなぜか魚が好きである。

  ずっと家には池があったし、いっぱい魚たちはいた。

  一番立派な鯉がいたのは、明石公園の剛の池の魚たちを戦時中に食糧難から

  取って真鯉や鮒は食料にしたらしいが、

  錦鯉は助かってその錦鯉を伯父が貰ってきて池に入れていたことがあるのだが、

  大げさに言えば1m近くあったかも知れない。

 蝉をやったら食ったりしたほど大きかった。

 そんなことなので、

 私の周りにはずっと何か魚がいた。

 グッピーに凝ったこともあるし、

 一時は今の家にも本格的な池を造って、鯉を飼ってた時期がある。

 

 こんな鯉たちがいたのだが

 

 ある時、鯉の販売があって買ってきたら、

 どうも『鯉ヘルペス』に罹っていたらしく

 全滅してしまったので、

 

 池も埋めてしまったのである。

  いまは小さな池に小さな鯉と金魚やドジョウやメダカを飼っていて、

  毎日眺めて餌をやってるので、

  私が行くとこんなに集まってくるのである。

 昨年は金魚が子どもを産んだのだが、

 今年はなぜかダメだった。

 メダカは鉢でも飼っていてコドモをいっぱい産んだので

 こんな水槽を横に置いて眺めながらパソコンを打っている。

 

★ 朝散歩に行く協同学苑にはこんな池があって、

  鯉がいるのだが、

  

 

  この数年に生まれたコドモの鯉がいる。

  これが親だが、

 

  10cmぐらいの鯉がいっぱいいる。

 

  何十年も前から鯉はいたのだが、

 コドモを産んだりしたのは、ここ数年のことである。

 然し今年は産んでいないと思うので、何故かなと思っている。

 大したことではないのだが、魚好きはいろんなことを思うのである。

 我が家の金魚もそうだが、何故毎年産まないのだろう?

2023年10月3日

私と車

投稿者 : rfuruya

2023-09-26 05:12:26 | 発想$感想

★ 車の免許を取ったのは30歳の頃だが、

 当時はまだ自家用車を持つ人は少なくて、

 専ら社用車の運転をしていたのだが、

 仙台から大阪に転勤をした昭和45年(1970)に初めて自分の車として

 カローラの中古車を買ったのが最初の1台である。

 それは社宅のあった高槻から大阪への通勤が殆どだった。

 車の運転そのものが好きで、仙台時代も東北6県の仙台-盛岡、仙台-秋田など200kmの距離の運転を楽しんでいた。

 今でも毎日、距離は短いが乗っているので、

 もう60年間殆ど毎日車の運転をしていることになる。

 交通違反は若いころは2度スピード違反で捕まったが、

 それ以外は無事故・無違反ゴールド免許になってからもう何年になるのだろう。

 

 ★ 自分の車は最初がカローラ、

  そのあと、これも中古だが、ホンダアコードに乘った時期がある。

  会社では『ホンダに乗っている』と言う人もいたが、

  私は同じ二輪業界の車をむしろ乗るべきだと思っていた。

  娘にかってやったバイクスズキだし、

  私のゴルフクラブヤマハだった。

  小さな二輪業界だからみんが良くなる方向がいいと思っていて、

  ホンダに乗ってることなど、気にもしていなかったが、

  鈴鹿サーキットに行くと特別待遇で、

  サーキットの中の駐車場に止めることが出来たりして重宝したのである。

  そのあと買ったのがBMWの5シリーズの新車で、

  これは結構高かったが、

  なぜBMを買ったのかと言うと、

  カワサキにいた浜脇洋二さんが日本BMWの社長になられて、

  『買ってくれ』と言われたからである。

  それ以降今まで、BMWを乗り継いでいるのだが、

  3台目以降は新車ではなく中古車である。

  もうずっとBMWに乗っているのでBM独特の乗り味に慣れてしまった。

  BMだけで今の車は5台目である。最初の車は2台目を買う時に、娘にやった。2台目も5シリーズの新車だったが、3台目からは中古にして車が大きくなったので3シリーズにして、現在も3シリーズである。でも最初の5シリーズと同じか大きいかも知れない。 

