一般情報、ニュース、お知らせ

2021年12月5日

私のアーカイブス・定年後  その

投稿者 : rfuruya

2006年という73歳になったこの年は私の定年後の生活が一変した年だと言えるだろう。
この年の9月6日からこのブログ・雑感日記はスタートしているのである。
定年後に「パソコン」に出会ったのが2001年だから5年ほど経っているのだが、
それまでは「パンダ碁」などを楽しむか、ネット散策をやるくらいで、
自ら発信などはしなかったのである。
★この年に新しく藪本吉秀さんが三木市長に当選されて、
 それまでは三木の市政などには全く関心もなく、
 市長の名前も知らないくらいだったので、選挙にも行っていないのだが、
 この新人の藪本吉秀さんの選挙運動の手段広報的に面白かったので、
 ちょっと関心が出来て、メールが打てるようになったものだから、
 三木の市政に関して「市長メール」を打ち出したのである。
 やりかけると、一般の方とは全く差別化されていて、
 50通近い提言を続けてやったら、それを市長は受け入れて頂いて、
 市役所で実際に面談するようなことにもなったのである。
 いろんな提言をしているのだが
 「日本一美しいまちをめざそう」がその最たるもので、
 
 翌年の三木市総合計画の中で設定され、今も生きているのである。
★ 私がこのような提言をしたのは
 兵庫県は永年「美しい兵庫」を目指していて、
 その推進委員会もあるのだが、
 兵庫県の各市でそれをフォローしているところがないものだから、
 
 兵庫県の職員から三木市長になられた藪本さんは
 是非「美しい三木」の実現を目標にと申し上げたのである。
★そんな三木市への提言を考えるために、
 日本のいろんな市のホームページなどを見ていたのだが、
 ひときわ特徴のあった市が「高槻市」で
 そのホームページには「こちら部長室」というユニークなコラムがあって
 それを主宰されていたのは総務省から高槻市に出向されていた、
 市長公室長の樋渡啓祐さんだったのである。
 その中に樋渡さんの書かれた「ブログ・ブログ・ブログ」というのがあって、
 これに非常に興味・関心をもって調べてみたら
 当時はまだ「ブログ」など発信されている方は極く限られていて、
 政治家では自民党の広報本部長だった世耕弘成さんぐらいで、
 世耕さんはボストン大学でを学ばれているし、
 樋渡さん広報には特に関心があるようなので、
 広報には特に関心のある私も「ブログ」なるものをやってみるかと、
 その年の9月6日にこのブログ雑感日記を立ち上げて
 その最初に取り上げたテーマは「美しい」なのである。
★そんなことで始めた私の「ブログ」なのだが
 樋渡啓祐さんとは面識もなく、
 ただ高槻市のホームぺージで、出会っただけなのである。
 今は樋渡さんは超有名人のお一人だが、
 当時は特に名前が売れていたわけでもなく、
 私が勝手に「この人はオモシロい」と気に入っただけなのである。
 そんなことで始めた私のブログの11月20日に
 「市長公室長樋渡啓祐さんのこと」というこんなブログをアップしたのだが
そのブログに当のご本人の樋渡啓祐さんからこんな「コメント」が入ったのである。
感謝 (樋渡啓祐)2006-11-24 22:11:26
文中の前・高槻市市長公室長の樋渡啓祐です。
今日、グーグルの配信メールで、「雑感日記」のことを知りました。
私も、挙げていただいた二つの記事は今でもお気に入りですし、
今では市長という立場から、同僚職員に同じことを伝達しています。
そのためには自分自身が書いた記事そのものでなければならず、自戒しながら頑張っております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。
コメントなども初めてのことで、舞い上がってしまって返事も打てていないのである。
 総務省にお帰りになったとばかり思っていた樋渡さんは、
 その年から佐賀県武雄市の市長になっておられたのである。
★そんなことから、この年定初めて出会ったお二人が、
 奇しくも三木と武雄の市長さんで、
 この年から始めたブログとともに私の定年後の生活が一変するのである。
 その後も樋渡さんとはブログの中でお互い繋がって、
 三木市と武雄市も繋がったりして、
 翌年5月21日、三木市に来られた樋渡啓祐さんと直接お会いしたりしているのである。
 これはその頃、樋渡さんが書かれていたブログの中の写真で、
 15年も前のことだから、
 樋渡さんもまだまだお若かった「日本一若い市長」の頃なのである。
  
 私にとってはまだ有名人でもなかった頃の「樋渡啓祐」さんを
 この年、自分の目で見つけ出したのが自慢なのである。
 それ以上に「樋渡さんのお陰」で始めたブログも15年続いていて、
 その閲覧数や訪問数は1000万単位100万単位になっていて
 「トータル閲覧数=12774766PV」延べ1277万人がご覧になり
 「トータル訪問数=3577278UU357万人が訪れているのである。
 これは自分でもびっくりする信じられないような数字だが
 ネットの世界は勝手にこのようにちゃんと記録してくれて、
 毎日その数を教えてくれるのである。
★人生ではいろんな方との出会いがあるのだが、
 樋渡啓祐さんとの出会いが一番劇的で、
 この出会いのお陰で私の73歳以降の人生はそれまでとは
 異質の世界で、且つ充実したものになったのは間違いないのである。
 2006年はそんな節目になった忘れられない1年だったのである。
2021年12月4日

カワサキバイクマガジン新年号

投稿者 : rfuruya

★先日取材を受けたカワサキバイクマガジンの新年号が送られてきた。

 今回は「川重事変」と称して
 カワサキの単車の創成期の出来事から現在までを繋いだ内容になっている。
 それはこんな内容になっていて、
 私の知っている仲間たちもいっぱい登場する。
 
 そんな中で、特に個人的に親しく今もお付き合いのある方も沢山登場するので、
 ご紹介をしてみよう。
 まずは山田浩平さん、今はニンジャH2Rの開発者として有名だが
  若いころは X11 の開発担当をしていて、
 そのころいろいろとサーキットなどいろいろ面倒をみたので、
 そんなことからのご縁である。
  
 今でもFacebook の友達で「いいね」など頂いている。
 ここでは二輪開発について彼独特の熱い想いを語っている。
 百合草三佐雄さんも登場する。
 若いころ250ccA1の開発やレースなども担当したのだが、
 ここでは、もっと若いころの「メグロとの関係」を語っている。
 
 私も百合草さんがメグロ工場に出張していたなど、初めて知ったのである。
    メグロから来た北見紀生さんも登場する。
 北見さんは私が東京営業所の所長を兼務してた時のサービス工場長だった。
 その頃から独特の個性で面白かった人である。
 
 こんな写真も載っていたが、
 このトラックの後ろに立っているのは、
 間違いなく、当時の神戸営業所の営業だった「渡部達也」さんである。
 
 旧い写真では、もっと旧い旧明発時代の「平井稔男」さんの
 若いころである。
  
  お二人とも、今でもお付き合いが続いている仲間たちなのだが、
 当時はこんなに若かったのである。
 因みに、平井稔男さんは、私と同い年で、
 カワサキの国内営業の最古参であることは間違いないのである。
★ 取材を受けた「私の関係」の記事も6ページに亘っていて、
 結構、詳しく昔のことが語られているので、
 ご関心のある方はぜひお読みになればと思う。
  SPA直入のことにも触れられているし、
    
30年前の私の担当時代に創られた、KAZEについては
 2ページに亘っての記事となっている。
    
 これは大阪の特約店制度の記事の中で使われている
 当時はまだ「伊藤モータース」と称してた現在の「株・忍者」の展示会風景と
 当時のお店の写真なのである。
 
 旧い写真と言えば、
 これは間違いなく昭和35年(1960)当時の60年も前の写真だが、
 明石工場も建物など少なかった時代に、テストコースだけは作られていたのである。
 「単車製造準備室」は昭和34年頃の話で、
 私も入社3年目ぐらいだったのだが、資材の方に熱心に誘われたのだが、
 当時は財産物件の減価償却のIBM化に取り組んでいる最中でお断りしたのを思いだす。
 
 私が新設された「単車営業課」に異動したのは昭和36年11月のことなのである。
 当時はまだ明発を引き継いだ「カワサキ自動車販売」が国内市場を担当していた時代で、そのメンバーの殆どが明発とメグロの方たちで
 社長・専務だけが川崎航空機工業籍だった時代で、
 新設された単車営業課はその「カワサキ自動車販」に出荷・販売していたのである。
 その時代の営業を語れるのも、ホントに私だけになってしまったのである。
2021年12月3日

三木山陽病院に行ってきた

投稿者 : rfuruya

★「三木山陽病院」何度かこのブログでもアップしている。
 最初はずっとずっと以前のことだが101歳の母がお世話になったし、
 家内も足の骨折で入院したし、
 私も白内障の手術などでもお世話になったりしている。
 