  現在の車は昨年、突然前の車の調子がおかしくなって、

  修理をすると結構かかるというので、

  思い切ってその日のうちに今のBMWを買ったのだが、

  勿論、中古車である。

  BMWは高級車ということになっているが、

  中古車の値段は国産車と変わらず、そんなに高くはない。

  然し、だんだんと年式が新しくなると車もどんどん良くなるものである。

  いまの車はデイーゼルなので燃料は軽油である。

  デイーゼルだと言ってもめちゃ静かだし、

  いまの乗り方は1100回転位までしか回さない、

  まさに安全運転の静かな乗り方だが、

  いい道では時速80Kmぐらいまでにはなる。

  そのお陰で燃料代1ヶ月5000円ほどで収まってしまう。

  そんなことで今まで乗った車で一番気に入っていて、

  殆ど三木市内だけなので、渋滞もないし毎日気分よく乗っている。

 

  

  ハンドル周りの感じもなかなかいいし、

 

  

 

  気分よく運転している。

 

  まだ4万キロぐらいなので、

  この車が私の最後の車になるかも知れない。

  ところで、運転免許は何歳になっても大丈夫なのだろうか?

  それが一番心配なのである。

  目も大丈夫だし、あと10年は大丈夫と自分では思っているのだが、

  果たして最後はどんなことになるのだろう。

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2023年10月2日

カワサキ単車の昔話  22     ナイジェリアの旅 

投稿者 : rfuruya

2023-09-25 05:09:28 | カワサキ単車の昔話

★世界のいろんな国に行ったが、

 一番ユニークな印象を持っている国と言えばナイジェリアかなと思う。

 人口は2億1000万人もいて、アフリカ州最大の規模である。

 19世紀以来の英国による植民地支配が続いていて、

 1960年に正式に独立したが、公用語は英語なのである。

 アフリカのほぼ中央部に位置している。

  

 1977年8月のことだが、

 カワサキが発展途上国へのCKDビジネスをスタートさせた頃で、

 ナイジェリアの現地調査に行くことになったのだが、

 ナイジェリアに行くにはマラニアの予防注射が必須事項な、

 そんな時代のことである。

 これが私の初めてのヨーロッパへの旅でもあったのだが、

 タイのバンコックからフランクフルト経由ロンドンに入ったのだが、

 日本ーバンコックーロンドン経由がおかしいと思われたのか、

 私の荷物検査はほぼ1時間ほどトランクの隅々までチェックされたのである。

 そして、先ずはマンチャスターにあるPZ本社を訪れ打ち合わせをしたのち、

 ナイジェリアの当時の首都ラゴスへ飛んだのである。

 とかっこよく言ってるが、ロンドン二つも空港があるとは解らなくて、

 1日目は、ヒースロー空港 に行ったが、ラゴス行の飛行機の便がないのである。

 アフリカにはもう一つの ガトウィック空港 から出ていて予定が1日遅れることから始まった。

★ 当時のナイジェリアは石油ブームで、その首都ラゴスは無茶苦茶な混雑ぶりで、

 街には車が溢れていて、それも1日ごとに奇数・偶数のナンバーしか走れないように規制をしているのだが、

 それでも車がいっぱいでなかなか思うように走れないというような状態だった。

 そんな現地にはカワサキから森田君が単身赴任していて、

 彼と一緒に行動したのだが、彼も奇数と偶数の2台の車番の車を持っていた。

  当時の首都ラゴスはこんな海岸に面した島の上にあり、

 

 こんなに立派なビルが立ち並んでいて、

  島の上に立派な街が出来ていて、ここではそこそこ走れたが、

  一般原住民の町はこんな混雑ぶりで

  どこに行っても人で埋まっているほど人もクルマも多いのである。

  

 原住民はこんな海の上に住んでいたり

 そのスラム街はこんな状態だから、

 ラゴス島との格差が大変なのである。

 

 