 家からは10分は掛からないから便利だということもあるのだが、
一番気に入ってる」のは先生をはじめ従業員の方が、
親切で、気安く、親しみ易い」のである。
 前回は眼科に来たのだが、今回は「整形外科」なのである。
 何故か11月ごろから、朝スロー・スロージョッギングの時に異常を感じていたのだが、
 20日過ぎから痛くなったので、町医者に行って「痛み止め」と
 「筋肉を柔らかく」する薬を貰って飲んでるのだが、もう一つすっきりしないのである。
★そんなことで昨日は三木山陽病院に久しぶりに行ってきた。
 予約がない飛び入りだから、時間が係るのが嫌で
 9時からなのだが8時過ぎに病院に着いたら、
 流石に人は少ないというか、殆どいなかった。
 
 受付番号は「2番」だったが、
1番」の人がいるから、もっと早く来られているのである。
受付時間8時5分」とある。
  
 8時半には係の方から「飛び入りの患者」に対しては「問診」があり、
 病状について詳しく聞かれるのである。
 9時から診察が時始まったが、当然予約のある方が先だが、
 始まってすぐレントゲンを撮るように言われて、戻ってきたら、
 何人かのあと「飛び入りの患者」では一番に診て頂いたののである
 診察室に入ったのは9時40分ぐらいだった。
★ この外科のお医者さんに診て頂くのは、確か2度目だが、
 「外科の先生」は大きな手術などもおやりになるからだと思うが、
 ちょっと「膝が痛い」などは、病気のうちに入らぬのかも知れない。
 レントゲン写真を何枚か撮ったのだが、
 それを見ながら「骨には異常がない」ので「大したことはない」とという診断なのである。
 診断が豪快で、今飲んでる薬を持って行ったのだが、
 こんなのは「気休め」みたいなものだから「飲んでも飲まなくてもいい」と仰るのである。
ちょっと痛い」と言っても「大したことはない」と言われるので、
 そう言われると患者としては「一安心」の気分になるから不思議である。
 「足の筋肉もあるし、めちゃ若いな」と言って頂いて、気分をよくしたのである。
 ただ、最後には「次8日の日にMRIを撮って詳しく診ましょう」と
 言われて8日にMRIを撮り
 15日にその診断を受けることとなった。
 毎日やってる運動やジムは「続けたほうがいい」と仰るのである。
 よく解らぬが、これくらいの痛みは「やりながら」でも治るのかも知れない。
 そんなことで、病院には行ったが気分よく戻ってきたのである
2021年12月2日

3回目のコロナワクチン接種について

投稿者 : rfuruya
★ 12月に入った。
 コロナの感染状況もほぼ収まってもう「大丈夫かな」と思った矢先に
 また新しい「オミクロン株」が発生で、日本でも一人見つかったというニュースである。
 これ以上新たな感染者が出ないことを祈るばかりである。
   
 なかなか簡単には終わりそうにもないのだが、
 12月からは「ワクチン3回目の接種」が始まるようである。
 私事だが、私自身は確か6月か7月に第2回目まで終了しているのだが、
 巷でよく言われる「接種の証明書」みたいなものが手元には残っていない
 多分、その時には貰ったのだと思うが、
 2回接種したことは間違いないので、「なくてもまあいいか」と思っていたのである。
 今更、旅行などにもいかないし、繁華街に出ることもないので、
 日常生活には不便は感じないのである。
★ただ、3回目の接種の時にそれが必要かどうかが、ちょっと気になって
 三木市のホームページを覗いてみたら
 
 「追加接種3回目」という項目があって
 いま「準備を進めています」とあり、
 
  そのスケジュールは下記のように載っていて
  このレベルで行くと「2500人」は兎も角
  間違いなく「8000人」の中には入ると思うので、
  12月の末か1月には3回目接種が出来るのではと思うのだが、
  「2回目の接種証明」の要否は記述がないので、
 ちょっと気になって市役所に電話してみたのである。
 担当部門の方に聞いたら、
 3回目は2回目の証明などには関係なく
 「新しく書類を発送する」と言われるので一安心だが、
 今回は「3回目の接種証明」を間違いなく手元に残すようにしようと思っている。
 家内は私とは別に市内の医院で2回目までを受けて、
 ちゃんと証明書を持っているのである。
 それが「当たり前」だと思うのだが、
 私自身は妙に「」なところがあって
 実際に打ったのだから「それで十分」と早合点してしまうのである。
 何事もすることは早くて、
 自分では「しっかりしている」と思っているのだが、
 「ひょんなところ」が抜けてしまうのである。
 ただ、それが「大ごと」に繋がらないので,
    治そうとは思わないのだと思うが、
 そんな「早とちりの性格」は何歳になっても治らないものである。
2021年12月1日

私のアーカイブス・定年後  その5

投稿者 : rfuruya

★ 私の定年後の生活も5年以上にもなるのだが、
 72歳までの2005年までは社会の中での新しい方とのお付き合いは全くなくて、
 現役時代の延長がずっと続いていて日記を読み返してみても、
 「新しい名前」は全く出てこないのである。
 敢えて言えば、社会の方と接触があったのは、廣野ゴルフクラブの理事長さんだけで、
 それも手紙だけだからお会いしたわけでもないのである。
 この頃のお付き合いの相手はもっぱら娘のほうの孫たちだったのだが、
 その娘家族も2004年の7月末からはアメリカに移住してしまうのである。
 この時期に娘婿が勤めていたノーリツのアメリカ進出があって、
 娘婿はノーリツで日本人最初のアメリカ勤務で、
 会社自体も初めてのアメリカ市場であったことから、
 カワサキのKMCを紹介していろいろと教えて貰ったリしたのである。
 ノーリツとは不思議なご縁で、ノーリツの創始者の太田敏郎さんは、
海軍兵学校時代の厳しい訓練後の入浴で心を癒した経験から「お風呂は人を幸せにする」という理念の持ち主で、こんな自叙伝も書かれているのだが、
  
 海兵時代はカワサキの私の長年の上司・高橋鐵郎さんとは同期だし、
 弟の太田武郎さんは、私の大学野球部の2年上のキャプテンで、
 一緒に野球をした仲間というご縁だったのである。
 そんなノーリツのカワサキへの紹介から2004年は始まっているのである。
★ 2004年、2005年の2年間の日記に出てくるのは
 ● トム・ラブという2匹の柴犬
 ● 水泳・ストレッチなどの運動、ひざも腰もすっかり良くなって
 ● 体重・体脂肪率の出る体重計を初めて買っている、体重は76kg
 ● 鯉や池のポンプの話、まだ鯉を飼っている
 ● 薔薇の栽培を始めて何年目かだが、薔薇に一生懸命である
 ● 娘一家はアメリカに、大阪勤務だった息子一家は横浜に
 ● 孫・古谷仁は2005年に中学に入学
 ● 春にはJR西日本の大事故、阪神タイガースがまた優勝している
 そんな項目が並んでいるのだが
 「パソコン関連」では「パンダ碁」に一生懸命でほんの短い間だが「2段」で打ったりしている。
 因みに現在は「2級」だが「1級」に上がったりはするが「初段」は遠くなってしまった。
 「考える」のが面倒になってしまっているのである。
 「メール」が打てるようにはなっていて、初めて「デジカメ」を買っている。
 カメラを自分で持ったのは、この時が初めてだと思う。
 何故それまで持たなかったのかというと
 フィルムを買う・写す・現像する・アルバムに貼るなどの手続きが面倒で、
 多分この時は「カメラのパソコン処理」を娘婿に教えて貰ったのだと思う。
★ ゴルフはまだ一生懸命で、練習にも行ってるし、クラブも新しいのをよく買ったりしている。
 今も続いている大槻幸雄さんが会長の「Z1会」に入会したのが2004年の9月で、翌年の4月に優勝などしている。
   
 まだこの時代は40台が普通に出ていて、
 この時の優勝スコアは44・46だが
 Z1会の初出場は、42・45だったし日記を見ると
 44・42,40・42,など流石に30台は出ていないが
 40台前半は普通だったのである。
 今こんなスコアならみんな「エイジ・シュート」なのだが、
 衰えてはいないと自分では思っているが、やはり歳は歳なのかも知れない。
 まだゴルフがやれてるのが「いい」としなければならないのかも。
★今よく走りに行っている
 三木綜合防災公園が完成したのが2005年8月なのである。
 
 三木にある沢山の公園も1990年代から順次作られていて
 「三木山一帯」が開発されたのも1990年の野球場から始まって
 新しい市役所三木山森林公園が1993年、
 三木山総合公園としてプールなどが出来たのが、1996年なのである。
 定年後、プールに行ったり、公園の散歩なども始めているのだが、
 そんな時代にこのような施設が出来て、
 私の「定年後の生活」を支えてくれているのである。
 2005年・72歳までの定年後の生活はこんなことだったのだが、
 2006年・73歳からはそれまでとは一転した「新しい生活」が始まるのである。
2021年11月30日