 ナイジェリアの人達は色は黒いが、

 常にニコニコ誰もみんなフレンドリーで

 流暢な英語を話すので良かったのだが、

 どこに行っても『子供がいっぱい』なのである。

 「子どもが多いな」と言うと『あなたは何人か?』と聞くので

 「二人だ」と答えたら『なぜ?』と不思議がるのである。

  どうやら『避妊』などは全く関係がないのだと思った。

★そんなナイジェリアのラゴスだったが、

 ちょっと郊外の販売店なども訪ねたりした。

 一歩ラゴスを出ると、人は殆どいないと言っていいほど

 閑散としていて、ホントに一局集中なのである。

 その時代、ラゴスにもすでにホンダさんは来ていたし、

 川崎重工の出先事務所もあった。

 このプロジェクトは結局陽の目をみなかったので、

 カワサキの二輪部門でナイジェリアを知ってるのは森田君と私だけかも知れない。

 日曜日に森田君がテニスをしようと言うので付き合ったのだが、

 私はテニスをしたのはこの時だけである。

 ミスってばかりだったのだが、ボールを拾う子供たちがいて、

 ボールボーイ付きの贅沢なテニスを楽しんだのである。

 8月16日(火)から8月25日(木)までの10日間のナイジェリアだったが、

 世界にはいろんな国があるのだと実感させて貰ったナイジェリアのだった。

 もう50年近くも前の話だが、

 いまはどうなっているのだろう?

カワサキ単車の昔話  21  カワサキのデグナーのこと

投稿者 : rfuruya

2023-09-20 05:13:33 | カワサキ単車の昔話

★ 鈴鹿サーキットには幾つものカーブがあって

 それぞれいろんな名前が付けられているのだが、

 その8番目と9番目は『デグナーカーブ』と名付けられている。

 

 

 その命名の由来は、

 1962年11月に竣工したばかりの鈴鹿サーキットで行われた

 全日本選手権ロードレースで、

 トップを走っていたスズキの契約ライダー・エルンスト・デグナーが転倒したことから

 「デグナーカーブ」と名付けられたのである。

 1962年シーズンには、デグナーはこの年から始まった50ccクラスで、

 スズキにグランプリ初タイトルをもたらした名ライダーなのである。

  

カワサキが初めてGPレースに参入したのは1966年のことで、

 その年の日本GPには藤井敏雄・安良岡健・シモンズ等のライダーでの参加を目論んでいたのだが、

 マン島のプラクテイスで藤井敏雄が事故死したため、

 急遽、デグナーとの契約を行うことになったのである。

 契約交渉は当時の技術部長の山田熙明さんが行われたが、

 その契約書を私に作れという指示が出たのが9月の初めであった。

 日本人ライダーとの契約は何度も行ってきたのだが、

 外人契約は初めてで、具体的にどのような契約内容にするのかもう一つよく解らない。

 こんなレースライダーの契約などについて社内には聞く人もいないので、

 9月10日のことだが、ホンダのレース担当の前川さんに電話して『教えて欲しい』と頼んだのである。

 前川さんとはMFJのレース運営委員会でご一緒しているだけの関係だったのだが、

 電話をしたら快く引き受けて頂いたのである。

 

その日の2時に鈴鹿までお伺いして、具体的に教えてもらったのだが、 

契約書の最後の『疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・』という日本式はダメだよ、

疑義を生じた場合は甲の判断による』などと教えて貰ったのである。

 

契約書は当然英文なのだが、私が作ったのは日本文で、

その英訳は山田熙明さんに引き受けて頂いた。

山田熙明さんは神戸一中の私の先輩なのだが、

一中・一高・東大航空機の秀才は英訳などは至極簡単なようだった。

 

★そんなことで契約したエルンスト・デグナーだが、

 彼がサーキットでカワサキに乗って走る姿は見られなかったのである。

 