デートは北播磨総合医療センター

投稿者 : rfuruya
★ 家内は年に3回の北播磨総合医療センターでの定期検査がある。
 昨日は採血して、今日はその結果の先生の診断なのである。
 こんなに立派な大きな総合病院だが
 これがその駐車場である。
 病院も大きいのだが、その駐車場たるやこんな広さで
 それがほぼ満杯になるのだから、
 ここへの交通手段は殆どの人が車だと言えるのである。
 昨今の病院のシステムは流れ作業になっていて、
 ほんとに「スムース」なのである。
 11時半に家を出て20分ちょっとで到着、
 病院に来る人もこんなに多くて、
  
  受付ロビーはこんなに沢山の人なのだが、
  病院の流れ作業は徹底していて、ほんとにスムースなのである。
 採血をして、支払いを済ませて病院をでたのが12時半だから、
 家を出てから約1時間で病院は終了なのである。
 病院の紅葉も見事だった。
  
★ 昨今、家内と一緒に出掛けることなどスーパーの買い物以外にはない。
  病院の定期診断なのだが、家内の服装はスーパーでの買い物の時とはまた違って
 幾らかちゃんとしているので「ちょっとしたデート気分」なのである。
 帰りには半年ぶりの外食だったが、
 それは「丸亀製麺の釜揚げうどん」だったから、
 このデート2時間ほどで、病院代も含めて2000円にはならなかったのである。
 
 蛇足だが、この店も店よりも駐車場のほうが
 数倍の広さで、この辺りはまさに車社会なのである。
★ 今日は「先生の診断」で、もう一度北播磨総合医療センターに行くのだが、
 その結果がまずまずであって欲しいと願うばかりなのである。
 車で行けば家から30分はかからない立地なのだが、
 若し車でなかったら、どのようにして行くのだろうか?
 電車やバスを乗り継いだら多分半日仕事だろう。
 家内は車の免許など持っていないので、
 若し独りで2日も続けて病院に通うとなるとそれはまた大変なことなのである。
 だから「家内のため」にも私が元気であることがMUST条件なので、
 簡単に死ぬわけにもいかないのである。
 たとえそれが病院であっても「二人で出かけること」などなくなってしまったので、
 その時間を大事にしたいと思っているのである。
 そんな昨日と今日、2日続けてのデートなのである。
 私は2日続けて「同じ格好」かも知れぬが、
 家内は多分間違いなく、今日は昨日とは違った服装であるに違いないのである。
 今日は10時の予約なので、9時には家を出ることになる。
2021年11月29日

ヤクルト優勝  おめでとう

投稿者 : rfuruya

★ オリックスとの激戦を制して、
 ヤクルト・スワローズが20年ぶりに優勝した。
 プロ野球球団で好きなチームはあるが、
 熱狂的に応援しているチームは特にないのだが、
 ヤクルトもオリックスも好きなチームの一つではある。
 そういう意味では、どちらが優勝してもいいと気楽に見ていたのだが、
 初戦以降どのゲームも「好ゲーム」だった。
 このシリーズ印象に残ったのは高津臣吾監督である。
守護神マクガフは第1戦、2点リードの9回に登板して打たれ、チームは痛恨のサヨナラ負けを喫した。
2戦目の練習前に、指揮官は右腕の肩をたたいて「全く僕は気にしていない。あなたに任せている」と励ましたという。
2戦以降も迷うことなくマクガフを使い続けた監督の判断は素晴らしかったと思う。
その言葉に守護神も応えたし、そんな監督の采配がチーム全体の結束に繋がったと思う。
以下はCS、日本シリーズ前の高津臣吾監督の手記の一部である。
何となく空気が重かった9月7日。阪神戦前にミーティングで「絶対、大丈夫。何かあったら僕が出て行く」と伝えた。
結果的にその直後だったけど、9月13日の中日戦で判定に抗議した。
どうやっても覆らないけど、抗議できるのは監督だけ。引き下がれなかった。
僕が言わないと、選手も“明日頑張ろう”と終われないと思った。
選手を前向きな気持ちで戦わせてあげたい、とずっと思っていた。
今年のチームは停滞、後退がなかった。ずっと前進している。
ノーシードの高校が甲子園に行って勝ち進むのって、こういう状態なんだろうなと、シーズン中に何回か思った。
ヤス(奥川)やムネ(村上)が成長するのは分かる。
でも、石川や青木、川端が成長するのは、なかなかない。
CS、日本シリーズでもさらに成長した姿を見せてくれると信じている。
★昨シーズン最下位であったヤクルトが
 7月ごろには阪神の独走で届かないと思われたリーグ戦に後半追いつき、追い越して、日本一の座に就いた。
 ヤクルトスワローズ 日本一おめでとう!