 9月29日のFISCOでの練習走行で転倒し頭部を打って、

 御殿場の中央病院に入院するのだが、すぐに意識は回復して、

 10月1日には明石市民病院に移して、完全回復することになったのだが、

 それが突然意識がおかしくなってしまうのである。

 それまでは英語を喋っていたのだが、そこからは突然ドイツ語になってしまって明石病院のお医者さんも困ってしまうのだが、

 その通訳をされたのが、ドイツ留学を終えたばかりの大槻幸雄さんで、

 明石病院のお医者さんもドイツ語を喋る大槻さんにビックリしてしまうのである。

 当時は『脳外科のお医者さん』は非常に少なくて明石病院でも専門医はいなかったので、

 急遽、神戸医大に移送したのが10月4日で、この1週間はデグナーのことで大変だったのだが、

 神戸医大に移ってからは順調に回復して10月21日に無事退院するのである。

★この年の日本GPは初めて10月14日FISUCOで開催され

 カワサキはまだグリーンではないこんな赤タンクの時代だが、

 GP125は安良岡健が7位に入るのである。

  

  

  

カワサキのデグナー』はこんなことで見ることは出来なかったのである。

 デグナーとは約2か月間いろいろとあったのだが、

 彼はサーキットで、赤タンクのGPマシンに乗ることはなかったのである。

 そんことでカワサキのデグナーは実現しなかったし、

 カワサキがデグナーと契約したことなど、

 殆どの方はご存じないのである。

 

 

★デグナーとの契約では、さらに後日談があって

契約金を日本円で渡したので、デグナーが海外に持ち出すことが出来ないというのである。

当時はまだそんな時代で、その後処理にも私は走り回ったのである。

 いずれにしてもこの2か月間は私にとっては忘れられない大変な2ヶ月だったのである。

 

 若し、カワサキのデグナーが実現していたら

 ひょとして、もう少しいい線まで行ってたかも知れない。

 

 そんなカワサキ単車の昔話である。

2023年9月19日

カワサキ単車の昔話  20   松尾勇さんのこと     

投稿者 : rfuruya

2023-09-14 04:45:01 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機が単車事業に本格的に進出したのは

 1960年(昭和35年)のことで、

 私は昭和32年入社で昭和36年末、初めて出来た単車営業課に異動したのだが、単車のことなど何にも解っていなかった。

 

 私だけでなく、周囲の人達も、上司も、

 技術屋さんも、事務屋も、

 単車のことが解っている人はいなかったと言って過言ではない。

 技術屋さんもエンジンの専門家はいっぱいいたが、

 なんとか単車のことが解っていたのは、

 B7のレースにも関係した井出哲也さんぐらいではなかったのか?

★ そんな状態の中での事業のスタートだったのだが、

 直ぐにファクトリーレースチームが出来て、

 ここには『単車のことしか解らない』と言った方がいいようなライダーたちが集まっていたのである。

 それにこのカワサキのレースをスタートさせた張本人は先にも書いたように、

 兵庫メグロの西海義治社長で、この方は元プロのオートレーサーだったからバイクには当然詳しかったのだが、

 その西海さんがカワサキの単車事業部に子飼いの松尾勇さんを送りり込んで、

 そのレース職場は製造部に属していて、そこにいた松尾勇さんのノウハウで運営されたと言ってもいい。

★ この写真はカワサキファクトリー結成25周年記念として、1988年に実は私が企画して実施したものだが、

  ここに集まったメンバーがカワサキの創成期のレースを支えたと言って間違いない。

  何故か安藤佶郎・百合草三佐雄のお二人がいないのだが、多分お二人は当時アメリカ勤務だったのだと思う。 

 この写真の最前列に並んでいる方たちが、レースの創始者と言ってもいいだろう。

 左から糠谷省三・松尾勇・山田熙明・西海義治・高橋鐵郎・苧野豊秋・中村治道・大槻幸雄である。

  

  

 糠谷省三さんは大槻・安藤に次いで3代目のレース監督でメグロの出身、

 山田熙明さんは事業スタート時の技術部長で西海さんと懇意でレースに熱心だったが、この当時は川重副社長を退任されてすでにOBだった。

 高橋鐵郎さんは当時の川重副社長中村治道さんと一緒に青野ヶ原モトクロスの主導者だった。

 苧野豊秋さんは営業関連のレース責任者で私の直接の上司だった。

 そして大槻幸雄さんは初代のカワサキレースチームの監督で、Zの開発総責任者で、後川重常務ある。

 

 こんな錚々たるメンバーに伍して、

 会社の職位では掛長にもなっていない松尾勇さんが最前列にお座りなのは、

 こと創生期カワサキのレースでは如何に重要な地位にいたかと言うことなのである。

  2列目には岡部・金谷・安良岡・和田・山本・清原もいるし。

  平井稔男・田崎雅元(後川重社長)さんも私もいる。

  星野一義は最後尾の一番右である。

  後ろの方と左側は当時のレース現役諸君で宗和多田の顔も見える。

  

★ そんな松尾勇さんは、兎に角バイクには詳しかったし、エンジンも車体も、何でもこいだった。

 青野ヶ原の最初のレースでB8をモトクロッサーに仕上げたのも松尾さんだし、

 その後のレース職場でも、技術部が担当したのはエンジンだけで、

 それをマシンに仕上げたのはみんな松尾勇さんなのである。

 そんな松尾さんの最高傑作はあのF21Mだと言っていい。

 当時スズキがRH2台を造って、ヨーロッパ市場にも遠征したりしていたのだが、

 カワサキもそんな本格的なファクトリーマシンを創ろうと、

 エンジンは当時の監督の安藤佶郎さんが238ccのエンジンを新たに提供されたのだが、

 それをマシンに仕上げたのは松尾勇さんである。

 当時のヘリコプター部門からクロモリのパイプを貰ってきて、

 図面など全くなしに、べニア板にフレームの形の釘を打って、創り上げたのである。

 パイプを曲げるのにそこに詰める砂を海岸で取ってきたりしたので、よく覚えている。

 スズキの2台などとは違って、契約ライダー分すべての台数を造って

 青森県嶽岳で開催された全日本にデビューし、ヤマハがDT1を開発するまでは、まさに連戦連勝だったのである。

 このF21Mをベースに技術部が車体の図面を正式に造って、

 正規に生産をしたのが市販車のF21Mだが、

 

  

  ファクトリーライダーたちが最初に乘ったF21Mは、

  すべ松尾さんが創り上げたもので、

  ひょっとしたら F21Mと言うネーミングは技術部が後に名付けたのかも知れない。

  

 

★ カワサキがレースを技術部ではなく製造部の管轄レース職場でやっていた時代は、

  すべて設計図などはなく、松尾勇さんの手作りだったのである。

  その辺の町工場のような感じだったのである。

  そのレース職場にはライダー諸君も出入りしていたので、

  場所も製造部とは別の場所でちょっと変わった特異な職制だったのである。

  当時のレース運営は、前述の主要メンバーで構成された「レース運営委員会」がベースでその事務局を私が担当していたのである。

  そんなことで先の『カワサキファクトリー結成25周年記念』の会合も私が主宰したりして、

  集まったメンバーは当時のレース関係者とライダーたちなのである。

  レースマシンのモトクロッサーが正規に技術部に移ったのは、

  マシンの名称KXがつく時代からである。

  レース監督で言えば4代目の百合草三佐雄さんの時代からである。

  それまではレース職場の松尾勇さん時代が続いたのである。

  私が幾らかでもマシンとか技術とかに興味を持ったのは、

  『松尾勇さん時代』で、

  カワサキ創生期に、そんな時代があったとはなかなか信じられないかも知れないが、

  こんな感じで、航空機メーカーが、二輪専門メーカーに成長していったのである。

  松尾勇さんはそんな「橋渡しをした人」と言ってもいい。

★実は今年はそのKX50周年に当たるのである。

 これは10年前のKX40周年の時の写真だが、

 その時は私はアメリカに行っていて出席できなかったので、

 アメリカから祝意のメッセージをお送りしたのだが、

 

 今年は12月2日に明石のグリーンホテルで

 『kX50周年を祝う有志の会』が開催の予定なので、

 今回は私も出席して、ご挨拶をすることになっている。

 カワサキのKXモトクロッサーも、50年の歳月が流れている。

 私が直接レースに関与したのはそれ以前のことで、

 松尾勇さんと同じ『レース職場の時代』なのである。

  

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