2021年11月28日

かっては「給料は上がるもの」だったのに   雑感

投稿者 : rfuruya
★ 「日本の給与水準はなぜ上がらないのか?
 「韓国にも抜かれた」とこんなグラフが載っていた。
  
 岸田総理も新資本主義とかで「成長と分配」問題に取り組んでいるようだが、
 何故こんな状態になってしまったのか?
 何が問題なのか?
 ムツカシイことはよく解らないが、
 私自身は「給料がどんどん上がった時代」を生きてきたので不思議に思うのである。
★ 私が社会に出て初めて貰った給料は12000円で、それも月2回払いだった、そんな時代だったのである。
 当時の川崎航空機工業の経営の実態はそんなに良くはなかったが、
 世の中の水準もそんな状態だったのである。
 昭和32年(1957)年、64年も前のことだが、
 それ以降退職するまでの40年間「給料は兎に角上がり続けた」のである。
 入社して10年後には10万円の台に乗りざっと10倍になった。
 1970年代後半から4年間は、毎年20%も上がった年が4年ほど続いて、
 その4年間では15万円ほどだった給料が30万円に倍増したのである。
 ちょうど土地を買って家を建てた時で、借入金の返済が始まったのだが、
 その返済に大いに助かったことを思い出す。
 ただ、物価も同じように上がったから、生活が楽になった訳ではないが、気分的には悪くはなかったのである。
 そのあと50万円になるのにもそんなに長くは掛からなかったし、
 40年間勤めた退職時には「初任給の100倍」にもなっていた。
 今の時代からみると「ウソのような時代」だったのである。
★ そんなにどんどん上がった給料だが、
 二人の子供たちが大学を卒業するまでは貯金など出来る状況ではなかった。
 サラリーマン生活の最後の10年間だけが、何とか余裕が出来たのである。
 1990年代の10年間である。
 こんなグラフが載っていた。
 その1990年代の所得水準よりも現在は下がっているというから、
 ほんとに考えられないのである。
★ それにしても「かっては給料は上がるものだったのに
  なぜこんなことになっているのだろう?
  いろんな解説が載っているが、その一つにこんなのがあった。
  こんな5つの理由を挙げていた。
  1.労働組合の弱体化
  2.非正規雇用者の増加
  3.少子高齢化の影響
  4.内部留保を貯めこんで賃金を上げない経営者
  5.規制緩和の遅れがもたらした賃金低迷
   
 確かに私たちの時代とは違った環境であることは解る。
 詳しい解説を簡単に纏めてみると以下のようになる。
1労働組合の弱体化
日本はバブル崩壊によっての景気後退を人員カットで対応するのではなく、
クビにされるよりも給料を下げることに同意した日本特有の労使関係があり、
「企業内組合」が一般的な労働組合の構造的な問題がある。
2.非正規雇用者の増加
「労働者派遣法の改正」によって、企業は非正規雇用者を雇いやすくなったことは、
実質賃金低迷の原因の1つとして、見逃すことはできない。
これには人件費を削減して、業績悪化から企業を守った面はある。
3.日本の少子高齢化
人口減少に対応するために非正規雇用や女性のパートタイマーや、外国人労働者など、
かってはリタイアしていた高齢者が格安の賃金でいまだに働き続けているという現実や、
自営業や中小企業の従業員は、実質賃金の伸びが抑えられている。
内部留保を貯め込んで賃金を上げない経営者
バブル崩壊以前は、社員こそ最大の資源として、会社も賃上げに積極的だったが、
崩壊以後は労働組合が弱体化したこともあって、企業は内部留保を貯め込んだ。
いまや日本の企業が持つ利益剰余金は金融、保険業を含めれば507兆円となり1年分のGDPに匹敵する余剰金がある。
5.規制緩和の遅れがもたらした賃金低迷
通信や交通などの公共料金分野は、規制緩和の遅れで新規参入を阻害した結果、適正な価格競争が起こらなかった。
スーパーやコンビニ、スマホ、宅配便、外食産業といった業種では、価格が低く抑えられてきたために、賃金がいつまでたっても上昇しない。
確かにこのようなことがあるのは確かである。
ただ、一般国民の賃金の「低位安定」の状況を問題視しなかった政府や経営者に問題があるのだろうが、
この筆者は最後にこのように纏めている。
日本国民は極めて素直で、従順な民族だから、
政府が一定の方向性を示すと素直に従う習慣がある。
賃金より雇用という大きな流れの中で、我慢し続けている国民がいるわけだ。」
★ 私自身は極めて優遇された時代環境の中で、自らの給与は上がり続けたのだが、
 サラリーマンの最後の時期には経営者の端くれみたいなこともやったが、
 2度「従業員の給与水準の引き上げ」をやっている。
●その1回目は90年代半ばカワサキの国内販社担当の時期、
 7万台の販売目標を達成して、会社の業績は売上高400億円総資産100億円自己資本35億円という絶頂期ではあったが、
 当時のカワサキモータースジャパンの従業員の給与水準を上げている。
 川重籍の従業員との給与水準の格差があったので、それを幾らかでも縮めようとした。
●2回目は、最後に担当した北海道川重建機でも一般従業員の給与水準を上げている。
どちらの会社も労働組合などないので、TOPが判断して実行しない限り、
賃上げ」などは実現しないのである。
従業員の賃上げ」などおやりになった方は珍しいとは思うが、
 そんなことが出来る機会に巡り合えて「よかったな」と思っている。
2021年11月27日

私のアーカイブス・定年後  その4

投稿者 : rfuruya

2003年に70歳になった。

 わが家系は祖母は101歳、母は103歳まで長生きしたのだが、
 祖父は私が生まれたときにはもうこの世にはいなかったし、
 父も伯父も50歳代で亡くなって「男は早く死ぬ」と思っていたので、
 70歳になったときは、「不思議だな」と思ったのである。
 それが今88歳でも元気なので、これは祖母と母のDNAのお陰だと思っている。
 そんな70歳代の始まりである。
★この年には孫の門野真也が小学校に入学している。
魚や昆虫が好きで、魚とりやカブトムシ採りにしょっちゅう付き合わされているのである。
 「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので
 カブトムシなどこんなに沢山採ってきていたのである。
 
 カブトムシは或る公園のある1本の樹に、なぜか群がっているのである。
 そんな樹さえ見つければ、行くたびに何匹でも取れるものである。
 そんな孫たちの遊び相手にも時間を割いているのだが、
 長男の力也と真也がサッカー教室に入っているのだが、
 力也は兎も角、「真也は運動はダメ」と日記に書いている。
 サッカーよりは虫取りに興味があったようだし、こんなに太っていて
 
 リフテイングも「5回出来た」と喜んでた時代である。
★この年よく覚えている出来事があった。
 私は今は、ブログなど毎日世に発信をしているのだが、
 若いころから日記も書き、現役時代は基本方針などみんな文章にして書いて残していたのだが、世の中一般の外に向かっては投書などは勿論一切自分の意見など言ったことはなかったである。
 廣野ゴルフ倶楽部はこんな立地で神鉄緑ヶ丘駅のすぐ前で、
 公道にこんなに長く接しているのである。
 私はこの横を通って毎日明石まで車で通っていたのである。
 廣野ゴルフ場は何度かプレーもさして頂いていて、それは見事というほど綺麗なのだが、
 当時はこの道に面した部分は草茫々で、お世辞にも綺麗とはいえる状況ではなかったのである。
 会社に通っている時代からずっと「何とか綺麗にならないかな」と思ってはいたのだが、それは言い出せないままに何十年も経っていたのである。
 外に対して意見など言ったこともなかったし、
運動部育ちは、年上の人に例え正論であろうとも意見するなどは考えなれなかったのである。
永年の思いをやっとこの年に「70歳になったし、思い切って言ってみるか」と
この年の5月に廣野ゴルフ倶楽部の理事長さんあてに1通の手紙を書いたのである。
公道に面している部分は、社会と繋がっていると言えます。
 社会的地位の高い方がメンバーの廣野ゴルフ倶楽部ですから、
 そこに接する社会の人たちに嫌な思いをさせるべきではないと思います。」と思い切って書いてみたのだが、
 理事長さんからは非常にご丁寧なご返事を頂いて、即刻草は刈られたのである。
 以来20年の月日が流れているのだが、毎年何回か整備をされて、
 今のような状態が保たれているのである。
 この一件は「外には意見を言わない」態度を変えさせたのである。
 ちゃんと発信すればちゃんと対応して頂けるということが解って、
 大げさに言えば、その後の「私の人生が変わった」そんな出来事だったのである。
 そういう意味で、廣野の理事長さんに感謝なのである。
★ そんなこともあった「私の70歳」ではあるが、
 パソコンでの「パンダ碁」を始めたのもこの年だし、
 今も続いている「薔薇」に興味・関心を持ち出したのもこの頃なのである。
 日記を読み返してみると
 飼っていた犬のトム・ラブのトムのほうがちょっと調子が悪くなってる。
 息子と沼島に鱧釣りにも出かけたりもしている。
 この年阪神タイガース星野監督優勝をしている。
 野手では、今岡・赤星・金本・桧山・矢野・藤本など。
 井川がエースで、下柳藤川など懐かしい名前が並んでいる
 娘婿が勤めていたノーリツのアメリカ市場進出が決まって、
 12月には娘婿はアメリカに出張しているし、
 年末の12月30日には単身アメリカに滞在が始まっているのである。
 70歳、ある意味定年後の新しい生活スタイルが始まった年だとも言える。
2021年11月26日

軍歌  雑感

投稿者 : rfuruya

★私の小学生の時代は「太平洋戦争」の最中で、軍歌とともに育ったようなところがある。
 戦時中で音楽の時間などはなかったのでは? と思うのだが、
 所謂「こどもの歌」など習った記憶はなくて、
 「ドレミファソラシド」は敵国の言葉だからと、
 「はにほへといろは」と教えられた記憶はあるそんな時代なのである。
 日本の軍歌の歴史は明治以降、戦争とともに生まれていて、
 1894年に日清戦争が勃発すると新聞社が軍歌を公募するなど、
 1904年日露戦争開戦直後から楽曲発表が相次いだのだという。
 太平洋戦争開戦とともにさらに数多くの軍歌・戦時歌謡が作られて、
 こんなに沢山の軍歌があったようだが、
 全部を知っている訳ではないが、多くの歌が記憶に残っている。
 
中でも「海行かば」は「国民の歌」に指定されたこともあって
 
 海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめのである
かへり見はせじ 
 これは確か1番だけの歌だから、今でも鮮明に歌詞を覚えているのである。
★小学生の頃の旧い時代のことなのだが、
 今でも1番くらいの歌詞は覚えているから不思議である。
 ●加藤隼戦闘隊
  エンジンの音轟々と
  隼は征く雲の果て
  翼に輝く日の丸と
  胸に描きし赤鷲の
  印はわれらが戦闘機
  これはまだ勝ち戦が続いたころだったと思う。
 ●轟沈
  可愛い魚雷と 一緒に積んだ
青いバナナも黄色く熟れた
男世帯は 気ままなものよ
髭も生えます
髭も生えます 無精髭
  この歌には思い出があって、父と一緒に風呂に入っている時に唄ったら
  「子供はそんな歌は歌うな」と言うのである。
  何故かなと不思議に思ったのだが、父は多分初めて聞く歌だったのだろう。
  その歌詞を文字で見たわけでもなく、聞いただけだから
  「青いバナナも黄色く熟れた、男女体は気ままなものよ・・」
  と思ったのだと思うが、
  それを聞く機会はその後もなかったままなのである。
  早く逝ってしまった父との数少ない思い出の一つなのである。
 ●ラバウル小唄
  さらばラバウルよ又来るまでは
  しばし別れの涙がにじむ
  恋し懐かしあの島見れば
  椰子の木陰に十字星
  この戦争は開戦以来ずっと「勝ち戦」だったのだが、
  この歌を契機に「負け戦」に転じ、敗戦へとつながるのである。
 ●戦友
  これは満州事変の時の歌だが、
 1番から4番あたりまでは覚えているのだが、
 14番まで続く長い歌なのでそこから先は覚えていない。
 ここはお国を何百里離れて遠き満洲の
 赤い夕日に照らされて友は野末の石の下
 思えばかなし昨日まで真先かけて突進し
 敵を散々懲らしたる勇士はここに眠れるか
 ああ戦の最中に隣りに居ったこの友の
 俄かにはたと倒れしを我はおもわず駈け寄って
 軍律きびしい中なれどこれが見捨てて置かりょうか
「しっかりせよ」と抱き起し仮繃帯も弾丸の中
 このように物語風なので4番位までは覚えられたのだと思っている。
 それにしても、子供の頃の記憶はなぜ忘れないのだろうか?
★ 終戦後は軍歌など全く作られてはいないのだが、
 世界の国歌を見ると、軍歌に近いものも多いようである。
 
 フランス国家などが有名で、
 この歌は出征する部隊を鼓舞するために作られて、
 そのタイトルは最初は『ライン軍のための軍歌』だったのだが、
 市民の間で流行したので、元々の題名ではなく『ラ・マルセイエーズ』という形で定着し、
 後に国歌として採用されたというのである。
★突然、軍歌などの話だが、
 昨日「紅白歌合戦」のことを書いたので、
 子供時代に唄っていた歌は殆どが軍歌だったので「軍歌」を思い出したのである。

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